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目ざめよ! 1971
目71 11/8 24–26ページ

「神のお名前」地域大会にかんする報告

2年ほど前の1969年10月14日から19日まで東京後楽園競輪場で「地に平和」国際大会が開かれたさい,公開講演に1万2,614名が出席しました。この出席者数には沖縄,アメリカ,ハワイその他の外国からの1,000人近い代表者が含まれていました。1971年8月4日から8日にわたって同じ競輪場で開かれた「神のお名前」地域大会には,海外からは少数の代表者が出席する予定でしたから,いったいどれほどの人々が出席するだろうかと思いめぐらしたものです。

会場の四つの大きなスタンドが聴衆でぎっしり埋めつくされるのを見て,たしかに大群衆が「神のお名前」に関心を持っていることは開会初日から明らかでした。そして,先回の公開講演の出席者数を874名上回る,1万3,488名が大会第1日の集まりに出席したとの発表を聞いて,出席者全員感激しました。出席者数には連日ほとんど変化がありませんでしたから,出席者はたしかに大会全部に出席するために来たことがわかります。土曜日の晩までに,出席者は,日本の7月の伝道者最高数の1万1,606人をちょうど2,600人上回る1万4,206名に増加しました。これほど多くの新しいかたがたが出席したことを知るのはなんと大きな喜びでしょう。ほんの一例を上げれば,4年ほど前,宣教者が遠い四国の松山市におけるわざを励ますためにおもむきました。当時,松山市には王国奉仕者がわずか8人しかいませんでしたが,今や同市から神のお名前大会に80人の代表が出席しました。また当然のことながら,日曜日の公開講演にさいして,出席者数は1年10か月前の国際大会の出席者数を31%上回る1万6,508名の最高数に達しました。そのうち1万5,507人がとどまって閉会のことばを聞きました。

「神のお名前」大会は多くの点でエホバの祝福を受けました。日本の兄弟姉妹たちは準備をしたり,衣装を整えたり,実際に演じたりする点ですぐれた能力を発揮しますが,他の数々の話と同様,それら劇や実演はすべて実にみごとに行なわれました。大会初日の晩,「神権宣教学校案内書」と題する新しい本が英語と日本語の両方で発表され,出席者は大いに驚かされました。そして,場内に用意された1万1,500冊ものその新しい本はたちまちみななくなってしまいました。金曜日の朝,9,585人が出席してバプテスマに関する話を聞きましたが,これも忘れられないプログラムの一つでした。ふたつの大きな水漕が競技場の芝生のわきにすえられ,277人の新しい兄弟と602人の新しい姉妹,合計879人がそこで浸礼を受けました。これは日本におけるこれまでの最も大規模な浸礼式であり,幾千人もの出席者の見守る中でバプテスマが施されました。この結果,昨奉仕年度中にバプテスマを受けた人は合計2,088名となり,日本で1年に2,000人以上の人々がバプテスマを受けた連続2度目の年を記録しました。

日本にいる英語を話す少数の伝道者の群れのための取り決めも忘れずに設けられました。スタンドの一区画におよそ100個のイヤホーンが取り付けられ,日本語を理解できない人々は,屋外で行なわれる話や劇,実演などを見ながら,そのプログラムの英語の同時通訳を聞くことができました。手製の造花6,000本で作った海に囲まれたまるい演壇は,競技場の四つのスタンドから何ものにもさえぎられずにながめることができました。しかも話し手は,プログラムが変わるごとに,別の方向のスタンドに向かって話しました。

組立て式の演壇の作製を含め,大会前の大工作業は,東京から120㌔離れた沼津にある協会の広い敷地で行なわれました。そして大会の3日前,演壇と簡易食堂用のテーブル600台が16㌧のトレーラーで一度に後楽園に運ばれました。しかしほどなくして,さらに大規模な建設工事が沼津で開始されることになっていたのです。東京における「神のお名前」大会のちょうど2週間前,ものみの塔協会の会長N・H・ノアが来日し,日本における今後のわざの発展に対処するため5階建てのベテル・ホームと工場を建設する取りきめを設けました。大会出席者は王国の関心事のこうした今後の発展にわたしたちみんながどのようにあずかれるかを説明した,大会の閉会のことばに非常な関心をもって耳を傾けました。

大会前の週中はたいへんむし暑く,気温は35度にまで上りました。大会出席者はそうした暑さにどのように耐えるでしょうか。ところが,大会の2日前,おりからの台風19号がはるか九州の南岸沖合に現われたのです。南日本からの大会出席者がすべて上京したのち,台風19号は南日本を縦断して荒れ狂い,70名もの死者を出しました。これは第二次大戦以来,日本を襲った最大勢力の台風と評されています。その後,台風は向きを北東に変えて東京の方角に向かいましたが,荒れ狂いながら日本海に抜けました。東京から約110㌔離れた所で世界ジャンボリーに出席していた2万人余のボーイスカウトは,テントを吹き飛ばされ,水びたしに会い,近くの町々に避難しなければなりませんでした。しかし,東京後楽園では,あるプログラムの最中激しいにわか雨に一度見まわれはしましたが,台風の余波のここちよいさわやかな風を受けただけで,木曜日から土曜日にかけての天候は屋外にとってたいへん気持ちのよいものでした。日曜日にはふたたび暑さがぶりかえしたものの,スモッグの多い東京にはたいへん珍しい澄んだ青空が見えました。

この大会で提供された霊的な食物は最上のものでしたが,物質面の食物も同様にすばらしいものでした。普通の食堂であれば五,六倍も高くつくようなすぐれた朝食や昼食が,それぞれ100円と150円で支給されたことは,外部の人々を驚かせました。食事代がそれほど安くてもまかなえたのは,食事はすべて自発的な奉仕者によって準備され,しかも簡易食堂は営利目的ではなく,大会の5日間,良い力となる食事を出席者に支給する目的で運営されたためです。出席者はみなそうしたすばらしい食事をどれほど楽しんだことでしょう。この大会のなんと開会当日の晩,日本の大会の簡易食堂で初めて1万食を越える食事が支給されました。その後は,大会の一区切りのプログラムが終わるごとにほとんどすべての聴衆が自動的に立ちあがり,簡易食堂に向かってゆっくりと進む七つの,人々の列(たいてい近くにあった)にそれぞれ加わりました。ならんで長く待つことはありませんでした。万事がたいへんよく組織され,自発奉仕者は率先して働きました。1万1,000食余の食事が支給されたことが3度ありましたが,そのすべてはおよそ1時間半以内で支給されたのです。50万枚もの招待ビラを用いた広範な宣伝により,多数の正直な心の持ち主が出席し,大会最終日の出席者数は1万6,508名に達したにもかかわらず,このすばらしい大会は世間一般の人々からほとんど注目されませんでした。かえって人々は広島原爆記念集会に深い関心を寄せました。しかしその集まりは台風のためほとんど失敗に帰したばかりか,原爆記念というよりはむしろ政治的な激しい争いの場と化しました。それは8月6日のことでしたが,ついで,大会の終わった翌日,8月9日の長崎被爆記念集会もまたしても政治的対立の矢面に立たされました。人々はそれら2か所で平和について語りはしましたが,8月の初旬,真の喜びと平和のうちに人々が生活したのは,日本全土で東京後楽園競輪場だけでした。しかも,それらの人々,つまりエホバのクリスチャン証人はたしかに,神の王国がまもなく全地にもたらそうとしている永遠の喜びと平和を確信を持って待ち望んでいるのです。一群の自発奉仕者が大会の前後に競技場をちり一つなく清掃したので,競輪場の責任者は,「みなさんにもっとたびたび来ていただきたいと思います。競輪場がほんとうにきれいになるのは,みなさんに来ていただく時だけですからね」と述べました。それにしても,エホバの取り決めに従って,全地が一点の汚れもなく清められ,精神的,道徳的,また霊的にも清められるとき,なんという喜びを味わえるのでしょう。確かに「神のお名前」大会は,愛のある一致した清い人類社会が全地でエホバの輝かしいお名前を,しかも永遠にほめたたえる,そのすばらしい時代がどんなものか前もって味わわせてくれました。

公開講演で指摘されたとおり,諸国民すべてが神と正面衝突する時は間近です。日本のエホバの証人は,今日の世の体制が滅亡する前の残された短い期間に,地上で平和と義を切望する謙そんな人すべてが神のことばである聖書を学び,生き残って永遠の命を得る道を見いだすよう助けたいと決意しています。

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