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  • 憎しみが良いもの,身の守りとなるとき
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1971
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1971
塔71 2/15 117–121ページ

憎しみが良いもの,身の守りとなるとき

ある中年の母親は,スーパーマーケットで,お金も払わずにアンチョビーのかん詰めをハンドバッグに忍び込ませた。時を同じくして彼女の夫は,道の反対側にあるパーキングメーターに,金属製の丸いにせ金を10セント銀貨の代わりにいれた。同日,この夫婦の娘は,病気を偽って会社を早退した。そうした行為を読者はどうみなすだろうか。巧妙なやり口だ,と考えるだろうか,それとも,憎しみを感ずるであろうか。

そうした行為はささいなことと思えるかもしれない。しかし,はたしてそうであろうか。水滴も集まれば大海となる。小さな火花が林を燃え上がらせることもある。ちょっとした悪行がしばしば,大きな不幸を招来する。イエス・キリストはこう言われた。「わずかなことに忠実な者は,多くのことに忠実である。わずかなことに不義な者は,多くのことにも不義である」。(ルカ 16:10,新)したがって,悪い行為は,たとえそれがささいなことであっても,容赦されるべきではなく,重大な事柄として,真剣に扱われるべきである。なぜなら,そうした行為は,当人に道徳的な弱さのあることを証するものだからである。

悪行が,その重大性を問わず,自分自身に対して犯された場合,人は疑いもなくその害悪を身にしみて感ずる。自分が傷つけられ,現実に痛い思いをさせられるからである。アンチョビーを持ち帰った前述の母親が,自分の家のテレビが盗まれているのを知ったなら,また,前述の父親が,だれかにつり銭をごまかされるところを見破ったなら,あるいは,前述の娘の婚約者に当たる人が,病気を装って他の女性と出かけるなら,そうした行為に当人たちは気分を害され,抗議するにちがいない。言うまでもなく,今度は自分が犠牲者の立場に立たされるからである。

偽り・詐欺・盗み・淫行・姦淫・暴行・殺人など,社会で犯される悪事を耳にする時,自分が,あるいは自分の愛している人がその犠牲になったかもしれないと考えるならば,正しい見方をするよう助けられる。そして,悪いことをしたいという誘惑にかられる場合,その悪事が自分自身に,または家族に対してなされるなら,どんな気持ちがするだろうか,と考えるのは賢明である。

そうした見方をするなら,神が次のように命令された理由をよりよく理解でき,正しい認識を持つことができよう。「エホバを愛しむものよ悪をにくめ」。使徒パウロが次のように勧めた理由に関しても同じである。「悪はにく(め)」。さらに,詩篇作者の次のことばについても同じことが言える。『我虚偽のすべての途をにくむ。われ虚偽をにくみ之をいみきらふ』。(詩 97:10。ロマ 12:9。詩 119:104,163)読者は,悪に関して使徒や詩篇作者と同様に感じておられるだろうか。悪を憎んでおられるだろうか。

まちがった種類の憎しみと正しい種類の憎しみ

「憎しみ」ということばには,微妙な違いをもつ幾つかの意味がある。たとえば,ねたみを根にもつ激しい憎悪の念を意味する場合がある。しかも,そのねたみには,憎しみの対象を是が非でも害してやろうという悪意がつきものである。それは,まちがった種類の憎しみであり,悪い動機を持つ。それは悪魔に源を発し,しばしば,混乱し,ざ折した思いの中でかもし出され,決まって誤った方向に進む。悪魔に支配された人間と諸国家の歴史は,暴力と流血を伴う憎しみのつきない記録であったといっても過言ではない。その犠牲者が数人にすぎない場合もあったが,時には,国民全体が無政府状態や革命に巻き込まれたこともある。国際間の戦争に端を発した憎しみのゆえに,罪もない幾千人もの人々の命が奪われることも珍しくない。

「憎しみ」は,また,強烈な嫌悪の念をさす場合がある。その対象となるものに害を及ぼそうという意向は全然ないが,むしろ,いやなものを忌み嫌う場合のように,それを避けようとするのである。この種の憎しみは,悪に向けられるなら,良いものである。

この種の正しい憎しみを持つのは,正義の神であるエホバにならうこととなる。エホバは,ざせつ感から悪を憎むのでもなければ,制しがたいほどに度を失った激しい行動に出て,憎しみを表明されるのでもない。悪に対する神の憎しみは,原則に立脚した憎しみであり,思いの平安を乱し,かいようを起こさせるような種類の憎しみではない。それは悪に対する,強い嫌悪・極度の忌避・決然とした嫌忌・深い憎悪の念である。つまり,悪は何事であれ,それがまちがいであり,非常に有害であり,かつ全く愛に欠けるがゆえに,悪をひどく嫌悪し,忌み嫌い,かつ,憎悪するのである。―箴言 6:16-19。

なぜ悪を憎むのか

まず最初に,悪はエホバが憎まれる。それ自体,わたしたちすべても悪を憎むべき十分の理由であるはずである。愛ある賢明な父親が,毒きのこを食べるのを拒むなら,それだけで,彼の幼いむすこも毒きのこをひどく嫌う十分の理由となるはずである。そして,父親がそれを食べてはならないと命ずるなら,父親を愛する従順なむすこが,毒きのこを食物としては忌み嫌うべき二重の理由があることになる。その少年にとって,それは単に,父親の言いつけに従がわない結果として病気になることを憎む,というような問題ではないのである。むすこの従順は,むしろ父親に対して心臓から発する愛に根ざしている。

第二とはいえ,悪事を憎む非常に重要な理由は,その結果に関係している。聖書の格言は,「悪人は罪をまぬかれず」と述べている。(箴言 11:21)ノアの時代,洪水の起こる前に住んでいた男女は,悪行の結果を免れなかった。悪を憎んだ人が,わずか8名生き残ったにすぎない。(創世 6:5-7; 7:1)もっと近年の例として,英国最大の鉄道強盗を画策した男たちの経験がある。26億2,800万円相当のお金を奪って逃亡したが,やがて全員逮捕され,投獄された。神のことばが命ずるとおり,悪を憎んでいたなら,その男たちはみじめな獄中生活を何年も送らずに済んだのである。―1969年10月31日号,タイム誌。

今日,正しい憎しみが必要

悪を憎めとの神からの助言が,今日ほど必要な時はない。自分たちの時間が短いのを知っているサタンと配下の悪霊は,人類を堕落させ,滅亡させるために,あらんかぎりのことをしている。利己的でどん欲な人間をあやつって,仲間の人間の弱点や罪の傾向を食い物にさせているのである。わたしたちは確かに,『不法がますために多くの者の愛が冷えた』「対処しにくい危機の時代」に住んでいる。そうした事態から身を守るためには,悪を憎まねばならない。―テモテ後 3:1,マタイ 24:12,新。黙示 12:12。

悪に断固として反対しないかぎり,かえって悪に引き入れられる場合がある。人間は生まれながら罪人であり,悪に走る傾向があるからである。(詩 51:5。創世 8:21。ロマ 7:14-25)それゆえに,善を愛するだけでは不十分なのである。同時に,悪を憎まねばならない。イエス・キリストは,『義を愛し,悪を憎まれた』。(詩 45:7。ヘブル 1:9)今のよこしまな事物の体制に生き残るためには,わたしたちも同様でなければならない。

この問題に関しては,無関心でいることが許されるような,どっちつかずの中道はない。イエスの語られた次の原則が当てはまる。「我と偕ならぬ者は我にそむ(く)」。(マタイ 12:30)イエスは無関心どころか,積極的に,しかも,断固とした態度を取って,自分が悪を憎む者であることを示された。同様に,悪を憎んでイエスの側にいない者は,悪を愛することによって,彼にそむいていると言えるのである。

自分自身を吟味していただきたい。あなたが従う規範はこの古い世のものであろうか。それとも,聖書に述べられているクリスチャンの規範であろうか。この世の規範は,実質的には次のようなものである。「たくさん,盗んではならない」「困った時以外は,うそをついてはならない」「“愛”していないかぎり,姦淫を犯してはならない」。また,世の人々は,自分たちの法律を次のように解釈することがあろう。「うそをついたり,盗みや姦淫を犯したりなどするところを,つかまえられないようにせよ」。あなたの規範はそうした種類のものであろうか。言うまでもなく,悪を憎む神,またキリスト・イエスおよび真のクリスチャンの規範はそのようなものではない。

道徳規範についてはどうであろうか。都合の良いただし書きを加えられた,俗受けする,新しい規範を提唱する人々に,あなたは同調されるだろうか。そうした人々は次のように言うものである。「私は,ある点までは,正直だ」「私の言うことは,たいていの場合,信用に値する」「私を信頼してもよいが,油断しないほうがよい」「銀行泥棒はしない。あぶなすぎるから」「聖書の十戒は偉大だ。ただし,他人にとってはの話である」。

悪を憎むことは身の守りとなる

エホバが憎み,かつ,ご自分を愛する人々に憎むよう告げておられる事柄は多い。この点に関する神の助言に徹底的に従うなら,多くの点で益を受ける。その一つは,従う人の身の守りになるということである。二,三の例を考えてみよう。

不法な性関係を持った人々の多くは,不本意な妊娠や,性病に対する恐れ,棄てられはしないか,心痛を味わいはしないかというような不安,それに,自尊心をむしばまれるといった経験をする。22歳のある女性はこう語った。「私はどうしてもあの人と結婚したかったのです。しかし,私が妊娠するや,彼は私を捨ててしまいました」。神のことばの賢明な助言に聞き従って悪を憎んでいたなら,彼女はそのような目にあわずにすんだはずである。“妻の交換会”に参加したある人妻は,次のように語った。「あやうく精神異常をきたし,家庭はおろか,人生で価値あるものすべてを失うところでした。私たちの愚かさのゆえに,意図しなかったほどの大きな犠牲を払わされました。安っぽいスリルを数回味わうために,もう少しで身の破滅を招いていたかと思うと,ぞっとします」。神のことばの警告に聞き従い,悪を憎むなら,そうしたみじめな経験をしなくて済む。

売春婦と関係を持つよう誘われる愚かな若者をありありと描写しながら,聖書は性の不品行の結末について,こう警告している。「わかき人ただちにこれに随へり あだかも牛の宰地にゆくが如く…鳥の速かに羅にいりてその生命を喪ふに至るを知ざるがごとし」。(箴言 7:22,23)毎年,何千という人々がこの“性の羅”に捕えられ,言わば動物のように,と殺場に引いて行かれ,性病に突き刺されている。悪を憎むことによってもたらされる保護を軽んじたばかりに,そうなるのである。

泥酔は殺人を招く。英国からの報告によると,交通事故死の3分の1は,よっぱらい運転によるものである。しかも,その改善策となると,安全ベルトより簡単かつ安価なのである。それら泥酔者が聖書の知恵を生活に当てはめて,悪事を憎むなら,何千件にも上る悲惨な事故死が避けられる。「禍害や憂愁ある者,争端をなす者,煩慮ある者,赤目ある者」たちを,聖書は,『是すなはち酒に夜をふかすもの……是は終に蛇のごとくかむべし』と述べている。―箴言 23:29-32。

犯罪・暴力・姦淫・泥酔・同性愛行為を,その実体のゆえに憎むのは良いことである。犯罪は,他の人が正当に所有するものを盗む行為であり,忌み嫌うべきものである。姦淫は家族を分裂させ,子どもを見捨てられた状態に陥れる。それは神と人に対する罪であり,最も嫌悪すべきものである。泥酔は人を危険にさらすだけでなく,身の破滅をさえもたらす。それは憎悪すべきものである。同性愛行為は最も低劣な倒錯の一種であり,神にひどく憎まれる。(ロマ 1:24-27)そうした悪事を憎むのは良いことであり,身の守りとなる。

しかし,アンチョビーを盗んだり,パーキングメーターをごまかしたり,上司にうそをついたりといった,いわゆる“ささいな犯罪”に関してはどうだろうか。そうした悪事は何かしら望ましいことのように,あるいは,だれにも大きな害を及ぼさないように見えるかもしれない。しかし,おそかれ早かれ,罪悪感・恥・非難,または真の友人同志の仲たがいをきたすといった,好ましくない罰を必ず招く。そうした事柄をも,好ましくない罰がもたらされるからというのではなく,エホバが憎まれるからという理由で憎むなら,それも身の守りとなる。

どのように悪を憎むか

悪を憎むには,悪からできるだけ遠ざかることである。忌み嫌うものは,避けるはずである。したがって,最初に,何が悪かを知らなければ,それを避けることはできない。しかし,その点に関しては,十分な備えが設けられている。エホバはご自分のことばの中で,何が悪であるかを詳細にわたって明らかにし,かつ,それをどうして避けうるかをも何度となく告げておられる。何をどのように憎むべきかを知るには,聖書の研究が絶対に欠かせない。

啓発されたクリスチャンが,悪魔やその配下の悪霊,さらには,故意に,しかも承知の上で,エホバに敵対する立場を取ってきた人々のような,まぎれもない神の敵を憎むのは,正当な理由があってのことである。(詩 139:21,22)そうした者たちを憎むからといって,クリスチャンは彼らに危害を加えようとはしないし,この種の憎しみは,ねたみや悪意と同種類のものではない。彼らのいだく憎しみは,むしろ,エホバを激しく憎む者たちを全く忌み嫌い,完全に避けるという形で現れる。エホバの食卓で食することを望むなら,「悪鬼」の食卓を避けるべきである。―コリント前 10:21。ロマ 12:9,17,19。

一見,“良い人”と思える人々もいよう。しかし,次のように自問する必要がある。「その人は,クリスチャンの道徳や原則を守っているだろうか。エホバを愛しているだろうか」。人に対するわたしたちの関係は,相手がエホバと隣人に対する愛を持っているかどうかによって左右される。この交わりという問題は重要である。なぜなら,悪事を行なう人々といっしょにいることを楽しむようでは,やがて,彼らの行ないを憎まなくなるからである。―コリント前 15:33。

積極的な物の考え方がきわめて重要であることは,言うまでもない。ことは,単に悪を憎むだけといった消極的問題ではなく,善に対する積極的な愛もまた必要なのである。ゆえに,悪を憎むことには,使徒パウロがきわめて簡潔に言い表わしたように,二つの要素が関係している。「悪はにくみ,善はしたし(め)」。(ロマ 12:9)良い考えで思いを満たすことによって,悪を憎んでいることを示し(ピリピ 4:8),さらに,悪いことをしたいという欲望を心臓にたくわえる代わりに,良い動機で心臓を満たすことが必要である。―マタイ 15:19。マルコ 7:21-23。箴言 4:23。

あなたは悪を憎まれるであろうか。神のことばはそうすることを勧めており,そうするのは正しく,賢明で,愛のあることである。では,悪を憎み,善を愛していることを,だれと交わるか,何を考え何を話すか,また,どうふるまうかによって示そうではないか。

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