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    ものみの塔 1980 | 2月1日
    • にかかり,高熱にうなされていたのです。私が阻止する間もなく,エルフリーデは病人用のバラックへ連れて行かれてしまいました。そこは,死の苦しみにあえぐ人々でいっぱいでした。刑罰棟のブロックを独りで離れることはだれにも許されていませんでしたが,室長のおかげで,時々外へ出て,エルフリーデのところへ飲み物を持ってゆくことができました。

      その場所に置いておけば,エルフリーデの先は長くないことが明らかになりました。病人用のバラックの前にはトラックが定期的に横づけにされ,死者やひん死の人がそれにほうり込まれ,火葬場へ運ばれて行きました。そこで,室長の助けを得て,私たちのうちの二人がエルフリーデの所へ行きました。エルフリーデのベッドは窓際にあります。私たちは全力をふりしぼり,エルフリーデを窓から外へ出すことができました。それから,彼女を運んで,刑罰棟へ戻りました。そこへ戻ると,受刑者であるロシア人の女医が,簡単ながら苦痛の伴う処置を施し,その結果エルフリーデの肺の炎症は治まりました。エルフリーデは一命を取り留めました。

      1945年の初春には,第二次世界大戦は急速にその終末へ向かっていました。ナチの親衛隊は収容所を爆破するつもりでした。しかし,ソ連軍が非常な勢いで進撃してきたため,ナチスはその悪魔的な計画を遂行できなかったのです。4月28日,ラベンスブリュックは無血でソ連軍の手に落ちました。こうして私たちは,ほぼ六年に及ぶ長い年月の後,その“火の燃える炉”から救い出されたのです。この年月には,ラベンスブリュックへ来る前に投獄されていた二年ほどの期間は入っていません。

      固い決意を保ち続ける

      私たち二人は,もしも再び自由の身になることがあれば,自分の時間と体力のすべてを神への奉仕にささげる,とエホバに約束していました。難儀しながら帰宅する途中で,私たちはフロスト兄弟を訪ねましたが,同兄弟も同じ心構えを示しました。フロスト兄弟は,できるだけ早い時期にマクデブルクへ来るよう私たちに招待を差し伸べました。ドイツにおける宣べ伝える業はマクデブルクから再組織されることになっていたのです。

      ところが,オルベルンハウの自宅に戻って間もなく,地方政府から犯罪捜査局の局長という職を提供されました。私はこの職について考えることさえしませんでした。全時間奉仕に入るという決定はずっと昔に下されていました。わずか三週間後に,エルフリーデと私は,マクデブルクへ戻った最初の五人のベテル奉仕者の中に数えられていました。

      1947年,ものみの塔協会の当時の会長,N・H・ノア兄弟が西ドイツを訪問しました。ノア兄弟は,「ものみの塔ギレアデ聖書学校」へ入学するよう特定の兄弟姉妹たちを励ましました。それでエルフリーデと私は宣教者としてのこの訓練を受けるために申込書を出しました。やがて私たちは招待を受け,1949年に,学校に入るため米国へ向けて出発しました。

      エホバの組織の定期的な集会や奉仕活動から切り断たれて幾年も経た後のことでしたから,ギレアデで吸収した霊的な祝福はまさに天の恵みでした。それは,自分たちのくぐり抜けてきた数多くの苦難に対する,大きな報い,またすばらしい報酬であると思いました。それから,最高潮として,私たちは1950年の夏に,ニューヨーク市のヤンキー野球場で開かれた「増し加わる神権政治」大会に出席しました。ギレアデの第15期生の卒業式は,その大会の初日に行なわれました。

      宣教者奉仕

      宣教者としての私たちの最初の任命地は,ライン河畔にある,ドイツのケルン市でした。私たちは35人の伝道者のいる土地の会衆と協力して,業に着手し,ほどなくして数多くの産出的な聖書研究を司会し,王国奉仕に参加するよう他の人々を助けるようになりました。その地で三年半を過ごした後,私たちは新しい割り当てを受け,オーストリアへ向かいました。しかし,その間に,ケルンの会衆は214名の伝道者を擁するまでに増加し,私たちは同地に新しい王国会館が献堂されるのを見ました。

      オーストリアで奉仕したこれまでの24年間に,私たちは数多くの土地に割り当てられました。その中には,ガスタイン渓谷,美しいトラウンゼー湖のほとりにあるグムンデン,フォラルルベルクのホーエネムス,チロルのテルフスなどがあります。現在,再びフォラルルベルクに戻り,ブレーゲンツの森で働いています。私たちは様々な任命地で,合計七つの王国会館を入手するのを助けました。また,任命地の中には,業に着手したとき,王国伝道者が皆無,もしくは一人か二人しかいないような所が三か所ありました。しかし,時たつうちに,それらの土地に新しい会衆が設立されるのを目撃しました。私たちには子供がいませんが,霊的な子供や孫がおり,温かい愛の,固い絆で結び付けられています。

      あきらめないために助けとなった事柄

      強制収容所での信仰の大きな試みを生き延びた後にも,エホバへの全時間奉仕をあきらめさせようとする誘惑を感じたことがあります。年齢や強制収容所で受けた仕打ちの後遺症から来る健康上の問題がありました。また,最近では,物質主義的な傾向の強い区域に住む人々の無関心も,しばしば失意の種となってきました。そのため,時として,全時間の王国宣明者が享受しているよりも,安楽で,便利な道具のそろった,もっと平穏な生活を送りたいという願いが頭をもたげることもありました。では,私たちが忍耐するために何が役立ったのでしょうか。

      一つの点として,私たちは,アブラハム,サラ,モーセ,使徒パウロ,そして最大の模範者であられるイエス・キリストなど,神に仕えるためにすべてを後にした,エホバの忠実な僕たちの模範から目をそらさないようにしました。これは,正しい態度を保ち,真に価値ある事柄を固守するのに役立ちました。私たちは,「それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい」というイエスの助言を思いに留めてきました。また,イエスが山上の垂訓の中で,前述の言葉の少し前で語られた,「あなたの宝のある所,そこにあなたの心もあるのです」という言葉も銘記していました。―マタイ 6:33,21。

      私たちはいつも,このことを行なうよう努力してきました。すなわち,神の王国に,そして所有物すべてをもって神に仕えることに,心を集中させることです。これを貴重な宝として保ったおかげで,ナチズムの残虐非道な暴政にも耐えられました。この王国の希望に固く付き従うことにより,その後もあきらめることなく神への奉仕を全時間続けてゆくよう助けられました。

      私たちの人生は実に深に満足に満たされたものでした。私たちは,マラキ書 3章10節(新)の次の言葉の真実さを度々経験しました。「『この点でどうかわたしを試みよ』と万軍のエホバは言われた。『わたしがあなた方に対して天の水門を開き,もはや不足がないまでにあなた方にまさに祝福を注ぎ出すか否かを見よ』」。私たちは,エホバの助けによって,エホバ神のみ前で,イエス・キリストと共に,永遠に全時間奉仕を続けてゆけるよう願い,また祈っております。

  • 『十人の女が一つのかまどでパンを焼く』
    ものみの塔 1980 | 2月1日
    • 『十人の女が一つのかまどでパンを焼く』

      不忠実な行為のゆえにイスラエルに臨む災いの一つは,レビ記 26章26節(新)に次のような言葉で説明されています。「まさに十人の女がただ一つのかまどであなたがたのパンを焼(く)」。平時であれば,必要なだけのパンを焼くために,各々一つずつかまどが必要です。しかし,レビ 26章26節の聖句は,入手可能な食糧が極端に少なくなり,十人の女性の焼くパンすべてを焼き上げるのに一つのかまどで事足りるようになる時のことを指し示しています。

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