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  • エホバのみ名を軽んじないように慎みなさい
    ものみの塔 1964 | 12月15日
    • 人と共にダビデの家に忠実でした。また10の支族の中からも,エホバをおそれ敬った大ぜいの人々が,エホバの崇拝とエホバの選ばれた王統に忠実を保とうとしてユダの領地に来ました。―歴代下 11:13-17。

      ヤラベアムはなぜエホバに反逆したのですか。

      エホバはヤラベアム王に対し,もし王がダビデのしたようにエホバの崇拝を守るならば,10の支族を治める国は永遠にヤラベアムの家に留まることを約束されました。ところがヤラベアムはレハベアムに似て,エホバのことばとみ名を尊重しなかったのです。むしろユダの領地エルサレムの町にあるエホバの家で常に崇拝するならば,民は遂にダビデの王統の国に戻ってしまうのではないかと,恐れました。そこでダビデの王統から離れた以上,ダビデの神の崇拝をもやめるにしかずと考えたヤラベアムは,エホバに敵対して黄金の牛の崇拝を始めました。

      ヤラベアムはイスラエルにどんな崇拝を始めましたか。

      これはバビロン的な偽りの崇拝です。古代バビロンにおいて,牛はあらしの神ハダドの象徴でした。それにもかかわらずヤラベアムは黄金の子牛をイスラエルの神の象徴にし,イスラエル人の便宜をはかると共に彼らがエルサレムに上るのを防ぐため,ダンとベテルの2カ所に祭壇を築きました。エルサレムはベテルの北およそ24キロのところにあります。―列王上 12:1-33。

      イスラエル王国はエヒウ王の時までに,政治的,宗教的にどんな変遷を遂げましたか。

      北の王国の都は最初シケムにおかれ,ついでテルザに,最後にサマリヤに移されました。以来サマリヤはイスラエルの国が滅びるまでその都となっています。サマリヤの建設者の子アハブ王はバアル崇拝者を妻にし,バアルの宮と祭壇をサマリヤに築いて事態を更に悪化させました。約30年後にイスラエルのエヒウ王は,エホバに敵対する汚れたバアル崇拝をイスラエルから根絶しましたが,小牛崇拝はその後もつづけられました。―列王上 15:21,33; 16:15-18。列王下 9:1–10:31。

      偽りの崇拝は没落を招く

      メナヘムおよびペカの治世下のイスラエル王国は,アッシリアから何をこうむりましたか。

      小牛を崇拝したイスラエルの歴史は苦難にみちています。王はしばしば変り,そのうちにアッシリアが世界強国として興隆してきました。アッシリアの王プル(テグラテピレセル3世)はメナヘムの治世中イスラエルに侵入しましたが,メナヘムから2代目のペカ王の時代にはイスラエルから多くの土地を奪い,多くのイスラエル人をアッシリアに連れ去りました。サマリヤの最後の王となったのは,ペカを殺したホセアです。―列王下 15:17-30; 17:1,2。

      イスラエル王国に対するエホバの裁きが何時そしてどのように執行されたかを述べなさい。

      神を汚したイスラエルの諸王に対するエホバの忍耐も遂にきれて,エホバはアッシリアのシャルマネセルがイスラエルを侵略し,ホセア王を進貢者にするのを許しました。ホセアがエジプトに手紙を送って援助を求めたため,アッシリア王はサマリヤを滅ぼそうと攻め寄せてきました。堅固な城壁に囲まれたサマリヤは3年間持ちこたえましたが,遂に紀元前740年に陥落します。町を陥落させたサラゴン2世の記録によれば,サマリヤの町の人々2万7290人が捕虜となって連れ去られ,バビロンその他の土地の人々がサマリヤに来て住みました。―列王下 17:3-24。

      アッシリアはなぜ罰せられましたか。

      エホバは,み名を尊ばなかったご自身の民に怒りを表わされましたが,神の民を攻め,神のみ名を憎み,軽んじた者たちにも敵し,時を経てアッシリヤを罰しました。

      エホバは,アッシリアに関してユダにどんな警告を与えましたか。とくにだれを用いましたか。

      しかしダビデの家系の王が支配した南のエルサレムの王国はどうでしたか。エルサレムの11代目の王ウジヤすなわちアザリヤの時代に,アッシリヤは北のイスラエルの国に侵入し始めました。エホバはユダの国に警告を与え,エルサレムの敵に対抗するためにアッシリアと同盟してその助けを求めてはならないと告げました。アモツの子イザヤは,ウジヤの時代からヒゼキヤの時代にかけて預言し,アッシリアとアッシリア人のことを44回述べています。アッシリアについてこれほど多く述べた聖書の預言者はほかにはありません。―列王下 15:17-19。イザヤ 1:1。

      アハズ王は,イザヤの告げたエホバのことばにどう応じましたか。霊感を受けたイザヤはどんなしるしを預言しましたか。また更に何を警告しましたか。

      この警告にもかかわらず,ヒゼキヤの父ユダのアムズ王は,イスラエルの王ペカとシリアの王の術策に対抗するため,アッシリアの王と同盟しました。これを警告したイザヤは,メシアの処女降誕を預言した次のことばを述べています。

      「この故に主みづから一のしるしをなんぢらに賜ふべし。視よおとめ孕みて子をうまん,その名をインマヌエル〔神われらと共にいます〕と称ふべし……その子いまだ悪をすて善をえらぶことを知らざるさきに汝が忌みきらふ〔イスラエルとシリヤの〕両の王の地はすてらるべし エホバはエフライムがユダを離れし時よりこのかた臨みしことなき日をなんぢとなんぢの民となんぢの父の家とにのぞませ給はん是アッスリヤの王なり」― イザヤ 7:14-17,文語。

      ユダの本当の脅威がアッシリアであることは,何によって明白となりましたか。サラゴン王に対するどんな預言が更に成就しようとしていましたか。

      従って真の脅威は第2の世界強国アッシリアです。(イザヤ 7:18-20; 8:7-8)ヒゼキヤの第6年目にサマリヤは当時サラゴン2世の治下にあって最盛期を迎えたアッシリアの手に落ちました。イザヤは,サラゴンがエジプトとエチオピヤを征服し,多くの捕虜を連れ去ることを預言しました。世俗の歴史によれば,サラゴン2世は以前の世界強国エジプトから貢をとりたてています。―列王下 18:9-12。イザヤ 20:1-6。

      アッシリアは,進貢国バビロンとの間にどんな問題をかかえていましたか。

      当時までバビロンはアッシリアの属国でしたが,サラゴン2世の時代にメロダク・バラダンという名のカルデヤ人がバビロンの王を名乗りました。サラゴンは彼を徹底的に敗北させることができず,何年もたってからようやくメロダク・バラダンを追放して自らバビロン王となりました。サラゴンの子セナケリブがサラゴンの後を継いでアッシリアの王になると,バビロニア人は再び反逆し,メロダク・バラダンを王に立てています。セナケリブ王は彼を王位からひきおろそうと努めました。セナケリブの父はサマリヤを占領していました。

      第2の世界強国はエホバに挑戦する

      セナケリブはどんな理由でエルサレムに目をつけましたか。エルサレム攻略の手はじめに,何をしましたか。しかしセナケリブはどんな重大な間違いをしましたか。

      そこでセナケリブはこの勢いに乗じてエルサレムをも攻め取ろうと考え,ユダのヒゼキヤ王の14年目にエルサレムに攻め寄せました。ヒゼキヤ王はセナケリブに莫大な金を支払ってその矛をおさめさせました。しかし後にラキシを包囲したセナケケリブは,その最中に隊長をエルサレムに送り,降服を要求しました。しかしセナリブはそのとき大きな間違いをしました。彼はエホバの名をあなどったのです。アッシリア軍の隊長ラブシャケは,エルサレムの城壁の上の人々にむかって憎しみとあなどりの言葉をあびせ,ヒゼキヤ王の神エホバに頼っても無駄であると叫びました。侵略の手をのばしたセナケリブに対抗し得た神はいままでなかったからです。ヒゼキヤはエホバに祈りました。イザヤを通してヒゼキヤに告げられたエホバのことばによれば,アッシリアの王は自分の国に退却し,そこで殺されてしまうでしょう。―列王下 18:13–19:8。

      エホバに対するセナケリブの不敬は,ヒゼキヤの祈りにも示されている通り,どんな問題を前面に押し出しましたか。

      さてリブナにいてラブシャケの報告を受け取ったセナケリブは,使者の手に托して手紙を送り,ヒゼキヤの神エホバをあなどりました。ヒゼキヤ王は宮においてエホバの前にこの脅迫とあなどりの手紙をひろげ,次のように祈ります。「今われらの神エホバよ願くは我らをかれ〔セナケリブ〕の手よりすくひいだし給へ然らば世の国々皆汝エホバのみ神にいますことを知るに至らん」― 列王下 19:8-19,文語。

      (二つの節を一緒にした質問)イザヤは,アッシリア王に関して何を預言しましたか。

      ヒゼキヤは,その祈りが聞き届けられたとのエホバの保証をイザヤから得ます。エホバは高慢なアッシリア王に次のように告げました。

      「処女〔捕われたことのない〕なる女子シオンは汝をかろんじ汝を嘲る女子エルサレムは汝にむかひて頭をふる汝誰をそしりかつのゝしりしや汝誰にむかひて声をあげしや汝はイスラエルの聖者にむかひて汝の目を高くあげたるなり汝使者をもて主〔エホバ〕をそしりて言ふ……汝のほこるところの事上りてわが耳にいりたれば我わを汝の鼻につけくつわを汝の唇にほどこして汝を元来し道へひきかへすべし」― 列王下 19:20-28,文語。

      エホバはヒゼキヤにどんなしるしを与えましたか。どんな理由で,エホバはエルサレムを救うことを約束しましたか。

      ヒゼキヤはしるしとして次のことをエホバから告げられました。セナケリブの侵略のゆえにその年の収穫はないでしょう。次の年にも播くことと刈ることは行なわれません。(それはヨベルのサイクルの6番目の安息の年にあたります。―レビ 25:1,2)しかし3年目にまくこととかることが行なわれます。「即ち残余者エルサレムより出で逃避たる者シオン山より出で来らんエホバの熱心これを為べし」― 列王下 19:29,31,34,文語。

      み名を軽んずる者はいやしめられる

      セナケリブに対するエホバのことばは,どのように成就しましたか。

      エホバはみ名を軽んじた者を罰しました。「その夜エホバの使者いでてアッシリア人の陣営の者十八万五千人を撃ち殺せり」。いやしめられたセナケリブ王はその都ニネベに急いで逃げ帰り,その偽りの神ニスロクの宮で息子に殺されました。セナケリブが北方に退却したとき,「処女なる女子シオン」「女エルサレム」はセナケリブをあざけり,頭をふりました。彼女はその神エホバが第2の世界強国アッシリアに対して至上権を立証し,唯一の神であることを立証したことを喜びました。―列王下 19:32-37。

      ヒゼキヤはどんな病気になりましたか。しかし奇跡的に回復したため,何が可能となりましたか。

      ところでバビロンのメロダク・バラダンはなお反逆の志を捨てず,アッシリア王を倒すための同盟者を求めていました。彼は,治世の14年目にあるヒゼキヤが病気になったことを聞いていました。ヒゼキヤは悪性の腫瘍のため,死にそうになっていたのです。ヒゼキヤ王は泣いて神に祈り,生き延びることを願いました。おもにそれは王位を継ぐ息子がヒゼキヤになかったためです。そのためダビデの王統は絶えそうになっていました。エホバはあわれみを示し,ヒゼキヤの寿命に15年を加えることを約束されました。ヒゼキヤは快復し,3年目に息子をもうけてマナセと名づけました。―列王下 20:12; 21:1。イザヤ 38:1–39:1。

      おそらくどんな動機で,ヒゼキヤはバビロンの使者を快よく迎えましたか。ヒゼキヤの無分別のゆえに,イザヤは王の所有物と子たちに関して何を預言しましたか。

      メロダク・バラダンは礼物と親書を携えた使者をヒゼキヤに送り,ヒゼキヤは喜んでこれを迎えました。アッシリアの王に対抗する有力な同盟者としての威信をバビロン王に示そうとの下心がおそらくあって,ヒゼキヤは自分の富と資産をバビロンの使者に見せました。ヒゼキヤがバビロンの使者に与えた待遇を聞いて,イザヤは次のことを述べました。「なんぢ万軍のエホバの言をきけみよ日きたらん,なんぢの家のもの汝の列祖がけふまで蓄へたるものは,皆バビロンにたずさへゆかれて遺るもの一つもなかるべし,是はエホバのみことばなりなんぢの身より生れいでん者も囚はれ寺人とせられてバビロン王の宮のうちにあらん」― イザヤ 39:1-7,文語。

      歴代志略下 32章24節から26節は,ヒゼキヤの心に関して何を述べていますか。この言葉は明らかに何を指していますか。

      歴代志略下 32章24節から26節の記述は,ヒゼキヤがバビロン王メロダク・バラダンの使者に与えた待遇に関して述べているのかも知れません。「当時ヒゼキヤ病みて死なんとせしがエホバに祈りければエホバ之に告をなし之にしるしを賜へり然るにヒゼキヤその蒙むりし恩にむくゆることをせずして心に高ぶりければ震怒これに臨まんとしまたユダとエルサレムに臨まんとせしがヒゼキヤその心に高慢を悔て身を卑くしエルサレムの民も同じく然なしたるによりてヒゼキヤの世にはエホバの震怒かれらに臨まざりき」。

      (二つの節を一緒にした質問)当時におけるアッシリア,バビロンおよびユダの関係は,「イスラエルとバビロン」の本にどう述べられていますか。

      アッシリアのセナケリブ王とバビロンのメロダク・バラダン王の関係についてW・L・ウォードル著「イスラエルとバビロン」の33頁に次の記述が見えます。

      セナケリブが取り組んだ最初の問題は,彼の言うところの「悪行の親玉」「あの悪人」を征伐することであった。バビロンは占領されたが,メロダク・バラダンは逃れた。この時にメロダク・バラダンは,列王紀略下 20章12節から19節に記録されているようにユダのヒゼキヤの助力を求めたのである。それは,これより先メロダク・バラダンがサラゴンと衝突した時のことではない。しかしバビロンはエラム人の助けを得て,その後もアッシリアを悩ました。メロダク・バラダンの名はその後少なくとも一回は歴史に登場している。バビロンは遂に六八九年に滅びた。明らかにセナケリブはこの時までバビロンに対して宥和政策をとっており,遂にバビロンを滅ぼしたのはやむを得ない最後の手段であった。〔セナケリブの第一回戦役に書かれている〕シドニー・スミスの考えによれば,アシャバニパル年代記の一節から次の解釈が成り立つ。すなわちセナリブは暗殺されたとき,バビロンの再建に携わっていた。―英国ロンドン,1925年版。

      アッシリアとバビロンにおいて支配権のどんな交代がありましたか。

      アッシリアの首都ニネベでは,エサル・ハドンが暗殺された父にかわって王位につきました。(列王下 19:37。イザヤ 37:37,38)バビロンの町を再建し,守護神ベル・メロダクを返還したうえ,他の神々の神殿を復興したのは,このエサル・ハドンです。その後を継いだアシャバニパルは,大守を任命してバビロンを治めさせました。ネブカデネザル2世の父ナボポラサルは,アッシリアの任命した最後の太守でした。―国際スタンダード聖書百科,1955年版。

      どんな理由のゆえに世界強国としてのアツシリアの存続は疑問となりましたか。

      アッシリアはエホバのみ名を軽んじたため,そのみ手によって敗北をこうむり,いやしめられました。み名を軽んじ,また神の民に激しく敵対したアッシリアに対して,エホバの預言は滅びを予告していました。それにもかかわらず,「ニムロデの地」アッシリアは第2世界強国としての地位を保つことができますか。アッシリアはバビロンを滅ぼしましたが,「大いなる王の都」シオンを滅ぼすことはできませんでした。(ミカ 5:6。詩 48:1,2)アッシリアにどのように裁きが臨んだか,またダビデの家系の王の支配するエルサレムが,どのようにバビロンと衝突したかは,次号の「ものみの塔」に採りあげます。

  • エホバと宣教にさゝげた生涯
    ものみの塔 1964 | 12月15日
    • エホバと宣教にさゝげた生涯

      R・ホプレイの経験

      私の両親は,私が子供の時,英国のウォールシャル市にほど近いチェイス・テレイスの自宅で聖書の研究の集会をはじめました。毎週行なわれるこの集会は,私の兄弟や友人が加わるにおよんで盛んになっていきました。私は神の御国とその祝福についての討論にいつも耳を傾け,とりわけイザヤ書 11章の,動物が小さいわらべにみちびかれるという言葉から強い印象を受けました。

      死者の状態,魂,神,キリスト,御国などについて聖書から理解したことはみな受け入れました。しかし,神への献身と宣教を真剣に考えるようになったのは,18歳になってからで,それまではスポーツに非常に興味がありました。ですからフットボールのシーズンがくると,フットボールに打ちこもうかという心の戦いをしなければなりませんでした。ちょうどその頃,兄たちはロンドンで開かれるものみの塔協会主催の大会に出席する話を始めて,そのことで興奮していました。私はその時の気分に押されて兄たちと一緒に大会に出席しました。土地のフットボール・クラブの事務員だった友人も一緒に行き,講演を楽しんでいるかのようによそおっていました。彼には妹があり,私はその妹と親しくしていました。しかし間もなく私は,この友情が,私と私の聖書研究の間に割り込んでくるのに気づきました。そのためこの交際をやめることに心を決めました。

      フットボール・クラブの事務員だった友人はその後間もなく,聖書の研究よりもフットボールを選び,研究への興味をなくしました。しかし私は絶対にその影響を受けませんでした。神に奉仕し,神の目的にかんする知識に進みたいという私の望みは動きませんでした。このことにおいて家族は実によく助けてくれました。エホバについての知識が進むにつれ,家族9人が強い愛によって一つになっていたからです。エホバ神に献身しようという堅い決意をする助けとなったのは,兄たちの示した模範です。こうして1921年,19

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