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  • あなたはほんとうに霊的な人ですか
    ものみの塔 1974 | 7月15日
    • のできごとがこの点を示しています。ある時ペテロは,「あなたがたは,わたしのことをだれであると言いますか」というイエスの問いに対して正しい答えをしました。イエスは,「肉と血があなたにこれを啓示したのではなく,天におられるわたしの父がそうなさった」と述べて,ペテロの霊的な見方をほめました。しかし,注目すべきことに,その後ペテロはイエスに誤った親切を示そうとして,「あなたは,神の考えではなく,人間の考えをいだいている」と言われました。対処すべき肉的な考えがまだそこにあったのです。―マタイ 16:15-23。

      23 それから一年もたたない時でしたが,ペテロは,悲しいことに,人間に対する恐れに屈してイエスを三度否みました。ペテロはそれを悔い改めました。しかし,群衆の圧力の前で動揺するこの傾向はそれによってなくなりましたか。そうではありません。幾年ものち,ペテロは再び,今度はパウロによってその同じ弱さを正されねばなりませんでした。(ルカ 22:34,54-62。ガラテア 2:11-14)ペテロは使徒のひとりとして霊的な人でしたが,こうした弱さを改めるために終生努力しなければならなかったようです。そしてパウロも,自分の行動を適正なものに保つため自分を鍛練しなければならなかったことを述べています。(コリント第一 9:24-27)今日でも,霊的な人が何かの弱点を持っている場合があるでしょう。しかし,神のことばを真剣に勉強してそれを生活に当てはめ,わたしたちを強めてくださる神の霊に頼るなら,そうした弱点を乗り越えることができます。

      24 霊的な人となることに関してさらにどんな点を討議すべきですか。

      24 しかし,自分が真に霊的な人であることを実証することに関して,考慮すべきもう一つの大きな問題があります。それはなんですか。キリスト・イエスの足跡に従う人々に対してこの肉的な世が加えるすべての反対をすすんで受け入れるかどうかという点です。あなたは,「キリストの思い」を示す人々を世が好んでいないということを理解されるでしょう。しかし,あなたは,もしそれを願うなら,そうした世からの憎しみに,大きな喜びと満足をいだいて耐えることができます。次の記事で,それをどのように行なえるかを学んでください。

  • 迫害されるクリスチャン ―『世に対して劇場の見せ物』
    ものみの塔 1974 | 7月15日
    • 迫害されるクリスチャン ―『世に対して劇場の見せ物』

      「神はわたしたち使徒を,死に定められた者として,出し物の最後に置かれたように思えます。というのは,わたしたちは,世に対し,み使いたちに対し,また人びとに対して,劇場の見せ物のようになっているからです」― コリント第一 4:9。

      1,2 多くの人はどんな恐れをいだいていますか。そうした人はどんな慰めを得られますか。

      イエスや使徒たちの受けた苦しみについて考えておじ恐れてしまう人たちが多くいます。そうした人たちは,人生に対して霊的な高められた見方をする人々に数々のすばらしい益が及ぶことを知ってはいますが,いつか自分の信仰にもたらされると予測される激しい攻撃に自分が耐えられるとは考えていません。

      2 あなたもそうした恐れをいだいておられるでしょうか。もしそうであれば,次の点を考えてください。前の記事の中であなたも霊的な人になれるという点を学びましたが,これはあなたにとって慰めではありませんでしたか。“普通の”人,そうです,セールスマン,木材の切出し人,また主婦など,どのような人であっても,「キリストの思い」を持つことができるのです。そして,この肉的な世からどのような試練がもたらされようとそれに首尾よく耐えられるようにもなる,という点を学ばれるなら,あなたは励みを得られるでしょう。

      3 イエスは自分の追随者たちが何を予期すべきであると言われましたか。

      3 クリスチャンであれば,この世から好まれないことを予期すべきです。イエスはこう説明しました。「あなたがたに真実に言いますが,わたしのため,また良いたよりのために,家,兄弟,姉妹,母,父,子ども,あるいは畑をあとにして,今この時期に百倍を,すなわち,家と兄弟と姉妹と母と子ともと畑を迫害とともに得,きたらんとする事物の体制で永遠の命を得ない者はいません」。(マルコ 10:29,30)イエスの言われたことは使徒たちの場合に真実になりました。またそれは,今日の真のクリスチャン,真に霊的な人々にとっても等しく真実なはずです。しかし,霊的な人である使徒たちがなぜ「迫害」を受けねばならなかったのか,という点が問われるかもしれません。

      4 一世紀のクリスチャンの中の霊的な人々が迫害を受けたのはなぜですか。

      4 自分の父エホバに対する祈りの中でイエスはこう答えています。「世は彼ら[イエスの足跡に従う人々]を憎みました。……彼ら(が)世のものではないからです。……真理によって彼らを神聖なものとしてください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世にお遣わしになったと同じように,わたしも彼らを世に遣わしました。……確かに世はあなたを知っていませんが……これらの者たち(は),あなたがわたしをお遣わしになったことを知っています」― ヨハネ 17:14,17,18,25。

      5 肉的な世が初期のクリスチャンたちに対してどのように憎しみを浴びせたかを説明しなさい。

      5 イエスから訓練を受けた霊的な人である使徒たちは『世のものではありません』でした。世が彼らを憎んだのはそのためです。それら霊的な人々と肉的な世との鮮やかな対照が全創造物の前で明らかになりました。イエスが地上舞台を去られたのち,使徒たちはうむことなく身を用い,「地の最も遠い所にまで」宣べ伝えかつ教えるという自分たちの使命を遂行しました。(マタイ 28:16-20。使徒 1:6-8)彼らの業にはその始めから強い反対が浴びせられました。最初の抵抗は彼らの同国人からもたらされました。(使徒 5:40; 12:1-5)その業がユダヤやサマリアの境を越えて広がってゆくにつれ,自分たちの崇敬の対象が「卑しめられてしまう」ことを恐れた,異邦の神々の信奉者たちとの衝突も起きました。―使徒 19:23-41; 14:1-7。

      『世に対して劇場の見せ物』― どのような意味で?

      6,7 パウロは,コリント第一 4章9節で,使徒たちが『世に対して劇場の見せ物』であることを述べていますが,これはどういう意味ですか。

      6 使徒パウロは,コリント第一 4章9節で,クリスチャンが受けた苦しみを写実的に描いています。

      「神はわたしたち使徒を,死に定められた者として,出し物の最後に置かれたように思えます。というのは,わたしたちは,世に対し,み使いたちに対し,また人びとに対して,劇場の見せ物のようになっているからです」。

      7 パウロはここで,使徒たちが生活上の普通の事がらにおいて見ものとなっており,使徒たちの正直で建設的な生活ぶりを見て他の人々がクリスチャン的な生き方の正しさを納得する,という点を述べているのではありません。そうではなく,使徒たちが劇場で一般の観衆の前にさらされて辱しめを受けるかのごとくにして経験した苦しみについて論じているのです。「新約聖書神学辞典」は,使徒たちが聖書の中で提出する「劇場の見せ物」とは,『人間的標準で言えば,誇りに価するものではなく,哀れな見下げるべきものであった』と述べています。

      8,9 (イ)使徒たちが「劇場の見せ物」であると述べたパウロは,使徒たちの経験する苦しみについて述べていましたが,テルツリアヌスとジェームズ・モファットの翻訳は,その点を理解するうえでどのように助けになりますか。(ロ)パウロは文字どおりの闘技場に入れられたことがありますか。

      8 テルツリアヌスによって三世紀になされたコリント第一 4章9節の翻訳は,「野獣と戦うように定められた人々」と表現しており,苦しみに遭ったクリスチャンのありさまをはっきりとらえるのに役だちます。(「謙虚さについて」,第14章)学者ジェームズ・モファットによって20世紀になされたやや自由な聖書翻訳によれば,彼らは「運命を定められた闘技場の剣闘士のよう」でした。それでわたしたちはローマ時代の凱旋行列のさまを思い浮かべることができます。行列の後方からは忠実な使徒たちや他のクリスチャンがさげすまれた犯罪者のごとくにして引き立てられてきます。彼らは闘技場に引かれて行き,見物人たちは彼らの苦しみと死を喜び楽しむのです。

      9 もちろん,パウロがコリント第一 15章32節で「わたしがエフェソスにおいて,人間がするごとくに野獣と戦ったのであれば……」と述べている点から考えて,使徒パウロが,初期の他のクリスチャンと同じように,闘技場で実際に野獣に直面したということは,確かとは言えないまでも,ありうることです。パウロがエフェソスの比ゆ的な意味での「劇場」で「野獣のような」人々に直面したことは確かです。(使徒 19:29-41)しかし,注目すべき点として,パウロは,コリント第二 1章8-10節で,「アジア地区[エフェソスはその地方にあった]でわたしたちに生じた患難」について述べ,「自らのうちでは,死の宣告を受けているのだと感じました……神はわたしたちを確かに救い出してくださったので(す)」と続けています。これは,パウロがある時にエフェソスの闘技場で実際の野獣に直面したことを暗示しているように思われます。

      10 パウロはキリストの追随者が受けた苦しみについて述べていますが,その幾つかを挙げなさい。

      10 しかしながら,コリント第一 4章9節でパウロは一つの例えをしています。彼は,『人間やみ使い』から成る全宇宙的な観衆が,宣教の遂行に伴ってパウロやその仲間たちの服させられる辱しめや反対や迫害の見物者となっている,と述べています。パウロは彼らの受けた苦しみを詳述してさらにこう述べます。

      「わたしたちはキリストのゆえに愚かな者ですが,あなたがた[コリントのある人々]はキリストにあって思慮深い者となっています。わたしたちは弱いのに,あなたがたは強いのです。あなたがたは評判が良いのに,わたしたちは辱しめを受け[彼らはわたしたちを冷笑し,新アメリカ聖書]ています。今この時に至るまで,わたしたちはずっと飢え,また渇き,着る物に乏しく,こづき回され,家もなく,手ずから働いて労苦しています。ののしられれば[侮辱されても,新ア]祝福し,迫害されれば忍び,名誉をそこなわれても[中傷されても,新ア]懇願するのです。わたしたちは,今に至るまで,世のあくた,すべてのもののかすのようになってきました」― コリント第一 4:10-13。ヘブライ 10:32-34と比較。

      11 使徒たちがこうして見ものとされることを許したのはだれですか。

      11 使徒たちの忍んだ苦しみにもかかわらず,その時代にあって霊的な思いをいだいた人々は,神が使徒たちに後ろだてを与えておられたことを知ったことでしょう。使徒たちの建設的な労苦がそれを証明していました。そうした人たちはまた,パウロが述べたとおり,「神(が)わたしたち使徒を,死に定められた者として,出し物の最後に置かれた」ことをも知ったでしょう。(コリント第一 4:9)そうです,使徒たちが世の標準からすれば卑しい者のようにみなされることを,神が許されたのです。

      12,13 (イ)それで,今日,どんな人々は苦しみに遭うことを予期すべきですか。(ロ)どんな質問が起きますか。

      12 今日のエホバの証人たちも,その全世界的な宣教の遂行に伴って,同様の苦しみに遭っています。これは神が彼らを退けられたという意味ではありません。事実,前の記事の中で,今日霊的な人となるために現代のエホバの証人の会衆の必要なことがはっきり示されました。真理は,世からの人気を得ている人々の間には見いだされません。使徒パウロは,「キリスト・イエスにあって敬神の専念をもって生活しようと願う者はみな同じように迫害を受け(る)」ことをわたしたちに銘記させています。―テモテ第二 3:12。

      13 しかし,一つの質問が起きます。エホバの証人でなくて「クリスチャン」と唱える人たちの中にも,今日迫害を受ける人々が多くいるのではありませんか。確かに,「クリスチャン」と唱える人で今日苦しみに遭っている人は多くいます。そして,異教徒や無神論者でさえ迫害を受けることがあります。しかし,そうした人々が苦しみに遭うのはどんな理由によりますか。真に霊的な人々はイエスやその使徒たちとまさに同じことを信じ,その側に立場を定めます。それゆえ,その人々は,イエスや使徒たちと同じ理由で反対に遭うのです。

      キリスト教世界は今日『世に対して劇場の見せ物』となっているか

      14 キリスト教世界の諸教会は苦しみを受けていますか。なぜ?

      14 キリスト教世界の諸教会の中に真のキリスト教を代表するものがありますか。では,それら諸教会は霊的な人々で構成されていますか。またそのゆえに,第一世紀のクリスチャンと同じ理由で憎しみや迫害を受けていますか。キリスト教世界の多くの教会は今日傷ついています。それらは信徒を失い,資金を失っています。その影響力は衰退しています。しかし,それは,使徒たちと同じように義のために苦しみを受けているからではありません。(ペテロ第一 2:19-21と比較)どうしてそのことがわかりますか。次の点を考えてください。

      15 人を殺すことの正邪について使徒たちと諸教会の態度をどのように比較できますか。

      15 使徒たちは,殺人はおろか,人を憎むことさえ悪であると信じていました。(ヨハネ第一 4:20,21。啓示 21:8)しかし,キリスト教世界の諸教会は,戦場におけるこの世の大規模な殺りく行為に目をつぶり,いえ,それを支持したり,推進したりさえしてきたのではありませんか。リチャード・オコノルの「ブラック・ジャック・パーシング」という本はこの問いの答えを得る点で助けになります。同書は米国の第一次世界大戦参戦についてこう伝えています。

      「アメリカが戦争に加わることを要求した者たちの中で,それを最も強く迫ったのは神の奉仕者たちであった。ニューヨーク教会連盟は3月11日を“戦争の日曜日”と宣言した。大陸の一端から他端にいたるまで,戦闘的な説教者たちは,キリストが平和主義者であることを否定し,戦争が悪であることを否定し,ドイツ人を殺すことはおきてを犯すことではないと唱えた。タイムズ・スクエアで群衆に語りかけ

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