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現代のユダヤ主義者のえじきになってはなりません!ものみの塔 1981 | 4月15日
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使徒パウロの伝道を聞いたユダヤ人とよく似た立場にあります。では,エホバの証人が聖書から指摘する事柄を注意深く検討するのに必要な謙遜さと信仰を持っておられますか。すなわち,自分が霊的イスラエル人の「小さな群れ」の一員ではなくても,謙遜に神に仕えるでしょうか。そうであれば,間もなくイエス・キリストと「小さな群れ」を通して「地のすべての国の民」が受けようとしているすばらしい祝福を自らも受ける者となれるのです。―創世 22:18,新。
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バビロンの記録 ― 古代と現代ものみの塔 1981 | 4月15日
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バビロンの記録 ― 古代と現代
ノアの曾孫ニムロデが地上で強大な者となり,自らを「エホバに逆らう強大な狩人」としていった時,その王国の始まりはバベル,つまりバビロンにありました。人々がエホバに反抗して大いに自分たちの名を揚げるため,宗教的な意味を持つ塔のある都市を築いたのはこのバベルでした。これは背教,ノアの神を崇拝することからの離反,エホバの主権に対する反抗でした。しかし,その建築計画は惨めな失敗に終わりました。エホバが降りて来られて,その言語を乱されたのです。互いに意志を通わせることができなくなって,人々は各言語群にしたがって分かれ,バベルから「地の全面に」散らされました。(創世 10:8-10; 11:1-9,新)その偽りの宗教も人々と一緒に広まりました。それは偽りの宗教の世界帝国,つまり秘義である「大いなるバビロン」となりました。
世界の諸宗教に共通の起源があることは明白です。それらの宗教には非常に多くの類似点が見られます。例えば,古代バビロンはセミラミスとその幼子ニムロデの崇拝を特色としていましたが,それは背教したキリスト教世界の聖母子の崇拝と非常によく似ています。トーマス・インマンは自著,「古代異教および現代キリスト教の象徴」の中で,母子像についてこう述べています。「そのような組み合わせはイタリアにおけると同様インドでも一般に見られ,キリスト教の諸教会の中と同じように異教の寺院の中にも見られる。母子崇拝の概念は,何らかの形で美術品の遺物が残っている古代の国々すべてに見られる」。
ローマ・カトリックの枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンは,自分の書いた「キリスト教教理の発達に関する論文」の中でそのような慣行や教理の多くに言及し,それらは「いずれも異教に起源を持ち」,そして「カトリック教会に取り入れられることにより神聖なものにされた」と述べています。しかし,この後半の言葉は正しくはありません。現代のカトリックやプロテスタントやユダヤ教がバビロン的な信条や儀式を取り入れても,偽りの宗教の慣行や教理に清さと神聖さが加えられたわけではありません。むしろそれにより,自らが「大いなるバビロン」の娘とも言える組織であることを示しています。―啓示 17:5。
これら“娘”とも言える諸宗教は十字軍やその他の歴史上の宗教戦争の両側で顕著な役割を果たしました。現代の二つの世界大戦はいわゆる“キリスト教”の国々の間で始まり,それに神道信者や仏教徒が深く関係する形になりました。どちらの側でも,宗教上の僧職者たちは戦争熱をかき立てるのに一役買いました。偽りの宗教の世界帝国は“愛の神”を代表するどころか,常に率先して憎しみをかもし出してきました。北アイルランドでは今日に至るまで,カトリック教徒とプロテスタントの信者が互いに戦い合っています。中東における暴力行為の背後には多くの場合宗教が関係しています。
しかし,何と言っても大いなるバビロンが最も責められるべきなのは,啓示 17章6節に描かれているような点に関してです。そこにはこう書かれています。「わたしは,その女が聖なる者たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た」。この言葉は悲劇的な成就を見てきました。例えば,1世紀のクリスチャンたちに対する迫害,暗黒時代の異端審問,そしてカトリック教徒であるヒトラーが現代のエホバの証人に加えた激しい弾圧などにその成就が見られます。“愛の神”はこの流血の罪に対して復讐を遂げられるでしょうか。神は必ずやそうなさるでしょう。
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ネブカデネザルの支配したバビロンものみの塔 1981 | 4月15日
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ネブカデネザルの支配したバビロン
ネブカデネザルの時代のバビロンについて,マクリントクとストロングの“百科事典”にはこう記されています。「大王国の中心地であったバビロンは豪華の極みを尽くし,その住民は放らつな生活にふけり,惰弱なことで広く知られていた。[神学者クルティウス]はこう語っている。『その道徳は類例を見ないほど堕落していた。人を過度の快楽に誘い,夢中にならせるのにこれ以上適したものはなかろう。歓待のしきたりは恥知らずでひわいこの上ない淫乱なものだった』」。同百科事典は,汚れた性崇拝と同市の腐敗について述べた後,こう結んでいます。「それゆえ,新約聖書の中(啓示 17章5節)でも,バビロンは極めて恥知らずな放とうと偶像崇拝の典型として挙げられている」。
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読者からの質問ものみの塔 1981 | 4月15日
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読者からの質問
● 「ヤコブの手紙の注解」の48,49ページには,「エホバはクリスチャンの神であると同時に父でもあられます。エホバは彼らをご自分の子となるよう霊によって生み出されたからです」と説明されています。また,57ページのこれに関連した質問は,「神がクリスチャンにとって父でもあるのはどうしてですか」となっています。これは,献身しバプテスマを受けたクリスチャンすべてが神の聖霊によって生み出され,その子となったという意味ですか。
この説明から,その点に関するわたしたちの理解が変わったかのように考えるべきではありません。そのような変化は,報いを得る人々の前途に二つの別個の見込み,すなわち天的な見込みと地的な見込みが置かれているという聖書の教えを否定するものと言えるでしょう。この本は,研究している人たちが,ヤコブ 1章1節とその節の「各地に散っている十二部族へ」の部分の注解(12,13ページを参照)を読んで,神の霊によって生み出され,その子となるのは霊的イスラエルを構成する限られた数の人々であることを理解しているという前提の下に説明を行なっています。―ガラテア 6:16。啓示 14:1。
あいまいさを除く上で,48ページのこの最後の文に「油そそがれた」という語を入れておくこともできたでしょう。その場合,その部分は次のようになります。「エホバは油そそがれたクリスチャンの神であると同時に父でもあられます。エホバは彼らをご自分の子となるよう霊によって生み出されたからです」。また,この部分に対する57ページの質問は,「神が油そそがれたクリスチャンにとって父でもあるのはどうしてですか」となります。
キリスト教世界の信じるところによれば人間には不滅の魂があり,すべての人は死ぬと天国か地獄(あるいは煉獄)に行き,地球はいつの日か火で滅ぼされるということになり,神のいかなる忠実な僕にも地的な前途の見込みはなくなってしまいます。しかし,地球と人間に対するエホバの目的を正しく理解している人々は,全地がパラダイスになり,神の僕である忠実な人間がそこに住む日の訪れることを確信しています。
この点に関して,次の事柄にも触れておくことができるでしょう。エホバ神は,霊によって生み出され,油そそがれたクリスチャンたちに対して独特な仕方で父となっておられます(ローマ 8:14-17。ヨハネ第一 3:2)が,地的な前途の見込みを持つ人々の父でもあられることを聖書は述べています。例えば,イザヤ 63章16節(新)にはこう記されています。「あなたはわたしの父だからです。たとえアブラハムがわたしを知らず,イスラエルがわたしを認めなくても,エホバよ,あなたはわたしの父です」。ですから,「ほかの羊」の「大群衆」を構成する人すべてが,「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」と祈ることは当を得たことと言えるでしょう。―マタイ 6:9。ヨハネ 10:16。啓示 7:9。
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