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クリスチャンの正しい平衡を保ちなさいものみの塔 1969 | 1月15日
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クリスチャンの正しい平衡を保ちなさい
「キリストでさえあなたがたのために苦しみを受け,あなたがたがその足跡にしっかり従うように模範を残されたのである」― ペテロ前 2:21,新。
1 神はどんな備えを設けられましたか。その益にあずかるには,何をしなければなりませんか。
エホバ神は,正義の新しい事物の体制の下で人間に永遠の「命を得させるための備えを設けられました。このことを意図されて,「神はそのひとり子を与え(られた)……それは彼に信仰を働かせる者がひとりも滅びず,永遠の命を得るため」でした。(ヨハネ 3:16,新)しかしすばらしい報いである命を得るには,クリスチャンの正しい平衡を保たねばなりません。神の御子イエス・キリストはそうされ,また,そうすることによって,完全な手本あるいは模範を残されました。ゆえに神のみまえで誠実に歩みたいと願う人すべては,その足跡にしっかり従(わ)」ねばなりません。(ペテロ前 2:21,新)しかしご存じのとおり,クリスチャンの正しい平衡を保つのは,やさしいことではありません。
2 平衡を保つとはどういうことですか。
2 平衡ということばの意味をよく理解するために,ウエブスター同意語辞典の次のような説明に注目してください。「平衡とは,事物の一部分,一要素,一要因,もしくはある影響力が他方より重くなる,あるいは他との正常な均衡が破れることのない状態を言う。ゆえに平衡とは,落ち着き,または安寧を意味し,これが乱されるまでは,たいてい外見上それと気づくことができない……したがって,氷の上ですべってころぶときのように,からだの重心がはずれ,足でささえられなくなると,平衡を失い,倒れてしまう」。こうして平衡を失い,そして倒れるのは危険なことです。同様に,自転車やオートバイに乗っていて,平衡を失うなら,けがをしたり,重大な事故さえ招いたりするでしょう。身体上の平衡がいかに大切かは明らかです。
クリスチャンの平衡を学ぶ
3 霊的な平衡がきわめて大切なのはなぜですか。それは生まれつき人間に備わっているものですか。
3 しかし正しい霊的な平衡はそれよりもさらに大切です。それは神の祝福と永遠の命とを得るために絶対欠かせないからです。人類の最初の夫婦アダムとエバは,霊的な平衡を失い,神に対する不従順の道に陥りました。それは二人にとって死を意味し,また,今日のわたしたちを含むすべての子孫に,平衡の欠けた生活を行なわせる事態を招きました。そうです,わたしたちはすべて罪のうちにはらまれ,よこしまのうちに生まれ,生来,悪を行なう性向を宿しています。―詩 51:5。ロマ 5:12。
4 霊的な平衡をどのように身につけることができますか。一度身につけたのちに,失われることがありますか。
4 ゆえに,生来クリスチャンの平衡を備えている人はひとりもいないので,わたしたちは平衡について学ばねばなりません。赤ん坊が歩きはじめるとき,平衡のとりかたを一心に覚えようとするように,わたしたちはクリスチャンの平衡をまず学び,絶えず努力して身につけねばなりません。こうして多くの人はいわばひとりで歩けるようになり,クリスチャンとしてその主人イエス・キリストの足跡に従って歩んできました。そして,あがないの犠牲を受け入れ,この邪悪な世と世の悪い習慣を退け,献身してエホバ神に奉仕してきました。(マタイ 20:28。ヨハネ 17:16。ヘブル 10:7)ところがその後,クリスチャンの平衡を失った人もいます。何かの理由で平衡を保てなくなり,キリストの足跡に従うことをやめたのです。
5 クリスチャンは各自どう自問すべきですか。
5 ゆえに次のように自問すべきでしょう。クリスチャンの平衡を学んでから,生活上のどんな事情に直面しようとも,その平衡を忠実に保てるだろうか。キリストの足跡にしっかり従って歩み続けることができるだろうか。神の建てられる正義の新しい事物の体制の下で永遠の命を享受できるかどうかは,このことに依存しています!―ペテロ後 3:13。黙示 21:3,4。
神とわたしたちとの関係における平衡
6 クリスチャンの平衡を身につけるため第一に肝要な事は何ですか。キリストは神に対する態度にかんして,どんな手本を残しましたか。
6 クリスチャンの正しい平衡にとってまず肝要なのは,わたしたちの創造者エホバ神との正しい関係を保つことです。では,神との正しい関係とは何ですか。完全な模範となられたキリストのことを考えてください。キリストは喜んで自らをささげ,御父の御心を行なわれました。そしていつでも神の崇拝を中心にして他のすべての活動に携わられました。御父を喜ばせることが常にキリストの主要な関心事でした。同様にわたしたちも創造者に仕えることの大切さを悟り,神に対して負い目のあることを認識しなければなりません。欠くことのできない霊的な備えはもちろん,太陽,雨,空気,食物を含め,命をささえるのに必要なものすべてを確かにエホバは備えておられます。(マタイ 5:45。使行 14:15-17)それで,聖書の詩篇の筆記者がしるした次のことばに快く同意できるでしょう。「そはいのちの泉はなんぢにあり」― 詩 36:9。
7 人間は神に多くを負っていますが,このことに関して,どんな平衡のとれた見方ができますか。
7 しかし神がすべてを所有しておられる以上,神の善良さに感謝して,何をお返しできるでしょうか。わたしたちは自由な道徳的行為者ですから,エホバ神の崇拝を選べます。心と思い,魂と力のすべてをこめてエホバを愛することができます。(マタイ 22:37,38)こうした心からの献身は,平衡の欠けた事柄ではありません。むしろそれは,神との正しい関係を保つことに関連しているのです。イエス・キリスト自身こう言われました。「あなたが崇拝しなければならないのは,あなたの神エホバであり,あなたは彼のみに神聖な奉仕をささげなければならない」(マタイ 4:10,新)クリスチャンの平衡を保つのに肝要なのは神への専心の献身です。
8 専心の献身を神にささげることのむずかしさを物語るどんな手本がありますか。
8 しかし,神を愛することについて語ったり,また,あらゆる状況の下で神への専心の献身を表わしたキリストの手本に従うことを手紙に書いたりするのは,実行することに比べればはるかに容易です。たとえばソロモン王は,エホバに忠実に仕えていた時分,こう書きました。「神をおそれ その誡命を守れ」。(伝道 12:13)ところが後日,ソロモンは惑わされて神の戒めを軽んじ,自ら書いたことを実行しませんでした。なぜですか。クリスチャンの正しい平衡を保つことがどうして困難になるのですか。
9 クリスチャンの正しい平衡を保つのは,なぜ困難なことですか。
9 それは,人間に宿っている,悪を行なう罪深い性向のためだけではありません。(ロマ 7:20,21)もう一つの重大な要素は,聖書で「この事物の体制の神」と呼ばれている,目に見えない霊の被造物である悪魔サタンの邪悪な影響力です。(コリント後 4:4,新)サタンは,クリスチャンと神との正しい関係を打ち砕き,平衡を失わせる事態もしくは状況をつくり出そうと苦心しています。イエス・キリストはその死の前夜,使徒シモン・ペテロに向かって次のように語り,このことを示されました。「シモン,シモン,みよ,サタン汝らを麦のごとく篩はんとて請ひ得たり」。(ルカ 22:31)サタンがペテロを神の恵みの下から引き離そうと苦心したいきさつを詳細に調べるのは,今日わたしたちがクリスチャンの正しい平衡を保つ上にきわめて有益なことです。
恐れは平衡を失わせる
10 (イ)西暦33年ニサンの14日,イエスとその弟子たちはどんな宗教的行事を祝うために集まりましたか。(ロ)彼らがゲッセマネの園に出かけたのは真夜中近くだったと考えられる,どんな根拠がありますか。
10 まず重大な出来事の起こった背景を考えましょう。西暦33年の初春,ニサンの月の,毎年の過ぎ越しの祝いの時でした。午後6時過ぎ,その祝いを行なうため,イエスと12人の使徒がエルサレムのある家のいの一室に集まりました。当時,ユダヤ人の一日はその時刻に始まったのです。神のご命令によれば,過ぎ越しの小羊は,ニサンの第14日の「二つの晩のあいだ」(薄暮,文語)まで守らねばなりませんでした。「薄暮」とは,ある権威者によれば,日没からその後すっかり暗くなる時までの時間と解釈されています。小羊はこの時刻に殺され,そして丸ごと焼かれました。(出エジプト 12:6-10,新)そのような動物を1頭丸焼きにするには,おそらく四,五時間を要したでしょう。それで,過ぎ越しの食事を終え,またキリストがご自分の死の記念の食事を始められたのは,おそらく真夜中近くだったでしょう。そののち,イエスと弟子たちはゲッセマネの園に出かけてゆき,そこでイエスは捕えられ,拘引されたのです。―マルコ 14:17-46。
11 イエスが拘引されたとき,ペテロはどうしましたか。
11 まだ夜のとばりのおりた暗い冷え冷えとした早朝の模様を聖書はこう述べています。「人々イエスを大祭司のもとにひきゆきたれば,祭司長・長老・学者らみなあつまる。ペテロ遠く離れてイエスに従ひ,大祭司の中庭まで入り,下役どもとともに坐して火にあたたまりゐたり。さて祭司長らおよび全議会,イエスを死に定めんとて,証拠を求むれども得ず。それはイエスに対して偽証する者,多くあれどもその証拠あはざりしなり」― マルコ 14:53-56。
12 この時イエスはどのようにあしらわれましたか。
12 それら偽りの証人たちはイエスについて悪意に満ちた虚偽の証言をしました。それだけではありません。霊感による記録はこう述べています。「ある者どもはイエスにつばきし,またその顔をおほひ,拳にてうちなどしはじめて言ふ,『預言せよ』下役どもイエスを受け,手掌にてうてり」。(マルコ 14:65)なんと不当なしうちでしょう! それら群衆は悪魔に動かされていたのです! サタンはそうした人々を扇動して,イエスを虐待し,はずかしめたのです。こうした事態はペテロにどう影響しましたか。はたしてペテロは,その主人に見習い,そうしたつらい状況の下で正しい平衡を保てるでしょうか。
13 イエスがこのようにあしらわれたことは,ペテロにどんな影響をもたらしましたか。
13 このことについては,疑問の余地は少しもありません。聖書の記録はこう続いています。「ペテロ下にて中庭にをりしに,大祭司のはしための一人きたりて,ペテロの火にあたたまりをるを見,これに目をとめて『なんぢも,かのナザレ人イエスとともにゐたり』と言ふ。ペテロうけがはずして『われは汝の言ふことを知らず,またその意をも悟らず』と言ひて庭口にいでたり。はしためかれを見て,また傍らに立つ者どもに『この人は,かのともがらなり』と言ひいでしに,ペテロ重ねてうけがはず。しばらくしてまた傍らに立つ者どもペテロに言ふ『なんぢはたしかに,かのともがらなり,汝もガリラヤ人なり』この時ペテロ盟ひ,かつ誓ひて『われは汝らの言ふその人を知らず』と言ひいづ」― マルコ 14:66-71。
14 ペテロはどうしてキリストを否定しましたか。
14 しかしそれは真実の答えではありません。ペテロは確かにイエスを知っていました。事実,これよりもほんの数時間前,まだイエスとともにいたとき,彼はこう断言したのです。「主よ,我は汝とともに獄にまでも,死にまでも往かんと覚悟せり」。「たとひみな汝につきてつまづくとも我はいつまでもつまづかじ」。(ルカ 22:33。マタイ 26:33)ペテロの態度のこうした急変は何によるものでしたか。恐れのためでした。彼は予期しない事態に陥ったのです。イエスはいまわしい犯罪者とされ,真実はゆがめられ,かつて正しかったことは誤りとされ,無実の者が有罪とされたのです。あわれにもペテロの正しい忠節な心は突如くずれてしまいました。聖書はこう述べています。「彼は泣きくずれた」― マルコ 14:72,新。
それは今日でも起こり得る
15 (イ)ペテロが直面したと同様な状況にわたしたちも直面し得ると,どうして言えますか。(ロ)ペテロはこの経験のために,平衡を失った状態に最後までとどまっていましたか。
15 今日でも同様な状況が起こり得ます。悪魔サタンは今も活動しており,クリスチャンの平衡を失わせ,神との関係をそこなわせようと努めています。ペテロにかんして成功した策略が,現代のクリスチャンに対して用いられるのはまず確実です。確かにペテロは霊的な平衡を急速に取り戻しました。彼は深く非を悔いて,心から許しを求め,また許しを得ました。そして,人気のないイエス・キリストの,きわめて勇敢な奉仕者のひとりとなり,エホバ神に忠実を保って死にました。それにしても,自分の主人であるイエス・キリストを3回否定した時の経験は,どんなにつらいものだったでしょう! そうした経験を避けられるなら,なんと幸いでしょう! あなたは,ペテロが直面したと同様な状況に立ち向かう覚悟をしていますか。それは起こり得ることであり,また確かに起こります。
16 今日の一部のクリスチャンの平衡を失わせるどんな原因がありますか。
16 献身したクリスチャンが不当な恐れのために平衡を失い,エホバ神との正しい関係を忘れさせられるような事態は今も数多くあります。御国の音信を携えて家々を訪問するところを見られたなら,近所の人にどう思われるだろうかという恐れかもしれません。そうです,仲間の従業員に見られたなら,どうなるでしょう! 最も大切なのは,自分が神にどう見られているかということですが,この点を忘れた人にとって,それはなんと恐ろしい事柄でしょう! とくに思春期の子供たちは,人からどう思われるかを気にしがちです。
17,18 学校の教室で,ある問題が討議され,そのために,ペテロがかつて直面したような状況の生ずる場合がありますか
17 たぶんあなたは若いクリスチャンかもしれません。では,あなたの学校の教室を背景にし,聖書にかんするエホバの証人の信仰がそこで討議されることにしましょう。生徒の間にはかなりの偏見と愛国主義的な精神が見られ,ひとりの生徒はこう主張します。「エホバの証人は危険人物で,政府に反対しています」。これはイエスが処刑の日に受けた非難と同じものです。(ルカ 23:2)別の生徒はこう非難します。「エホバの証人は投票もしないし,自分の国のために戦うこともしません」。しかしイエス・キリストや初期クリスチャンの一貫してとった道は,諸国家の政治問題にかんする厳正中立の立場でした。(ヨハネ 6:15。15:17-19。ヤコブ 4:4)現代の一教科書はこう述べています。「熱心なクリスチャンが軍隊にはいったり,行政官庁の職についたりすることはなかった」。a しかし生徒や先生は,こうした問題にかんする聖書の教えや,初期クリスチャンの信仰と実践についてはあまり知りません。こうして討論は緊張の度を深めてゆきます。
18 一女生徒はこう主張します。「エホバの証人は,クリスマスさえ祝わないのですから,キリスト教の反対者です!」 エホバの証人に対する反感はいっそうつのってゆきます。生徒たちは,クリスマスが異教の祝いで,聖書の裏づけのない行事であり,初期クリスチャンは祝わなかったことを知らないのです。また,このことを指摘する権威ある参考書のことばをも知りません。この時,他の生徒がこう非難します。「エホバの証人は自分の子供を愛していません。命を救う輸血を施させず,子供を見殺しにするではありませんか!」 エホバの証人はなんというむごい人間だろう! こうした感情が生徒たちを支配しはじめます。血を食べることは聖書できびしく禁じられており,初期クリスチャンは動物あるいは人間の血のいずれを問わず,血を全く避けたことを生徒たちは知りません。b ―レビ 17:10。使行 15:20,29。
19 (イ)そうした事態の下で,年若いクリスチャンはどんな質問に直面するでしょうか。(ロ)こうした可能性を見越して,いつ備えるべきですか。
19 この時,教室内のだれかがあなたに向かってこう尋ねます。「あなたはエホバの証人のひとりではありませんか」。ここであなたは,使徒ペテロが直面したと同様な事態に立たされます。あなたは何と答えますか。その事態にどう対処しますか。クリスチャンの正しい平衡を保ちますか。イエス・キリストがされたように,エホバ神の忠実な証人として仕えますか。(ヨハネ 17:6。黙示 1:5)生じ得るこうした状況に対処するために備えるのは今です。そのような事態の下でイエス・キリストの大胆な手本に従うことをしっかりと心に決めるべき時は今です。そうすれば,平衡を失わずに済むでしょう。
前もって備える
20 クリスチャンの正しい平衡を保つには,何が必要ですか。イエスは,自らこの必要を悟っておられたことを,どのように示されましたか。
20 エホバ神との正しい関係を保ち,クリスチャンの平衡を保つには,祈りが必要です。また,神のみことばを定期的に考慮しなければなりません。イエスはこのことを知っておられ,地上の生涯の最後の重大な幾時間かのときには,特にその必要を感じておられました。ですから,その最後の夜,2階の一室で弟子たちとともに過ごされた時,信仰を強める霊的な事柄について励みのある話をされ,次のような結びのことばを述べられました。「なんぢら世にありては患難あり,されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」。それから最後に弟子たちとともに祈りをささげ,その後,ゲッセマネの園に向かって一緒に出かけました。―ヨハネ 16:33–18:1。
21,22 ゲッセマネの園で,弟子たちはキリストの手本に見習わなかったことを,どう示しましたか。
21 イエスは戸外のその園で,天の父に引き続き祈りをささげ,神の導きと指示を求められました。また,ひとりで祈るため,弟子たちのもとを離れる時,イエスはペテロと他の二人の弟子にこう語りました。「汝らここにとどまりて目を覚しをれ」。弟子たちはそうしましたか。イエスのご命令に従いましたか。聖書には,「(彼)来りて,その眠れるを見」,としるされています。なんと残念なことでしょう! これでは弟子たちは前途の事態に決して備えることができません。そこでイエスはペテロに向かってこう告げました。「シモンよ,なんぢ眠るか,一時も目を覚しをることあたはぬか。なんぢら誘惑に陥らぬやう目を覚し,かつ祈れ。げに心は熱すれども肉体よわきなり」。(マルコ 14:32-38)それは確かに夜ふけで,おそらく真夜中もとうに過ぎていたことでしょう。それにしても弟子たちはイエスの手本にならうべきでした。それは,霊的な事柄に普通以上の注意を払うべき時でした。神の女の約束のすえがまさに砕かれようとしていたのです! なんと重大な時でしょう!―創世 3:15。ガラテヤ 3:16。
22 それでペテロと他の弟子たちは,二度目の今,イエスの緊急な励ましのことばを真剣に考慮するでしょうか。マルコの記録はこう述べています。「再びゆき,同じことばにて祈り給ふ。また来りて彼らの眠れるを見たまふ,これその目,いたく疲れたるなり,彼ら何と答ふべきかを知らざりき」。(マルコ 14:39,40)ペテロとその仲間の者たちは聞いていなかったのです! イエスのご命令に注意を払いませんでした。三度目に祈るため立ち去る前にも,イエスは,目を覚まして祈っていなさいと弟子たちに促したに違いありません。ところがまたもやその勧めは見過ごされました! それで,イエスは「三度来りて言ひたまふ『今は眠りて休め,足れり,時きたれり。みよ,人の子は罪人らの手にわたさるるなり。起て,われら往くべし,みよ,我を売る者ちかづけり』」としるされています。―マルコ 14:41。
23 (イ)弟子たちがイエスを見捨てるに至ったのは,明らかにどんな要因によるものでしたか。ゆえに,どんな点を幾ら強調しても,強調しすぎることはありませんか。(ロ)どんな根拠から,今日サタンがなお一層活発に働いていると考えられますか。
23 預言されていたとおり,そのすぐのちに弟子たちがイエスを捨てて逃げることを余儀なくさせられた一つの要因は,おそらくこうした昏睡状態にあったのではないでしょうか。(マルコ 14:50。マタイ 26:31。ゼカリヤ 13:7)クリスチャンが信仰の試練に首尾よく対処するには,前もって備え,自らを霊的に強めることが肝要です。この点は幾ら強調しても,強調しすぎることがありません。そしてこのことは昔と同様,今日でも真実です。というのは,違う点があるとすれば,それはこの時代がサタンの働きのいっそう活発な時だからです。聖書の預言は,近年この世代になってサタンとその悪霊が天から放逐され,天の声が発表した次のような事態が生じていることを明示しています。「地と海には災いである。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをもって,あなたがたのところに下ったからである」。(黙示 12:12,新)今がまさに災いのその短い期間なのです! サタンは全力を尽くして,クリスチャンに平衡を失わせ,神の恵みからふるい落とそうと努めています。
24 平衡を保つために,クリスチャンはすべて何をしなければなりませんか。
24 ゆえに今は,霊的な昏睡状態に決して陥らないようにすべき時です。そして,自らを霊的に奮い立たせ,目前に迫っている信仰の試練に備えねばなりません。自分は久しい年月,活発なクリスチャンとして歩んできたのだから,エホバ神と自分との関係を危うくし,神の恵みを失うような恐れは決してないという態度をとってはなりません。また,会衆の集会を欠かしてもだいじょうぶだとか,霊的な事柄が論じられている時に注意を払わなくてもよいなどと考えないでください。(ヘブル 2:1; 10:24,25)クリスチャンの正しい平衡を保ちたいと願うなら,わたしたちはすべて,神のみことばを自分個人で,また仲間のクリスチャンと定期的に研究し,霊的にいつも油断なく注意していなければなりません。また,祈りをなおざりにすることもできません。神との定期的な連絡によって築かれる密接な関係は,平衡にとって絶対に欠かせない事柄です。キリストの手本にならってください! キリストは,地上で生活した人の中でも霊的に最も強い人だったにもかゝわらず,たゆまず祈られ,人間としての生涯の最後の夜の間は特にそうされました。霊的な平衡を保ちたいと願うなら,わたしたちも同じことを行なわねばなりません。
いつも賞に目をとめなさい
25 イエスが平衡を保つのに役だったのは,どんな事柄でしたか。
25 イエスにとって,霊的な平衡を保つのに役だったのは,天の御父を喜ばせ,神からとこしえの命をいただくという喜びをいつも心の中で大切にすることでした。ゆえに,わたしたちはこう勧められているのです。「信仰の導師またこれを全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。彼はその前に置かれたる歓喜のために,恥をも厭はずして〔刑柱〕をしのび,遂に神の御座の右に坐し給へり」。(ヘブル 12:2,〔新〕)それで平衡を保つには,イエスの模範に従ってください! あなたの創造者に誉れをもたらし,命の賞を創造者から受ける特権にいつも目をとめてください!
26 神の事柄を生活の中で第一にするのは,なぜ必ずしも容易なことではありませんか。
26 しかし,目に見えないエホバ神の事柄をいつも第一にするのは,必ずしも容易なことではありません。人を魅惑するものがあまりにも多い今の世においては特にそう言えます。お金や,お金で買える多くの魅力的な物品はその一例です。多くのクリスチャンは物質的なものに対する欲望をほしいままにして平衡を失いました。(テモテ後 4:10)彼らは,御父の事柄を常に第一にしたイエス・キリストに見習うことをしませんでした。事実,イエスは個人的な楽しみを完全に第二義的なものとしていたので,かつて次のように言われました。「きつねは穴あり,空の鳥はねぐらあり,されど人の子は枕するところなし」― ルカ 9:58。
27 モーセとダビデはどんなすぐれた手本を残しましたか。
27 族長モーセも,神の崇拝を生活の中で常に第一にして,手本を残しています。パロの娘の子として育てられた彼は,古代のその強大な支配者の王宮の栄華を享受したに違いありません。しかしモーセはエジプトのすべての富を退けて,エホバのしもべとして侮べつの的となる道を選んだのです。なぜ? 聖書の記録はこう述べています。「これ見えざる者を見るがごとく耐ふることをすればなり」。(ヘブル 11:23-27)そうです,モーセは,目に見えない神エホバにしっかりと目をとめていました。モーセが霊的な平衡のすぐれた手本を残し得たのは,エホバとの正しい関係を保ったためです。すべてのものはエホバに属しており,人間が神に返し得るものは,崇拝と献身のみであることを彼は悟っていました。後日,詩篇の作者ダビデは,同様の平衡のとれた見方を持ち,こう書きました。「われ常にエホバをわが前におけり」― 詩 16:8。
28 結論としてどんな勧めに真剣にきき従うべきですか。
28 クリスチャンの正しい平衡を保つには,わたしたちもこのような見方を持たねばなりません。物質上の魅力的なものがいたるところにあふれている今日,このことはとくに真実です。そうしたもののいずれにでも重きをおきすぎれば,平衡を失うことになり得るのです。それで,上にある事柄,目に見えないあなたの神にいつも目をとめ,利己的な物質の追求を第一の関心事にしないでください。(コロサイ 3:2)そうです,クリスチャンの平衡を保ち,永遠の命の賞を得るため,イエス・キリストの手本に従ってください。彼は,「あなたがたがその足跡にしっかり従うように模範」を残されたからです。―ペテロ前 2:21,新。
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人間関係において平衡を保つものみの塔 1969 | 1月15日
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人間関係において平衡を保つ
「神を愛する者は,自分の兄弟をも愛しているべきである」― ヨハネ第一 4:21,新。
1 クリスチャンの平衡にとっては,神への愛以外に何が肝要ですか。使徒ヨハネはこのことをどう示していますか。
わたしたちの天の父,エホバ神に専心の献身をささげるのは,クリスチャンの平衡にとって肝要なことです。しかし神へのそうした献身と密接なつながりを持っているのは,仲間の人間,特に,クリスチャンの信仰にあってわたしたちと関係を持つ人々に対する愛です。(ガラテヤ 6:10)つまり,クリスチャンの平衡を保つには,わたしたちのクリスチャン兄弟との正しい関係を持つことも必要なのです。使徒パウロは次のように書いて,このことを明確に指摘しました。「もしだれかが,『わたしは神を愛している』と言いながら,自分の兄弟を憎んでいるなら,その者は偽り者である。というのは,すでに見ている兄弟を愛さない者は,まだ見たことのない神を愛することができないからである。そして,わたしたちはこの戒めを神から受けている。すなわち,神を愛する者は,自分の兄弟をも愛しているべきである」― ヨハネ第一 4:20,21,新。
2 人間関係については,この世的などんな見方がしばしばとられていますか。クリスチャンは自分の仲間にどんな態度をとるべきですか。
2 それにしても仲間のクリスチャンを愛するとは,どういうことですか。クリスチャン相互の正しい関係とは何ですか。クリスチャン会衆内の互いの交わりをどう見るべきですか。多くの場合,この世的な見方は,自分の名声やイメージの高揚を図る下心をいだいて,友だちや仲間を求めることです。この世的な人々は往々にして,自分が他の人間よりもすぐれている,もしくは,より重要であると考えます。そしてしばしば他の人間を利用し,だまし,あるいは傷つけることを,人からされないうちに,いち早く自らします。しかし平衡の取れたクリスチャンの見方はなんと異なっているのでしょう! 神のみことばの,霊感による勧めのことばに注目してください。「何事にまれ,徒党また虚栄のためにすな,おのおの謙遜をもて互に人を己にまされりとせよ。おのおの己が事のみを顧みず,人の事をも顧みよ。汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。すなはち彼は神のかたちにて居給ひしが……己をむなしうし僕のかたちをとりて人のごとくなれり」― ピリピ 2:2-7。
3 もしあらゆる人がキリストと同じ態度をとったなら,どんな生活を行なえるでしょうか。
3 もしあらゆる人が聖書のこうした助言に従って生活し,イエス・キリストの手本に見習うなら,生活はどんなに楽しいものでしょう! 他の人の持ち物あるいは能力を利己的にむさぼることはなく,他の人の面目を傷つけて,自分がすぐれていることを誇示する愚行も見られないでしょう。また,他の人を目立たせて,当惑させることも行なわれません。自分を重要視するあまり,自らを目立たせ,ひいでた存在にしようとして,平衡を失い,また不愉快な関係をもたらすのは,この世の人の利己的な態度です。それで次のような使徒の助言にクリスチャンが聞き従うのは,なんと肝要なことでしょう。
4,5 聖書のどんな助言に従うのは肝要なことですか。いつも容易にそうすることができますか。
4 「この世にならふな……心をかへて新にせよ……汝らおのおのに告ぐ,思ふべきところを超えて自己を高しとすな……兄弟の愛をもて互に愛しみ,礼儀をもて相譲り……相互に心を同じうし,高ぶりたる思をなさず,かへって卑きにつけ。なんぢら己をさとしとすな」― ロマ 12:2,3,10,16。
5 しかし,わたしたちの兄弟を愛し,謙遜になり,また徒党あるいは虚栄のために物事をしてはならず,他の人を自分よりもまさった者と考えるようにと人に話すのは,霊感の下に与えられたこうした助言を自ら実行することよりもはるかに容易です。イエス・キリストの使徒たちでさえ,誤った見方のために一時,ひどく平衡に欠けていました。このことは,西暦33年ニサンの14日の夜,エルサレムのある家の二階の一室で,彼らがイエスとともに祝った過ぎ越しの食事の際に,再びあらわに示されました。
だれが最も偉い人間かにかんする論争
6 (イ)西暦33年の過ぎ越しの夜,イエスの使徒たちの間でどんな不穏な論争が持ち上がりましたか。その何日か前に同様な議論が引き起こされたのは,どうしてですか。(ロ)イエスはその追随者間の正しい関係について何と言われましたか。
6 主の晩さんが終わったのちのこと,「己らのうちたれか大ならん」との,地位もしくは階級にかんする不穏な論争が使徒たちのあいだで持ち上がりました。(ルカ 22:24)イエスの地上の宣教の波乱に富む最後の週を迎えて,彼らがエルサレムにはいろうとしていた数日前にも,この同じ問題が持ち上がったのです。この時は,使徒ヤコブとヨハネの母がイエスのもとに来て,自分のむすこたちのために御国で重要な地位を与えてほしいと求めました。聖書の記録によれば,「十人の弟子これを聞き,二人の兄弟のことによって憤る」とあります。しかしここでイエスは,神の組織内の取り決めが,この世で弟子たちのなじんできたものとは全く異なっていることを指摘して,弟子たちの怒りの感情を静めました。彼らの中で責任の地位に立つ者は,仲間の者たちのしもべでなければならないとイエスは述べたのです。そうです,こう言われました。「かしらたらんと思ふ者は汝らのしもべとなるべし。かくのごとく人の子の来れるも事へらるるためにあらず,反って事ふることをなし,またおほくの人のあがなひとして己が生命を与へんためなり」― マタイ 20:17,20-28。
7 イエスの助言の意味を理解することが使徒たちにとって困難だったのは,なぜですか。
7 しかし明らかに使徒たちは,イエスのこのことばの意味を理解できませんでした。イエスの言われたことは,あまりにも新しく,また,それまでになじんできた慣行からかけはなれていたため,弟子たちはそれを聞いても,この世的な考えを心から取り除くことができませんでした。そして,お互いの関係について,平衡の欠けた見方をいだいていました。彼らはおそらく,ダビデの家系の王の治めたイスラエルの昔の時代を想起し,メシヤとしての王イエス・キリストもまた,高い地位や階級を持つ人間で構成される地上の政府を持つものと考えていました。そして,そうした高い官職につきたいという個人的な野心をいだいていたかもしれません。それで,主の晩さんが制定されたのちのことを,弟子ルカはこうしるしています。「彼らのあいだでは,自分たちの中で最も偉いのはだれかという激しい論争も持ち上がった」― ルカ 22:24,新。
8 (イ)この論争に接したイエスは,どう感じられたに違いありませんか。(ロ)それは何を示すものですか。
8 これはささいな議論ではなく,むしろ「激しい論争」だったことに注目してください。これは明らかに使徒たちがかねがね考えてきた問題であり,今や大規模な論争として爆発したのです。イエスはこのことをどんなにか悲しまれたに違いありません! それまでの年月イエスは弟子たちとともに歩まれ,へりくだった謙遜な態度の手本を一貫して示されたのちなのです! しかも今,このような時に臨んで,こうした争いが生じたのです! これはイエスの地上の生涯における最後の夜であり,彼は教えと励ましをこめた別れのことばを使徒たちに与えようとしていた時でした。その夜,イエスが神の国に言及したことが,使徒たちの間にこの論争をまき起こすきっかけとなったに違いありません。このことは,偉くなりたい,高い地位や名声を得たいとの欲望が,不完全な人間の心の中にどれほど深く巣食っているかを,まざまざと示しています。
イエスの愛ある助言と手本
9 イエスはこの論争をどう扱われましたか。
9 この論争をイエスはどう取り扱われましたか。彼は弟子たちをきびしく正されましたか。手きびしく非難して,弟子たちをはずかしめましたか。いいえ,それどころか愛のある仕方で,疑いもなく訴えるような声で,キリスト教の取り決めはこの世のそれと全く異なることを再び弟子たちに忍耐強く指摘して,こう言われました。「異邦人の主は,その民をつかさどり,また民を支配する者は,恩人と称へらる。されど汝らはしかあらざれ,汝らのうち大なる者は若き者のごとく,頭たる者は事ふる者のごとくなれ」。それからイエスは彼らに尋ねました。「食事の席につく者と事ふる者とは,何れか大なる」。食事の席につき,仕えられる者は明らかに偉い者と見なされています。ところがイエスはこう指摘されました。「されど我は汝らの中にて事ふる者のごとし」― ルカ 22:25-27。
10 使徒たちがイエスのことばを理解したかどうかについて,どんな疑問が生じますか。
10 弟子たちは,ここでイエスが教えられたことを,理解したでしょうか。クリスチャンはすべて兄弟であり,クリスチャンの組織内でより重い責任を与えられた人は,「若き者」であって,へりくだった心をいだき,他の人を自分よりもすぐれた者とみなすべきことを十分に悟り得ましたか。(マタイ 23:8-12)クリスチャンの組織内の順序は,この世で一般に通用しているそれとはまさに正反対であるべきことを悟りましたか。弟子たちは,イエスが自分たちの先生そして指導者であり,事実,自分たちの中でも最も偉い方であることを認めていました。それは疑いのない事実でした。しかしその夜のはじめごろ,イエスはご自分の弟子たちの足を洗われました。(ヨハネ 13:1-12)イエスは事実,そこで彼らに仕えられたのです!
11 イエスはどんな仕方でご自分の追随者に仕えられましたか。
11 イエスが,「我は汝らのうちにて事ふる者のごとし」と述べられたとき,弟子たちの先生として単に霊的な仕方で彼らに仕えていると言われたのでないことは明らかです。そうではなく,イエスは事実,文字どおり彼らを世話し,仕え,そして普通あまり偉くない人がすることを自ら行なわれました。ところでイエスは,肉身で弟子たちと一緒に過ごすその最後の日に,ペテロとヨハネを一足さきにエルサレムにつかわされ,そして二人は「過越の備えを」しました。―マタイ 26:17-19。ルカ 22:7-16。マルコ 14:12-18。
12 この論争ののちにイエスは助言を与えましたが,その前に,どんな意義深い仕方で十二使徒に仕えられましたか。
12 その夜の出来事の一目撃者である使徒ヨハネは,その模様をしるしています。それによれば,イエスは「夕餐より起ちて上衣をぬぎ,手巾をとりて腰にまとひ,ついでたらひに水をいれて,弟子たちの足をあらひ,まとひたる手巾にてこれを拭ひはじめ」られました。(ヨハネ 13:2-5)あなたはこのことを想像できますか。イエスは事実ご自分の使徒のひとりびとりのそばに行き,ひざをついて彼らの足を洗い,そしてふいたのです! イスカリオテのユダにさえそうしました!
イエスのこの行為の意義
13 他の人の足を洗う昔の風習を示すどんな例が聖書にありますか。普通この仕事はだれに割り当てられていましたか。
13 当時,他の人の足を洗うことそれ自体は,異常なことではありませんでした。それら東洋の国々では,道路はたいていほこりが多く,それに一般の人々はサンダルを用いるか,あるいははだしで歩いたので,足はよごれました。それで,家に客を迎える場合,訪問者の足を洗うのは,家の主人の側からのもてなしの行為の一つでした。アブラハムとロトはいずれもこうしたもてなしを見知らぬ人に示しましたが,その客はほかならぬ肉のからだをつけた天使でした。(創世 18:4; 19:2。ヘブル 13:2)しかしイエスをもてなした一パリサイ人は,このことをしませんでした。(ルカ 7:44)この仕事は当時,最もいやしい仕事の一つと見なされ,普通,家庭内の最もいやしいしもべの務めでした。したがって,若い婦人アビガルがダビデのしもべに次のように告げた時,真実の謙遜さを表わしました。「みよ しもめはわが主のしもべたちの足を洗ふ仕女なり」― サムエル前 25:41。テモテ前 5:10。
14 イエスは,この時になって,なぜ使徒たちの足を洗われたのですか。しかしペテロは最初どんな態度をとりましたか。
14 イエスは,ご自分の教えの要点を銘記させるために,この最もいやしい,しかし欠くことのできない奉仕を選んで行なわれ,使徒たちの足を洗いはじめられました。使徒ペテロは,イエスがなぜこのことを行なわれるのかが理解できなかったため,いやしい奴隷のように振舞って自分に仕えるその主人のすることに異議を唱えました。しかしイエスはペテロにこう語りました。「わがなすことを汝いまは知らず,のちに悟るべし」。それから,洗い終えたイエスは,ご自分の上衣を再びつけ,食卓につき,彼らに次のように説明されました。
15 イエスは,ご自分の追随者の足を洗うことの理由を,どのように説明しましたか。
15 「わが汝らになしたることを知るか。なんぢら我を師また主ととなふ,然か言ふは宜なり,我はこれなり。我は主また師なるに,尚なんぢらの足を洗ひたれば,汝らも互に足を洗ぶべきなり。われ汝らに模範を示せり,わがなししごとく,汝らもなさんためなり。まことに汝らに告ぐ,しもべはその主よりも大ならず,遣されたる者はこれを遣す者よりも大ならず。汝らこれらの事を知りてこれを行はば幸福なり」― ヨハネ 13:6-17。
16 イエスはこの行為を通して,どんな教訓を与えようとしておられましたか。
16 イエスは,へりくだった心の大切さを,なんとすぐれた仕方で使徒たちに教え込まれたのでしょう! 名誉や名声を伴う地位を追い求めるのではなく,むしろ最もいやしい務めを互いに喜んで行なうべきことを,なんと効果的に示されたのでしょう! キリスト教国の一部の教会で大変偽善的な仕方で行なわれている足を洗う儀式を,イエスがこゝで制定されたのではありません。イエスが教えておられたのは,謙遜な心の態度,つまり他の人の事柄を考え,自分たちの兄弟のために最もいやしい仕事を喜んで遂行しようとする心構えだったのです。これこそクリスチャンが互いに対して保たねばならない,平衡のとれた態度です。
17 使徒たちがイエスの教えの趣旨を悟ったことを示すどんな証拠がありますか。
17 ペテロや他の使徒たちはその趣旨を悟りました。(ペテロ前 3:8)これは一つの教訓で,それら忠実な人々は多くを学びました。というのは,聖書の記録の示すとおり,彼らは,平衡のとれたこうした見方を保ち,ともに一致して働き,クリスチャン会衆を築き上げたからです。だれひとりとして自らを目立たせ,あるいは名声を上げようとはしませんでした。事実,何年かののち,割礼にかんする重大な問題が持ち上がった時,エルサレムで「使徒・長老たち……協議せんとて集(り)」,秩序のある仕方で問題を討議しました。その会議を司会したのは,明らかに使徒のひとりではなく,イエスの異父兄弟である弟子ヤコブでした。―使行 15:6-29; 12:1,2。
新しい戒め
18 イエスは,ご自分の追随者のために残した手本に,あとで再びどのように注意を向けさせましたか。
18 イエスは,使徒たちの足を洗い,イスカリオテのユダを退場させたのちに,ご自分がすでに示してこられた手本に再び注意をひき,残った11人の者にこう言われました。「われ新しき誡命を汝らに与ふ,なんぢら相愛すべし。わが汝らを愛せしごとく,汝らも相愛すべし。互に相愛することをせば,これによりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん」。(ヨハネ 13:34,35)割礼を受けたユダヤ人として律法下にある使徒たちは,自分自身のように隣人を愛せよとの戒めの下にすでにあったのです。(マタイ 22:39。レビ 19:18)しかし今やイエスは,ご自分の真の追随者はその手本に見習い,さらに大きなすぐれた愛を表わすことによって見分けられるであろうと言われました。
19 イエスは,愛を表わすどんな特異な手本を残しましたか。
19 確かにイエスは,愛を示すという点で特異な手本を残されました。きわめて精力的に働き,自らを費やして他の人に仕え,自分の事柄よりもまず他の人の事柄を考慮されました。人々が命の道を歩むのを助けることに全く没頭されたので,人間の普通の楽しみをしばしば犠牲にされました。(ルカ 9:58)これは,律法の要求する隣人愛をはるかに越えて愛を表わすことでした。二人の使徒が母親を説得して,自分たちを御国の主要な地位につけてもらうことを依頼させたとき,イエスが言われた次のことばを読者は思い起こされるでしょう。「人の子の来れるも,事へらるるためにあらず,反って[他の人々のしもべとなって]事ふることをなし,またおほくの人のあがなひとして己が生命を与へんためなり」。(マルコ 10:35-45。マタイ 20:20-28)イエスは自分が称揚されることを決して求めず,その追随者に謙遜に仕え,ついには,彼らのためにご自分の命を与えるほどに自らを低くされました。なんとすぐれた模範的な愛でしょう!―ピリピ 2:8。ヨハネ 15:12,13。
20 愛を示すイエスの手本に見習うことは,わたしたちのクリスチャン兄弟との関係にどんな影響をもたらしますか。
20 イエスのこの手本に見習うのは,クリスチャンとしてのわたしたちの義務です。わたしたちは,イエスがなさったようにエホバ神を愛するにとどまらず,イエスが追随者に示された無私の愛に見習わねばなりません。(ヨハネ第一 4:20,21)あなたはイエスが表わされた種類の愛をいだいていますか。仲間のクリスチャンのために自分の命を捨てることができますか。仲間のために文字どおり自分の命を犠牲にするようにもとめられることはまずありませんが,一旦事あるときには,喜んでそうするほどの愛を持っていなければなりません。「我らもまた兄弟のために〔自分の魂〕を捨つべきなり」と使徒ヨハネは述べました。(ヨハネ第一 3:16,〔新〕。ロマ 16:3,4)考えてください。もしそれほどの愛があるなら,兄弟たちの益のために喜んで謙遜に奉仕すべきではありませんか。兄弟たちのために喜んで自分の魂を捨てられるなら,彼らにやさしく,親切で,思いやりを示すべきではありませんか。イエスが追随者に努めて教え込もうとされたのは,この点に関する教訓でした。
心を作り変える
21 なぜクリスチャンは,心を作り変えて自分を新たにしなければなりませんか。
21 仲間のクリスチャン兄弟との正しい関係を保つには,「この事物の体制にそって形造られるのをやめ……心を作り変えて,自分を新たにし」なければなりません。このことはなんと明白でしょう!(ロマ 12:2,新)クリスチャンの心構えは,世の人々のそれとは大いに異なります。牧師や医師,科学者や法律家などのように,特別な教育を受けた人々が,高慢な態度をとり,自分は他の人間よりもすぐれていると考えるのは,ごくありふれたことです! スポーツや映画界の有名人,あるいは見事な美しい容姿や,まれに見るすぐれた知性の持ち主のように,特別な才能を備えた人々についても同じことが言えます。そうした人々は,人から称賛されるために,しばしば尊大な態度を持つようになります。しかし,平衡のとれたクリスチャンの態度は,「謙遜をもて互に人を己に勝れり」とする態度であることを忘れないでください。―ピリピ 2:3。
22 へりくだって,他の人を自分よりもすぐれた人と見なすことは,何を意味していますか。
22 しかし,へりくだって他の人を自分よりもすぐれていると見なすとは,どういう意味ですか。それは,熟練したバイオリン奏者が,バイオリンを手にしたことのない友だちを,自分よりも上手な演奏家と見なすようなことではありません。それは明らかに真実に反しています。訓練を積み,あるいは才能に恵まれているため,同様な訓練を受けたことのない,あるいはそれほどの才能に恵まれていない他の人々より一芸にひいでている人はかなりいます。しかしそれだからといって,他の人よりすぐれているとは言えません。また,他の人を自分よりも劣った者と見なして,高慢になるべきではありません。聖書がここで言及しているのは,人間の心構えです。クリスチャンの誠実な態度は,他の人々を自分よりもすぐれた者と見なす態度です。とにかく自分はすぐれているのだから,他の人から世話され,仕えられるべきだと決して考えてはなりません。イエスの使徒たちが手をかけたり,意を用いたりしたわざで,イエスがはるかに上手に行なえないものは一つもありませんでした。ところがイエスは謙虚に彼らに仕え,身をかがめてその足を洗うことさえされたのです!
23 平衡のとれた見方を持つクリスチャンは,この世の多くの人とどのように異なっていますか。
23 こうした謙遜な心の態度を本当に表わす人は,なんと気持ちの良い楽しい人でしょう! また,仲間のクリスチャン兄弟に対して,なんと平衡のとれたすぐれた見方を持っているのでしょう! そうした人は,この事物の体制に属する人々とは全く異なっています。かなりのお金や資産を持つ人もいますが,単にそうした理由で,資産の少ない人以上に特別の敬意を自分が受けるべきだとは考えません。お金があるからといって自分がすぐれた者になるわけではないことを悟っており,分に応じて事を運びます。(テモテ前 6:17)同様に,特定の人種や国籍に属しているからといって,他の人よりすぐれているわけでないことも悟っています。ゆえに謙遜な心を保ち,あまり知られていない人種や国籍の人々をさえ,自分よりもすぐれた人であると誠実に考えます。―ロマ 10:12。
24,25 愛とへりくだった態度を実際に表わすことで特に率先しなければならないのはだれですか。
24 任命された監督,補佐のしもべ,その他,クリスチャンの組織内で特別の奉仕の特権にあずかる人は,特にこうした謙遜な心構えをいだくべきです。会衆内の他の人は,これらの人々と協力し,またその信仰に見習うようにと確かに勧められています。しかし,先頭に立って事を運ぶそうした人々が,集会を司会するとか,すぐれた話をする能力や組織力にひいでている,あるいはエホバへの奉仕により多くの時間をささげ得るからといって,自分はすぐれていると,決して考えてはなりません。(ヘブル 13:7,17)使徒ペテロは,神の羊の群れを牧する責任のある古い人々に従うことを,年若い人に勧めたのち,次のように命じたことばに注目してください。「皆たがひに謙遜をまとへ『神は高ぶる者を拒ぎ,へりくだる者にめぐみを与へ給ふ』」。(ペテロ前 5:5)だれひとり例外はありません。先頭に立って事を運ぶ者をも含めて,すべての人が謙遜を身につけるのです。「キリストを畏みて互にしたがへ」と聖書は命じています。―エペソ 5:21。
25 実際のところ監督は,へりくだった謙遜な態度の手本を示す人であるべきです。これは正しい羊飼いイエス・キリストの行なわれたことです。イエスは,その追随者が愛と謙遜を身につけることの大切さを,手本を示して十分に銘記させました。ですから監督もそうすべきです。監督はかしらではなく,兄弟たちのしもべです。(マタイ 20:25-27)これは監督が心にとめるべき肝要な事柄です。そうです,それはすべてのクリスチャンが十分に学ぶべき事柄です。というのは,お互いの間の関係で平衡を保つには,兄弟たちを愛していなければならず,自分が兄弟たちよりすぐれていると決して考えてはならないからです。―ヨハネ第一 4:21。ピリピ 2:2-4。
26 クリスチャンの平衡をいま保つべき,どんな真の励みがありますか。
26 地上に住む人すべてが,こうした気持ちの良い心の態度を持つ時のことを考えてごらんなさい! この地はなんと楽しい住みかになるでしょう! そのとき,すべて人々は,「慈悲の心・仁慈・謙遜・柔和」,なかんずく愛を完全に身につけるのです。(コロサイ 3:12-14)そうです,自分たちの心と思い,魂と力のすべてをこめて,あらゆる人はエホバ神を愛し,兄弟たちに対しては,キリストのような愛を示すでしょう。その時代に生きられるよう,今,平衡を保つのに,これはなんというすばらしい励みでしよう!
[50ページの図版]
使徒たちに謙遜について教えたイエス
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神はなぜカナン人の絶滅を命じられたかものみの塔 1969 | 1月15日
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神はなぜカナン人の絶滅を命じられたか
それは何と偉大な解放だったのでしょう! エホバ神は,忠実なアブラハムの子孫であるイスラエル民族を,エジプトの苛酷な奴隷の境遇から解放されました。奇跡的にも紅海の水が分かれ,イスラエル人は乾いた通路を通ってのがれましたが,追跡したエジプト人は,せき止められた水を神がその上にくずれ落とさせたため,滅び去りました。(出エジプト 14:1-31)神はイスラエル人にこう説明されました。「我は汝らの神エホバにしてカナンの地を汝らに与へ かつなんぢらの神とならんとて汝らをエジプトの国より導きいだせし者なり」― レビ 25:38。
イスラエル民族は,その指揮者ヨシュアに率いられてその地にはいるに及んで,神のご命令にしたがいカナンの諸都市を征服し,徹底的に滅ぼしました。神はこう命じられました。「汝かれらをことごとく滅すべし彼らと何の契約をもなすべからず彼らを憫むべからず」。この命令に
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