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    ものみの塔 1970 | 12月15日
    • イエスの弟子になった人びと

      親が子どもとともに読む特別な記事

      わたしは,地上に住んだ人のなかで,神につかえたいちばんりっぱなしもべについて考えていますが,それがだれだかわかりますか。そうです,そのかたはイエス・キリストです。

      あなたやわたしが,イエス・キリストのようになれると思いますか。聖書は,イエス・キリストがわたしたちのためにもはんをのこされたことをのべています。しかもイエスは,わたしたちがその弟子となるよう,まねいておられます。

      イエスの弟子になるとは,どういう意味ですか。それにはいくつかの意味があります。イエスの弟子になるには,イエスから学ばねばなりません。しかし,それだけではありません。イエスのおっしゃったことをほんとうに信じなければならないのです。あなたは,イエスのおっしゃったことをぜんぶ信じますか。ほんとうに信じているなら,イエスの命じておられることをするのではありませんか。

      多くの人びとは,イエスを信じているといいます。でも,そう言う人びとがぜんぶ,ほんとうにイエスの弟子だと思いますか。そうではありません。そのような人の多くは,イエスの弟子ではありません。それらの人は,ときどき教会に行くかもしれませんが,そういう人たちの多くは,時間をかけてイエスの教えたことがらを,学んだことが少しもないのです。イエスについて,それらの人に話そうとすると,いそがしくて話が聞けないとか,きょうみがない,などとことわられるかもしれません。そして,イエスが弟子たちにしなさいといわれた,伝道のしごとにくわわりません。ですから,それらの人はほんとうはイエスの弟子ではありません。

      どんな人びとがイエスの弟子になるのですか。知っていますか。イエスが人間として地上におられたときの,その弟子たちに合えるなら,楽しいでしょうね。では,その弟子たちについて話してあげましょう。

      弟子のなかには,さかなを取る人がいました。ある日,イエスは,ガリラヤの海の岸べを歩いていましたが,そのとき,ペテロと,その兄弟アンデレをごらんになりました。その人たちは,さかなを取るあみを海の中におろしていたのです。イエスは,そのふたりにいわれました。「わたしについてきなさい」。

      もう少しいったところで,イエスはべつのふたりの人をごらんになりました。その人たちも兄弟で,名前をヤコブとヨハネといいました。ふたりはお父さんとふねのなかでさかなを取るあみをなおしていたのです。イエスは,ヤコブとヨハネにも,弟子になるよう,まねかれました。

      あなただったらどうしていたでしょうか。すぐに,イエスについていったでしょうか。それらの人は,イエスがどんな人かを知っていました。イエスが神から送られたことを知っていたのです。ですから,さかなを取るしごとをあとにして,すぐイエスにしたがったのです。―マタイ 4:18-22,新。

      それらの人が,ものごとをすすんでする気持ちをもっていたことは明らかです。そして,それはたいせつなことです。とはいっても,それらの人はかんぜんではありませんでした。ペテロのことを考えてください。ペテロは,ときどきまちがったことをいって,こまったことがありました。しかし,ペテロは良いしんぞうを持っていたのです。まちがいをしたことを知っているのに,なにもまちがいをしなかった,というようなふりはしませんでした。こらしめをうけいれて,すすんで自分をかえようという気持ちがありました。ペテロのように,すすんでする気持ちがあれば,わたしたちも,イエスの弟子になれます。

      イエスは,ひとりのお金持ちの若いしはい者とも話をされました。そのような人でも,イエスの弟子になれますか。その人はかんしんをもっていました。そこで,とこしえのいのちをもらうにはどうしたらよいか,イエスにたずねました。イエスはそれについて,せつめいされました。しかし,自分の持っている富よりもイエスの弟子になることが,せいかつのなかでもっとたいせつであると知って,その人は,かなしく思いました。イエスは,「それから,来て,わたしの追随者になりなさい」と,かれをまねかれましたが,その人はイエスにくわわりませんでした。神よりも,お金をもっと愛していたのです。―ルカ 18:18-25,新。

      イエスは,いろいろな人びとを,ご自分の弟子になるよう,まねかれました。悪いせいかつをしていた人でさえ,自分をかえることができます。でも,すすんで学ぶ気持ちがなければなりません。ほんとうに神をよろこばしたい,とねがわねばならないのです。あなたはそうねがっていますか。

      使徒パウロはそうねがいました。イエスの弟子になるまえ,パウロはたくさんの悪いことをしました。クリスチャンをろうやにいれたこともありました。しかし,イエスの弟子になったとき,パウロは自分の生き方をぜんぶかえました。それからは,人をくるしめるかわりに,人のたすけとなることをしました。そして,イエスがなさったとおりパウロは多くの時間をついやして,神や神の王国について人びとに教えました。

      ある日,イエスは,ご自分の弟子のなかから12人をえらんで,使徒とされました。使徒というのは,とくべつなはたらきをするため,イエスがつかわされた人のことです。そのなかのある人は,聖書の一ぶを書くため,神に用いられました。あなたは十二使徒の名前を知っていますか。

      ゲームをしてみましょうか。わたしが使徒の名前をひとつずついいますから,わたしのあとについて,いってみてください。

      (1)ペテロ,(2)その兄弟アンデレ,(3)ヤコブ,(4)その兄弟ヨハネ,(5)ピリポ,(6)バルトロマイ,(7)マタイ,(8)トマス,(9)アルパヨの子ヤコブ,(10)「熱心党」のシモン,(11)ヤコブの子ユダ,(12)イスカリオテのユダ。しかし,のちに,イスカリオテのユダは悪い人になって,イエスにてきたいしました。それで,パウロがイエスにえらばれて,使徒となりました。

      このうちのなん人の名前をおぼえられますか。知っている名前をいってごらんなさい。

      いままでに話してきた弟子たちは,みんな男の人でしたが,そうすると,男の人だけしかイエスの弟子になれないのですか。いいえ,女の人も弟子になれます。イエスが伝道にいかれたとき,いっしょにりょこうした女の人もいます。マグダラのマリヤ,ヨハンナ,スザンナそのほかの女の人がいます。そのあとのことですが,神について,ほかの人にねっしんに話す4人のむすめのいた,かぞくのことを聖書はのべています。それはどんなにかこうふくなかぞくだったことでしょう。

      イエスは人を教えるとき,おさない子どもたちに,とくべつのかんしんをしめされました。どうしてですか。そのわけがわかりますか。イエスは,子どもたちがご自分の弟子になれることをごぞんじだったのです。おとなは,たしかに,子どものできないことでもできます。でも,イエスから学べるのは,おとなだけではありませんし,神について話すことができるのも,おとなだけではないのです。あなたも,そうすることができるのです。

      あなたは,イエスの弟子になりたいと思いますか。わたしはなりたいと思います。そうするのはほんとうに,わたしたちのだれもができる,いちばん良いことなのです。

      イエスの弟子になるのは,とくべつなことです。おぼえていますか。イエスは地上にくるまえ,天で神といっしょにおられたのです。ですからイエスは,ほかの人が知らないことを知っていました。イエスから学ぶなら,イエスの弟子しか知らないことを学べます。

      ですから,わたしたちはイエスのようになれます。そして,イエスのほんとうの弟子であるなら,神からぜにんを受けるのです。

  • コロンビアで歓迎される真理
    ものみの塔 1970 | 12月15日
    • コロンビアで歓迎される真理

      コロンビアは決して取るに足らない国ではありません。人口は約2,000万人を数え,国土面積は約114万平方キロで,フランス・スペイン・ポルトガルを合わせた以上の広さを持っています。1945年まで,人口の99.9%が名目上はカトリック教徒でした。その年に初めて,ものみの塔協会から宣教者がコロンビアに派遣され,山岳地帯に住んで,伝道していたふたりの,現地人のエホバの証人に援助が差し伸べられはじめました。

      最初は,よそ者としていささか白眼視されながら,それらクリスチャン奉仕者は人々の家を訪問して,無償の家庭聖書研究をすすめる仕事に静かに携わっていました。彼らはいつもおきまりの反対にあいました。それらが,皆ひとつの源に発しているのは明らかでした。そうした反対には次のようなものがあげられます。「聖書を読むのは罪です」。「聖書を読んではいけない,と司祭に言われています」。「聖書を読むと気がへんになりますよ」。教会側からの反対で,その集会場を用いて集会を開くことが何度も妨げられたため,裏庭や中庭で集まりを開きました。彼らはりっぱな無私の奉仕を忍耐強く続けました。神がご自分のわざを必ず祝福してくださるという確信を持っていたのです。

      エホバの証人はすべての政治運動に対して,厳正中立の立場を取りますので,カトリック教徒とも,新教徒とも異なっています。(ヨハネ 17:14)10年間に,20万人もの人が殺されたと推定される不穏な事態にもかかわらず,証人たちは平和裏に宣教を遂行しました。誠実なコロンビア人は聖書の真理に答え応じはじめ,それらの人々は,自分たちの学んだことを他の人に告げずにはおられなくなりました。みことばは広まりました。人々は聖書の知識に飢えていたのです。

      時勢は確かに変わりました。今ではカトリック教徒が守勢に回り,教会に対抗する勢力の増大を防ごうと努めています。教会内では,新しい世代の司祭たちが童貞制の廃止をも含めて改革の即時実施を要求しています。最近のコロンビアの新聞は,次のような見出しのもとに教会内の問題をあらわにしています。「カリの住民,聖金曜日を作り話として無視」。

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