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あなたの家族を麻薬から守りなさい目ざめよ! 1970 | 8月8日
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心または関心があって故意に麻薬に手を出しました。別にだれかに強制されたからではありません。この点は『予防策』に関して,非常に大切なことを教えてくれます。正しい思いを保つことと聖書の原則に対する,強い動機を養わねばならないということです。この動機を持つ人の間では,麻薬はたいして問題とはならないようです。そういう人には多くの場合,麻薬を用いる他の若者が近寄らないものです」。
青少年は防備を強調する
若い人々は,麻薬の乱用から身を守るものとして,親子の密接な関係のたいせつさを強調します。かつて麻薬常用者であったひとりの人はこう強調しています。「親と子の密接な,不断の関係が最善の予防薬です」。聖書も,それが保護となることを述べています。(箴言 6:20-22)あなたの子どもとの関係はどんなものですか。
言うまでもなく,家族で行なう聖書研究は若者を麻薬中毒から守るのにきわめて重要な働きをします。なぜなら,そのような聖書研究において,正しい原則が説明され,有意義な目標がはっきりと設定されるからです。ひとりの若者は聖書研究の結果をこう書いています。「わたしたちの生活はほんとうにすばらしい変化を遂げました。今の生活のどの1時間と比べても,麻薬で味わえるいわゆる『霊的経験』は空虚なものです」。
この若者の経験から,聖書の原則に従うことを生活の道とするように励まされます。そうした励みを得るため,エホバの証人と聖書の研究をしてください。何百万もの人々がそうしているのです。エホバの証人はこの奉仕を無償で,しかも喜んで行なっています。それは現在また将来に,豊かな報いをもたらすものとなるでしょう。―ヨハネ 17:3。
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世界大戦が起きたのはなぜですか目ざめよ! 1970 | 8月8日
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世界大戦が起きたのはなぜですか
サラエボ,セルビア,フランツ・フェルジナント,汎スラブ主義,ボスニア-ヘルツェゴビナ,ガブリロ・プリンツィプ,モンテネグロ ― これらの名称や地名は,今日の多くの人にとって聞きなれないものばかりですが,半世紀あまり前,国々がそれまでの最悪の世界大戦に巻き込まれた当時,それらは宿命的な響きをもつものとして広く知られていました。
仮にあなたが1914年の春に生きておられたとしても,当時の世界がまもなく無残にも打ち砕かれてしまうなどとは夢にも思わなかったことでしょう。当時,人々は,少し前に局地戦争の終わった“ヨーロッパの戦場”つまりバルカン諸国の情勢を依然注視してはいましたが,そのころの世界はどう見ても平和そのものであり,また平和な将来が見込まれていました。
ではいったいどんなできごとや情勢,また国々の態度や政策が,当時の世界の諸国家の大半を炎に包んだ大火,つまり大戦争を引き起こしたのでしょうか。
直接の原因となったのは,フランツ・フェルジナント大公の暗殺事件でした。しかし単なる一暗殺事件がどうしてそれほど広範に及ぶ結果を招いたのでしょうか。それは,その犠牲者が,オーストリア-ハンガリーの王位継承者と目される人物だったからです。暗殺の下手人ガブリロ・プリンツィプはセルビアの若い学生で,サラエボ市を行進中の同皇太子を射殺したのです。なんのために? このことは今だに多くの点でなぞに包まれたままです。しかしこの事件がきっかけとなって生じた一連のできごとのために,わずか数週間で全世界が戦争に巻き込まれてしまったのです。
オーストリア-ハンガリー政府はセルビア政府の責任を追求しました。ロシア・フランス・ドイツ・英国などの列強は,全ヨーロッパへの戦火の波及を阻止することができなかったか,あるいはそうすることを望みませんでした。それどころか,幾十年また幾世紀にわたって増大してきた潜在的な諸勢力は,そこに問題の突破口を見つけたようでした。その結果がほかならぬ世界大戦だったのです。では,恐るべきその戦争を起こしたそれら諸勢力とはなんでしたか。なかでも最も有力かつ重大な四つの事柄,つまり,からみ合う諸同盟・国家主義・帝国主義・軍国主義を検討し,おのおのが演じた役割を評価してみましょう。
からみ合う諸同盟
危険なことに,幾つもの同盟関係が結ばれたため,諸国家は対立する二大陣営に分かれていました。フランスは,1871年に終わった独仏戦争で敗北し,ドイツはフランスの報復行動を阻止させようとして,その孤立化を図るため,率先してそうした同盟の幾つかを結びました。こうしてまず最初にオーストリア-ハンガリーとの同盟,次いでイタリアを加えた三国同盟が成立し,これに加えて,ロシアとの同盟が結ばれ,取り残されたフランスは無力そのものに見えました。そうした同盟の条約本文はほとんど秘密扱いにされましたが,有事に際して相互援助を約束するものであることはよく知られていました。
ドイツにおける新指導者の登場も情勢を急速に変えました。ビスマルク首相は失脚し,今やウィルヘルム2世が皇帝となったのです。新皇帝はロシアとの友好関係を保たず,軍事力を誇示して英国を威かくしました。ドイツが海軍を増強して,有利な立場を確保する政策を取ったため,英国はフランスとの年来の敵対関係の再検討を迫られました。一方極東情勢,特に日露戦争は,ロシアに対する英国の悪感情を和らげました。こうして,ロシア・フランス・英国などの列強からなる,もう一つの陣営が形成されました。
したがって1914年当時,ヨーロッパ諸国の勢力関係は3対3で,まさに均衡が保たれていました。多くの人はそれを平和の最も強力な保証とみなしましたが,その後のできごとは,そうした考えの誤りを実証することになりました。
国家主義
1914年春当時と現代の世界地図とを比較検討すればわかるのですが,国々の境界線に関するかぎり世界は大変化を遂げました。それでは,1914年当時のヨーロッパ諸国の境界線に関する情況は大戦勃発をどのように助長するものでしたか。
まず注目すべきことに,当時存在していたオーストリア-ハンガリー帝国は,国家的な主権を認められないことを不満とする多数の民族を包含していました。バルカン半島の諸民族の中ではそうした不満が特に著しく,なかでもセルビアは領内のスラブ民族すべてを統治したいと考えていました。しかしオーストリア-ハンガリー帝国は,当時,スラブ人の住んでいるボスニアとヘルツェゴビナを併合したばかりでした。なんらかの形でスラブ民族の統一を図ろうとしていたロシアは,こうしてその希望をはばまれたため,セルビアを支持すべきであると考えました。
一方,西ヨーロッパには別の争いの種がありました。独仏戦争の終わりに,戦勝国ドイツは,それまでフランス領だったアルザスとロレーヌの2地区を奪ったのです。戦略上また経済上重要なそれらの地域を失ったことに対するフランスの恨みは,以来くすぶり続けていました。それに,ポーランドはスラブ人の住む領土の一部をドイツに奪われ,ロシア
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