神の目的とエホバの証者(その45)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
第29章 伝道の機会の戸はふたたび広くあけられる
ジョン: 1943年以来,アメリカ合衆国で御国の良いたよりをいっそう自由に伝道するための戸はあけられました。それは,アメリカの海岸よりも広く,うんと広く,あけられました。世界の半分の場所で,全面的な伝道禁止令もだんだん取除かれてきました。もっとも,ある場所の戸の「蝶つがい」は,さびついていて,キーキー音がしていたことはたしかです。
オーストラリアで最初の勝利が得られました。おぼえてらっしゃると思いますが,このオーストラリアでは,宗教指導者のそそのかした政治的な処置がエホバの証者に対して取られていました。そして,1941年1月18日の土曜日,政府はベテル本部を没収し,ついに,兵士たちがその敷地を占拠するようになりました。また,アデレードとパースにある御国会館も政府により没収されました。a
アデレードの会衆は,会館の所有権を持つために法人化されて,試験的な裁判が行なわれました。2年半にわたる裁判の後,この「法人団体エホバの証者のアデレード会対オーストラリア連邦」の件は,オーストラリアの高等裁判所で審議されました。1943年6月14日,裁判所はエホバの証者に4対1の勝利を与え,オーストラリアでエホバの証者を禁ずる政府の命令は違法であり,越権であると裁定しました。裁判所は,次のようにも裁定しました。すなわち証者たちは暴動の計画をしたこともなく,またオーストラリアの刑法の範囲内において暴動的な文書を出版したり,印刷したことは一度もないということです。さらに,裁判所は次のように述べました。
宗教の自由という論題に関する討議中,時折り述べられているのであるが,政府は宗教的な意見に干渉すべきでないが,宗教的な信条の実践に伴う行為を抑圧しても,宗教の自由の原則を破らないと論ぜられている。S116の解釈に関連して,この差別を維持することは,むずかしいように思える。その部分は,明白な言葉の中に,宗教の実践に言及している。したがって,宗教の実践に関連してなされる行為をオーストラリア連邦法律の施行から守るものである。かくして,この部分は意見の自由を守る以上を指す。それはまた,宗教の一部として,宗教的な信条を実践するための行為をも守る。b
エホバの証者は,自由にその宗教的な活動を行なうことができ,彼らのわざは国家の戦争遂行に対して偏見を持つものでない,と裁判所は裁定しました。
カナダのエホバの証者は,約2年間発言の自由が与えられなかったため,正式な抗議を提出することもできず,弁論することもできませんでした。1942年の6月,カナダの諸規定を擁護するための下院の選抜委員会にエホバの証者の代表者の発言がゆるされることになりました。1940年7月4日,戦時処置によってエホバの証者のわざは禁ぜられていました。この委員会は,エホバの証者の合法の法人団体に対する禁止令の撤回を全員一致ですいせんしました。しかし,新しい司法大臣エル・エス・セント・ローレントは,禁止命令の撤回を拒絶しました。c
自由思想の新聞は,公然と禁止令に反対するようになりました。また,下院でも,この問題に関して激烈な論議が行なわれ,議員の中のある者たちは,その禁止令に反対しました。ついに,1943年10月15日,エホバの証者の法人化されていない社会に対する禁止令は取除かれました。しかし,彼らの合法的な法人団体に対する禁止令は解消されなかったのです。戸はわずか開いただけで,トロントのベテル支部を再開することは不可能でした。d それで,兄弟たちは全面的な合法の承認を得るために,忙しく働きました。
6月全部が,署名を得るための月になった。しかし,請願状を完成して下院における討議のために提出する以前に,政府はカナダの万国聖書研究会に対する禁令の撤回を決定した。1944年6月13日に通過した政府命令の出版により,この決定は知らされたのであるが,一般公共に知らされたのは16日であった。この良いニュースは,国内の全部の会にすぐ知らされ,請願状の活動は中止された。この活動は急に中止されたが,22万3448の署名が得られたのである。その署名は,はじめの目的のために使用されなかったが,伝道者は署名した人々をよろこんで再訪問し,禁止令が取り除かれたという良いニュースを伝え,神権的な音信に対する彼らの興味を促進させた。エホバは,彼の選民のために,別の勝利を与えた。e
1943年10月に禁令がすこし取りのぞかれて後,兄弟たちはトロントのベテルを再開することができませんでした。しかし,彼らは御国会館を使用して,伝道することができたのです。カナダのわざに対して禁令の下された1940年,平均して6081人の伝道者がいました。しかし,それから3年後の1944年6月13日に,残っていた最後の禁令が取りのぞかれたとき,1万345人の伝道者がわざに参加していました。f 制限の課せられていた時代中において,これはほんとうにすばらしい増加でした。そして,エホバの証者が神の御心を行なうことに強い決意を持っていることをさらに明白に示すものでした。
神権宣教学校が開かれる
もっと多くの自由が与えられたアメリカ合衆国では,新しい教育計画が進歩し,奉仕の機会はさらに開かれました。この教育運動において,協会は第3番目のもっとも徹底的な段階を取る態勢をととのえました。いよいよあらゆる場所のエホバの証者の諸会衆を援助して,協会の奉仕者全部に個人的な訓練を与える時が来ました。これは,ブルックリン・ベテルで大へん良い効果を収めた神権宣教コースにまねて各地では学校が設立されました。この大きぼな教育計画を始めるため,協会は1943年に「神権宣教のコース」(英文)と,題する最初の教科書を準備しました。それには52の教課があって,毎週一つの教課を研究しました。96頁のこの冊子には,各会衆で新しくすいせんされた神権学校の運営の仕方について,詳細な指示が記されていました。g 1943年4月17日と18日,アメリカ全土の247の都市で行なわれた「活動召集」大会で,この冊子は人々をおどろかした中心的な発表になりました。h
各会衆で神権宣教学校を設立するという提案は,英語を話す国々にいるエホバの証者によって熱心に受入れられ,採決されました。この教科書が訳されるとすぐに,学校は外国語を話す証者たちの中でも始められました。そのような学校の組織をのぞむ会衆は,ただちに学校教訓者あるいは僕やすいせん状を協会に送ることが提案されました。i
協会から正式な任命状が返送されるとただちに,学校は御国会館で始まりました。それは毎週1回,1時間の長さであって,奉仕会のように他の週一度の会衆の集会後に行われました。それから数週間たたぬ中に,英語を話す国々の大きな会衆では,神権宣教学校が開かれました。どの年齢の兄弟も,みなこの学校にはいって話し方の訓練をうけ,姉妹たちも忠実にこれらの集会に出席して,口頭の復習に参加しました。後になると,姉妹は筆記の復習にも参加するようになったのです。それは,姉妹たちも実際的で有益な教育を利用して,家から家の伝道奉仕に貢献するためでした。
協会はこのコースを増加するために,他の教科書を発表しました。「御国伝道者の神権的な助け」(英文)は1945年に出され,「凡ての良い業に備える」(英文)は,1946年に発表されました。1944年,会衆はそれぞれの御国会館で神権宣教学校の図書館をつくるよう励まされました。この図書館のおかげで,生徒たちは協会の出版物や他の聖書研究の手引を利用することができ,研究生の話や講話の準備をすることができるようになったのです。j
この学校でエホバの証者は現代の会話的な方法で話をする訓練をうけ,宗教指導者たちの気取った,演説調の話方をしない訓練を受けました。証者たちの話しをする能力が改善された結果,蓄音機は野外で使用されなくなり,1944年以来は,10年間にわたって行なわれて来た蓄音機のレコードによる伝道運動の代りに,奉仕者たちは人々の戸口で聖書の話を口頭でするようになりました。証者たちは,いまはその話をする資格を十分に備えるに至ったのです。
2年たたないうちに,この神権宣教学校によって,十分の訓練を受けた多数の聖書講演者たちが協会によって用いられるようになりました。したがって,1945年の1月,この多数の講演者たちを起用して,御国の音信に対する興味を引きおこすため,世界的な公開講演の運動が始められました。この運動は十分に計画されて組織され,そして,時機にかなった,顕著な講演の題によって,一般人の気持ちに訴えるように仕組まれました。各講演者が話を準備しましたが,協会は話の内容を一様なものにするため,1時間の長さにわたる話に対して,1頁の筋書をつくりました。この筋書は各会衆に送られて,講演者はみな選ばれた聖書の論題に関する議論とか,知らせについての主要な点を告げることができました。「世界を建設する者として人間は成功するか」という話は,この連続講演の最初の話としのて,人々の注意を集める良い題でした。
会衆内の公開講演者だけが,この重要なわざをするように運動は取決められていませんでした。会衆の注文に応じて,協会は講演を宣伝するビラを印刷し,会衆の各人は家から家の証言のわざや街頭でそれらのビラを配布することにより,この公開講演運動に参加しました。講演を宣伝するプラカードが使用され,プラカードをつけた伝道者たちは,講演の行なわれる町の主要な商業地区に行き,通行人にビラを渡しました。さらに,地方の会衆と交わっていた人はみな集会に出席して,新しく来た人を歓迎し,講演の主だった点を論じ,新しく来た人々のいだいた質問に答えたのです。
トム: それは一致した取決めのようですね。会衆はその計画にどのように答え応じましたか。
ジョン: そうですね,この運動を始めた最初の年,アメリカ合衆国では1万8646の公開集会が開かれ,合計91万7352人の聴衆が話を聞きました。それは新しい取決めであったため,アメリカ合衆国内の2871の会衆のうち,わずか1558の会衆だけがこの運動に参加しました。しかし,次の年の1946年にはアメリカで行なわれた公開集会の数は2万8703に増加して,公共に音信を伝えようとするこの新しい方法に対する異常な熱意が示されました。また,この新しい計画が効果を収めていることも,だんだん認められていることが示されたのです。
第一世界大戦後に行なわれた「万人」運動の場合と同じく,組織化された会衆のない地域や地方の御国会館で公開集会を開く努力が払われました。
1944年8月9-13日,一致した発表者の神権大会が,ニューヨーク州バッファロー市で開かれました。そして,アメリカ合衆国内16の都市およびカナダの2都市も,その大会に連らなりました。それはカナダでわざが禁ぜられて以来,始めてのことでした。兄弟たちをふるい立たす教訓的な話に加えて,いくつかの新しい出版物が発表されました。その中でも顕著なものは,アメリカ標準訳聖書のものみの塔版です。他の出版物の中には,「御国は近し」,その本と併用する質問の冊子,そして「御国奉仕の歌の本」と題する新しい歌の本です。兄弟たちは,赤色の表紙のついたこの歌の本を,ほんとうに大よろこびで受取りました。特に,毎週一度の奉仕会のときにこの本が使用されると発表されたとき,兄弟たちは大よろこびでした。なぜなら,この時以前のしばらくの期間,会衆では歌を歌わなくなったからです。兄弟たちは,ふたたび歌える幸福で一杯でした。
「神の御国は近し」と題する公開講演は,18の他の都市にも同時に伝達されて,ニューヨーク州ナイアガラ,フォールス市のWHLPラジオ放送局およびブルックリンにある協会所有のWBBR放送局から放送されました。アメリカの17の都市における出席者の合計は9万2723人で,この重要な講演が始めて行なわれたとき,全部の国々で14万人の人々が話を聞きました。1時間にわたるこの話が終わったとき,その話を収めた冊子が発表され,その後,その冊子は幾百万冊も配布されました。
兄弟たちの僕によるいっそうの訓練
新しい公開集会運動が始まった翌月,1945年の2月,兄弟たちの僕を会衆に訪問させる協会のプログラムは再組織されて,その効果を増加し,兄弟たち全部に個人的な訓練を与えることになりました。1945年1月号の「通知」(英文)は,次のように説明しました。
その面で会と主の民を助けるため,兄弟の僕の活動は再組織され,約50パーセント増加した。また「制度の指示」にも述べられているごとく,今では兄弟たちの僕は,一日,二日,あるいは三日だけ会に滞在した。しかし,1945年2月1日からは,1人から8人の伝道者のいる会は二日間の奉仕を受け,19人から50人の伝道者のいる会は 三日間の奉仕を受け,51人から100人の伝道者のいる会は六日間の奉仕を受け,101人以上の伝道者のいる会は2週間の奉仕を受ける。
この取決めの目的は,兄弟をしてその会に十分長く滞在させて兄弟たちと協力させ,兄弟たちの書籍研究,再訪問のわざ,および他の野外活動を援助し,かつこれらの点につき僕たちに教訓を与えるためである。彼はできるだけ大勢の兄弟たちといっしょに再訪問のわざや研究に行き,そのような再訪問や研究を取決めて,効果的に司会する方法や手段を提案するだろう。
わざのこの再組織は,野外奉仕と兄弟たちを援助して御国伝道のいろいろの面の効果を改善させる責任を強調しました。協会が全会衆にこの奉仕をしたことは成功をおさめ,伝道者の数は増加しつづけました。
1945年10月,改正されて増補された「制度の指示」(英文)が会衆に送られました。今度は冊子の2頁に述べられている資格にかなう御国伝道者各人に冊子が1部づつ渡されました。
12歳以上の伝道者で,3ヵ月間御国の証言をして主とエホバの御国に献身していることを示し,証言の最初の月と2番目の月において会の時間の目標に達している者に,この冊子が渡される。どの伝道者も制度の指示に良く通じ,主の言葉に従いつつ,御国の音信を伝道しなければならない。
この制度の指示は,1945年10月1日以降実施されました。
ちょうど1年後の1946年10月,「制度の指示」(英文)の新しい修正が送られました。これは「制度の指示」(英文)冊子内に折りこまれる8頁の印刷物で,この修正にのべられている再建と拡大の記事は,兄弟たちの僕のする奉仕が一段と進歩したことを示しました。この拡大の計画の中で,ひとつの大きな特色は,年2回の巡回大会と巡回の僕の訪問でした。1941年に地帯大会が中止されて以来,年2度の大会が奉仕計画の一部になったのは,これが始めてでした。そして,その復興に対して,兄弟たちは心から応じました。
[脚注]
a (イ)1942年の「年鑑」(英文)
b (ロ)「法人団体,エホバの証者のアデレード会対オーストラリア連邦」67C・L・R,116,124(1943年)
c (ハ)「なぐさめ」(英文)第25巻1944年3月15日4,5,7頁。
d (ニ)(ハ)と同じ,7-4頁。
e (ホ)1945年の「年鑑」(英文)119頁。
f (ヘ)1945年の「年鑑」(英文)116,117頁。
g (ト)1944年の「年鑑」(英文)63-66頁。
h (チ)(ト)と同じ,75頁。
i (リ)「通知」(英文)1943年5月号と6月号
j (ヌ)「通知」(英文)1944年1月