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弟子になった人々のバプテスマものみの塔 1970 | 8月1日
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キリストの名によって」水によるバプテスマを施すわざをはじめたのは,その時,エルサレムのその場所においてでした。(使行 2:1-41〔新〕)使徒行伝 10章1-48節の記録に示されているとおり,イスラエルの律法契約の取り決めの下に一度もはいっていなかった非ユダヤ人も,後日,同様にイエス・キリストの名によってバプテスマを受けはじめました。このように,イエスの命じられたバプテスマを施すことは,クリスチャン会衆誕生の時に行なわれ,以来長年続けられてきたのです。そして,「事物の体制の終局」にあたる今日,すべての国の弟子たちを包含するほど広範に行なわれるようになりました。こうした水の用い方こそ,水に浸すこと,あるいは浸礼もしくはバプテスマとして知られる,キリスト教の儀式に関して,聖書が規定しているものです。イエスの指示にこれからも従わねばなりません。
すべての人が有資格者ではない
15 クリスチャンのバプテスマを受ける資格を持つ人はだれですか。
15 だれがバプテスマを受ける資格を持つかは,『弟子とし,……彼らにバプテスマを施しなさい』と言われたイエスのことばからわかります。(マタイ 28:19,新)弟子とは学ぶ人です。つまり,何かについて知らされると,その知らされた事柄に関して判断を下す人のことです。この場合,キリスト・イエス,その天の父であられるエホバ神,神のことば聖書,神の目的また,そうした個々の弟子がイエス・キリストを通して持つエホバとの関係についての判断が問題にされます。ここで,次のように尋ねるかたがあるかもしれません。「そうだとすると,幼児や赤ん坊がどうしてバプテスマを受けることができるのだろうか。イエスの命令されたクリスチャンのバプテスマを受ける資格があるのだろうか」。
16,17 (イ)幼児洗礼はなぜマタイ伝 28章19節に反していますか。(ロ)それが使徒たちによって始められたのではないとどうして言えますか。
16 小さな赤ん坊が悔い改め,知識を得,信仰を働かし,エホバ神に献身することができますか。いいえ,できません。言いかえれば,赤ん坊が弟子になることはできません。また,バプテスマはサクラメントではありませんから,バプテスマを受けた人に何かバプテスマそのものに宿る効力が及ぶわけではありません。つまり,幼児洗礼にはなんら価値がなく,まして神のみことばに支持されているものでもありません。コルネリオの改宗についてしるした使徒行伝 10章44-48節をお読みになれば,神のことばを聞いていた人に聖霊がくだったことに気づかれるでしょう。それらの人々がバプテスマを受ける資格を得,浸礼を受けたのです。幼児は理解力を持って神のみことばを聞くことができ,かつ,その影響を受けられるから,クリスチャンのバプテスマを受ける資格があると言うことはできません。
17 使徒たちの時代以後の初期クリスチャン会衆に関して,指導的な立場を占めたとされる歴史家ネアンダーは,幼児洗礼について次のように述べています。「信仰とバプテスマは常に結びついていた。ゆえに,この二つが結びつきえた時にのみバプテスマが施されたこと,また,当時,幼児洗礼が知られていなかったことには疑問の余地がないほどである。後日,イレニウスの時代(それより過去にさかのぼることはまずない)に至って,幼児洗礼の行なわれはじめた形跡が見られる。3世紀になって,それが使徒からの伝統によるものとして認められるようになった事実は,幼児洗礼が使徒たちによって始められたものとして受けいれることを,有利にするどころか不利にする証拠と言える」。―「キリスト教会の創設と養成」(英文)。
18 その資格を持つのはどんなおとなですか。
18 キリスト教の正しい浸礼を希望する人は,弟子であることが要求されていますから,赤ん坊はおろか,それ以外の人,たとえ成人といえども,神のみことばを知らず,また,それに応じない者には資格がありません。イエスの命令は,バプテスマを受けるにふさわしい希望者は弟子とされねばならないだけでなく,その人は学んできた者でなければならないことを強調しています。なぜなら,イエスは,「わたしがあなたがたに命じた事柄すべてを守るように教えなさい」,と言われたからです。(マタイ 28:20,新)イエスの命令を守るように教えられたということは,単にそれらの命令を知らされたという以上のことを意味しています。告げられても,あるいは知らされても,それに応じない場合があるからです。しかし,そうした事柄を教えられた人は,それに応ずることによって教えられているという事実を証明します。
19 資格を持っていることを示す神のみことばに応ずる行動と,それに伴うすぐれた結果とを述べなさい。
19 使徒行伝 2章41節に,「ペテロの言をききいれし者はバプテスマを受く」としるされているのはそのためです。初期クリスチャン会衆の中には,『ピリポを信じて』バプテスマを受けた人もいます。そういう信者は,「男女ともにバプテスマを受」けました。(使行 8:12)弟子が神のみことばに応ずるのであれば,人類の中でも命を得る者が踏むべき道を選ぶでしょう。その道こそ,人間のいだく願望の中で至高のもの,最も高貴なものです。(ヨハネ 17:2,3。詩 119:1,2)それは,人間をその創造者との正しい関係に導き入れるものであり,それこそ,神に対する唯一かつ真実の崇拝を意味しています。今日,それなくして個人が神を崇拝することは実際にはありえませんし,さらにそれは,とこしえの命に導く道なのです。その道とは,エホバに対する個人的な献身をさします。
先行する献身
20 クリスチャンの献身にはどんな事柄が含まれていますか。
20 ご存じのように,献身には宣言する,確約する,正式に述べる,すべてをささげるという意味があり,何かをある用途のために別にする,あるいはささげる行為を表わします。その行為は,それによって人や物を,ある道あるいは針路もしくは用途に進ませたりします。以上のことをキリスト・イエスの弟子にあてはめると,その人の献身とは,エホバ神に対する,したがって神への奉仕または崇拝に対するクリスチャンの専心の献身であることが容易に理解できます。それは個人的な事柄であり,キリスト・イエスを通して,エホバ神の御心をまったく無条件に行なうことを決定する行為です。(箴言 14:27)献身は,エホバに対する全幅の信頼と確信を表明するものです。また,献身した人は,エホバが神であり,神は正しく,そのお目的は必ず達成されるということを知っており,さらに,その人の心と思いには少しの疑念もなく,エホバの側に立場を取ることを喜びとし,幸福であることを明らかにするものです。ですから,「あなたがたの以前の生き方に基づき,人を欺く欲望にしたがって腐敗している古い人格を脱ぎすて,あなたがたの心に働く力によって新たにされ,真の義と忠節にそいつつ,神の御心にしたがって造られた新しい人格を着け」なさい。(エペソ 4:22-24,新)クリスチャンはキリスト・イエスの追随者ですから,エホバ神のしもべであり,それゆえにエホバ神に仕え,自分自身をささげ,献身するのです。―使行 11:26。
21 今日,エホバ神と密接な関係を持っている人々はだれですか,
21 献身する弟子がエホバ神と密接な関係を持つようになることを,イエスの命令は強調しています。今日この地上には,献身の段階を経て,献身を水の浸礼つまりバプテスマで表わした忠実なエホバのクリスチャン証人が幾十万人もおり,エホバ神に忠実に仕え,そのみことばのために奉仕して,エホバに賛美を帰し,仲間の人間には祝福をもたらしています。
22 従順な弟子はなぜバプテスマを受けねばなりませんか。
22 彼らは献身を水のバプテスマで表わします。浸礼が問題となるのはこの点です。イエスはこう言われたからです。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,……彼らにバプテスマを施し,教えなさい」。(マタイ 28:19,20,新)聖書の要求に従いたいと願う弟子は,バプテスマを受けねばなりません。バプテスマは,神の御心を行なう決定をしたことを,衆人の前で公にする正式な儀式です。献身した人はそれを証人たちの前で行なわねばなりません。個人が献身したことを明らかにする,見える証拠がなければならないのは必然です。なぜなら,献身はその人の生活における変化あるいは転機をしるしづけるものであり,仲間のクリスチャンにはそれを知る権利があり,その結果,当人に今後なにを期待すべきかを知らされるのです。
23 (イ)エホバの証人はなぜこの儀礼にふさわしい象徴となることを行ないますか。それはなんですか。(ロ)イエスのバプテスマは何を表わすものでしたか。(ハ)西暦36年に至るまでの,イエスに従ったユダヤ人の弟子たちの場合についてはどうですか。(ニ)それ以後はどうですか。
23 献身の象徴として,献身をふさわしく表わす何ものかを捜す必要はありません。聖書は浸礼をそれに相当するものとして指定しており,また,それにまさる適正かつ,ふさわしい象徴はありえないからです。クリスチャンはキリスト・イエスの追随者です。「汝らはこれがために召されたり,キリストも汝らのために苦難をうけ,汝らをその足跡にしたがはしめんとて模範をのこし給へるなり」。(ペテロ前 2:21)この指導者キリストは,献身したユダヤ国民の一員として,ご自分をささげることを表わすために,バプテスマのヨハネから浸礼を受けました。「ここにイエス,ヨハネにバプテスマを受けんとて,ガリラヤよりヨルダンに来り給ふ。……イエス答へて言ひたまふ『今は許せ,われらかく正しき事をことごとくしとぐるは,当然なり』イエス,バプテスマを受けて直ちに水より上り給ひしとき,視よ……また天より声あり,いはく『これは我が愛しむ子,わが悦ぶ者なり』」。(マタイ 3:13-17。詩 40:7,8。ヘブル 10:7)イエスがご自分をささげたこと,またその象徴を,天の父であるエホバが是認されたのはこの記述から明らかです。イエスの示された模範にならって,初期クリスチャン会衆の成員はバプテスマを受けました。(使行 10:48; 8:12,36,38,39)ユダヤ国民の場合,西暦36年までの彼らの浸礼はやはり,献身した国民として自分たちをささげることを象徴するものでした。それ以降のクリスチャンのバプテスマは,その祖先がユダヤ人か否かにかかわらず,献身を象徴しました。エホバが律法契約を通してユダヤ人と持たれた関係は,西暦33年,イエスの死後,終わりを告げていましたし,イスラエルに対する特別な恩恵の期間は,非ユダヤ人にクリスチャンの福音が伝えられる直前に満了していたからです。したがって,そのときからかなりの時代を経た今日,生来のユダヤ人であると否とを問わず,すべての人種また血筋の人々はエホバの前に同じ立場を占めています。つまり個人的に献身し,そのうえで献身を水の浸礼によって表わす義務を履行する機会が,各人に与えられているのです。
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エホバに対するあなたの良心ものみの塔 1970 | 8月1日
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エホバに対するあなたの良心
「肉の汚れを除くものではなく,神に対して良心を求めること」― ペテロ前 3:21,新。
1 (イ)キリストの弟子はどんな肝要な事柄を知っていますか。(ロ)彼らはどんな決定を下しましたか。(ハ)どうしてバプテスマは従順の第1段階と言えますか。
弟子は教えられた者ですから,イエスの命じた事柄を知っています。したがって彼らは,エホバのクリスチャン組織の道徳規準を尊重する義務,また良いたより,つまりエホバの御国の音信を携える宣教に関し聖書に述べられている責任や要求についても知っています。献身の決定および献身の行為は,献身を表わす水の浸礼に常に先行します。ですから,バプテスマは資格のある人が取る,従順の最初の段階です。献身の象徴を通して,弟子は神との密接な良い関係を求める願いを表明するのです。
2,3 バプテスマにおいて,弟子はどんなことを神に求めるのですか。
2 『それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父の名によってバプテスマを施しなさい』。(マタイ 28:19,新)この命令は,正しくバプテスマを施された弟子が導きいれられる,エホバとの密接な関係を示しています。すでに調べたように,水のバプテスマは,「肉の汚れを除く」ことを表わすものではありません。それは,ヨハネ第一の書 1章7節と黙示録 1章5節に述べられている,イエスの血によってわたしたちが罪から洗われたことを表わすものではありません。そうではなく,水のバプテスマは「神に対して良心を求めること」を表現するものです。「むかしノアの箱舟が造られていた間,神が寛容をもって待っておられた…その箱舟に乗り込み,水を経て救われたのは,わずかに八名だけであった。〔この水に相当するもの,つまりバプテスマ(肉の汚れを除くものではなく,神に対して良心を求めること)がまた,イエス・キリストの復活
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