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  • 神に喜ばれる信仰
    ものみの塔 1969 | 5月1日
    • 思いがけず早死にしたり,あてにならなかったりする友人,さらには思いがけない時にかわってしまう政府などにではなく,人の生死を左右でき,あなたを助けることのできるかたに信仰を置いてください。あなたの信仰は,エホバがダビデをその敵サウルの手から救い出された時,ダビデがいだいていたほどの堅い信仰でありますように。ダビデはサムエル後書 22章3節(新)でその信仰を次のように表現しています。「わたしの神はわたしの岩。わたしはそこにのがれよう」。あなたの信仰は,精錬された純金のように,試練を経たものであり,エホバの前に貴重なものでありますように。(ペテロ前 1:7)また,風に吹かれて定めなく動揺する海の波ではなく,嵐に備えて今やしっかりといかりをおろし,あるいは神の霊の推進力で航路を進む船のようでありますように。(ヤコブ 1:6,7)イエスが言われた「信仰」をしっかりと持ち,使徒たちが歩んだ「道」に従い,そして神に喜ばれる信仰をいだいてください。―ヨハネ第一 5:4。

  • バプテスマを受けた証人の責任をになう用意がありますか
    ものみの塔 1969 | 5月1日
    • バプテスマを受けた証人の責任をになう用意がありますか

      「さて,彼らが道を進んでいたところ,水のあるところに来た。それで宦官は言った。『ごらんなさい,水があります。わたしがバプテスマを受けるのに,なんのさまたげがありますか」― 使行 8:36,新。

      1 クリスチャンのバプテスマは人にどんな変化をもたらしますか。

      クリスチャンのバプテスマを受けるのは,人が新しい国に移住して,新しい国語を学び,新しい仕事につくようなものです。この段階を踏む人は,現在の古い体制をそのさまざまな結びつきや関係とともにあとにして,神の霊的な国民と交わり,全世界のエホバの民の新世社会の一部となります。彼らは依然としてこの世界に住んでいますが,今や神の天の政府である御国の支配と権威を自分の生活の中で認めていますから,もはや世の一部ではありません。そして国籍や国語のために分かれ分かれになるのでなく,エホバの民すべてが話す「清いことば」つまり聖書の真理を学んでいます。(ゼパニヤ 3:9,新)こうしてついに新しい仕事の割当てを受け,自分たちの創造者に対する奉仕を始め,この仕事を生活の中で第一の関心事にします。

      2 人はどのようにしてキリストの弟子になれますか。

      2 あなたはこうした段階を踏む用意ができましたか。それには,言うまでもなくそれ相当に考え,計画し,祈ることが必要です。まず第一にその意味を十分に学ばねばなりません。バプテスマを受けた証人の責任をわきまえないうちに,急いでバプテスマを受けることを,エホバの証人がだれにも勧めていないのはこのためです。しかし,成し遂げるようにとイエスから命ぜられて,全地のエホバの証人が携わっているのは,そうした段階を踏むよう誠実な人々に用意をさせる仕事です。それは「もろもろの国人を弟子となし……バプテスマを施し……教へ」ることです。(マタイ 28:19,20)これは単に名前を教会の会員名簿に載せるとか,会員の資格を得るために,ある教義に同意し,それ以後は当人の行動の如何を問わずその立場がいつまでも保持されるということではありません。キリストの弟子となるには,聖書の研究を通じてまず神のみことばを聞き,信仰を得て資格を整え,それからバプテスマの段階を踏む決定を下し,エホバ神の献身したしもべのひとりとしての立場を取って,神の側に立たねばなりません。

      3 真理に関心を持つ人は何を予期すべきですか。しかしどんな態度をとるべきですか。

      3 こうした道を進もうとする人はたいてい,エホバに仕えることを思いとどまらせようとしてサタンが用いるさまざまの陰険な手だてのいずれかによる攻撃に直面します。それは家族や友だちの反対,あるいは人にどう思われるだろうかという恐れの気持ちかもしれません。しかしそれは予期すべき事柄です。それでパウロはテモテ後書 3章12節にこうしるしました。「およそキリスト・イエスにありて敬虔をもて一生をすごさんと欲する者は迫害を受くべし」。これはクリスチャンが悪行をするからではなく,イエスが弟子たちに次のように述べた基本的な真理のためです。「汝らもし世のものならば,世は己がものを愛するならん。汝らは世のものならず,我なんぢらを世より選びたり。このゆえに世は汝らを憎む。わが汝らに『しもべはその主人より大ならず』と告げしことばをおぼえよ。人もし我を責めしならば,汝らを責め(ん)」。(ヨハネ 15:19,20)しかしこれは恐れる理由にはなりません。なぜなら,わたしたちがエホバの側にある以上,サタンのなし得ることは何一つとしてわたしたちに永続的な危害をもたらし得ないからです。むしろそれは,もしわたしたちがイエスの名のゆえに苦しみを受け,イエスと同様にサタンの攻撃の的とされるなら,わたしたちの幸福の理由になるとイエスは指摘されました。―マタイ 5:11。

      4 バプテスマについて考えている人は,何を理解していなければなりませんか。

      4 しかし,これは人を教えて弟子とする仕事を行なう者が,自分とともに勉強している人にそうした反対を克服できるように事前に備えさせねばならないことを意味しています。またこの理由で,バプテスマについて考えている人は急いでバプテスマを受けるべきではなく,まず神のみことばを十分に理解しエホバに対する強い信仰を得,どんなことが生じようとも喜んで神に忠実に仕える心構えを持っていなければなりません。研究生は神の霊感によるみことば聖書を通して,エホバが偉大な教え手であられることを認識しなければなりません。イザヤ書 48章17節はこう述べています。「われはなんぢの神エホバなり 我なんぢに益することを教へ,なんぢを導きてそのゆくべき道にゆかしむ」。そして研究生は,自分がエホバにとって必要なのではなく,エホバを必要としているのは自分自身であることを学び,また,人間は罪のうちに生まれ,それゆえに命のためのエホバの備えと,キリスト・イエスによる救いとを必要としていることを悟ります。事実,人間は,認める認めないにはかかわりなく,みな罪の奴隷であり,したがって,エホバによりイエスを通して設けられたあがないを受け入れるまでは永遠の命の希望がないのです。(伝道 7:20。ロマ 6:17,18,22,23)真理を学び,心からの献身を創造者に受け入れていただけるのは,確かに神の過分の恵みによります。研究と信仰とによってこの点を明確に知ると,人はこうした献身の段階をいま踏んでいる「大ぜいの群衆」がなぜ大声で「救は御座に坐したまふ我らの神とこひつじとにこそあれ」と叫んでいるかを理解できます。―黙示 7:10,新。

      5 聖書に従えば,バプテスマを受ける前に,生活をどのように変化させる必要がありますか。

      5 そしてまた,エホバに受け入れられる献身をする前に,なぜ個人の生活を変化させねばならないかをも理解します。イエスは言われました。「真の崇拝者(は)霊と真理とをもって父を崇拝する……実際に,父はそのように崇拝する者を求めておられるのである」。(ヨハネ 4:23,新)しかし,多くの人々に見られる形式的な崇拝をし,あるいは偽りで汚された教理を教えているなら,自分の崇拝が神に喜ばれると期待することはできません。それとは逆に,偽りの崇拝の世界的な組織にかんして,次のように宣言する声が天から聞こえます。「わが民よ,かれの罪にあづからず,彼の苦難をともに受けざらんため,そのうちを出でよ」― 黙示 18:4。マタイ 6:1-5。コリント前 10:20,21。

      6 エホバに喜ばれる献身をするには,どんな事柄が要求されますか。

      6 人によっては,献身してエホバに近づく資格を得るのに,生活を大きく変えねばならない場合があります。詩篇 15篇1-3節はこう問いかけています。「エホバよなんぢのあげばりのうちにやどらん者はたれぞ なんぢの聖山にすまはんものはたれぞ 直くあゆみ義をおこなひ そのこころに真実をいふものぞその人なる かかる人は舌をもてそしらずその友をそこなはずまたその隣をはぢしむることばをあげもちひず」。ゆえに自分の心を変えてエホバの考え方を取り入れ,その活動力の助けによって自分の生活を神の正しい標準に合わせることが必要な場合があります。放縦な生活を続けて,神を愛するより快楽を愛する者であることを示す人や,永遠の命よりもこの世の生活上の欲望を満たすことに関心を持ち,現在の事物の体制の友であることを表わす人は,自らを神の敵としています。神は,言行の不一致に等しい偽りの献身を受け入れないどころか,そうした人々の祈りすら顧みないでしょう。―イザヤ 1:15-17。ヤコブ 4:4。

      7 どんな持権と責任がありますか。

      7 しかし,エホバのみことばとお目的とを知る,心の正しい人々はすべて,詩篇 148篇13,14節にしるされているすばらしい仕事に携わるよう招待されています。「エホバの聖名をほめたたふべし その聖名はたかくして類なくそのえいくわうは地よりも天よりもうへにあればなり……エホバをほめたたえよ」。事実,これはバプテスマを受けた証人の責任の一つです。神はほんとうに恵み深いかたで,神に仕える誉れを人間に与えておられます。ですから,エホバの証人として戸別訪問による宣教に携わり,エホバを代表して真理を他の人に伝えることはきわめて大きな特権です。この点を考えると,こうした仕事を行なうように招かれた人は,聖書と御国の希望とを理解しているだけでなく,生活を改めて神の御心にかなったものにしている人でなければならないことがわかります。それはイエスが天の父にささげた祈りの中で語ったとおりです。ヨハネ伝 17章6節にこうしるされています。「世のうちより我に賜ひし人々に我,御名をあらはせり。彼らは汝のものなるを我に賜へり,しかして彼らは汝のことばを守りたり」。そうです,こうした人々は,神の正しいご要求の顧みられていない,腐敗した現在の体制から出てきました。そして神のみことばを守り,それに従っています。つまり「神の誡命を守り」,こうして「イエスの証」をする仕事に携わる資格を得ています。―黙示 12:17。

      8 (イ)バプテスマについて考えている人のなすべき用意を説明しなさい。(ロ)その人がよく知らねばならない基礎的な真理にはどんなものがありますか。

      8 神のいましめを守り,証しの仕事をするには,真理の正確な知識が必要です。パウロはこう述べました。「なにゆゑ人を教へて己を教へぬか」。(ロマ 2:21)特にバプテスマという重要な段階を踏む前には,聖書の基礎的かつ正確な知識を得,また,バプテスマを受けたエホバの証人に要求されている事柄を知らねばなりません。ゆえに,バプテスマの希望者は,聖書を注意深く読み,かつ研究するように勧められています。正確な知識を得る助けとして,「神が偽ることのできない事柄」および「神の自由の子となってうける永遠の生命」という聖書の基礎的な手引きを,バプテスマを受ける前に注意深く研究する,あるいは少なくとも通読することを,ものみの塔協会はすべての人に勧めています。(自国語のこれらの出版物が得られない場合,同様の資料を論じた,他のものみの塔協会の最近の出版物を用いることができます)こうした出版物は,神の存在をどのように確証できるか,どの宗教の聖典が真理か,また,どうすれば神の「善意」の人になれるかなどの問題を論じています。したがって,それは岩のような信仰の基礎を確立する助けとなります。また教理に関する知識だけでなく,クリスチャン会衆における男女の正しい立場,現在の古い体制下での中立の大切さや血の神聖さについて学べます。また,神に忠実に仕える人々のために神が用意しておられる楽園で数々の祝福を受けるには,悪霊に対する戦いを続けなければなりませんが,この戦いについても学べます。

      9 バプテスマについて考えている人が,その段階を踏む前に,会衆の監督と話し合うのは,どうして適切なことですか。

      9 それに加えて,ものみの塔協会は最近,「あなたのみことばはわたしの足のともしび」と題する本を,英語その他多くの国語で出版しました。この本は,エホバが用いておられる地上の現代の組織が聖書に基づいていることを示しています。この出版物の初めのほうには,聖書の教えに関する主要な問題が載せられ,それとともに,問題に対する答えとして聖句が掲げられています。研究生が会衆の監督と話し合って,自分の生活が聖書の示す型に合っていることを証明でき,また,聖書の基礎的な真理を理解してそれらに関する注解を述べることができれば,その人は確かに,祈りのうちにエホバに献身し,エホバの御心を行なうことに関するその献身の象徴として水のバプテスマを受けられる立場にあります。偉大な教え手であられるエホバが,今日地上にある伝達の経路を通して備えてくださった,正確な知識を得るためのこうしたすぐれた助けを用いるとき,神を愛し,神に仕えることを願う各人に対するエホバのご要求が何であるかを理解できます。したがって確かにそうした人々は,ピリポから真理の説明を受けた前述の宦官と同様,次のように語れる立場にあります。「ごらんなさい,水があります。わたしがバプテスマを受けるのに,なんのさまたげがありますか」― 使行 8:36,新。

      10 (イ)バプテスマを受けることは,その人にとって何を意味しますか。また,それはなぜ非常に大切なことですか。(ロ)バプテスマを受ける人は,どんな祝福にあずかりますか。

      10 人はバプテスマの段階を踏むことによって,エホバとキリスト・イエスとに対する自分の信仰を表明し,自ら積極的に神の側に立ちます。そして,キリストに仕える人々の隊伍に加わり,クリスチャンの信仰の戦いを始めるのです。(テモテ後 2:3,4)その人はエホバに対する献身を祈りのうちに誓いました。事実上,神の御心を行なうために無条件で一身をささげることに決めたのです。こうして,聖書にしるされているイエスの模範に従います。これはその人が神の聖霊の導きに従いたいと願っていることの表われです。こうした道を歩む人は,神の是認と神の霊のうしろだてとにあずかり,また神を十分に喜ばせたいと誠実に努めていたという清い良心の保証とともに,神の組織からの励ましと援助とを受けます。(マルコ 1:9-11。ペテロ前 3:21)したがってバプテスマを施す場所で,その人のからだが水中に沈められるとき,それは以前の生活上の立場に関してあたかも象徴的に葬られる,もしくは死ぬことを意味し,引き上げられるのは,神の導きに喜んで全く従った生活にはいることを意味します。ゆえにバプテスマは創造者に対してなされた厳粛な誓約と言えます。人間の生活の中で,神と個人との関係ほど重要なものはありませんから,クリスチャンとしてバプテスマを受けるのは,人生で最も重要な段階です。―伝道 5:4-6。

      11 (イ)バプテスマと,神に献身を誓う個人的な祈りとは,どのように違いますか。(ロ)バプテスマはこれを受ける人が何を認めていることを示すものですか。

      11 通常,バプテスマに際しては,献身した他の人々が証人としてその場に出席します。そして,バプテスマを受ける人が,バプテスマを受けた証人に課される責任と特権とを受け入れるむね公言したものと認めます。しかしほかにも証人がいます。イエスが言われたように,人は『父と子と聖霊との名によって』バプテスマを受けるのですから,確かにエホバとイエスもこうしたことに深い関心を持つ証人と言えます。その人は,エホバを命の与え主また至上者と認め,人間のあがない主で神の子であられるイエスを,エホバの正義の新しい体制を統治する即位した王と認めるようになりました。ゆえにエホバとイエスも関心をいだいておられるのです。その人は生活の面でもエホバの霊の導きとその力を認め,また献身とバプテスマを経た今,「信仰の導師またこれを全うする者なるイエス」の導きに現在忠実に従っている「多くの証人」の側に自ら立っていることをも認めます。―ヘブル 12:1,2。

      12 さまざまな障害があっても,神への献身の道が勧められているのはなぜですか。

      12 バプテスマは責任と特権だけでなく,他の人からの反対をもたらすことがあります。エホバに対する個人のこうした献身は,家族あるいは親族が反対しても,生活の中で優先させねばならないことをイエスは示されました。人は忠実を保ってのみ,エホバに喜ばれる者となります。そして,命に導く忠実なその同じ道を取ることがどんなに大切かをそれらの人に銘記させる結果となるかもしれません。(ロマ 10:13)イエスはこう言われました。「己が[刑柱]を負ひて我に従ふ者ならでは,我が弟子となるを得ず」。(ルカ 14:26,27,[新])あなたは喜んでそうすることができますか。追い求めるべき目標は大きなもの,すなわち永遠の命です。報いはこれほど大きなものですから,いうまでもなく,それをとらえるのは容易ではありませんが,エホバの助けがあれば,報いをとらえることができるのです。こうした報いをとらえる過程をイエスは,少数の人が見いだす狭い門として細い道にたとえましたが,それは,ひとたび見いだしたなら,途中でどんな問題に直面しようとも突き進むべき道です。(マタイ 7:14)エホバはご自分の御子の犠牲を通して偉大な愛を人間に示し,永遠の命の見込みを開いてくださったのですから,わたしたちは献身に恥じない生活をして,神に対する不動の愛を表わしたいと願います。―ヨハネ第一 4:9。

      13 (イ)バプテスマを受けたからといって,それは何を意味するものではありませんか。なぜですか。(ロ)バプテスマを受けたクリスチャンは,聖書のどんなすぐれた助言に従わねばなりませんか。

      13 しかしたとえバプテスマを受けても,これで自分は神のご要求を果たしたのだと考えて,気をゆるめ,小成に安んじることはできません。イエスの生活に示されているとおり,これは道の終わりではなく,始まりなのです。イエスが公の宣教を始められたのは,バプテスマを受けたのちのことです。こうして彼は当時の宗教指導者層から向けられた反対や憎しみにもかかわらず伝道の仕事に活発に携わりました。そしてついにイエスが死なれて初めてその憎しみは和らいだのです。したがって,自らをエホバにささげる人は,前途のわざを見て,そのために十分の備えをしたいと願います。そうするには研究が必要です。会衆における研究だけでなく,個人で聖書研究をしなければなりません。そうすれば,他の人が真理を理解するのを助ける必要が生じた場合,聖書から確かな答えを与えて助けることができるでしょう。(テモテ前 4:16)箴言 18章15節はこう述べています。「さときものの心は知識をえ,智慧ある者の耳は知識を求む」。ペテロはこう勧めました。「キリストのめぐみと主を知る知識とに進め」。(ペテロ後 3:18)パウロはこうさとしています。「なんぢ真理のことばを正しく教へ,恥づるところなき労働人となりて神の前に錬達せる者とならんことを励め」。(テモテ後 2:15)最後にヘブル書 6章1節(新)は,「円熟を目ざして進もうではないか」と励ましています。ゆえに,バプテスマを受けた証人は,すでにバプテスマを受けたからといって,あるいは以前に自分と一緒に研究していた人がそうした援助をやめたからといって,聖書の勉強を少なくしたり,

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