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神の善意をいま求めるものみの塔 1972 | 9月15日
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後,つまり実にその世代のうちに,「エホバの善意の年」は停止し,ユダヤ民族,特にエルサレムの上に激しくふりかかる壊滅的な「刑罰の日」が,そのすぐあとに続いて起きることになりました。西暦66年,イエスが警告を与えられたとおりに,ローマの軍隊が来て都市を包囲しました。ローマの軍隊がしばらくの間撤退したとき,神の善意を求める人たちには,「山にのがれよ」とのイエスの警告に聞き従うだけの時間が残されていました。彼らはそのとおり山にのがれました。しかもすみやかに行動しました。ところが西暦70年には,ローマのチツス将軍が自分の軍隊を率いて,民と都市の両方に恐るべき破滅をもたらすためにやってきました。そして,110万人のユダヤ人を殺害し,別に9万7,000人を悲惨な奴隷としてローマ帝国じゅうに散らしました。こうして,西暦前607年,ご自分を退けたユダヤ国民を罰するため,神がバビロンの不敬虔な支配者ネブカデネザルの軍隊を用いられたのと同じように,西暦70年,壊滅的な「刑罰の日」が,神の「善意の年」を退けることを選んだ国民に暴虐と悲痛をもたらしたときにも,チツス将軍配下のローマ軍が神の目的にりっぱに仕えました。イエスとその追随者たちを迫害し,その死をもたらし,差し迫った災難からのがれて生きながらえるようにとの,イエスや彼の忠実な追随者たちによる警告に耳を貸そうとしなかったそれらみじめな犠牲者たちは,神の「刑罰の日」のもたらしたか酷な結果を味わうことを余儀なくされました。それは避けられない経験でした。
15 信じる者となった残れる者たちは,神の善意を受け入れることによりどのように益にあずかりましたか。
15 神はご自分のみ子と弟子たちの発表を通じて,ユダヤ国民全体に,ご自分の善意を差し伸べられました。しかし,それを受け入れ,従順な態度でそれに信仰を表明した者はごくわずかでした。残れる者たちだけが神の善意の人の平和を得ることを求めました。そしてイエスの弟子となり,イエスの追随者としてバプテマスを受けることにより,自分の決定を公のものとしました。その結果,これら「善意の人」は,エルサレムの滅亡をのがれ,また,滅亡に生き残ってみじめな奴隷の身になる事態に陥らずにすみました。警告に聞き従い,イエスの与えられた指示に則して行動したからです。
今日に対する教訓
16,17 (イ)ユダヤ国民の事情はだれにとって教訓となりますか。(ロ)「善意の年」を特徴づけるいくつかの有益な事柄はなんですか。(ハ)神の善意を求める時がまだ残されているのはなぜですか。
16 以上の事柄には,今日地上に生存しているすべての人に対する重大な教訓が含まれています。現在,地のあらゆる国民と家族を取り巻いている非常な「危機の時代」を考えると,わたしたちが,「終わりの日」,つまり「事物の体制の終結」の時として知られている期間に位置していることは疑う余地がありません。(テモテ後 3:1-5。マタイ 24:3,新)聖書の見地から限られているこの期間は,人類の世に世界的な規模で増大する災いや問題で満ちているにもかかわらず,神を愛する人たちにとって最も幸福な時でもあります。というのは,イエスが安息日にナザレで読んだイザヤの預言の中には,「われらの神の刑罰の日」に先だって多くの人が受ける霊的な祝福が述べてあったからです。その中には,「貧きものに福音をのべ伝ふること,心の傷める者をいやすこと,とらはれびとにゆるしをつげること,縛められたるものに解放をつげること」が含まれており,そのすべては,エホバの善意の年を宣布するわざとともに成し遂げられることになっていました。
17 このことは,わたしたちがまだ神の善意を受けることのできる時に住んでいること,「われらの神の刑罰の日」が神の善意を求めない人々に迫って来るまでにはまだ時間のあることを示しています。その「刑罰の日」は,「全能の神の大なる日の戦闘」すなわち「ハルマゲドン」の戦いで最高潮に達する,来たるべき大かん難において現実となるでしょう。そのとき神は,ご自分の善意を退け,ご自分と神の王国と義とに敵対する側を取った者すべてに刑罰を与えられます。―イザヤ 61:1,2。黙示 16:14,16。
18 人類は今日どんな選択に面していますか。
18 したがって,わたしたちの面している問題は次のとおりです。賢明に行動し,神の善意を求めるために今開かれている機会を受け入れ,神から命の恵みを与えていただけるようにしますか。それとも,信仰を欠いた1世紀のエルサレムの人々のように,愚かにも警告を無視し,指示を退け,その結果,神の最終的な「刑罰の日」の犠牲者となって,自分の運命を永遠の死で封じてしまいますか。
19 イエスの預言が再度成就していることを示す証拠をあげなさい。
19 聖書預言と20世紀のでき事から明らかなように,神の時間表によると,西暦1914年は現在の邪悪な事物の体制における「終わりの時」の始まりを画する年でした。この時がその年以来,人間の事態の絶えまない悪化を目撃したことは疑う余地がありません。二度の大戦をはじめ,小規模の戦争が何十となく起き,その中にはいまだに続いている戦争もありますし,いつほかの戦争が勃発するかわからない状態です。利己主義,憎しみ,犯罪,不道徳,あらゆる種類の不敬虔が増大している事実は,大多数の人類は神の善意を求めてもいなければ,自分のために神の善意を差し伸べてもらうなんらの理由をも提出していないことを明らかにしています。マタイ伝 24章の中でイエスは,この時代に人間関係が堕落することを詳しく説明しましたが,その預言が再度成就しています。今回はユダヤの地だけでなく,地のあらゆる国民に影響を与えるできごとのうちにそれが見られます。イエスは,『民が民に,国が国に逆ってたつ』ことを,食糧不足,『処々に起こる地震』,苦難,神の忠実なしもべたちに対する迫害とともに予告しました。「おほくの人つまづき,且たがひに付し,互に憎まん。多くの偽預言者おこりて多くの人を惑さん。また不法の増すによりて多くの人の愛,冷かにならん」。(マタイ 24:7-13)理性のある人ならば,これらのことばが他のどんな時にもまして,今の世代において真実となっていることを疑えないはずです。
20 (イ)現在,神の「善意の年」はだれに差し伸べられていますか。(ロ)そのおもな内容はどんな発表ですか。(ハ)特にだれにとって,王国の発表は「良いたより」ですか。
20 確かに今こそ,以前にまして神の善意が必要とされる時です。幸いなことに,「エホバの善意の年」は,肉のイスラエル人からなる限られた共同社会に対してだけでなく,人の住む地にいる全家族に開かれています。どうしてそう言えますか。イエスは,わたしたちの時代に対するご自分の預言の中のあとのところでこう説明しています。「〔王国〕のこの〔良いたより〕は,もろもろの国人に証をなさんため全世界に宣伝へられん,而して後,終は至るべし」。(マタイ 24:14〔新〕)イエスがわたしたちとともにいてその良いたよりを地上で宣べ伝えているわけではありませんが,世界的規模の団体であるエホバのクリスチャン証人は,1914年における王国の誕生以来,「王国のこの良いたより」を全地で宣べ伝えつづけています。しかもそのわざはいよいよ効果的になってきています。証人たちは,義を愛し,地上に完全で平和な政府を望むすべての人に向かって,み子キリスト・イエスが神によって天の王座に高められることにより,人々が長い間求め,祈ってきた神の王国が1914年に神から権限を与えられたことを忠実にふれ告げています。この発表は,神の善意を求めている人にとって「良いたより」です。なぜなら,神の恵みと善意を得,その結果完全な政府のもとで永遠の祝福と益にあずかるという見込みがそれには伴っているからです。それは神の「善意の人」にとって「良いたより」です。なぜなら,それは,神によって王位につけられたかたが,間もなく決然として地に注意を向け,地が神の最初の目的どおり喜ばしい平和な状態に回復されるために必要な,世をゆるがす大変革を実施されるからです。―ダニエル 2:44。ゼパニヤ 3:8。詩 37:10,11。
21 知恵はわたしたちがどんな道を取るよう導きますか。なぜですか。
21 警告に聞き従い,「エホバの善意の年」の残されている間に神の善意を求める選択をする人たちにとって,今すばらしい機会が開かれているのです。自分に最も益となることを選ぶのが賢明ではありませんか。信頼できる確かな源に将来の益を求めるのが知恵の道ではありませんか。聖書の箴言の中で知恵が語ることを聴いてください。「そは我を得る者は生命をえエホバより〔善意〕を獲ればなり 我を失ふものは自己の生命を害ふ すべて我を悪むものは死を愛するなり」。(箴 8:35,36〔新〕)そうであれば,自分の命を保護するのが実際的な知恵ではありませんか。自分の将来のために備えるのが賢明なことではありませんか。敬虔な知恵を退けて不法の道を選ぶ人は,知恵を憎んでおり,「死を愛する」者です。
22,23 (イ)古代のどんな例は,神の恵みを得たいと願う人の前に選択が提出されていることを明らかにしていますか。(ロ)神の善意を求めるのに遅滞は許されません。このことはなぜ重要ですか。
22 今日わたしたちが直面している選択はモアブの荒野をさまよっていたイスラエルの子らが,先祖アブラハムに約束された地にヨルダン川を渡ってはいろうとしていた直前に,彼らの前に提出された一つの選択を思い起こさせます。その時,モーセは集合している群集に語り,次の警告を与えました。「我今日天と地を呼て証となす我は生命と死および祝福と呪詛を汝らの前に置り汝生命をえらぶべし然せば汝と汝の子孫生存らふることを得ん 即ち汝の神エホバを愛してその言を聴き且これに附従がふべし」― 申命 30:19,20。
23 それと同様に,わたしたちも今日選択をしなければなりません。命を望む人は,エホバの声に聴き,その恵みを確かなものとするための手段を講じたいと思うはずです。善を望むなら,箴言 11章27節(新)が勧めているように,神の善意を得るために何かをするはずです。「善をもとむるものは〔善意を求めつづける〕悪をもとむる者には悪き事きたらん」。幸いなことに,わたしたちはまだ「エホバの善意の年」のうちにいます。わたしたちがその永遠の恵みと善意を求める機会はまだ残されています。知恵は,待つことも遅滞も許されないことを示しています。今こそわたしたちの決定をする時です。神の善意を求める機会は,わたしたちのもとにいつもあるわけではないのです。ですから,今行動し,命を選んでください。神の善意を求め,神の『善意の人の間の平和』を地上で永遠に享受してください。
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イエスを「神」と呼ぶことに関する問題ものみの塔 1972 | 9月15日
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イエスを「神」と呼ぶことに関する問題
● 多くの神学者はイエスを「神」と呼ぶことについて問題があることに気づいている。たとえば神学者のH・W・モンテフィオールは「探究 ― クリスチャンの知識に関するエッセイ」と題する本の中でこう書いている。「イエス自身,自分が天の父の子であることを知っていた。彼は自分を主また人の子と呼び,決して神とは呼ばなかった」。また1971年5月15日号のザ・クリスチャン・センチュリー誌はローマ・カトリックの神学者,カール・ラーナーについて次のように書いている。「彼は進んでイエスを『主また救主』として説明するが,イエスを神と呼ぶことまではしない」。
1968年に行なわれたある講義の中で,神学教授,G・H・ブーバイヤーはこの問題に注目し次のような質問を提起した。「一方では,福音書の綿密な研究が,イエスは神であるとの自覚を持っておらず,神と称えることもしなかったことを明らかにしており,他方では,イエスを『真実に真の神』であると宣したニケアのキリスト論は新約聖書の拠証に則った正しい説であるとする二つの立場を,多くの新約研究者たちがいまだにとっているように,同時に保持できるとみなさんは考えるだろうか。私は,この問題がすくなくとも,A・グリルマイヤーが焦眉の問題として語った,『現代に至るまでのキリストに関する教会の信条を再評価する』べき十分の理由を持つほど今日激烈なものになっていることを指摘したい」。
言いかえれば,彼らは三位一体の信条が不確かな根拠に基づいていることを認めているのである。
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