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第1部 ― 南アフリカおよび近隣の区域1977 エホバの証人の年鑑
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したがって,1929年,1935年および1942年に開拓者が南西アフリカへ行って多くの文書を配布したにもかかわらず,実際に区域を耕すことはなされなかったので,業の実はほとんど生み出されませんでした。しかし,1950年に南西アフリカにおける業の歴史に転換期が訪れました。その年,協会はギレアデ学校を卒業した4人の宣教者,すなわちジョージ・コエット,フレッド・ヘイハースト,ガス・エリクソンおよびロイ・ステフンズを送り,同年初めに宣教者の家がウィントフークに設けられたのです。
それら4人の兄弟たちは,文書を配布することだけでなく,主の「ほかの羊」を見いだして養うことにも力を注ぐことが求められていたにもかかわらず,彼らの配布は非常に良いものでした。(ヨハネ 10:16)それと同時に,宣教者たちは,南アフリカ連邦から近隣のアフリカ人居住地に移って来ていた5人のアフリカ人の兄弟と連絡を取ることができ,その兄弟たちを組織して会(会衆)を作りました。宣教者のひとりはまた,そのアフリカ人居住地で少なくとも25件の聖書研究を取り決めました。その区域での,特にアフリカ人の間での業はどう見ても,増加の見込まれる上々の出発をしました。
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第2部 ― 南アフリカおよび近隣の区域1977 エホバの証人の年鑑
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第2部 ― 南アフリカおよび近隣の区域
円滑な移行
それまでの25年間協会の会長として忠実かつ熱心に奉仕していたラザフォード兄弟は1941年の末までに重い病気にかかっていました。長年の間骨身を惜しまずエホバへの奉仕に携わってきた同兄弟は,その時72歳でした。1942年1月8日,彼は地上での王国の奉仕を死をもって閉じました。協会の理事会は2,3日以内にブルックリン・ベテルで会合を開き,ネイサン・H・ノアを新しい会長に選びました。ラザフォード兄弟の死後に示された野外の兄弟たちの反応はラッセル兄弟が亡くなった時の兄弟たちの感じ方とは大いに異なっていました。1942年には,「わたしたちはこれからどうしたらよいのか」という叫びは聞かれませんでした。むろん,ラザフォード兄弟が亡くなった時に真理の敵は歓喜し,「やつらの指導者かつ講演者がいなくなったからには,その業も間もなく崩壊するだろう」と言っていました。しかし彼らはその点に関してすぐに幻滅を感じました。
亡くなる少し前の1941年8月にラザフォード兄弟はアメリカ,ミズーリ州セント・ルイスの大会に出席しました。その大会の顕著な催しのひとつは「子供たちの日」で,「子供たち」と題する新しい書籍が発表されました。この際立った大会の特色をなすプログラムは,1942年4月に開かれたヨハネスバーグの大会で小規模に繰り返されました。その時の出席者は1,700名に上り,その中には新しい書籍を受け取って喜びにあふれた340名の子供たちが含まれていました。その大会で,それまでの最高数の2倍を上回る400名の人々が神のご意志を行なうために献身を象徴しました。大会組織は初めて簡易食堂を運営し,6,000食を供しました。それは大成功を収め,またそのおかげで出席者は十分に交わる時間を持てました。兄弟たち全員はたいへん元気づけられ,そう快な気分になり,深い幸福感を抱きながら家に帰りました。
その大会で特に励ましを受けたのは,開拓奉仕を始めて間もない大勢の若い開拓者たちでした。1942年,開拓者の数は南アフリカで65人に増えました。そのひとりにピエ・ウェントゼル兄弟がいました。彼はケープ州のボニーヴェイルという小さな町で真理の側に立ち,1941年の12月までにキンバリーで開拓奉仕を始めました。1945年,フランス・ミューラーが彼の仲間になりました。ミューラーは学校を卒業したばかりの16歳で,プレトリア会衆と交わって奉仕の面の良い訓練と経験をすでに相当積んでいました。そのふたりの若い兄弟たちはヨハネスバーグの南方約48㌔にあるヴェリーニギングという町に割り当てられました。ふたりは一生懸命働き,一方の兄弟はその年に月平均210時間奉仕しました。
反対者たちが悲観的な予言をしたにもかかわらず,1942年に,ラザフォード兄弟が亡くなった後も,王国の業は低下しませんでした。それどころか以前より速い速度で拡大したので,同奉仕年度末にジョージ・フィリップスは前年度の最高数の26%増加に当たる1,582名という伝道者新最高数を報告することができました。1931年当時100名ほどに過ぎなかった小さな群れとはたいへんな相違ではありませんか。
兄弟たちのしもべ
協会の新しい会長ノア兄弟は業の進歩を指導しましたが,初めて行なわれるようになった新しい事柄の中に兄弟たちのしもべの業がありました。南アフリカではその業は1943年2月に始まりました。(地帯の業は1942年に停止されていました。)兄弟たちのしもべは独身の男子でなければならず,忙しいスケジュールについて行くため非常に強健でなければなりませんでした。最初小さな土地は1日だけの訪問を受け,比較的大きな会衆は2,3日間の訪問を受けました。そのためには難しい条件の下で長い旅行をし,昼夜を問わずとんでもない時間に汽車やバスに乗らねばなりませんでした。その業の内容は会衆の記録を注意深く調べることばかりでなく,主
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