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    ものみの塔 1983 | 7月1日
    • 背教に対する一使徒の立場

      この記事から最大の益が得られるよう,聖書中の「ヨハネの第一の手紙」として知られている書を読むことをお勧めします。それはわずか数ページの手紙です。

      西暦1世紀の終わりごろ,重大で油断のならない危険が初期クリスチャン会衆を脅かしていました。それは外部の人々からクリスチャンの社会に加えられる迫害でしたか。そうではありません。主だった危険は内部から生じました。身を潜めていた敵は背教でした。

      西暦98年まで,一人の使徒がある問題に対する最後の防波堤として活動を続けました。その問題は後に,偽りの教え,および宗教と政治の折衷というとうとうたる潮流へと発展してゆきました。その使徒とは,ゼベダイの子で,54年ほど前に殉教した使徒ヤコブの兄弟である年老いた使徒ヨハネでした。若い時にヨハネは,イエスの短い地上での宣教期間中,イエスと共に奉仕しました。恐らくヨハネのダイナミックな人柄のためでしょう,イエスは彼を『雷の子』と呼びました。今や非常に年老いたヨハネは,クリスチャン会衆に対する警告と諭しの力強い手紙を書くことに力を注ぎました。ヨハネが述べていることは,今日のわたしたちにとってもやはり重要です。―マルコ 3:17。ルカ 9:51-56。

      ヨハネは背教が仲間の信者たちの中に入り込みつつあることを十分知っていました。使徒パウロは以前に,人々がそのように離れ去ることを予告していたのです。(使徒 20:29,30)ヨハネはあいまいな言葉を避け,欺く者たちの正体を暴露し,こう述べています。「今でも多くの反キリストが現われています。このことから,わたしたちは今が終わりの時であることを知ります。彼らはわたしたちから出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです」。ヨハネが複数形で「反キリスト」と語っている事実は,背教が一人の人に限られたものではなく,聖書中に示されているキリストに関する見解を否定した大勢の人々と関連していたことを物語っています。―ヨハネ第一 2:18,19。

      これらの反キリストとはだれのことでしたか。そして彼らはどのように仲間の信者たちを欺こうとしましたか。ヨハネは歯にきぬ着せず,反キリストである背教者たちを暴露します。ヨハネは次の三つの点について彼らを攻撃します。(1)キリストが肉体で来られた事実を否定すること,(2)イエスがキリストであって神の子である事実を否定すること,(3)自分自身が罪人である事実を否定すること。

      キリストは肉体で来られたか

      しかし,『イエスが肉体を着けて来られたことをどうして信者が否定できるだろうか』と言う人がいるかもしれません。1世紀の終わりごろ,一部のクリスチャンは初期のグノーシス派の教えを含め,ギリシャ哲学の影響を受けていたようです。これらの背教者たちは,すべての物質は悪であり,肉体も例外ではないという見方をしていました。そのため,背教した反キリストにとって,イエスは悪い肉体で来られたのではなく,霊として来られたことになります。ヨハネは,キリストの贖いの犠牲の効力を否定するような神学的な議論に自分はくみすることはない,とはっきり述べています。そのわけでヨハネは,『わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためのなだめの犠牲』であった「義なる方イエス・キリスト」について書いています。―ヨハネ第一 2:1,2。

      その後にヨハネは,簡潔で明確な定義により,問題を一層明らかにします。こう述べています。「イエス・キリストが肉体で来られたことを告白する霊感の表現はすべて神から出ていますが,イエスについて告白しない霊感の表現はどれも神から出たものではありません」― ヨハネ第一 4:2,3。

      イエスはキリストではないのか

      ユダヤ人の出で,クリスチャンであると公言する他の一部のクリスチャンたちは,イエスがキリスト,また神のみ子であることを否定しはじめていたようです。ヨハネはそのような信仰の欠如を非難し,こう述べています。「イエスがキリストであることを否定する者でなければ,いったいだれが偽り者でしょうか。父とみ子を否む者,それが反キリストです」。(ヨハネ第一 2:22)ヨハネの率直な表現は,疑いを差しはさむ余地を全く残していません。

      ヨハネは次いで自分の議論を支持する別の質問を提起します。「イエスは神の子であるとの信仰を持つ者でなければ,いったいだれが世を征服する者でしょうか。……わたしがこれらのことをあなた方に書くのは,神のみ子の名に信仰を置くあなた方が永遠の命を持っていることを知らせるためです」― ヨハネ第一 5:5,13。

      我々は罪人か

      信じ難いように思えるかもしれませんが,反キリストの中には,自分たちには罪がないと言ったり,(自分たちは救われていると考えたため)罪を犯すことができないと考えたりするような人がいました。それでヨハネは,この手紙全体を通してそうした誤った考えを打ち砕きます。例えばヨハネはこう述べています。「『自分には罪がない』と述べるなら,わたしたちは自分を惑わしているのであり,真理はわたしたちのうちにありません。……『自分は罪をおかしたことがない』と述べるなら,わたしたちは神を偽り者としているのであって,そのみ言葉はわたしたちのうちにありません」― ヨハネ第一 1:8-10。

      『では罪とは何ですか』とあなたは尋ねるかもしれません。ギリシャ語のハマルティアは文字通りには「的をはずすこと」を意味しますが,ヨハネは霊感のもとに,次のような広義の定義を下します。「すべて罪を習わしにする者は,不法をも習わしにしています。それで,罪は不法[ギリシャ語のアノミア,法を蔑視することあるいは破ること,不正行為,邪悪さを意味する]です。……罪を行ないつづける者は悪魔から出ています……神から生まれた者はだれも罪を行ないつづけません」― ヨハネ第一 3:4,8,9。

      確かにわたしたちはみな罪人です。しかしヨハネが関心を向けているのは,故意に罪を犯したり法律を破ったりする人,つまり「罪を行ないつづけ」,罪を習わしにする人です。次いでヨハネは,罪を習わしにする人々がゆゆしい状況にあることを明らかにし,こう述べています。「神の子供と悪魔の子供はこのことから明白です。すなわち,すべて義を行ないつづけない者は神から出ていません。自分の兄弟を愛さない者もそうです」。(ヨハネ第一 3:10; 5:18)ですからわたしたちは,クリスチャンにふさわしくない,罪を習わしにする事態を避けたいものです。

      背教の動因となったものは何か

      これら様々な背教的な教えの背後にある動因は何であったと考えられますか。20世紀のギリシャ語学者,ウイリアム・バークレーは一つの可能性を示し,こう書いています。ヨハネが闘おうとしている問題は,「キリスト教を知的に見栄えのあるものにしようともくろんだ[人々]……当時の知的な傾向や流れを知っていた[人々],キリスト教を時流に乗ったこれらの哲学思想の用語で表現することを願った[人々から生じた]。それは,キリスト教を世俗の哲学や現代的な思潮の用語で説明する時が到来したと考えた人々から生じた」。

      現代においても,真の信仰の土台を攻撃する同様の見解を支持する人々がいます。議論を吹き掛けるこれらの人々は,キリスト教の教えを弱めるだけでなく,現体制で重んじられる知的な分子にとってより受け入れやすいものにしたがります。近年ある人々が抱いたこのような見解が仮に実行に移されていたら,エホバの証人はその独特の“原始キリスト教的”特質や活力を失ってしまったに違いありません。

      ですからヨハネの次の諭しは,今日においてさえ非常に時宜にかなったものです。「そのおきてを守り行なうこと,これがすなわち神への愛だからです。それでも,そのおきては重荷ではありません」。これらのおきてには,神の王国の良いたよりを宣べ伝えること,世から離れていること,世の紛争において中立を保つこと,そしてエホバのみ名を神聖なものとするために,また真の愛を実践するためにできる限りのことを行なうことが含まれます。―ヨハネ第一 5:3。マルコ 13:10。ヨハネ 17:16。マタイ 6:9。ヨハネ第一 3:23。

      罪と背教に対抗する手段

      罪を習わしにすることを押しとどめる働きをするものがありますか。ヨハネの答えは次の通りです。「愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです」。このようにヨハネは驚くべき簡潔さで,自分の言わんとする要点をよく理解させます。愛がかぎとなります。そしてみ子を通して表わされた神の愛は,罪の悪影響に対抗する手段です。「わたしたちの場合,これによって神の愛が明らかにされました。すなわち,神はご自分の独り子を世に遣わし,彼によってわたしたちが命を得られるようにしてくださったからです」。この知識はわたしたちにどんな影響を及ぼすはずですか。ヨハネはこう答えています。「愛する者たちよ,神がわたしたちをこのように愛してくださったのであれば,わたしたちも互いに愛し合う務めがあります」― ヨハネ第一 4:8-11。

      もしわたしたちが本当に神と隣人を愛するなら,わたしたちは罪と背教の攻撃に抵抗します。愛は,故意に神の律法や原則に反して進むようなことはしません。それでもヨハネは,「死を来たす罪がある」と警告しています。悔い改めない背教者たちが,滅びに値する人々の範ちゅうに入ることは確かでしょう。―ヨハネ第一 5:16,17。マタイ 12:31。ルカ 12:10。ヘブライ 6:4-6; 10:23-27。

      罪と背教がヨハネの手紙に織り込まれている黒ずんだ糸であるとすれば,真実の愛はそれを覆う一連の真珠のネックレスです。陰うつな警告を伝えているとはいえ,ヨハネのこの手紙は,愛,光,命という,何度も繰り返される三つのテーマによって明るく照らされています。ヨハネはこのように述べています。『偽り者,反キリスト,背教者を避けなさい。闇を払いのけ,光のうちを歩みなさい。憎しみを退け,愛を実践しなさい。罪を犯したとしても,父のもとに助け手,また助け主なるイエス・キリストがおられることを知っているのですから,罪に抵抗しなさい』。そうです,「神がわたしたちに永遠の命を与えてくださり,この命がそのみ子のうちにあるということ,これがそのなされた証しです」― ヨハネ第一 5:11; 2:1,2。

      最後の諭しの中で,ヨハネは,「子供らよ,自分を偶像から守りなさい」と警告しています。(ヨハネ第一 5:21)古代ローマの世において,こうした諭しは非常に適切なものでした。そして,今日,真のキリスト教を実践することと背教を避けることを願う人々にとっても,同じように重要なものです。ですからわたしたちは霊感によるヨハネの諭しに留意したいものです。それは,わたしたちが罪に抵抗し,真実のクリスチャン愛を実践し,真理の道筋を歩み,背教に対する確固とした立場を保つ助けになるでしょう。

  • 背教を退け,真理にしっかりと付きなさい!
    ものみの塔 1983 | 7月1日
    • 背教を退け,真理にしっかりと付きなさい!

      「先走って,キリストの教えにとどまらない者は,だれも神を持っていません。この教えにとどまっている者は,父も子も持っているのです」― ヨハネ第二 9。

      1,2 (イ)サタンはどのように,エホバの民の中にある真理の光を消そうと時折試みてきましたか。(ロ)エホバの証人たちが背教を退けるのはなぜ極めて重要なことと言えますか。

      エホバ神は霊的な真理の源であられます。ですから詩編作者がエホバ神に,「あなたの光と真理とを送り出してください」と祈ったのはふさわしいことです。(詩編 43:3)それで,真理はエホバの崇拝者たちを見分ける一つのしるしです。―ヨハネ 8:31,32; 17:17。

      2 悪魔サタンは,エホバの民の中にある真理の光を消そうと,背教的な教えという手段を用いて時折クリスチャン会衆を腐敗させようとしてきました。(コリント第二 4:1-6。ユダ 3,4)しかし,悪魔サタンのこれらの企ては成功しませんでした。エホバの忠実な証人たちが背教を退け,霊的な真理にしっかりと付いているからです。実際,エホバ神,およびイエス・キリストとの親密な関係を保ちたいのであれば,そのようにするのは極めて重要なことです。クリスチャンの使徒ヨハネは神の霊感を受けて次のように書いています。「先走って,キリストの教えにとどまらない者は,だれも神を持っていません。この教えにとどまっている者は,父も子も持っているのです」― ヨハネ第二 9。

      3 ヨハネの第二および第三の手紙を考慮するとき,どんな質問の答えが得られますか。

      3 しかし,エホバの証人は背教に抵抗するため何を行なうべきでしょうか。そして「真理における同労者」として,どのようにキリスト教の関心事を促進できるでしょうか。(ヨハネ第三 8)その答えを得るために,西暦98年ごろ小アジアのエフェソス,あるいはその近くで記された,霊感による使徒ヨハネの第二および第三の手紙を考慮してみましょう。

      肝要なのは真理と愛

      4,5 (イ)使徒ヨハネが自分を「年長者」と呼ぶのは妥当なことでした。なぜそう言えますか。(ロ)「選ばれた婦人」およびその「子供たち」とはだれのことでしたか。

      4 ヨハネは,その第二の手紙を次のような言葉で始めています。

      「年長者から,選ばれた婦人とその子供たちへ,すなわち,わたしが真実に愛し,また,わたしだけでなく,真理を知るようになった人々すべてが愛する者たちへ。それは,わたしたちのうちにとどまっている真理のゆえであり,その真理は永久にわたしたちと共にあるのです」― ヨハネ第二 1,2。

      5 西暦1世紀が終わるころ,使徒ヨハネは既に100歳に近く,霊的な成長の度合い,もしくは年齢の面で成熟しきった長老であり,まさに「年長者」となっていました。(ガラテア 2:9と比較してください。)「選ばれた婦人」と呼び掛けることにより,ヨハネは名前が明らかにされていない場所にある特定の会衆に言及していたのかもしれません。またこの言葉遣いは,迫害者を混乱させるために用いられたものかもしれません。その場合,この婦人の「子供たち」とは,霊的な子供たちであり,その会衆の成員,また神から天的な召しを受けて「選ばれた」,霊によって生み出されたクリスチャンであったことになります。(ローマ 8:16,17。フィリピ 3:12-14)別の見方をすれば,キュリア(「婦人」を意味するギリシャ語)という語は,クリスチャンの一婦人の名前であったとも考えられます。

      6 (イ)ヨハネが言及した「真理」とは何ですか。(ロ)「真理」はどのような意味で真実のクリスチャンのうちにとどまり,「永久に」彼らと共にあると言えますか。

      6 いずれにしても,この「選ばれた婦人とその子供たち」は,ヨハネからも,「真理」を知るようになっていた他のすべてのエホバの証人たちからも本当に愛されていました。その「真理」とは,イエス・キリストを中心とした教え全体のことでした。それに固く付き従うのは救いにとって肝要なことでした。(ヨハネ 4:24。エフェソス 1:13,14。ヨハネ第一 3:23)過去また現在のエホバの証人たちが彼らの間に愛を保ってきた一つの基本的な理由は,彼らが「真理」に対する共通の愛を持っていることです。それは,彼らの心の中にいつも存在しているという意味で彼らの「うちにとどまっている」のです。この真理は,忠実な友として,そうした真実のクリスチャンたちと「永久に」共にあります。それは間違いなく,今日のエホバの証人たちの大切な所有物であり,彼らはそのことに対して天の父に感謝します。

      7 過分のご親切,憐れみ,平和は,いずれもどのように神とキリストのお二方からもたらされますか。

      7 忠実に「真理」を支持する人々には神の祝福が保証されています。同使徒はこの点を指摘し,こう付け加えました。

      「また,父なる神および父のみ子イエス・キリストからの過分のご親切,憐れみ,そして平和も,真理と愛を伴ってわたしたちと共にあるでしょう」。(ヨハネ第二 3)

      罪深い人間が「キリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し,神の過分のご親切によって義と宣せられる」という意味において,過分のご親切はエホバとイエスお二方からもたらされます。(ローマ 3:23,24)同様に,憐れみの源は天の父ですが,それはキリストを通して不完全な人間にまで及びます。(ヘブライ 4:14-16。ユダ 20,21)加えて,エホバとの平和を得るため,罪人たちはその違反を贖っていただくことが必要ですが,このことは贖いの犠牲としてのイエスの死を通して可能にされました。―コロサイ 1:18-20。

      8 ヨハネ第二の3節にある「真理と愛を伴って」という語はどんな意味で記されたと思われますか。

      8 ヨハネは,「真理と愛を伴って[あるいは「のうちに」]」という語を添えました。(王国行間逐語訳)このように言い添えることによりヨハネは,真実のクリスチャンが『真理と愛に加え』,過分のご親切,憐れみ,そして平和を享受すると述べていたのかもしれません。あるいは,真理のうちにとどまり,絶えず愛を示すなら,エホバの僕たちはこれらの祝福を経験する,という意味でそのように述べたとも考えられます。

      『真理と愛のうちを歩む』

      9,10 (イ)ヨハネに『非常に歓ぶ』べき理由があったのはなぜですか。(ロ)真理に関して,「ある者たち」は何を行なっていましたか。

      9 同使徒はさらに次のように述べて,個人的な喜びをもたらす理由を引き合いに出し,また健全な訓戒を与えました。

      「あなたの子供のうちのある者たちが,わたしたちが父から受けたおきてのとおりに真理のうちを歩んでいるのを知って,わたしは非常に歓んでいます。それで今,婦人よ,新しいおきてではなく,わたしたちが初めから持っていたおきてを書き送る者として,あなたにお願いします。それは,わたしたちが互いに愛し合うことです」― ヨハネ第二 4,5。

      10 「ある者たち」が「真理のうちを歩んで」いたため,ヨハネには大いに喜ぶべき理由がありました。彼らはイエス・キリストの名に対する信仰と互いに対する愛を持ち,神のみ子によって備えられた模範に倣う努力を払っていたのです。(ヘブライ 12:1-3。ヨハネ第一 3:23)ヨハネがキュリアという名の婦人に手紙を書いていたとすれば,彼女の文字通りの子供たちの幾人かは真理にいたことになります。しかし,「子供たち」や「選ばれた婦人」などの語が比喩的に用いられているとするなら,ヨハネは,名前が明らかにされていない場所にあるその会衆の幾人かの成員が背教に抵抗し,真理にしっかりと付き,エホバへの忠実さを旨とする生活を追い求めていることを歓べた,ということになります。実際のところ,エホバの忠節なクリスチャン証人たちは,真理を支持することや,その『うちを歩むこと』を常に自らの責務とみなしてきました。彼らにとってこれは天の父のおきてであり,それを守ることを彼らは重荷と考えません。―ヨハネ第一 5:3と比較してください。

      11 (イ)『互いに愛し合いなさい』というおきてを守るためには何が求められましたか。(ロ)これが『新しいおきてではない』とヨハネが言い得たのはなぜですか。

      11 この使徒は,「わたしたちが互いに愛し合うこと」というおきてを守るようこの「婦人」に頼みました。(ヨハネ第一 3:11と比較してください。)敬虔な人々に対するエホバのご意志を説明して,イエスはご自分の弟子たちに,「わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛する」よう命じました。このおきては,隣人愛のみならず,他の人のために自分の命をも与えるほどの自己犠牲的な愛を求めるものでした。(レビ記 19:18。マタイ 22:39。ヨハネ 10:14,15; 13:34; 15:13)キリストの追随者は,神との献身した関係に入ったその「初めから」,実際にはイエスが最初にこの命令をお与えになった時以後,そして西暦33年のペンテコステの日にクリスチャン会衆が発足してからは確実に,このおきてに拘束されてきました。ですからヨハネが述べた通り,そうした意味においてこのおきては『新しいおきてではありません』。

      12 ヨハネはどういう意味で,「そのうちを歩んでゆくこと,それがおきてなのです」と言ったのですか。

      12 ヨハネは愛に言及し,こう続けます。

      「そして彼のおきてにしたがって歩んでゆくこと,それがすなわち愛です。あなた方が初めから聞いているとおり,そのうちを歩んでゆくこと,それがおきてなのです」。(ヨハネ第二 6)

      真の崇拝者たちは,心と魂と力と思いをこめてエホバを愛するので,エホバに喜んで従います。(ルカ 10:27)「初めから」,つまりイエスの宣教の時代から,あるいは彼らが神に献身した時から,ヨハネが手紙を書き送った「あなた方」は,愛に関するおきてを既に持っていました。しかしこの使徒はどういう意味で,「そのうちを歩んでゆくこと,それがおきてなのです」と言ったのでしょうか。「その」という語は愛に関する「おきて」に言及するものとも考えられますが(新英訳聖書),恐らく「愛」それ自体に言及したものでしょう。どちらの見方を取るにしても,「そのうちを歩んでゆく」とは,互いに対する愛を示しつづけることを意味していました。―ヨハネ第一 3:18。ローマ 13:8-10と比較してください。

      背教者たちに警戒しなさい

      13 (イ)「欺く者たち」はだれの中から自分に付く人々を得ようとしましたか。(ロ)どんな偽りの教えが,『欺く者たち』によって広められていましたか。

      13 愛と真理のうちを歩みつづけるには努力が求められるでしょう。その理由を説明してヨハネはこう書きました。

      「というのは,欺く者が多く世に出たからです。すなわち,イエス・キリストが肉体で来られたことを告白しない者たちです。それは欺く者,反キリストです」。(ヨハネ第二 7)

      幾人かの偽りの教師たちは,真のクリスチャンの中から自分に付く人々を得ようと,あちらこちら旅行していたようです。(使徒 20:30と比較してください。)人々を誤導するこれら「欺く者たち」は,自らクリスチャンと称えてはいましたが,イエス・キリストが人間として肉体で来たことを認めようとしませんでした。そのような偽りの教えは,メシアまた贖い主としてのイエスの役割や,天におけるイエスの高められた地位を過小評価するものとなりました。―マルコ 1:9-11。ヨハネ 1:1,14。フィリピ 2:5-11。

      14 ヨハネが背教者たちを,「欺く者,反キリスト」と呼んだのはなぜですか。

      14 ヨハネはこれらの背教者たちを,「欺く者,反キリスト」と呼びました。彼らの教えは欺きに満ちており,彼ら自身キリストに反対していたからです。この使徒が『多くの反キリスト』に言及していることは,キリストの敵となる人が数多く存在していたことを示しています。もっとも,そうした人々すべてが一つになり,「反キリスト」と呼ばれる一人の複合の人を構成するのかもしれません。(ヨハネ第一 2:18)キリストまた神のみ子としてのイエスを否定することは,イエスに関する聖書の教えの一部,あるいはそのすべてを否定することを意味します。エホバの忠実な証人たちは,こうした偽りの教師たちの見解をことごとく退けます。

      15 (イ)自分に「よく気をつける」ことにより,霊によって油そそがれたクリスチャンはどんな「十分な報い」を得ることになっていましたか。(ロ)エホバの証人の一人一人が,背教的な教理に警戒すべきなのはなぜですか。

      15 真理から背教へとそらされる危険性があったため,ヨハネは次のことを勧めました。

      「わたしたちが働いて生み出したものを失わないよう,むしろ十分な報いを得られるよう,自分自身によく気をつけなさい。先走って,キリストの教えにとどまらない者は,だれも神を持っていません。この教えにとどまっている者は,父も子も持っているのです」。(ヨハネ第二 8,9)

      「良いたより」を宣べ伝えるなどの労を執ることにより,ヨハネと他の人々は既に実を『生み出して』おり,この手紙を最初に受け取った人々が改宗するという結果を生じさせていました。しかし,霊的な意味で自分に『よく気をつけること』によってのみ,彼らは,エホバとみ子からの過分のご親切,憐れみ,平和,それに真理と愛のうちに結び合わされたすべての人々との永続的な友好関係を「失わ」ずに済んだことでしょう。忠実であれば,霊によって油そそがれた,ヨハネの仲間の信者たちは,引き続き報いの多いエホバへの奉仕を楽しむことができたことでしょう。ヨハネは,「十分な報い」と述べることにより,油そそがれた忠節なクリスチャンたちが受ける天の「冠」をそこに含めることを意図したようです。(啓示 2:10。コリント第一 9:24-27。テモテ第二 4:7,8。ヤコブ 1:12)言うまでもなく,背教的な教理には,天的地的の別を問わずとこしえの命を奪い去る可能性があるため,エホバの証人一人一人は,そうした教理を退けるべきです。

      16 (イ)背教者たちはどのように「先走って」いましたか。(ロ)エホバの忠実な証人たちが「父も子も」持っていると言えるのはなぜですか。

      16 背教的な『欺く者たち』は,『先走り,キリストの教えにとどまり』ませんでした。イエスおよびその忠実な使徒たちによって教えられた真理に付き従わなかったからです。ゆえにその異端者たちは,エホバと結ばれておらず,エホバとの関係がないため,「神を持って」いませんでした。(ヨハネ第一 1:5,6; 2:22-25)とはいえ,エホバの忠実な証人たちは『キリストが肉体で来られたことを告白します』。キリストの贖いの犠牲に信仰を働かせ,キリストやその忠節な使徒たちが教えた事柄に付き従うからです。(マタイ 20:28。テモテ第一 2:5,6。ヨハネ第二 7)これら真実のクリスチャンたちは真理にしっかりと付き,そのため「父も子も」持っています。このお二方のことを知り,お二方の特質を認識し,お二方との親密な関係を保ち続けるからです。

      背教者に対する態度

      17 ヨハネ第二 10,11節によれば,忠節なクリスチャンは『欺く者たち』をどのように扱うべきでしたか。

      17 クリスチャンは親切であるべきですが,真の信仰から背教した人々に対してはそうであってはなりません。(ペテロ第一 4:9)ヨハネは次のように述べて,その点を明らかにしました。

      「この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。その人にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです」。(ヨハネ第二 10,11)

      『欺く者たち』はあちらこちらを旅行し,偽りの教えを熱心に広めていました。もちろん,献身したクリスチャンが,これら偽教師たちを自宅に招じ入れ,彼らに友情の手を差し伸べたとすればそれは間違ったことでした。彼らが到着したときの歓迎のあいさつであれ,彼らが出発するときの「成功を祈ります」という言葉であれ,何らかのあいさつをこうした背教者たちにするのも適切さを欠いたことでした。(欽定訳)忠節なクリスチャンであれば,偽りの教理を故意に助長する人々がその業において成功することなど願わないでしょう。ですから確かに,エホバの忠実な証人は,こうした人とは交わりません。―コリント第一 5:11-13。

      18 エホバの忠節な証人が,背教者にあいさつもしないのはなぜですか。

      18 それに加え,エホバの献身した僕がそうした欺まん的な教師を自宅に迎え入れるなら,その人はその教師の「邪悪な行為」の「共犯者」となったことでしょう。(新英訳聖書)したがって現代のエホバの忠節な証人は,排斥された,あるいは関係を断絶した背教者にあいさつすることも,自分のクリスチャンの家を教理的な誤りを広める場所としてそうした背教者に使わせることもしません。ある信者が一人の背教者を手厚くもてなしたために仲間のエホバの崇拝者が霊的に死んでしまうなら,神のみ前におけるその人の責任が重大なものとなることは明らかです。―ローマ 16:17,18; テモテ第二 3:6,7と比較してください。

      19 エホバの忠節な証人たちは,現代の背教者たちに関してどんな立場を取りますか。

      19 かつてエホバの証人として奉仕していた人の中に,イエス・キリストとその使徒たちの教えに基づいた聖書的な様々な見解を退けた人がいました。例えば,彼らは,事実であることを裏づける圧倒的な証拠があるにもかかわらず,わたしたちの生きている時代は「終わりの日」ではないと主張します。(テモテ第二 3:1-5)これらの背教者たちは,『わたしたちの仲間でなかったためにわたしたちから出て行きました』。(ヨハネ第一 2:18,19)したがって彼らは,エホバの油そそがれた忠節な証人たち,およびその仲間との交友をもはや持たず,それゆえに,どれほど神やキリストとの親しい関係を得ていると豪語しようと,これら自己本位な異端者たちは,父ならびにみ子と「分け合う関係」を一切持っていません。むしろ彼らは霊的な暗闇にあります。(ヨハネ第一 1:3,6)光と真理を愛する人たちは,偽りの教えを助長するこれらの人々に対して堅く立たなければなりません。エホバの忠節な証人たちは何があろうと,そうした不忠実な人々の不敬虔な言動を何らかの仕方で支持したりして,彼らの「邪悪な行為」の共犯者になってはなりません。むしろわたしたちは,「聖なる者たちに一度かぎり伝えられた信仰のために厳しい戦いを(し)」たいものです。―ユダ 3,4,19。

      真理にしっかりと付きなさい

      20 さらに多くの事柄を書くよりも,ヨハネは何をしたいと考えましたか。

      20 背教を退け,真理にしっかりと付くようにと仲間の信者に勧めたあと,ヨハネは霊感による第二の手紙を次の言葉で結んでいます。

      「わたしにはあなた方に書き送るべきことがたくさんありますが,紙とインクによってそうしたいとは思いません。むしろ,あなた方のところに行き,あなた方と向かい合って話すことを望んでいます。それによって,あなた方の喜びが満ちたものとなるためです。選ばれた者であるあなたの姉妹の子供たちが,あなたにあいさつを送っています」。(ヨハネ第二 12,13)

      使徒ヨハネは,自分の心の中に残っている事柄を,文字にしたためないことにしました。それで同使徒は,パピルス紙と,葦で作ったペンと,インク(にかわとすすに水を加えた黒色の混合物と思われる)を脇に置きました。高齢であったにもかかわらず,ヨハネは訪問し,「向かい合って」,あるいは文字通りに言えば,「口を向き合わせて」話し,そのようにして親しく意思を通わせることを望みました。(王国行間逐語訳。民数記 12:6-8と比較してください。)老齢のこの使徒の訪問は,あふれるほどの喜びだけでなく,霊的に報いの多い相互の励まし合いをもたらしたに違いありません。―ローマ 1:11,12と比較してください。

      21 ヨハネ第二の手紙の結びの言葉に何が明らかに示されていますか。

      21 ヨハネが伝えたあいさつの中には,エホバの崇拝者たちを一つに結び合わせるクリスチャン愛が明らかに示されていました。ヨハネがキュリアという名の個人に手紙を書いたのであれば,この婦人には血のつながった一人の姉妹がおり,その実の子供たちがあいさつを送っていたと考えられます。しかしもし同使徒が他の会衆(恐らくエフェソスの会衆)に言及していたとすれば,ヨハネが述べたこの「姉妹」は会衆全体のことであり,「子供たち」とはその個々の成員のことになります。

      22 (イ)霊感によるヨハネの第二の手紙は,エホバの証人が何をするのを助けますか。(ロ)どんな問題について論ずることがまだ必要ですか。

      22 ヨハネは霊感を受けた第二の手紙の中で,背教を退け,真理にしっかりと付くよう仲間の信者たちを助ける愛ある助言を率直に与えました。今日のエホバの証人たちも,神の助けを得て,同じようにしたいとの決意を抱いています。しかしわたしたちは,協力の精神を抱く「真理における同労者」として,キリスト教の関心事をも促進しなければなりません。(ヨハネ第三 8)どうすればそれができるでしょうか。

      答えられますか

      □ 『真理のうちを歩む』とはどういう意味ですか

      □ 『欺く者たち』はどんな偽りの教えを広めていましたか

      □ ヨハネ第二 10,11節によれば,エホバの証人は背教者をどう見るべきですか

      [23ページの図版]

      エホバの忠節な証人たちは,常に背教を退けてきた

  • 「真理における同労者」として忠節な態度で仕えなさい
    ものみの塔 1983 | 7月1日
    • 「真理における同労者」として忠節な態度で仕えなさい

      「あなたは兄弟たちに……行なうすべてのことにおいて忠実な働きをしています。……わたしたちにはこのような人々を暖かく迎える務めがあります。それは,わたしたちが真理における同労者となるためです」― ヨハネ第三 5-8。

      1 エホバに喜んでいただくため,わたしたちはどんな崇拝をエホバにささげるべきですか。

      エホバは,「霊と真理をもって」ご自分を崇拝する人々を探し求めておられます。(ヨハネ 4:23,24)神の是認を受けるために,そのような人々の崇拝は,神がご自身とご自身の目的に関して明らかにされた事柄に一致していなければなりません。そして,イエス・キリストに重きを置くキリスト教の教え全体を支持しなければなりません。この真理のうちを歩みつづけることは救いを得るために肝要なことです。―エフェソス 1:13,14。ヨハネ第一 3:23。

      2 どんな質問が生じますか。そして助けとなる導きはどこにありますか。

      2 エホバの証人は真理のうちを歩みつづけなけれ

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