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    ものみの塔 1962 | 11月15日
    • てきました。

      彼らがやっと帰って行った時,多くの物 ― 協会の書籍,「ものみの塔」誌,手紙,私たちのタイプライター,ゲシュテトネル,お金その他 ― を持ち去りましたが,担当の警官は,「これはあなたのものですダンハムさん」といって,屋根裏べやのかぎをパーシーに返しました。私たちはほんとうに感謝しました。屋根裏べやにはいっていたものは兄弟たちが宣教活動に使う聖書文書だけだったからです。しかもそれは私たちが苦心して国内に持ち込んだものでした。

      少したって,仕事をつづけるためにラトビアの協会が設立され,小冊子が土地で印刷されるようになりました。伝道は円滑に進められていきました。開拓者ですら,かなり自由に国を旅行して回ることができました。しかし,1934年のクーデターで新政権が権力の座につき,私たちの協会は禁止のリストの筆頭にのぼりました。夫は,この禁止を解いてもらうために,あらゆる手をつくしましたが不成功に終わりました。それでも私たちは,集会をつづけていくために,いろいろの違った家でひそかに集まりました。

      1939年,キリストの死を記念するために集まっていた時,ドアのベルが鳴りました。兄弟のひとりだと思って私がドアをあけると,警官がつかつかとはいってきました。ある兄弟の家族が私たちを裏切って,ラトビア語の「ものみの塔」の複写を1部警官に渡したのです。担当の警官は,だれが「ものみの塔」を印刷したかを特に知りたがりました。「私がしました」とパーシーが言いました。警官は,へやの中にあった,古びた手動ゲシュテトネルを見ながら「なるほど,君がやったらしいね」と答えました。しかし,彼のうしろの机のくぼみに置いてあった新しい輪転式の印刷機は見つけませんでした。警官がその机に背を向けてすわるように私がいすをすすめたからです。その間もうひとりの警官はへやを調べていました。そしてラトビア語の文書の複写がどっさり積んであった棚のところにきてカーテンをあけました。しかしすぐにしめて「ここには何もない」と言いました。その時私は,エホバがエリシャの時代にスリア人の目をくらませられたことを思い出しました。―列王記下 6:18-23。

      ラトビアに住んでいたそれらの年月の間,私たちはただ訪問者の許可証しかもっていませんでした。ということは,パスポートに出国のスタンプを押してもらうために,6日毎に国境を越えなければならないことを意味しました。そうすればまた入国できるわけです。こうして私たちはリトアニアとエストニアに行き,時にはフィンランド,スウェーデン,デンマークの大会に出席しました。これらの国の兄弟たちを訪ねて,その愛と熱意を見ることは大きな喜びでした。しかし,霊的食物をたずさえてラトビアの兄弟たちのところに帰ることをいつも喜びにしていました。

      ところが,1940年のある朝,目がさめて見ると国はロシアの兵隊に占領されていました。これからどうなるのでしょうか。外国の査証は全部無効になりました。私たちは2,3日毎に警察に行かねばなりませんでした。間もなく国を去るようにという通告を受けました。英国大使館は,英国人を引きあげさせる手配をしていましたが,ラトビアこそ自分たちの任命地と考えていた私たちは,あらゆる手をつくしてとどまることを試みました。そのために役所で長い時間を費しましたがむだでした。ついに協会本部から,出なさいという励ましの海外電報がきたので,私たちは,英国政府の3番目で最後のすすめを受け入れました。そのような試みの時に,兄弟たちをあとに残して去るのはほんとうに心残りでした。

      10月27日,私たちは重い心をいだいて特別列車に乗り,モスクワを経由し,シベリア横断鉄道でウラジオストックに至る11日間の旅にのぼりました。ウラジオストックには私たちをスーストラリアに運ぶ船が待っていました。

      オーストラリアでの奉仕

      12月12日,私たちはストラスフィールドに到着し,ベテルの家に迎え入れられました。ここでの私たちの奉仕も,エホバへの感謝をさらに増し加えるものでした。私の役目は台所仕事で,それ以後22年近く,ベテルの家族のために,少しの間をおいては,食品をととのえ,料理をし,給してきました。こうして奉仕できるのは大きな特権です。なぜなら,ベテルの家族は,御国の仕事を促進するために一生懸命働くからです。

      私たちがオーストラリアに来てわずか1ヵ月ばかりたった時,協会はここでも禁止されました。治安官たちは支部にはいってきて,私たちのへやを全部調べました。1年以上私たちは,武装した治安官たちの絶え間ない監視の下で生活し仕事をしました。記念式の時でさえ警官がそこにいました。そして1942年の5月のある日,軍隊が接収するからこの屋敷を立ちのくようにという通告がありました。

      仕事は妨害されましたが,止まることはありませんでした。集会は「森林」の中や他のひそかな場所で続けられました,戸別伝道も行なわれましたが,ただ聖書が使えるだけでした。1943年6月の14日,ついに禁止が解除されました。しかし,ベテルに帰れるようになるまでに6ヵ月かかりました。それはほんとうにうれしい時でした! 軍隊は私たちのように家を注意深く使わなかったので,するべきことがたくさんありましたが,しかし再び家族が一緒に奉仕するようになったのは楽しいことでした。

      30年以上エホバへ全時間奉仕をした末,夫は1951年に死亡しました。しかし,夫のエホバに対する全き献身と兄弟たちへの奉仕は,私の励ましとなり力となりました。彼は最後の助言の一つとして私に,「制度にかたくつき従いなさい」と言いました。そうすることによって私は,喜びの奉仕をつづけてくることができました。

      多くの事柄がその喜びに加わりました。たとえば1955年,ひとりの姉妹の好意により,その人と一緒にヨーロッパの大会に行くことができました。特にエジンバラとロンドンでは,子どもの時からの古い友だちに会う喜びを得ました。そのうちのいく人かは,いまだにベテルで奉仕したり,巡回の僕や開拓者として奉仕しています。もう一つの楽しい経験は,オーストラリアの各地から,宣教学校に来た会衆の監督たちと交わったことでした。

      過去の年月を振返って見て私は,幼い時にエホバの制度の助言に答え応じたがために,エホバへの奉仕に大きな喜びを見出すことができたと言うことができます。私は御国の関心事を第一にして開拓奉仕にはいりました。このことは,30年間の満ち足りたベテルでの奉仕をも含めて,多くの祝福を招く結果となりました。私はこのことをエホバに感謝し,その御名を賛美します。「ヱホバはめぐみふかくそのあわれみはかぎりなければ……なり」。

  • 「『シボレテ』と言ってごらんなさい」
    ものみの塔 1962 | 11月15日
    • 「『シボレテ』と言ってごらんなさい」

      「シボレテ」を「セボレテ」と発音するかどうかは今日それほど重大な問題ではないと思われるかもしれません。しかしヨルダンの渡し場では,これが生死を決する事柄になりました。今あなたにとって,正しい宗教を持つかどうかはあまり重要に見えないかもしれません。しかし,ハルマゲドンにおいてこれがあなたの生死を意味するでしょう。―士師 12:5,6。

  • 神の目的とエホバの証者(その50)
    ものみの塔 1962 | 11月15日
    • 神の目的とエホバの証者(その50)

      「『あなたがたは私の従者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳

      会長の世界旅行は励みを与える

      世界的拡大は,いまや時勢のおもむくところでした。1947年のこと,会長は秘書をともなって4万7795マイルに及ぶ世界奉仕旅行をしました。これらの協会の代表が世界をめぐったことによって,本部の組織が,遠隔の地におけるエホバの証者の活動とも,直接の結びつきを持つことになりました。親しく視察することによって,野外における必要がすぐに見きわめられ,神権活動を行なう世界的組織を強め,統一するための措置が直ちに講ぜられました。このような統一を図るプログラムが進められたのは,神権的機構が全く復興されて以来,はじめてのことでした。実際の野外における宣教に兄弟たちを援助するため,ギレアデで宣教者が訓練されたことと相まって,制度のあらゆる部分の密接な協力がいまや現実に見られることになったのです。かつて束縛を経験し,いま自由を享受するようになった世界各地の兄弟たちは,会長とその同行者を迎えて大いに喜び,御国宣教のプログラムを再組織し,強化するわざに力を惜しみませんでした。a

      戦後のアフリカでも大きな拡大が見られました。南アフリカで「ものみの塔協会」と交わる人々が出はじめ,そこ

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