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試みをして後の祝福された結果ものみの塔 1956 | 2月15日
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しらん。』― マラキ 3:16-18。
15 1931年以来,誰が残れる者たちに参加して,互に語り合いましたか? 残れる者は,どのように教われ,悪しき者はどのように示されますか?
15 ヱホバを恐れる残れる者たちは,たがいに語つて,かつヱホバの御名についての自分の考えを述べるため,定期的に集まりました。1931年以来の国々の中で,ヱホバの御名の偉大さを認め,そしてヱホバの御名に畏敬の念を持つた人々は,残れる者たちの集会に参加して,共にヱホバの御名に栄光を捧げています。万軍のヱホバは,全国民の中より取り選ばれた残れる者たちは,御自分に属する者と,云われています。(ペテロ前 2:9)善意者も又,什一を納める残れる者たちがヱホバに属していることを認め,そして,ヱホバの選んだ民として残れる者たちにかたくつき従います。それは,残れる者たちと共に将来の救を頂くためであります。彼らは又,次のことを知つています。すなわち,ヱホバは,ハルマゲドンの戦争を戦つて勝利を得られ,かくして御自分の宇宙的な至上権を立証される日に残れる者たちを救われると約束しておられることです。その戦争の時に,ヱホバは彼らを亡びから救われることを記憶しておられます。彼らはヱホバを恐れ,かつヱホバの倉に什一のすべてを納める故に,ヱホバの記憶の書に記録されているからです。父は,愛の気持から自分に仕える従順で恭謙な子を憐みます。丁度それと同じ憐みの気持ちをもつてヱホバは彼らを憐れみ,かつ彼らを救つてその戦争を生き残らせます。ヱホバを恐れる者が救われて,ヱホバを侮る者が亡びるとき,ふたたび,私たちは,真実に義しい者と悪しき者との区別,すなわち神のいましめに従つて神に真実の奉仕を捧げている者と,神に奉仕していない者との区別を見るでしよう。
16 善意者も,どのようにヱホバを試みますか? それで,どんな祝福された結果が得られますか?
16 二つの級のあいだに生ずるそのような区別を直視するとき全国民の中のすべての善意者は,いまや霊的な什一を携えて残れる者とともにヱホバの家に行く,べきでありましよう。そのとき,臆することなくヱホバの召に応じて,ヱホバを試みなさい。この試みをする時,あなた方は,現在において豊かな祝福と霊的な繁栄を頂きます。そして,残れる者とともに救われて,ハルマゲドンの戦争を生き残り,かくして霊的な繁栄だけでなく物質的な繁栄も地上に存在するヱホバの新しい世で,永遠の生命を楽しむことができます。
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その16 新しい名を持ちて神権的に伝道ものみの塔 1956 | 2月15日
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ヱホバの證者の近代歴史
その16 新しい名を持ちて神権的に伝道
1938年10月2日,イギリスから帰国した判事ルサフォードは再びニューヨークの土をふみ,7000名の聴衆のまえで,『ファシストそれとも自由』という題の講演を行いました。これは,機に適つた痛切なものでした。これは,まもなく冊子となつて,幾百万冊も配布され,切迫せる戦争によりファシストの狙つていた大流血につき人々を警告しています。翌年の夏,すなわち1939年の6月23-25日まで,もう一つの多都市大会が成功裡に開催されていますが,今回はニューヨーク市のマヂソン広場が中心会場と選ばれました。全部で28の都市 ― オーストラリヤの数都市,ロンドンを含むイギリスの10都市,ホノルルの1ヵ所,アメリカ合衆国内の数都市において,7万5000名に及ぶ国際的な聴衆は参集しました。大会は,ものみの塔協会の会長によつて話された最後の講演会,『政府と平和』のとき,その最高潮に達しました。この力強い講演が半ば進行していたとき,ニューヨークの中心会場で暴動が発生しました。この暴動は,バチカンからの指令におどるコウリン神父の『クリスチャン戦線』ダブリュー・エム・シー・エイ(放送局)の暴民たちによるものです。このため広場の案内者(全部,ヱホバの証者)は約15分間暴民と言いあらそつて,力ずくで500名のファシストの暴民を追い出さねばなりませんでした。やがて暴民は,『ヒトラー万歳』『フランコ万歳』などと,叫びながら,騒音をたて,やじり始めました。このとき,有線又は無線の通信設備により,世界の各地に居た人々は,暴動が実際に起きているのをきくことができました。広場にいた聴衆は拍手につぐ拍手を送つて,活潑な支援をし,講演者も,あくまでも冷静にマイクロホンに話しつづけ,ぶじに,この騒動をくぐりぬけました。このカトリック暴動の主謀者に対し,協会が法律上当然になした抗議には,何らの応答はありませんでした。しかしながら,1939年の秋になつて,ニューヨーク市の特別法廷の3名の判事(2名のローマ・カトリックと1名のユダヤ人)は,3名のヱホバの証者の無罪を言い渡しました。また広場に集つていた尨大なる聴衆が突然の困乱に見舞われ,しかも市の警官たちが秩序維持に全く失敗したとき,これら案内者(ヱホバの証者)が断乎として取つた自衛処置について,判事たちは賞讃の言葉をも辞しませんでした。これら3名の案内者は,力ずくで広場からカトリックの暴民を出したとき,それら数名の暴民によつて,起訴され,不当にも逮捕されていたものです。
もう一つの注目すべき出来事。イギリスのロンドンの地で,1939年6月24日,土曜日,アイ・アール・エイは協会のロンドン事務所に脅迫の電話を正式にかけてきました。(このアイ・アール・エイとは,アイルランド共和国軍隊の略で,すぐる数ヵ月のあいだ全イギリスに亘つて,爆弾襲撃運動をおこしていた,カトリックの暴動団体です)この団体は,もし協会が計画していた6月25日のルサフォードの海外講演を中止しないならば暴力行為に訴えるとおどかしました。この講演は,ニューヨークのマヂソン広場から中継され,ロンドン,ベルフアースト巡回区で聴く予定でした。通達されたスコットランドの地区警官隊は協会の大会会館をとりかこんで保護にあたりました。一つの爆弾は,ロンドン大会の土曜日の中心会場,キングスウエイ会館附近で爆発しました。ヱホバの証者は誰一人として怪我しませんでしたが,五,六名の通行人が死亡しました。大西洋の両側において,カトリック分子は暴力までも用いて,ヱホバの証者から崇拝の自由を奪いとろうとしていたのです。
この宏大な活動をとげた1929年から1939年までの奮闘期間に,何か顕著な制度の進歩は行われましたか? まことに,大きな進歩がありました。1931年(7月20日-30日)コロンボス(オハヨー州)の大会には,約1万5000名が出席して,決議を通過し,ヱホバの証者という新しい名前を採用しました。この名は,イザヤによつて記録された,ヱホバ御自身の言葉に基ずいた意味深いものです。(イザヤ 43:10-12)この喜ばしい通過により,この新しい名前は全世界にも伝えられました! 次につづいた数週のあいだ,全世界では50の大会が行われ,ヱホバの民は,喜んで,この新しい名を採用しました。たしかに,1931年以来この名前は全世界に知れわたつてきています。ヱホバの証者という祝福された名は,どんなに彼の民にふさわしいものであるかを事実はよく証明しています。彼らは,熱心にヱホバの御名の立証のために働き,全宇宙のうちで,その名の当然おかれるべき位置 ― 即ち,最高の位置にその名をおいています。ヱホバこそ,全宇宙での栄光に充ちた最高至上者ではありませんか?―詩篇 83:18。使行 3:19-23; 4:24-30。コリント前 15:28。黙示 11:15。ダニエル 7:13,14。イザヤ 9:6,7。
前記の『新しい名』の決議と大会でのルサフォードの講演は,『御国,世界の希望』という冊子におさめられて発行され,まもなく後に,多くの国語にも訳されました。翌月の10月に,凡ての権力筋へこの冊子を1冊づつ郵送する運動が行れました。合衆国やカナダだけでも,13万2066名に冊子が送られ,そのうち8万8009名が牧師,1万9103名が政治家,2万2869名が財界人,2085名が軍の指導者です。つづく月々には,さらに500万冊の冊子が全世界各地の家々に配布され,新しい名は揺がぬものとなつてきました。
約20年の徐々なる過程を経てのち初めて,1938年に会衆の統治体は,聖書に示されている神権的模範に全く従い協会は凡ての僕を直接任命するようになりました。これによつて,強固な統一された協会のもとに神権的な統合の下準備は整えられました。(1933年から1935年まで行われた)群(隊)の伝道から次のような経験をかち得ました。即ち,野外の証言運動の折,迫害や反対に対抗するため,会衆が近隣の会衆と一致団結するとき,すばらしい統一が見られ,驚くべき力が産み出されるということでした。そのため,1938年の10月ベウラの地の住民の神権制度内に,『地区』奉仕の開始と共に次の手段がこうぜられました。すなわち,地方地方で,約20の会衆が一つになつて『地区』を形成します。協会から任命された『地区の僕』は,各会衆と1週間づつを過し,各会をより良く組織し,野外証言の点で援助して行きます。時折,『地区大会』も開かれて,20又はそれ以上の会衆が一緒になり,相互の親和とか増進をはかりました。特別の僕が協会の本部から派遣されて,これらの大会に奉仕します。新しい制度の助言も発行され,1938年10月1日からヱホバの民のうちに有効となりました。
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