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  • エホバのみ名を軽んじないように慎みなさい
    ものみの塔 1964 | 12月15日
    • の神であることを立証したことを喜びました。―列王下 19:32-37。

      ヒゼキヤはどんな病気になりましたか。しかし奇跡的に回復したため,何が可能となりましたか。

      ところでバビロンのメロダク・バラダンはなお反逆の志を捨てず,アッシリア王を倒すための同盟者を求めていました。彼は,治世の14年目にあるヒゼキヤが病気になったことを聞いていました。ヒゼキヤは悪性の腫瘍のため,死にそうになっていたのです。ヒゼキヤ王は泣いて神に祈り,生き延びることを願いました。おもにそれは王位を継ぐ息子がヒゼキヤになかったためです。そのためダビデの王統は絶えそうになっていました。エホバはあわれみを示し,ヒゼキヤの寿命に15年を加えることを約束されました。ヒゼキヤは快復し,3年目に息子をもうけてマナセと名づけました。―列王下 20:12; 21:1。イザヤ 38:1–39:1。

      おそらくどんな動機で,ヒゼキヤはバビロンの使者を快よく迎えましたか。ヒゼキヤの無分別のゆえに,イザヤは王の所有物と子たちに関して何を預言しましたか。

      メロダク・バラダンは礼物と親書を携えた使者をヒゼキヤに送り,ヒゼキヤは喜んでこれを迎えました。アッシリアの王に対抗する有力な同盟者としての威信をバビロン王に示そうとの下心がおそらくあって,ヒゼキヤは自分の富と資産をバビロンの使者に見せました。ヒゼキヤがバビロンの使者に与えた待遇を聞いて,イザヤは次のことを述べました。「なんぢ万軍のエホバの言をきけみよ日きたらん,なんぢの家のもの汝の列祖がけふまで蓄へたるものは,皆バビロンにたずさへゆかれて遺るもの一つもなかるべし,是はエホバのみことばなりなんぢの身より生れいでん者も囚はれ寺人とせられてバビロン王の宮のうちにあらん」― イザヤ 39:1-7,文語。

      歴代志略下 32章24節から26節は,ヒゼキヤの心に関して何を述べていますか。この言葉は明らかに何を指していますか。

      歴代志略下 32章24節から26節の記述は,ヒゼキヤがバビロン王メロダク・バラダンの使者に与えた待遇に関して述べているのかも知れません。「当時ヒゼキヤ病みて死なんとせしがエホバに祈りければエホバ之に告をなし之にしるしを賜へり然るにヒゼキヤその蒙むりし恩にむくゆることをせずして心に高ぶりければ震怒これに臨まんとしまたユダとエルサレムに臨まんとせしがヒゼキヤその心に高慢を悔て身を卑くしエルサレムの民も同じく然なしたるによりてヒゼキヤの世にはエホバの震怒かれらに臨まざりき」。

      (二つの節を一緒にした質問)当時におけるアッシリア,バビロンおよびユダの関係は,「イスラエルとバビロン」の本にどう述べられていますか。

      アッシリアのセナケリブ王とバビロンのメロダク・バラダン王の関係についてW・L・ウォードル著「イスラエルとバビロン」の33頁に次の記述が見えます。

      セナケリブが取り組んだ最初の問題は,彼の言うところの「悪行の親玉」「あの悪人」を征伐することであった。バビロンは占領されたが,メロダク・バラダンは逃れた。この時にメロダク・バラダンは,列王紀略下 20章12節から19節に記録されているようにユダのヒゼキヤの助力を求めたのである。それは,これより先メロダク・バラダンがサラゴンと衝突した時のことではない。しかしバビロンはエラム人の助けを得て,その後もアッシリアを悩ました。メロダク・バラダンの名はその後少なくとも一回は歴史に登場している。バビロンは遂に六八九年に滅びた。明らかにセナケリブはこの時までバビロンに対して宥和政策をとっており,遂にバビロンを滅ぼしたのはやむを得ない最後の手段であった。〔セナケリブの第一回戦役に書かれている〕シドニー・スミスの考えによれば,アシャバニパル年代記の一節から次の解釈が成り立つ。すなわちセナリブは暗殺されたとき,バビロンの再建に携わっていた。―英国ロンドン,1925年版。

      アッシリアとバビロンにおいて支配権のどんな交代がありましたか。

      アッシリアの首都ニネベでは,エサル・ハドンが暗殺された父にかわって王位につきました。(列王下 19:37。イザヤ 37:37,38)バビロンの町を再建し,守護神ベル・メロダクを返還したうえ,他の神々の神殿を復興したのは,このエサル・ハドンです。その後を継いだアシャバニパルは,大守を任命してバビロンを治めさせました。ネブカデネザル2世の父ナボポラサルは,アッシリアの任命した最後の太守でした。―国際スタンダード聖書百科,1955年版。

      どんな理由のゆえに世界強国としてのアツシリアの存続は疑問となりましたか。

      アッシリアはエホバのみ名を軽んじたため,そのみ手によって敗北をこうむり,いやしめられました。み名を軽んじ,また神の民に激しく敵対したアッシリアに対して,エホバの預言は滅びを予告していました。それにもかかわらず,「ニムロデの地」アッシリアは第2世界強国としての地位を保つことができますか。アッシリアはバビロンを滅ぼしましたが,「大いなる王の都」シオンを滅ぼすことはできませんでした。(ミカ 5:6。詩 48:1,2)アッシリアにどのように裁きが臨んだか,またダビデの家系の王の支配するエルサレムが,どのようにバビロンと衝突したかは,次号の「ものみの塔」に採りあげます。

  • エホバと宣教にさゝげた生涯
    ものみの塔 1964 | 12月15日
    • エホバと宣教にさゝげた生涯

      R・ホプレイの経験

      私の両親は,私が子供の時,英国のウォールシャル市にほど近いチェイス・テレイスの自宅で聖書の研究の集会をはじめました。毎週行なわれるこの集会は,私の兄弟や友人が加わるにおよんで盛んになっていきました。私は神の御国とその祝福についての討論にいつも耳を傾け,とりわけイザヤ書 11章の,動物が小さいわらべにみちびかれるという言葉から強い印象を受けました。

      死者の状態,魂,神,キリスト,御国などについて聖書から理解したことはみな受け入れました。しかし,神への献身と宣教を真剣に考えるようになったのは,18歳になってからで,それまではスポーツに非常に興味がありました。ですからフットボールのシーズンがくると,フットボールに打ちこもうかという心の戦いをしなければなりませんでした。ちょうどその頃,兄たちはロンドンで開かれるものみの塔協会主催の大会に出席する話を始めて,そのことで興奮していました。私はその時の気分に押されて兄たちと一緒に大会に出席しました。土地のフットボール・クラブの事務員だった友人も一緒に行き,講演を楽しんでいるかのようによそおっていました。彼には妹があり,私はその妹と親しくしていました。しかし間もなく私は,この友情が,私と私の聖書研究の間に割り込んでくるのに気づきました。そのためこの交際をやめることに心を決めました。

      フットボール・クラブの事務員だった友人はその後間もなく,聖書の研究よりもフットボールを選び,研究への興味をなくしました。しかし私は絶対にその影響を受けませんでした。神に奉仕し,神の目的にかんする知識に進みたいという私の望みは動きませんでした。このことにおいて家族は実によく助けてくれました。エホバについての知識が進むにつれ,家族9人が強い愛によって一つになっていたからです。エホバ神に献身しようという堅い決意をする助けとなったのは,兄たちの示した模範です。こうして1921年,19

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