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  • キリスト教 ― 反対のものの和合するところ
    ものみの塔 1964 | 2月1日
    • に,あなたがたも互にゆるし合いなさい」。「そこで,あなたがたに,キリストによる勧め,愛の励まし,御霊の交わり,熱愛とあわれみとが,いくらかでもあるなら,どうか同じ思いとなり,同じ愛の心を持ち,心を合わせ,一つ思いになって,わたしの喜びを満たしてほしい」。―エペソ 4:32。ピリピ 2:1,2,新口。

      反対の音信

      キリスト教が告げ知らせる神の御国のよい音信も,反対のものが相会する一つの例と言えるでしょう。イエスが故郷の町ナザレに戻った時引用された預言的命令には,二つの対照的な使命が含まれていました。「主エホバの霊われに臨めり,こはエホバわれに膏をそそぎて貧しき者に福音をのべ伝ふることをゆだね,我を遣して心の傷める者をいやし,俘囚にゆるしをつげ縛められたるものに解放をつげ,エホバのめぐみの年とわれらの神の刑罰の日とを告げしめ,又すべて哀しむ者をなぐさめ」。イエスが地上におられたとき両方を行なわれたのと同じく,今日地上にいるイエスの追随者たちも同じことを行なっています。つまり彼らは,全地球上に訪れる楽園のよいたよりと,全能の神の大いなる日の戦いであるハルマゲドンの戦いを宣べ伝えています。―イザヤ 61:1,2。黙示 16:14,16; 21:4。

      ミカ書 5章7,8節の預言で,この点がいかに強く強調されているかに注意してください。「ヤコブののこれる者はおほくの民の中にあること人に頼らず,世の人をまたずしてエホバより降る露の如く青草の上にふりしく雨の如くならんヤコブののこれる者の国々にをりおほくの民の中にをる様は林の獣の中にししの居る如く羊の群の中に猛きししのをる如くならんその過ぐるときは踏みかつ裂くことをなす救ふ者なし」。

      たしかにこれ以上に対照的な二つの反対のものを想像するのはむずかしいでしょう。露ほどしずかに降り,人の心をさわやかにするもの,またゆたかにそそぐ雨ほど命のささえになるものがありますか。これらの言葉が書かれたパレスチナでは,特にそうでした。また,無力な羊の群れのなかの若いししほど破壊的なものがありますか。真のクリスチャンは両者の役目を果たすのです。すなわち神に対して善意をもつ人々のためには,心をさわやかにし,命を支える音信をもっています。しかし真のクリスチャンが真理の敵にもたらす音信は,偽りの教えに大きな害をおよぼすので,若いししのように破壊的です。彼らは,他の表現を使えば,神のことばである「御霊の剣」で偽りの教えを切りまくるのです。―エペソ 6:17,新口。

      なぜこれらの反対のものがキリスト教の中で融合するのですか。それは,キリスト教が真の神エホバの宗教だからです。エホバは公平であられ,そのご性質には完全な平衡が保たれています。そのみ力と公正さとのゆえにエホバは悪しき者にとっては「焼きつくす火」です。しかし正義を愛する者に対しては他の面をあらわされます。「われらのなほほろびざるはエホバのいつくしみによりそのあはれみのつきざるによる。これは朝ごとに新なり」。―ヘブル 12:29。エレミヤ哀歌 3:22,23。

      ほんとうにキリスト教は,真理と正義を愛する者すべてに好まれます。キリスト教は「上からの知恵」をもつので,「第一に清く,次に平和,寛容,温順であり,あわれみと良い実とに満ち,かたより見ず,偽りがない」のです。

  • 読者よりの質問
    ものみの塔 1964 | 2月1日
    • 読者よりの質問

      ● ゼパニヤ書 2章3節は,たとえ真理の中にいて神のみ心を行なっていても,永遠の生命を得ることは確かではないという意味ですか ― プエルトリコの一読者より

      この聖句はこう述べています,「すべてエホバの律法を行ふこの地の遜るものよ汝等エホバを求め公義を求め謙遜を求めよ然すれば汝等エホバの忿怒の日に或は匿さるゝことあらん」。

      ここで「あるいは」と訳されたヘブライ語は「ウライ」です。このヘブライ語は,確実という意味を全く含まない言葉で,「あるいは」「おそらく」「たぶん」などと訳されています。この言葉は創世記 43章12節において「おそらくは」と訳され,列王紀略上 18章27節において「あるいは」,ヨシュア記 9章7節において「計られねば」,ゼパニヤ書 2章3節において「あるいは」とそれぞれ訳されています。この意味をとって1950年改訳口語聖書はゼパニヤ書 2章3節を次のように訳しています,「すべて主の命令を行なうこの他のへりくだる者よ。主を求めよ,正義を求めよ,謙遜を求めよ。そうすれば,あなたがたは主の怒りの日に,あるいはかくされることがあろう」。

      「ウライ」は疑いを表わす言葉ですが,場合によっては希望を表わすこともあります。創世記 16章2節の場合には,明らかに希望を表わしています。「サライ アブラムに言けるは視よエホバわが子を生むことをとゞめたまひたれば請ふ我が侍女の所に入れ我彼よりして子女を得ることあらんとアブラム サライの言を聴いれたり」。アモス書 5章15節の場合にも,この語は希望を表わしています,「汝ら悪をにくみ善を愛し門にて公義たてよ万軍の神エホバあるひはヨセフの遺れる者を隣み給はん」。

      ゼパニヤ書 2章3節は,公義と謙遜を求め始めた人が,正しい道を歩み始めたというだけの理由でエホバの怒りの日にかくされる保証はないという事を示しているのです。かくされる可能性があるという意味です。

      それでもこの聖句の言葉の組立てをみると,不確実の要素がかなりあります。しかしこの不確実さは神に関してではありません。公義と謙遜を忠実に求める人々を,ハルマゲドンの時に神がかくし得ないという意味ではないのです。決してそうではありません。問題はこうです。つまり神にそうする責務があるという訳ではなく,従つて不確実さはここから生じます。保護されることが私たちの権利でもあるかのように,当然と考えることはできません。すべては神のあわれみ,罪人に対する神の過分のご親切に依存しています。実を言えば私たちが罪のために死ぬのは当然だからです。しかし聖書から見て私たちが神のあわれみを期待できる唯一の道は,まだそうする時があるいま,エホバと公義と謙遜を求めることです。そうすれば神は,私たちが悔改めて行いを変え,神に献身したことを考慮して下さるでしょう。神がおそらくそうして下さることを信ずる聖書的な理由があります。

      ● マタイ伝 24章7節にイエス・キリストの言われた地震は象徴的なものですか。それは革命のような政治の変動を指すと言えますか。

      マタイ伝 24章7節によれば,イエスは終りの時に関するその預言の中で次のように言われました。「即ち民は民に,国は国に逆ひて起たん,また処々に饑饉と地震とあらん」。ここに言われた地震を象徴的に解釈しようとする人は,人類を混乱に陥れる政治的な変動や革命がすなわち地震であると考えています。しかしイエスの預言の文脈を考えるとき,その考えは正しいと言えますか。決してそうではありません。かりにこの地震が政治的,社会的な革命を象徴すると考えた場合,ききんも象徴的なものと考えなければなりません。そのうえルカ伝にある同じ終りの時の預言に述べられた疫病まで象徴的なものになってしまいます。(ルカ 21:11)また戦争も預言されています。それも象徴的なものですか。イエスの預言にある地震を象徴的なものと解釈すれば,そう言わなければなりません。

      この時代に起きた戦争は,象徴的などというものではありません。何百万人が殺され,更に何百万人が戦争の苦しみをなめました。またこの時代の人間は文字通りの食糧不足と疫病に悩まされてきました。たとえば世界人口の増加につれて,食糧問題はよほど深刻なものになっています。パーヂュー大学で食糧管理問題を講ずるノーマン・デスロジア教授の言葉を借りれば,「うえをみたすことがまずもっていちばん切実な問題であり,人類がこれにうちかつのでなければ,軍備や宇宙開発の競争は二のつぎの問題でしかあり得ない」のです。それで戦争,ききんと疫病は実際のものです。同様に地震も実際のものです。

      1960年3月6日付ニューヨークタイムズに,「ゆれ動く大地」という見出しでウイリアム・ローレンスが次のことを書いています。「毎年10あるいはそれ以上の大地震が世界のどこかで起きる。そのうちいちばん小さいものでも,広島,長崎に落ちた原爆の1000倍以上のエネルギーを放出する。……大きな被害をもたらす地震は比較的に少ないが,小さいものは非常に多い。全部を数えると1年間に100万の地震が起きるものと推定されている」。別の報告によれば「記録に残っているところを見ても,過去2000年間に1000万人が地震のために死んだ」とあります。(1950年8月20日付ニューヨークタイムズ)これを年平均に直せば毎年5000人が死んだことになります。しかし1915年から1949年までの間,地震のために死んだ人は84万8450人に上りました。この35年間について見ると,地震による死亡者は年平均5000人ではなく,2万4241人になります。従ってマタイ伝 24章7節にある地震は,世の終りの時のしるしを作りあげる他の出来事と同じく文字通りの地震です。それは政治的な変動,革命その他人間社会の変革を象徴するものではありません。

      [95ページの囲み記事]

      「最後に兄弟たちよ。すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい。あなたがたが,わたしから学んだこと,受けたこと,聞いたこと,見たことは,これを実行しなさい。そうすれば,平和の神が,あなたがたと共にいますであろう」。―ピリピ 4:8,9,新口。

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