台湾省における王国のわざの浄化と再建
これは,台湾省における現代のエホバの証人の活動を紹介する一連の記事の最終回です。1928年から1950年代の半ばにかけて続いた初期の迫害にもかかわらず,エホバの証人の組織に対する政府の認可はついにおり,1961年8月までには,それまでの最高数に当る,2,459人という伝道者数が報告されました。話の続きを始めるその当時はまだ,ポール・ジョンストンが支部の監督として奉仕していました。この報告の全ては,最初,「1972年度エホバの証人の年鑑」に英語で掲載されました。
王国宣教学校で聖書の原則を学んで勇気づけられたエホバの証人の兄弟たちは,台湾省のエホバの証人の組織内で違反行為があることを話しはじめました。責任を持つ兄弟たちでさえ,不正や,えこひいきや,不道徳な行為をしたり,神権組織に忠節でないとの非難を受けました。そして,残念ながら,そうした非難の中には真実なものもありました。ある人たちは排斥されなければならず,またある人たちは監督の立場や特別開拓者という全時間奉仕からおろされ,さらに他の人たちは懲戒を受けました。排斥された人の中には,ものみの塔協会に公然と反逆し,他の兄弟たちをも神の組織から引き離すために,多くの会衆の兄弟に対して自分たちの影響力を利用しはじめました。組織から追放された反対者たちは,政府のいろいろな部門にいて,エホバの証人の組織を告発することまでしました。また,協会が任命した巡回する監督者の訪問を拒否するよう会衆に勧めました。さらに,その調査中,多くの人が,霊的な資格を持っているからではなく,推薦者の親せきとか知り合いということで推薦を受け,特別開拓者や会衆の監督に任命されていたことが明らかになりました。
協会は,日本語が話せて,兄弟姉妹たちの多くと直接語り合うことのできる人を台湾省に派遣することを決めました。宣教者として日本で7年間奉仕をしていたローガン兄弟と姉妹が選ばれ,1961年の暮れに台湾省に到着しました。2か月間北京官話を学んだあと,ローガン兄弟は支部事務所で1週間開かれた巡回の監督のための特別集会に出席しました。兄弟はその時,東海岸で奉仕する,阿美<アミ>族の巡回の監督たちと働くよう割り当てられました。彼は,質のよい働きをするようそれら巡回の監督を訓練し,同時に会衆の監督たちがもっと資格にかなった者となるよう助けることに努めました。やがて,ローガン兄弟は,監督たちが中国語による質問に答えられないのはことばがよくわからないためばかりではないことに気づきました。監督の多くは,聖書の基礎的な教理の理解に乏しかったのです。それでその点が考慮され,兄弟たちの聖書教育の水準を上げる措置が取られました。
その目的のために,巡回大会が半年ごとに組織されるようになりました。大会を組織する兄弟たちは数日前に大会開催地に来て,昼間の時間を大会のあらゆる準備に当てました。夜はローガン兄弟がそれらの兄弟と,聖書の原則や組織に関する事がらを討議しました。このようにして,その兄弟たちの多くは自分の会衆の兄弟たちに同じ有益な知識を伝える資格を持つようになりました。阿美<アミ>族と生活する最初の女性宣教者であるローガン姉妹は,日本語が話せましたし,中国語も学んでいましたから,やはり多忙でした。ローガン姉妹は毎朝野外奉仕に姉妹たちを伴い,午後は彼女たちと,「御国の良いたより」と題する小冊子のような基礎的な資料を研究しました。こうして,宣教者たちと伝道者たちの間に強い愛のきずなができてゆきました。
基礎的な教理と組織の取り決めの面で会衆の監督たちを助ける目的で,ローガン兄弟の司会による会衆の監督全員のための1週間にわたる研修課程が設けられました。会衆の書籍研究と他の集会を阿美<アミ>語で司会する練習の集会も開かれました。この教育運動は進歩をもたらしましたが,伝道者の数は減少しました。どうしてでしょうか。伝道のわざに参加するよう招待できる段階に達してさえいない人のいることがわかったからです。その時点で強調されるべきことは質であって量ではありませんでした。
1963年,ジョンストン兄弟は家族に対する責任のために全時間奉仕を止めることになり,ローガン兄弟が支部の監督に任命されました。それからほどなくして,8月に,「世界一周」大会が開かれました。当時伝道者の合計は1,200人以下に低下していました。その大会は,ものみの塔協会の名前で開かれ,清い崇拝の前進にとって大きな里程標となりました。535人の外国の代表者たちは非常な注意を引きました。その大会には警官や保安官が立ち合っていましたが,彼らがそこで見聞きしたことに深い感銘を受けたのは明らかです。というのは,その後大会の開催許可を得ることが目立って容易になったからです。その大会で見られた愛の精神は,それまでの台湾におけるいくつかの大会とは著しい対照をなしていました。いろいろな部門で奉仕する自発的な奉仕者に対してだれも威張るようなことはしませんでした。大会を物質的に支持することをも含め,すべては全く自発的に行なわれました。
そして,土地の兄弟たちにとって世界中から来た仲間の伝道者に会うことはなんという喜びだったことでしょう。黒人の代表者たちはたいへん人気がありました。色彩豊かな着物を着た日本の姉妹たちも喜ばれました。土地の兄弟で日本語を話せる人たちは,日本からの訪問者と親しく交わるすばらしい機会を得ました。
1964年,支部の監督は阿美<アミ>族の巡回監督といっしょに,特別開拓者が任命されている11の地域を15日間にわたって訪問し,彼らといっしょに野外奉仕をしました。それによって,特別開拓奉仕の資格にかなっている人とかなっていない人がすぐにわかりました。そのために変更が加えられ,ある人は特別の訓練課程を受け,ある人はその奉仕から降ろされました。特別開拓奉仕から除外された人の多くは全く不活発になり,エホバを愛するからではなく,毎月特別開拓者に支給される手当てがほしいために奉仕している人がいるという非難の正しかったことがわかりました。特別開拓奉仕は今や良い堅固な足場の上に据えられました。
会衆では,訓練された監督たちが知識の不足している人や,他のクリスチャンの資格にかなっていない人を徐々に伝道者の立場からおろしました。それで1967年には,台湾省の伝道者の総数は1953年以来最底の1,004人に減少しました。しかし,神のみ名を真に愛する人々の口びるから,質のずっと向上した賛美の犠牲がエホバにささげられていたことを考えれば,そうした伝道者の減少のためにわたしたちが落胆することはありませんでした。1970奉仕年度に63人がバプテスマを受け,1971奉仕年度にもさらに63人がバプテスマを受けました。それはほんとうに喜ばしいことでした。なぜなら,それらの人はみな,バプテスマを希望した時に,資格があるかどうかを注意深く検討され,真にエホバ神に献身しているものとみなされていたからです。
1971年5月までには,兄弟たちは王国宣教学校から十分に益を得るほどに進歩したと考えられました。最初のクラスは北京官話で支部で行なわれました。その後のクラスは,阿美<アミ>族の区域の便利な所で開かれました。会衆内の状態がこのように改善された結果,兄弟たちの態度がそれに応じてめきめき変化しました。今では,ほとんど全部の兄弟たちが,大会の時や協会の代表が特別に訪問する時には,それがたとえ収穫の時にあたっていても農作業や他の仕事を自分から休んで,話を聞きに来ます。
ノア兄弟は1968年に訪問した時,台北にもっと大きな王国会館を建てることと,協会の敷地に宣教者の家を増築することを許可しました。それでその場に出席していた205人は喜びました。しかし,当地の建築規定によると,古い建物をこわして,全く新しいものを建てなければならないということでした。美しい王国会館と九つの宣教者の寝室,それに支部事務所関係の部屋と発送部門からなる,2階建てのりっぱな建物がわずか9か月で完成しました。1969年10月には165名の人が集まって,ほんとうに喜ばしい献堂の催しが行なわれました。
その後まもなく,台湾省における2度めの国際大会が台北の国立芸術アカデミー講堂で開かれました。プログラムは中国語だけで行なわれたので,全国の兄弟の約6割は理解できなかったにもかかわらず,仲間の兄弟たちと交わるためだけに,500名以上の兄弟が貸切りバスで出席しました。ことばが全然わからない人たちでも,いたる所に見られる愛と一致を理解することができました。その後阿美<アミ>語の大会が池上<ツーサン>で開かれ,1,400名を上回る人々が出席しました。
1971年という有利な地点から台湾省の伝道活動の畑をながめると,はっきり区別できるものがふたつあることがわかります。阿美<アミ>族を含む部族民つまり土着民が約150万人います。あちこちに広く散在する山岳地域は,およそ950人の伝道者がいます。その人たちにとって,1時間伝道するのに2時間歩くということは珍しくありません。文盲の問題はたいへん改善されましたが,それでもまだ愛のある教育を必要とする人が少なくありません。この謙そんな人々には確かにすばらしい可能性があります。その中には,非常に不利な条件の下でエホバに忠実に仕えてきた人がたくさんいます。
もう一方の畑は中国語を話す人口で,中国大陸から移って来た何百万の人々のほかに,台湾省生まれの中国人がほぼ1,200万人ぐらいいます。そのうちの900万人は現在エホバの証人が王国を宣べ伝えるわざを行なっていない区域に住んでおり,その区域には,それぞれ200,000以上の人口を擁する都市が少なくとも五つあります。中国語が話される地区には,ひとりの巡回監督奉仕者が受け持つ巡回区に150人の伝道者がいます。宣教者たちは先頭に立って,中国語を話す人々のあいだでのわざを行なってきました。実際,協会は,1956から1959年にかけて合計50名の宣教者を台湾省に派遣しました。そのうちの39人は数年間にわたる宣教奉仕から退かねばなりませんでした。しかし,幾組かの夫婦が台湾省にとどまることを決めて,ひきつづき王国のわざの発展に寄与しており,宣教者の立場に復帰している人が少なくないことは特筆すべきことです。協会が当地の兄弟たちの福祉を気づかっていることは,1971年にギレアデの第50回卒業生8名とフィリピンから6人の宣教者が台湾省の支部の区域に割当てられたという事実からわかります。またうれしいことに,ギレアデ第51回生9名の査証も降り,一行は卒業式のすぐあと,1971年9月7日に台湾省に向けてニューヨークを出発しました。
中国人のあいだで働く宣教者や開拓者,また会衆の伝道者の努力はすばらしい結果を生みました。たとえば,台湾省全体では1,150名の伝道者が報告されていますが,その伝道者たちは20,622冊の本と小冊子を配布し,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の新予約を3,546得ました。そのほかに個々の雑誌を103,069冊配布しています。毎週行なわれる家庭聖書研究について言えば,761件が司会されており,1971年に野外奉仕で費された時間は207,135時間でした。
1971年4月9日に開かれた主の記念式に3,068人が出席し,そのうちの多くはあらゆる人種の中でも一番遅れた部類の人々であったのはわたしたち全員にとってほんとうにうれしいことでした。地の果てにあるこの「うるわしい島」には,一層の増加を期待することのできるなんとすばらしい可能性があるのでしょう。