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  • 死人の為に祈る習慣
    ものみの塔 1962 | 1月15日
    • を次のように述べています。

      「われわれの過失のため,悪い模範を示すため,真の熟慮が欠けているため,それらの者たちが苦痛を感ずるとなれば,われわれはどうすべきか」。

      信心ぶかいカトリック教徒はこう信じています。すなわち良いわざをすこしするだけでも,いちばん短い祈りをするだけでも,苦行をちょっとするだけでも,煉獄にいる魂を助けて天に行かせることができる,というのです。「万魂節」のある11月全部は,死人のための祈りとミサのためにささげられています。ミサの犠牲は,いちばん効果があると言われています。しかし,セント・パウロ協会によると,多数のカトリック信徒は「次のことを忘れている。セント・ジョン・クリソストムも言っているが,ミサの犠牲がささげられるたびに御使たちは煉獄の門を開き,神の命じたもうことをことごとく行なう。カトリック信徒はセント・ジエロームの慰めの言葉を忘れる。すなわち聖なる犠牲が煉獄内の魂のためにささげられるなら,魂はミサのつづく時間中くるしまない」。

      数名のカトリック神学者たちは,次のように述べています。生きている人たちには分からないかも知れぬが,地獄にいる魂のために祈りをささげるなら,一時的にせよ苦しみは軽減されるというのです。別のカトリック神学者は,そのような考えは軽卒であり,認めることができないと考えています。しかし,カトリック教会は,それを一度も否定したことがあません。カトリック神学者たちは,煉獄が「末の日」の後にはつづかないということに意見の一致を見ています。この世の終りに,煉獄の中に残っている魂の汚れを,神がどんな手段で清めるかは,奥義になっています。しかし,一般のカトリック信徒は次の信仰に慰めを見出しています。ギボンズ枢機官は,それをこう述べました。「祈りという貴重な環は,あなたを『主にあって眠る者たち』とむすびつけ,あなたは今でも彼らと語り,彼らのために祈ることができる!」。

      聖書の習慣?

      死人をあがめることは世界的にひろまっているため,この習慣は聖書に基づいているのではなかろうか,あるいはすくなくとも聖書と一致しているのではなかろうかと,考える人もいます。しかし,そのようなことはありません。シャフ-ヘルゾグ著「宗教的な知識の百科辞典」(英文)は,「その習慣を支持する旧約の聖句は引用できない」とちゅうちょせずに述べています。「カトリック百科辞典」(英文)は,新教徒とカトリック教徒の両方が認める66冊の聖書中,「死人のための祈りを支持する明白な聖句はない」と認めています。

      煉獄を信ずることは,とうぜん死人のための祈りに価値のあることを認めるのであるとカトリック信徒は言います。これについての唯一の聖書的な言及はマカベ後書 12章39-46節に述べられている話です。その話によると,ユダ・マカベは「死者の為に犠牲を献げられんことを願いて」エルサレムに銀を送りました。「彼は,篤く慎みて復活を信じたるなり」。それはこう結論しています。「さればその罪のゆるされんとて,死者のために祈るは聖なる理念且つ敬虔なる思想なり」。

      ユダは煉獄にいる魂のためのミサを要求していたと言えますか。彼はユダヤ人の愛国主義者でした。殺された者たちはユダヤ人であり,中国人やカトリック信徒ではありません。彼が死んだ偶像崇拝者たちに関心を示したのは,神が彼らの罪をゆるし,彼らに復活を与えてもらいたいと願ったからでした。このことは,44節で明白に示されています。「殺された者がふたたびよみがえらされることを希望しなかったなら,死人のために祈ることはむだなもの,無益なものと見えたであろう」。「ユダヤ人百科辞典」(英文)の注解も重要です。「しかし,そのような供え物に対する言及は,ユダヤ人の文学中いまだかつて類のないものである。エルサレムの宮でそのような捧げものがなされたということは,ぜんぜん知られていない」。

      次の事実も適切です。すなわちユダヤ人と初期のクリスチャンたちはマカベの本を偽りのものとして拒絶しました。イエスも使徒たちもマカベの本を一度も引用しませんでした。マカベ書の4冊 ― ある人は5冊と言う ― の中,カトリック聖書には2冊しか編入されていません。法王ピオ12世により「聖書を説明する最も偉大な博士」とほめそやされたジェロームは,「偽書をみな避けるべきである……その中には間違いが多い」と警告しました。

      その警告を無視する人々は,すくなくとも霊感された聖書の本に気をつけるべきです。聖書の真実なることは,カトリック信徒と新教徒により認められています。死者は味方にもならなければ,敵にもならないとソロモンは言います。彼は次のように書いています。「死者は何事をも知らない……その愛も,憎しみも,ねたみも,すでに消えうせ……」。(伝道の書 9:5,6,新口)アダムが創造されたとき,「人は生ける魂になった」というモーセの言葉に使徒パウロは同意しました。(創世 2:7。コリント前 15:45,新口)魂としての生命は,「不滅の魂」を持つこととは,まったくちがいます。この「不滅の魂」は,聖書の用語ではありません。かえって預言者エゼキエルは,「罪を犯した魂は必ず死ぬ」と書いています。(エゼキエル 18:4,新口)クリスチャン筆者ヤコブもこのことを確証して,次のように述べています。「罪人を迷いの道から引きもどす人は,そのたましいを死から救い出し……」。(ヤコブ 5:20,新口)パウロは,神の次にキリストが「ただひとり不死を保ち」と述べています。―テモテ前 6:16,新口。

      前述の場合の死は体だけに言及するものであって,「魂」に言及するのではないと多くの人は言います。神は「魂とからだの両方をゲヘナで滅ぼし得る」とイエスは警告しました。ゲヘナで滅ぼされるなら,だれも復活を受けることができません。(マタイ 10:28,新世)これはまた,ゲヘナにいる魂が天に行けるようにという考えをも打ちこわしています。人間の死については,詩篇記者は次のような真実の言葉を書きました。「その日には彼のもろもろの計画は滅びる」。―詩 146:4,新口。詩 145:4,ドーエイ訳。

      祈りを繰りかえし述べる習慣は,イエスにより非難されました。彼は次のように警告しました。「祈る場合,異邦人のように,くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ,聞きいれられるものと思っている」。(マタイ 6:7,新口)生きている者は,死んだ者の罪のために祈れと,イエスは教えませんでした。しかし,彼は義者と共々に,正義を愛した人々 ― 無知のために罪ぶかい生活を送った ― を復活させるのは神の御目的であると教えました。「記憶の墓にいる者がみな彼の声を聞いて出てくる時がくる。善を行なった者は生命に復活し,悪を行なった者はさばきに復活するであろう」。(ヨハネ 5:28,29,新世)このところで,神の御子は多数の死者に対する真実の希望について私たちの注意をひきました。

      あなたが死者のことを考えて,その人の仕方,個性を思いだすとき,次のことを忘れてはなりません。もしあなたの不完全な記憶でも思い出すことができるなら,神の完全な知力と全能の御手によって,彼らを記憶の墓からよびもどすことは,ずっと容易でしょう。そのすばらしい約束を考えるとき,復活の希望という愛にみちたご準備に対し,エホバ神に心からの感謝の祈りをささげなさい。

  • 宗教的な犯罪者
    ものみの塔 1962 | 1月15日
    • 宗教的な犯罪者

      「ニュージャージー州のパセイックで,ボストン大学の社会学者ウイリアム・シー・クバラセウスが,761人の犯罪者を調べてみたところ,ほとんどすべてが,いずれかの教会と関係しており,そのうちの4分の3の者は毎週教会に行くかあるいは時たま行くということが判明した。デトロイトのウエィン大学のウイリアム・ウォッテンバーグ博士によると,調査の対象になった2317名の犯罪者のうち43.5パーセントの者は教会に毎週行っており,25.5パーセントの者は時々行っているということである。ハーバード神学校の調べたところによると,ボストンとニューヨークの裁判所につれてこられた青少年の非行者のうち,驚くほど多くの者が毎週教会にかよっていたということが分かった」。以上は1960年11月号の「親の雑誌」にのせられた記事です。これは,教会の教育方針に決定的な欠陥があるということを,物語ってはいませんか。そうです,「ヱホバのことばをきくことのききん」があります。―アモス 8:11。

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