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命の道を照らす詩篇の光ものみの塔 1962 | 12月1日
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よ起き給へ,ねがはくは勝を人にえしめたまふなかれ。エホバよ願くはかれらにおそれをおこさしめ給へ,もろもろの国民におのれただ人なることを知らしめたまへ」。「かれらの面に恥をみたしめ給へ,エホバよ然らば彼等なんぢの御名をもとめん。さればかれらはエホバてふ名をもち給ふ汝のみ全地をしろしめす至上者なることを知るべし」。―9:19,20; 83:16,18。
エホバが,ご自分の主権を立証される手段が御国であることは,聖書の他の部分と同じく詩篇の中でも強調されているもう一つの教えです。事実,「御国の詩」ともいうべきいくつかの詩があります。それらの詩の主題は神の御国の支配です。―2,45,72,96,97,99,110篇。
また,詩篇の中には,死んだ人間は無意識であるという聖書の基礎的な教理があります。「エホバよ…わがたましひを救ひたまへ,…そは死にありては汝をおもひいづることなし,陰府にありてはたれかなんぢに感謝せん」。「死人も幽寂ところに下れるものもヤハをほめたたふることなし」。「人の子によりたのむなかれ,彼等に助あることなしその気息いでゆけばかれ土にかへる,その日かれがもろもろのくはだてはほろびん」。―6:4,5。115:17。146:3,4。
詩篇はまた,人間にあがないが必要であることを私たちに教えます。「おのが富をたのみ財おほきを誇るものたれ一人おのが兄弟をあがなふことあたはずこれがためにあがなひしろを神にささげ…ることあたはず」。適切にも詩篇記者は質問します,「たれかいきて死をみずまたおのがたましひを陰府より救ひたるものあらんや」。―49:6,7。89:48。
しかし,神があがないを備えられたので,死者がショール(墓)から戻り,また復活させられるという希望があります。詩篇が示すその希望は,イエス・キリストだけに限られているわけではありません。「汝わがたましひを陰府にすておきたまはず」。「神…わがたましひをあがないて陰府のちからより脱れしめたまはん」。「エホバよ汝わがたましひを陰府よりあげ」。「わがたましひを陰府のふかき処よりたすけいだし給へり」。―16:10。49:15。30:3。86:13。
行いに関する戒め
霊感によって書かれた詩篇は,戒めにより,最も実際的な方法で命の道を照らしています。そして被造物から注意を引き離して創造主に向けているのは正しいことです。またいく回となく,エホバ神を,あがめよ,ほめたたえよ,賛美せよ,感謝せよとすすめています。詩篇 150篇の中だけでも,エホバをほめたたえよという命令が13回も出てきます。「エホバをほめたたへよ,われらの神をほめうたふは善きことなり楽しきことなり,称へまつるはよろしきに適へり」。なぜですか。なぜなら「エホバは恵ふかくなさけみち,また怒り給ふこと遅く」大いなるあわれみをもっておられるからです。また「その大能のはたらき」のゆえに,エホバをたたえるのはよろしきにかなっています。―147:1; 145:8; 150:2。
詩篇はまた,いたるところで私たちにエホバによりたのみなさいと教えています。「いかなる時にも神によりたのめ」。エホバは「地と海とのもろもろの極なるきはめて遠きもののたのみ」ではありませんか。ですから「エホバを畏るる者よエホバに依頼め」。「エホバに依頼むは人にたよるよりも勝りてよし」。62:8; 65:5; 115:11; 118:8。
詩篇は賢明にも,私たちが神の律法と,神の御言葉の他の部分とに心を用いなければならないことを示しています。「エホバの法をよろこびて日も夜もこれをおもふ」者は「さひはひなり」。「我なんぢの凡てのみわざをおもひいで汝のなしたまへることを深くおもはん」。「われなんぢの法をいつくしむこといかばかりぞや,われ終日これを深くおもふ」。―1:1,2; 77:12; 119:97。
詩篇には,直接的にか間接的にか,あるいは明白なものか暗示的なそのような戒めがあるので,日常の行いに関する賢明な戒めに満たされていることが見のがされがちです。たとえば,その記述者たちは「悪い交わりは,良いならわしをそこなう」ことをよくわきまえていたことをしばしば示しています。(コリント前 15:33,新口)「悪をなすもののつどひをにくみ悪者とともにすわることをせじ」。「悪にしづめものを見ていとひかろしめ…」。「悪しきをなすものよ我を離れされ,われわが神のいましめを守らん」。―26:5; 15:4; 101:5; 119:115。
詩篇はまた,悪人が栄えているのを見て,私たちがどんな態度を取るべきかにつき,賢明な助言を与えて命の道を照らしています。「なんぢら慎みをののきて罪ををかすなかれ,臥床にて己が心にかたりて黙せ。なんぢら義のそなへものをささげてエホバに依頼め」。「悪をなすものの故をもて心をなやめ,不義をおこなふ者にむかひてねたみをおこすなかれ。そは悪をおこなふものは断ち滅され,エホバをまち望むものは国をつぐべければなり」。―4:4,5; 37:1,9。
詩篇はさらに,神がなにを是認されるか,何を是認されないかを示して,人々を啓発します「エホバよなんぢの帷幄のうちにやどらん者はたれぞ。直くあゆみ義をおこなひ,そのこころに真実をいふものぞその人なる。かかる人は舌をもてそしらず,その友をそこなはず,またその隣をはぢしむる言をあげもちいず,貨をかして過ぎたる利をむさぼらず…」。(15:1-3,5)「なんぢの舌をおさへて悪につかしめず,なんぢの口唇をおさへて虚偽をいはざらしめよ。悪をはなれて善をおこなひやはらぎをもとめて切にこのことを勉めよ」。「エホバをいつくしむものよ悪をにくめ」。―34:13,14; 97:10。
私たちの道はさらに,詩篇記者たちが祈り求めるものによって照らされています。「たれかおのれの過失をしりえんや,ねがはくは我をかくれたるとがより解放ちたまへ。願くはなんぢの僕をひきとめて故意なる罪ををかさしめずそれをわが主たらしめ給ふなかれ,さればわれをきずなきものとなりて大なるとがをまぬかるるえん。エホバわが磐わがあがなひ主よ,わがくちの言わがこころの思念なんぢのまへに悦ばるることを得しめたまへ」。(19:12-14)「エホバよわが心おごらずわが目たかぶらず」。「エホバよねがはくはわが口に門守をおきて,わがくちびるの戸をまもり給へ。義者われをうつとも我はこれをいつくしみとし,その我をせむるを頭のあぶらとせん,わが頭はこれをいなまず」。―131:1; 141:3,5。
たしかにいまは,命の道のための霊的光を必要としています。詩篇の中には,聖書の他の本と同じく,その光があります。それは詩篇が,エホバ神を賛美する多くの歌およびエホバにより頼む言葉に加えて,歴史と,多くの預言と,正しい教理と,すぐれた戒めを含んでいるからです。「神をほめうたへ,頌め歌へわれらの王をほめうたへ,かみは地にあまねく王なればなり,教訓のうたをうたひてほめよ」。―47:6,7。
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キリスト教と安楽な宗教ものみの塔 1962 | 12月1日
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キリスト教と安楽な宗教
フランク・エス・モーリー牧師は,1961年1月28日付「ザ・ビクトリア・コロニスト」に寄稿して,今日の牧師たちを,英雄的とも言える第1世紀のクリスチャンたちとくらべて,その弱々しさについて歎いた。彼は次のように述べた。「先日一宗教雑誌に目を通している時,空席の教会に牧師を招く広告を見つけました。あるものは,『牧師館,石油ストーブ,舗装道路,モダンな学校が完備』している事を誇り,他のものは,『教会はきれいで,牧師用住宅は立派,大学まで車で10分』となっていました。さらに,『設備の良い牧師住宅」「快的な牧師住宅,れんが造り,石油ストーブ付き』『新設の車庫,石油ストーブ付の気持ち良い牧師館,公立学校に近し』といったような言葉がたくさんありました」。
モーリーは,パウロがマケドニヤに来るようにとの招きを受けたときに,「今日の彼の後継者たちが気にしているような事は少しも心配せず,バルナバを得て,『ただちにマケドニヤにおもむかんと』」した事を思い出した。(使行 16:10)実に彼らは,暴徒,むちうち,投獄,盗難などの幾多の困難に耐え忍び,なお,ゆだねられた奉仕の仕事を心から喜んだのである。1世紀のクリスチャンにくらべて今日の牧師たちの違いはなんと大きいのだろう!
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