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    ものみの塔 1958 | 11月1日
    • 6:15。

      4 イエスは献身をどのように見なしましたか。

      4 献身することについての完全な手本は,神の御子キリスト・イエスです。彼の献身は次の言葉で要約されます,『わが神よ我は聖意にしたがうことを楽しむ。』神に対するイエスの献身はまつたく一筋のものでした。他の事柄でもつてその献身を破らせるようなことをイエスはしませんでした。地上にいたイエスは,天の御父を良く御存知で,御父の律法を知り愛しました。彼は,全能の神との契約関係を破つたイスラエルの国民や他のものに何が生じたかを熟知しておられました。そのようなことを知つていたため,イエスは自分の意志を御父の御意に順応せしめるということに,一層熱心となり,強固な気持を持つたのです。―詩 40:8。ヨハネ 4:34; 6:38。

      5 (イ)献身をしたクリスチャンには何が要求されていますか。(ロ)生活の習慣が急激に変ることはなぜ必要ですか。

      5 それですから,ヱホバ神の御意をなそうと献身する人は,以前の生活の仕方,すなわち『悪魔の支配』下にあるこの世に共通な仕方から全く変化しなければなりません。献身した人の欲望も変わり,気質も変わります。この変化は自働的にはなされません。しかし,古い世の考え方から気持を切り替えて新しい考え方を行う結果に得られるものです。それは,神の御言葉について静かに注意深く真面目に考える結果として得られるものであつて,全く瞬間的に生ずる奇跡的な変化とか感情的な変化ではありません。正常な人間の心は罪に向かつているのです。私たちの最初の両親であるアダムとエバは意識的にもヱホバ神の敵であるサタンの意志を行うことを選び,彼らに対する真の神の御意を忘れたからです。『ひとりの人によつて罪がこの世にはいり,また罪によつて死がはいつてきた。』(ロマ 5:12,新口)その罪深い型にしたがつて,私たちは悪の中につくられ,死の処罰の下にいます。そのわけで変化をすることは是非とも必要なのです。そして又,神の御言葉からの新しい知識を心に入れることは是非とも必要なのです。この古い世なる組織制度にかたどれる古い考え方から絶えず離れつづけていなければなりません。新しいことを認めねばなりません ― すなわち,古い道から変化して悔い改め,新しい型に従つて生活の仕方を改変して行く欲望がなければなりません。このことは,パウロの次の助言をなし行うことです,『古い人格をその行と共に脱ぎすて,正確な知識により造り主の像にしたがつて新しい人格を着なさい。……ヱホバにふさわしい者として歩き,ヱホバを全くよろこばす為である。そして,あらゆる良き業に実を結び,神の正確な知識を増し加える。』このことは,人間の生活の仕方に完全な変化があること,つまり古い世の生活の仕方から新しい世の生活の仕方に変化したことを示します。私たちは次のことを留意しなければなりません。すなわちキリスト・イエスが御自分の生命の血を捧げられたのはこの正義の新しい世ということです。永遠の生命が得られるのはこの新しい世なのです。ヨハネの書いた言葉によると,現在の古い世は過ぎ去つてしまいます,『世と世にあるものとを愛してはいけない。……世と世の欲とは過ぎ去る。しかし,神の御旨を行う者は,永遠に永らえる。』― コロサイ 3:9,10; 1:10,新世。ヨハネ第一書 2:15,17,新口。

      6 今日の人間は神の像にいると,なぜ言うことができますか。

      6 古い世は過ぎ去るのですから,クリスチャンは新しい世で生きるためその古い世に背を向けねばなりません。その心が変つて,考えが全能の神の御言葉に順応するよう変えられるとき,丁度罪を犯す以前の最初のアダムのように,その人は神の像にかたどられていると正しく言うことができます。その人が神のすぐれた知識にかたどられて行くとき,その人は神のかたちに戻ると正しく言うことができます。その点のところで人は完全になつたという意味ではありません。ただその人の考えはヱホバ神のなされる高い高尚な考え方に見ならつたということです。そのような道にしたがう人は,全能の神によろこばれ,かつ是認を受けるものです。

      献身前の正しい心の態度

      7 悔い改めとは何ですか。なぜそれが要求されますか。

      7 謙遜で悔い改めの心を持つ人は,イザヤの書いた次の言葉の中でこう述べられています,『悪しき者はその途をすてよこしまなる人はその思をすててヱホバに反れ。さらばあわれみをほどこし給わん。我らの神にかえれ。豊に赦をあたえたまわん。』このことから,ヱホバに容易に近づけるということが分ります。ヱホバを見出したいと望む人については,ヱホバは御子キリスト・イエスを通して受け入れるでしよう。罪深い両親から生まれたために相続した罪は,ヱホバからゆるされるでしよう。パウロは古い人格を脱ぎ捨てる重要性を更に示して,こう語つています,『以前の生活に属し,その惑しの欲にしたがつて腐敗して行く古い人格を脱ぎ捨てなさい。しかし,あなたの心に働きかける力によつて新しくされ,神の御意にしたがい,まことの義と愛のうちにつくられる新しい人格を着なさい。』それで,私たちの以前の生活の仕方および欲望はまつたく捨てねばならないとパウロは明白に私たちの注意を惹いているのです。それですから,ヱホバの言葉を研究してヱホバの目的を知ることから得られる新しい考え方は,クリスチャンの生活の中にあつて働きをなさしめる力であります。―イザヤ 55:7。エペソ 4:22-24。

      8 心が入れ変つて後,人はどんな性質をつちかうべきですか。

      8 心が入れ変つて後,人はヱホバとその御言葉に対して第一番の敬意を表します。その人は,パウロの次のさとしに従います。『あなた方は……あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身につけなさい。』これらの性質は古い世で見出すことはできませんが,新しい世だけで見出すことができます。パウロの言葉はクリスチャンに宛てて書かれたものですが,それよりもずつと以前に述べられたヱホバの言葉は,そのような性質をヱホバがどれ程たいせつにしているかを示しています,『我はただ苦しみまた心をいため,我が言葉をおそれおののくものをかえりみる。』謙遜な人は,最高者なる神ヱホバに対して一番深い敬意を表します。―コロサイ 3:12。イザヤ 66:2。

      9 どんな種類の隷属が要求されますか。それは何にもとづかねばなりませんか。

      9 普通の人は全能の創造者にたいしてかたい専心の愛を表明することができますか。できます,その人は全能の創造者に専心の献身を捧げ,従順な奴隷が自分の愛する主人に進んで仕えるように,全能の創造者に仕えるという燃えるがごとき熱心を心に抱かねばなりません。仕えるとは従うという意味です。ヱホバに従う人々は,ヱホバに対する愛の気持から従います,『もしだれでも私を愛するならば,私の言葉を守るであろう。そして,私の父はその人を愛し,また私たちはその人のところに行つて,その人と一緒に住むであろう。私を愛さない者は私の言葉を守らない。あなたが聞いている言葉は,私の言葉ではなく,私をつかわされた父の言葉である。』(ヨハネ 14:23,24,新口)実際のところ,愛は神のいましめで成り立つすべての律法の本質であります。それで,キリスト・イエスは次のように語つてそのことを証されました,『あなたは,すべての心をこめ,すべての魂をこめ,すべての思いをこめ,そしてすべての力(活力)をこめて,あなたの神なるヱホバを愛さねばならない。』何かが省略せられているものは一つもありません。被造物は,創造者なるヱホバを真心からの忠節心の中に全く愛して仕えるように要求せられているのです。―マルコ 12:30,新世。申命 6:5。

      10 (イ)献身後,人は自分自身をどのように見るべきですか。(ロ)どの程度まで人はヱホバに従わねばなりませんか。

      10 キリストに従う真の弟子たちは,イエスが『だれでも私についてきたいと思うなら,自分を捨て』と述べられたごとく,自分自身のことを全く忘れることになります。自分自身を捨てるものは,自分の個人的な目的や,生涯の選択を捨てます。そして,自分の現在と将来に関するヱホバの御意と目的をなし行うと決意します。そして,それからはそれに相応しい振舞をいたします。

      献身は責任をともなう

      11 (イ)人は責任をどのように考えるべきですか。(ロ)クリスチャンたちの生活はどんな手本にならうべきですか。

      11 自分の生命をヱホバに捧げる人には重い責任の荷がたしかに課せられます。この荷を忠実に負い運ぶことは,絶対の命令であつて随意のことがらではありません。つまり自分の選ぶ道とか,生活の仕方をすすんで捨て,神の御意を為すということです。ヱホバの長なる証者キリスト・イエスの道に従おうと選んだ為に嘲笑,非難,困難,迫害,苦しみ,入獄というようなものがもたらされるでしよう。そのような状態下にあつても,献身した者はイエスに従いつづけ,ヱホバの御意を行います。その人は,自分が神の御意を行うことを認識します。それですから,自分の責任については積極的な態度を持たねばなりません。『ここに私がいます。私を遣して下さい』と述べたイザヤと同じ態度を取るべきです。神の言葉を学んで,この責任を認めるとき,その責任が重すぎるなどとは感じません。また,その責任におずおずしたり,あるいは失敗するのではないかと恐れるようなこともしません。ヱホバの永遠につづく新しい世に住むと期待していますから,神の御言葉に従いつづけ,『恐れません。』その人は恐れと臆病の気持に打ち勝ちます。ヨハネが見て書きしるしたヱホバの啓示を想い起します,『私はまた,新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り……勝利を得る者は,これらのものを受け継ぐであろう。私は彼の神となり,彼は私の子となる。しかし,おくびような者,信じない者……すべて偽りを言う者には,火と硫黄の燃えている池が,彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』パウロもテモテに宛てて極めてよいはげましの言葉と力づけの訓戒を与えました。彼はこう書きました,『神が私たちに下さつたのは,臆する霊ではなく,力と愛とつつしみとの霊なのである。だから,あなたは私たちの主のあかしをすることや,私が主の囚人であることを,決して,恥ずかしく思つてはならない。むしろ,神の力にささえられて,福音のために,私と苦しみを共にして欲しい。』私たちは,イスカリオテのユダとか,またサタンを初めとして失敗した他の者たちから献身の意味を学ぼうとは考えません。むしろ,聖書に述べられている強くて忠実な勇気のある一連の征服者に求めます。彼らの生活こそ見ならう価値のある手本です。私たちは彼らと同じく強い決意を持ち得ます。また彼らと同じく従順な神の僕になり得ます。キリストの忠実な使徒たちを含めて初期クリスチャンたちは恐れをすこしも持ちませんでした。また,アブラハム,イサク,ヤコブ,ダビデのような人,そしてサラ,ラハブ,デボラ,ヤエルのような婦人がいます。そのほかにも,勇気があつて契約を保つた他のヱホバの証者は連々と存在していたのであつて,それは義人アベルの時にまでさかのぼるのです。彼らはヱホバの最高至上の力に強い希望のいかりを下し,死人をよみがえすというヱホバの力をも信じていました。そのような強い信仰があるとき,人はたとえ肉体の生命を失うことがあろうとも,敵を恐れることはないでしよう。―ルカ 9:23。イザヤ 6:8。黙示 21:1,7,8。テモテ後 1:7,8,新口。

      12 真のクリスチャンの一人一人は,どんな選択に面していますか。

      12 自分の生涯の行動を選ぶことは,個人の責任であつてモーセもこう示しました,『我は生命と死および祝福と呪詛を汝らの前に置けり。なんじ生命をえらぶべし。しかせば汝と汝の子孫生きながらうることを得ん。』しかし,どのように生命を選ぶことができますか。真のクリスチャンの為に設けられている道に従うことによります,『汝の神ヱホバを愛してその言葉を聴き,かつこれにつき従うべし。かくするときはなんじ生命を得かつその日を永うすることを得。』私たちはヱホバにまつたく献身することにより生命を選びます。そして,ヱホバに永遠に従い,私たちの責任の荷をはこび行います。―申命 30:19,20。

      13 (イ)ヨシユアはどんな決定をいたしましたか。(ロ)私たちの時代において,正しい選択を怠る人には何が生じますか。

      13 ヨシユアも又ヱホバに専心の献身を捧げるのに必要な個人的な選択をあからさまに示しました,『なんじらもしヱホバに事うることを悪しとせば,汝らの先祖が河の彼辺にて事えし神々にもあれ,又はなんじらが今おる地のアモリ人の神々にもあれ,汝らの事うべき者を今日選べ。ただし,我と我家とは共にヱホバに事えん。』(ヨシユア 24:15)献身していない人もみな同じく選ぶ自由を持つています。この選択は,その人の運命を決定し,生命か死かそのどちらかを決定します。現在のヱホバの力の日にあつて,もしヱホバに奉仕する為の献身を拒否するならば,その人の生命は罰を受くべき罪人としてハルマゲドンのとき(もしそれ以前でないなら)に永久に終つてしまうでしよう。すべての心,魂,そして思いをこめてヱホバに仕えたいと思う点にまで達したとき,『私は献身をしようか』という問は正しいものでありません。神の御意をなす為の献身は,キリスト・イエスにより前もつて定められた道です。それですから,自分はヱホバの御意について正しく理解しているであろうか。また,今から後キリスト・イエスの足跡に従う忠実な弟子としてヱホバのの御意を成し行う為に,ヱホバの要求について正しく理解しているだろうか,と自問すべきです。その正しい理解に達するなら,ヱホバに仕えたいと誠実に欲する人はためらいません。この積極的な前進の歩みは,ヱホバによつて規定されているのです。生命を得るために人はその歩みを取らねばなりません。キリストの足跡に従うクリスチャンになると同意して,その同意をなし行う人は,真実にクリスチャンです。キリストに従順に従う弟子は,水による洗礼をすることによりその献身を他の人の前で公けに言い表わし象徴いたします。

      献身があなたに意味するもの

      14 (イ)献身の前に何が為されますか。(ロ)献身の後に何が為されますか。(ハ)ヱホバへの献身の中には何が合まれていますか。

      14 献身をする以前に魂を十分に調べることが必要です。献身ということは「ヱホバにより頼む」ということを認識しなければなりません。つまり,悔い改めること,すなわちこの点まで生活して来た古い世の不従順な罪深い生活の仕方から離れ去るという意味です。悔い改めたその人は,今では罪人としてヱホバの見地から物事を見ます。彼は,あがない主,贖罪者なるイエス・キリストというヱホバの愛ある御準備を認めます。キリスト・イエスの流された血の贖罪の価値に信仰を働かすことによつて,聖者なるヱホバと正しく一致調和するようになると,その人は認めます。それから変化が行われます。これは奇跡的な変化ではありませんが,新しい心の態度の出発であります。つまりその心の態度をもつて,その人は今後は神の啓示される御意をよろこび進んでしつかり行います。この面から見ると,献身は遂行されねばならぬ決定ということになります。人が生命をヱホバに捧げるとき,ヱホバがその御約束を果されるようにと期待します。そして,ヱホバが御約束を果すということについては疑問はありません。ヱホバも又,御自分の受け入れる者がその献身を成し行うようにと期待しています。部分的な献身というようなものはありません。すなわち,ためらうとか,あるいは制限つきの仕方でヱホバに献身しようと心の中で決定する部分的な献身はありません。献身の全きを危うくするような事柄は,何一つとして許してはなりません。それで,ヱホバになされるこの献身には,真実に重大な責任がともないます。神の御言葉を伝道することは,随意勝手なものであるなどと考えてはなりません。宣教の業は,キリスト・イエスの場合と同様に,是非しなければならぬ任命の仕事なのです。イエスの献身の時はその宣教の業の始まりとなりました。そして,為し行おうと決定し同意した新しい生涯の行いからイエスがそれるというようなことは一度もなく,また他の事柄で支障を受けるということも一度もなかつたのです。

      15 献身は何にかたどることができますか。

      15 これは最初を示すものですから,人の誕生日になぞらえることができます。つまり,新しい生命の最初ということです。この時以前では,人間生活のごく僅かな程度だけを楽しむことができました。しかも,私たちがアダムの堕落した状態にかたどられていたため処罰の下にいたのです。

      16,17 (イ)新しく献身した人は,この重要な歩みをどのように見るべきですか。(ロ)新しく献身した人の目的は何ですか。

      16 人は子供と同じように熱心に学び,円熟に達する為学びつづけなければなりません。子供は一生懸命に両親にまねようとします。また,子供には成人に達しようとする強烈な力があるのです。実際のところ,成人になりたいという気持から子供は熱心に進んで研究いたします。子供は幼児のままでいたいと思わず,また青少年のままでいたいと思いませんから,知識を得ようとつとめます。そのように,『新しく生まれた』クリスチャンは将来の自分の生命を見るべきです。

      17 子供たちにミルクの食物とか,柔らかい流動食のようなものだけを与えるなら,子供はきらいます。子供は両親がかたい食物を食べているのを見て,そのかたい食物を食べたいと欲します。かたい食物は成人のものであると知つているからです。クリスチャンの場合もそうです。パウロはこのようにさとしました。『しかし堅い食物は,善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。そういうわけだから,私たちはキリストの教の初歩をあとにして,完成を目ざして進もうではないか。今さら,死んだ行いの悔改めと神への信仰,洗いごと(洗礼)についての教と按手,死人の復活と永遠のさばき,などの基本の教をくりかえし学ぶことを止めようではないか。』― ヘブル 5:14–6:2,新口。

      18 献身した人は何を追い求めるべきですか。何がその人の心によろこびをもたらしますか。

      18 クリスチャンは知識を熱心に追い求めねばなりません。かくして,霊的な円熟に達して自分の献身を為し行い,他の人々を助けて生命に達するのを援助することができます。若い人々が成人に達するということになぞらえることができるものです。成人になつて結婚すると,新しい子供たちを生みます。円熟したクリスチャンたちもそれと同様です。彼らは『来なさい!』と言つて他の人々をみちびきます。新しく聞いた人々は,以前の行いから離れて同様に研究し,ヱホバの御意をする為に自分の生命を献身するようになります。生活をするにしても,又は行うにしても,クリスチャン円熟は,すばらしい幸福な状態です。

      19 献身を考えている人にとつて,それにともなう事柄を真剣に考慮することは,なぜ重要ですか。

      19 献身という事柄を注意深く考える際に,人は次のように思うかも知れません,「この宣教の業をするとか,参加するなどということは,私にはとうていできない。でも私は神を愛しているし,私は神に仕える。私の生涯中神を十分に第一と認めるが,全き献身ということになると,とうていすることができない。」人は最初そのように考えるでしよう。しかし,そのような気持でいるならば,その人は研究しつづけ,正確な知識を採り入れるべきです。円熟した考え方をするならば,正しい決定に達することができるからです。これはまつたく肝要な決定です。丁度,将来のことを考えて,家の建築を計画している人になぞらえることができます。しかし,家を建てる場合でも,人は座つてその費用を計らねばなりません。イエスも次のように言われました,『あなたがたのうちで,だれかが邸宅を建てようと思うなら,それを仕上げるのに足りるだけの金を持つているかどうかを見るため,まず,すわつてその費用を計算しないだろうか。そうしないと,土台をすえただけで完成することができず,見ているみんなの人が,「あの人は建てかけたが,仕上げができなかつた」と言つてあざ笑うようになろう。』献身をする際に,人はその行いをなして最後まで守り通すということに伴うあらゆる事柄を計算しなければなりません。しかも,真面目な気持の中に熱心にすべきです。―ルカ 14:28-30,新口。

      献身は幸福をもたらす

      20 献身した僕たちに対するヱホバの祝福のいくらかは何ですか。そして,何がよろこびをもたらしますか。

      20 あなたの捨てる事柄と,ヱホバから約束されている事柄をならべて比較してごらんなさい。(マタイ 19:27-29)そのことについて良く考えてごらんなさい! あなたの持つている良いものの中で,最初にヱホバから頂かなかつたものがありますか。献身,賛美,そして心からの奉仕を捧げるという力もヱホバから頂いたものです。あなたはこれらのものをよろこんでヱホバに捧げます。また,ヱホバに奉仕するためあなたのすべてをも捧げます。これらのものは,正しい方イエス・キリストを通してヱホバに快く捧げられます。それは,神の献身した僕たちに絶えず与えられ,言葉に言い表わし得ぬ特権と祝福をもたらします。しかし,次のことを留意して下さい。その人はヱホバの証者の一人としてヱホバの御名によつて呼ばれ,またヱホバの御名により語る特権を持つということです。亡びに定められて死に向かつているこの古い世にあつて,献身している神の僕たちはいちばん幸福な民であります。まつたくのところ,その民はハルマゲドンの神の宇宙戦争に生き残り,全地に亘つて完全となるパラダイスで永遠に生きるとつよく期待しています。それですから,多くの事柄は献身をすることに依存しており,あらゆることがらはその献身を守り通すことに依存しています。忠実を保つて献身の誓を忠節に果し行うことは最高の幸福をもたらします。それに失敗することは失望をもたらします。

      21 献身の程度はどのくらいのものですか。

      21 献身についての十分の意義および重要性は,イエスの次の言葉に要約されるでしよう,『あなた方のうちで,自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては,私の弟子となることはできない。』(ルカ 14:33,新口)どんなものであろうと,献身を妨げさせてはなりません。その中には妻や夫,家族そしてそれ以外に大切と思われるこの世のものも含まれるのです。ヱホバへの献身は,その程度においてまつたく明白なものでなければなりません。人はヱホバに専心の献身を捧げるという義務を負つています。

  • バプテスマ
    ものみの塔 1958 | 11月1日
    • バプテスマ

      『イエスは……バプテスマをお受けになつた。そして,水の中から上がられるとすぐ……聖霊がはとのように自分に下つて来るのを,ごらんになつた。すると,天から声があつた,「あなたは私の愛する子,私の心にかなう者である。」』― マルコ 1:9-11,新口。

      1 (イ)どんな段階が献身の後につづきますか。(ロ)何がイエスの献身を象徴しましたか。何時彼は聖霊を受けましたか。

      全能の神に奉仕したいと,気持と心の中で献身して後,どのようにその献身を完了しますか。別の段階が必要です。それは,水のバプテスマを受けることにより,自分の献身を他の人に公に発表し告白するということです。興味深いことには,キリスト・イエスはこの正しい行いについての模範を残されたということです。『イエスはバプテスマを受けるとすぐ,水から上がられた。すると,見よ,天が開け,神の御霊がはとのように自分の上に下つてくるのを,ごらんになつた。また天から声があつて言つた,「これは私の愛する子,私の心にかなう者である。」』(マタイ 3:16,17,新口)この言葉から,キリスト・イエスの献身はバプテスマにより,公に象徴されたと知ります。彼が水から上られると,ヱホバの御霊はイエスに下つてきました。そして,ヱホバ神は御子の採つた行いによろこばれていると洗礼者ヨハネの聞こえるところで述べられたのです。

      2 (イ)『バプテスマ』という言葉の語源であるギリシャ語の言葉の意味は何ですか。(ロ)バプテスマを施すことは,どのようになされるべきですか。

      2 『バプテスマ』という言葉は,『浸す』という意味のギリシヤ語バプティスマから取られています。それですから,水をふり注ぐという意味はすこしもありません。また,バプテスマを施すヨハネのところに行つて浸礼を受けた際のイエスの自発的な行為に気をつけなさい。彼はヨハネに身を全くゆだね,後ろ向きになつて水の中に浸されました。イエスがヨルダン河の水の中に全く没して浸された仕方は,イエスが以前の地上の生涯に関しては死に葬られたということを良く表わし示しました。それから彼が水の中から引き起されたことは,その時以降彼がヱホバの御意を行うために生かされたということを示します。それですから,個人の献身の正しい公のしるし又は象徴として水のバプテスマはまつたく適当なものです! ヨハネがイエスにバプテスマを授けたとき,誰もヨハネに手助けしていません。また,この浸礼の際に他の人がいたなどとは述べられていません。このことは,キリストの弟子が洗礼を受ける正しい仕方の手本となります。つまり,ひとりの人は,受洗希望者を水の中に仰向けに浸し,全く水の中に没せしめてから再び引き起すということです。

      3 イエスはバプテスマを施す権威を誰に与えましたか。

      3 イエスが全能の神の献身している僕のところに行つてバプテスマを受けられた,ということも重要です。イエスは献身している僕のところに行つてバプテスマを受けられましたが,また他の者にバプテスマを施すよう11人の忠実な弟子たちに告げられています。イエスがガリラヤの山に行かれたときを想い起してごらんなさい。その山のところで,イエスはその弟子たちと会われました。そして,弟子たちに向い心を引き立てる次のような話をされました,『私は,天においても地においても,いつさいの権威を授けられた。それ故に,あなた方は行つて,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によつて,彼らにバプテスマを施し,あなた方に命じておいたいつさいのことを守るように教えよ。』イエスはその言葉を祭司とか,サドカイ人,又はパリサイ人に向かつて告げず,イエスの忠節な大使であつたそれらの弟子に向かつて告げられたのです。さらに,国民を弟子とするようにとも告げられました。それですから,彼らは最初に教訓と知識を他の人に与えます。後日この条件にもとづき人は同じく全能の神の献身している僕によりバプテスマを受けます。そのときには,人々はヱホバの証者だけから真理を聞き,真理を受けました。今日,類似の状態が存在しています。人々は全能の神の真の証者なる献身した僕たちから真理の教えを聞き入れます,そしてバプテスマを施すことはすでにバプテスマを受けた者によつて為されます。―マタイ 28:18-20,新口。

      4 (イ)エチオピヤ人の宦官は誰から神の言葉の理解を受けましたか。(ロ)彼の献身はどのように象徴されましたか。

      4 私たちを更にみちびく為,ピリポとエチオピヤの宦官についての興味深い記録が残されています,『ピリポは口を開き,この聖句から説き起して,イエスのことを宣べ伝えた。道を進んで行くうちに,水のある所にきたので,宦官が言つた,「ここに水があります。私がバプテスマを受けるのに,なんのさしつかえがありますか。」そこで車をとめさせ,ピリポと宦官と,ふたりとも水の中に降りて行き,ピリポが宦官にバプテスマを授けた。ふたりが水から上がると,主の霊がピリポをさらつて行つた。』この場合,全能の神の忠実な僕が教えています。受洗希望者が良いたよりを聞いたとき,自分も僕になつて浸礼を受けたいと欲しました。そして,ヱホバ神に奉仕する為に献身すると明白に公表したのです。―使行 8:35-39,新口。

      5 タルソのサウロは誰から教訓を受けましたか。その後に何が起りましたか。

      5 タルソのサウロはダマスコに行くよう命ぜられました。そして,ヱホバの僕であるアナニヤがサウロのいるところに派遣され,サウロがアナニヤから指示を受けてからはじめてサウロは視力を回復して聖霊に満たされました。このことについての聖書の記録は次のように述べています,『するとたちどころに,サウロの目からうろこのようなものが落ちて,元どおり見えるようになつた。そこで彼は立つてバプテスマを受け,また食事をとつて元気を取りもどした。』サウロは弟子たち,つまりヱホバの証者と接することが必要でした。そして,神の真の僕であるアナニヤは恐らくサウロにバプテスマを施したのでしよう。―使行 9:18,19,新口。

      6 初期クリスチャン会衆の時代中,誰だけが教訓を授けてバプテスマを施す是認を得ましたか。そして,今日にはどんな類似の状態がありますか。

      6 特に重要な別の点はこうです,すなわちヱホバは全部の国民を弟子となして洗礼を施せとすべての民に告げていないということです。いまから1900年のむかし,イエスは自分の仲間の証者たち,神ヱホバの子たちだけにその言葉を告げられたのです。人々が彼らのところに来て教えを受け,そしてバプテスマを受けてはじめて聖霊によつて満たされたのです。聖霊に満たされることは,実際に水のバプテスマを受ける前か,または受けてからすぐ後のことでした。今日でも同じ状態です。ヱホバがいま用いている伝達の径路を通してのみ,人は真理の正確な知識を得ます。同様に,ヱホバに献身的に奉仕している者だけが,教えを受けて神に奉仕しようと献身する者たちにバブテスマを授けるのは適当なものです。

      7 (イ)水をふりかけることは,なぜ正しいバプテスマではありませんか。(ロ)キリスト教国の宗教制度で行われるバプテスマは,なぜヱホバの御前に受け入れられないのですか。

      7 或る人は,自分は以前ある教会でバプテスマを受けており,それはどうも献身のように感ずると言うかも知れません。しかし,ここで質問が生じます。その人はどの教え又は原則に献身しましたか。その人が幼児のとき又はどの年齢の時であろうと,もし水をふりかけるだけのバプテスマを受けたのであるなら,はたしてヱホバに献身したことになるでしようか。否であります。水をふりかけることは聖書的に正しい形式のバプテスマではないからです。しかし,たくさんの宗教制度の中の一つで水による浸礼を受けたならば,そのバプテスマは今日神に受け入れられるものでしようか。否であります。なぜなら,1918年以来,それらの宗教制度はさばきを受けているからです。又その会員はヱホバ神の言葉をまつたく無にしてしまうところの神を侮辱する信条とか人間の言い伝えを教えられてきました。まつたくのところ,たくさんの教会制度の一つで受けるバプテスマは,その特定な宗教制度の人間製の儀式に従うことです。例えば,大部分のキリスト教国の宗派は『祝福された三位一体』の教理を信じて教えています。その教理は,ヱホバが永遠の最高至上権を持つておられ,御子は常に従順で御父にしたがいそして御父とは平等の立場を採らないという聖書の教えを否定するものです。また,人間の魂の不滅という教理はヱホバ神が人間を創造した仕方についての聖書の教えとは矛盾いたします。今日,キリスト教国制度の大部分は,現在の組織制度の支配者が上なる権力であつて,それに服従しなければならないと認めています。これは次の教えと全く矛盾するものです。真のクリスチャンはヱホバによつて御座につけられた王キリスト・イエスに従い,そして設立した御国の良いたよりを宣べ伝えるためヱホバがいま用いている一致結合の清い制度を愛し,かつ敬意を表わせよとさとされているのです! それですから,真の神の御心にかなう献身と水のバプテスマは,神の御言葉,聖書に書かれているヱホバの要求と全く一致調和するものです。そして,自ら進んで学ぶ人はみな正義の要求に熱心に従うでしよう。

      8 御父の名によつてバプテスマを受けるとは,どういう意味ですか。

      8 『父と子と聖霊との名によつて,彼らにバプテスマを施し,あなた方に命じておいたいつさいのことを守るように教えよ。』という言葉を想い起しなさい。学ぶ者すなわち教えられた者は,御父の地位を是非とも知らねばなりません。『父』とは親なること,優先を示しています。それは真の神ヱホバの至上権,正しい主権を指しています。そして又,ヱホバの全きにして最高権威のしるしでもあります。学ぶ者すなわち弟子は,この独特の地位と力を認識しなければなりません。また次の事柄をもくわしく知り,認めねばならないのです。すなわち今日には宇宙支配に関する大論争があり,その論争の適当な解決はヱホバにより成功裡になされるということです。

      9 御子の名によつてバプテスマを受けるとは,どういう意味ですか。

      9 そして又,子の名によつてバプテスマを受けるということは,弟子が御子の高い権威と地位を認めるということです。ヱホバは権威と地位を子に与えました。御子は悔い改めをなす不従順の人間をあがないます。学ぶ者は,あがない者である御子のあがないの価値を知らねばなりません。神より油そそがれた者,ヱホバの新しい世の統治している王としての御子を尊敬しなければなりません。さらに,善意を持つ大群衆にとつては永遠の父と認めねばなりません。善意者の大群衆は,イエスを通して地上で生命を受けるでしよう。

      10 聖霊の名によつてバプテスマを受けるとは,どういう意味ですか。

      10 学ぶ人は次のことをも知るようになります,すなわち聖霊は『三位一体』の第三者ではなく,実際にはヱホバの活動力であるということです。その力によつて進んで学ぼうとする人々は神の御意と目的についての理解が得られます。その同じ力は,昔の神の予言者を霊感して神の聖なる言葉を書かせました。その力はキリスト復活後のペンテコストの時にも,又その時から現在にいたるまでのクリスチャンを指示しているのです。神の力なるこの同じ力が,今日世界に存在している神の神権制度を指示しているのです。現在,神の献身した奉仕者たちを支持し,活動せしめているのは,同様にその力であります。そして,奉仕者はその活動力に服し従つているのです。

      11 (イ)何時バプテスマは無効なものになりますか。(ロ)昔のエペソ人の最初のバプテスマはなぜ無効でしたか。

      11 献身した人によつて施される正しいバプテスマ以外のバプテスマは,無効のものです。また,献身をした際に正しい理解を持つていないならそのバプテスマは無効のものです。パウロがこのことを示しています。それはパウロがエペソに行つて,或る弟子たちを見出したときのことです。彼はこう尋ねました,「あなた方は,信仰にはいつた時に,聖霊を受けたのか。」「いいえ,聖霊なるものがあることさえ,聞いたことがありません。」と答えた。「では,だれの名によつてバプテスマを受けたのか」と,彼がきくと,彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。そこで,パウロが言つた,「ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けたがそれによつて,自分のあとに来るかた,すなわち,イエスを信じるように人々にすすめたのである。」人々はこれを聞いて,主イエスの名によるバプテスマを受けた。そして,パウロが彼らの上に手をおくと,聖霊が彼らにくだり,それから彼らは………預言をしたりし出した。』このことから分る通り,ヨハネのバプテスマを受けても聖霊は下らなかつたのです。この事実は,ヨハネの後に来る方,すなわちイエスの名によつてバプテスマを受ける重要性および必要性を示しています。ひとつの例として,西暦33年のペンテコスト後にヨハネのバプテスマを受けた者たちは,聖霊をいただく為に再びバプテスマを受けることが必要でした。―使行 19:1-7,新口。

      ヨハネのバプテスマ

      12 (イ)ヨハネのバプテスマの目的は何でしたか。律法の目的は何でしたか。(ロ)ヨハネのバプテスマは,どのようにイスラエル人を準備しましたか。

      12 バプテスマは罪をのぞきさるものではないかと尋ねる人もいます。ヨハネのバプテスマは罪をとりのぞくものではなく,古い契約すなわち律法契約に対する罪を悔い改める為のものでした。マルコ伝 1章4,5節(新口)にこう書かれています,『バプテスマのヨハネが荒野に現われて,罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた。………(彼らは)自分の罪を告白し,ヨルダン河でヨハネからバプテスマを受けた。』ユダヤ人は契約を結んだ民であつて,その契約に対して罪を犯し,有罪でした。ヨハネのバプテスマは,彼らにとつて悔い改める機会になつただけでなく,次のことを認める機会にもなつたのです。すなわち彼らはヱホバとの契約関係を破つたこと。そして彼らをメシヤにみちびく正しい道に従い得る,ということです。もしそうでないなら,彼らはメシヤを認めないでしよう。まつたくのところ,パウロの説明するごとく,それこそ律法の目的でした,『それでは,律法はなんであるか。律法は過ちを明白にするためにつけ加えられたもので,約束のなされた裔が来るまで存続するものであり,御使たちを通し,仲介者の手によつて伝えられたものである。それでは,律法は神の約束に反するか。そのようなことは決してない! 生命を与え得る律法がすでに与えられていたなら,義は実際には律法によつて実現したであろう。しかし,イエス・キリストに対する信仰から生ずる約束が,信仰を働かす者たちに与え得る為,聖書はすべての事柄を罪の下に閉じこめた。しかし,この信仰が来る前は,私たちは律法の下に守られ,必ず現われる筈の信仰を待ちのぞみつつ閉じこめられていた。このようにして,律法はキリストにみちびく私たちの守役となつた。それは私たちが信仰によつて義とされるためである。しかし,この信仰が来た現在,私たちはもはや守役の下にはいない。』(ガラテヤ 3:19,21-25,新世)ユダヤ人が律法に対して敬意を払い,かつ律法を理解する為には,自分たちが罪人であり違反者なることを認めねばなりません。契約に対する罪には,血を流すことが必要でした,『ほとんどすべての物が律法に従い,血によつてきよめられたのである。血を流すことなしには,罪のゆるしはあり得ない。』ヨハネのバプテスマがそのようなきよめをもたらさなかつたことは明白です。しかし,ヨハネのバプテスマは,律法の前にあつて教えに聞き従う従順さという立場をイスラエル人に与えました。そのようにして,彼らはメシヤを認める準備をすることができます。律法がイスラエル人に与えられたのは,彼らがイエスをあがない主と受け入れるためです。なぜならそれ以外の方法によつては罪のゆるしは得られないからです。―ヘブル 9:22。

      イエスのバプテスマ

      13 (イ)なぜイエスのバプテスマは,罪をゆるすものではありませんでしたか。(ロ)イエスのバプテスマは何をなしとげ何を意味しましたか。

      13 罪をゆるすあがないとして,イエスは御自分を捧げられました。それは真実です。しかし,忘れてならないことに,イエスのバプテスマは罪をゆるさなかつたということです。イエスには罪がなかつたからです。『キリストは罪を犯さず』とペテロは述べていました。(ペテロ前 2:22,新口)イエスは罪なく,汚れなく,罪人からは全く遠ざかつていました。それでは,なぜ彼はバプテスマを受けましたか。まつたくのところ,ヨハネはイエスにむかい『あなたが私のところにおいでになるのですか』と尋ねました。それに対し,イエスは『今は受けさせてもらいたい』と答えておられます。イエスのバプテスマは罪を洗い去るためではありません,また罪のゆるしを得させる為のバプテスマとしてクリスチャンたちの手本を残したのでもありません。イエスのバプテスマは完全にして絶対の献身を示したのです。モーセの律法は生命を与えることができませんでした。この故,人間が再び生き得る為にイエスは律法を成就するために来たのです。なぜなら,神がクリスチャンとつくられた新しい契約の基礎は,イエスのあがないの御準備によつたからです。イエスは水の中に葬られたときに自分の過去の生活に関しては死んだが,水の中から引き上げられたときはヱホバの御意を行う為に全く生きたと明白に表わし示しました。―マタイ 3:14,15。

      14 (イ)キリストに従う者は何時バプテスマを受けますか。(ロ)献身をして後にバプテスマを延引するということをなぜ避けるべきですか。

      14 同様なバプテスマをするクリスチャンの場合にも同じことが言えます。それですから,学ぶ者がヱホバの御意を行う為に献身した後は,バプテスマを受けることができます。もちろんそれは何の保留もない真心からの決定でなければなりません。それで,バプテスマは極めて重大な場合ですが,しかし悲しい場合でないことはたしかです。そのことがらに十分の考慮を払うべきです。他の人がバブテスマを受けるからという理由で,バプテスマを受けることはできません。その重要さは,伝道之書 5章4,5節に記されています。すなわち神に誓を立てるならば必ず成就しなければならないということです。神への誓を果す重要性に気づく人は,こんな風に言うかも知れません,『この際は見合わせておくべきだろう。思うような具合に行きそうもないしそれにこの献身を果さないなら死を受けることになる。』たしかに誓を破る者たちは『死に値する』者です。(ロマ 1:32)次の事実を忘れてはなりません,すなわち真理を知る機会があり,また生命をヱホバにささげるとはどういうことであるかを知りながら,なおも献身しない人にとつては,死を意味するということです。人がこの点にまで達したとき,その人は知識を持つており,その理解の程度に応じて責任を有しているのです。

      15,16 (イ)バプテスマを受ける以前に,人の生活に何が起るべきですか。(ロ)どんな状態下では,バプテスマは無効ですか。(ハ)どんな状態下にあつて,人は再びバプテスマを受けるべきですか。

      15 明らかに分ることですが,バプテスマを受ける以前に人の生活は変化いたします。不道徳な生活を行つていたか,また神の標準から見ると汚れた行いをしていたならば,その生活を清いものにしなくてはなりません。バプテスマを受けても生活を清い正しいものにしておらず,また不道徳な生活をしているか神の律法に違反する行いをしていた場合,バプテスマはヱホバの御意を為す献身を完了するものではありません。そのような献身の見せかけはヱホバの受け入れるところではないのです。汚れた捧げ物は全能の神の受け入れるものではありません。私たちは神のきよい御意を行う為に自らを捧げるべきです。

      16 自分がそのような状態にいると知るなら,生活を清めて真の献身をなし,再びバプテスマを受けることが必要でしよう。汚れた人がすでにバプテスマを受けていたにしても,その献身はヱホバによつて受け入れられたものではありません。その人が生活を清めるとき,再びバプテスマを受けるべきです。そのような状態下にあつては,献身は全能の神に受け入れられるものであり,水のバプテスマは有効なものです。

      17 (イ)献身とバプテスマは,人の生涯において何をしるしづけますか。(ロ)バプテスマの日は,どのように重要ですか。

      17 水による儀式的なバプテスマ,又は象徴的なバプテスマで生命が得られるのではありません。むしろ,その後につづくものすなわち神に捧げる忠実な奉仕によつてこそ生命が得られるのです。水によるバプテスマは,生涯を通して続けて行かねばならぬ或る事柄の最初を公に示すものです。実際のところ,この献身の終りはありません。それは永遠のものであり,心のうちに永久永続ということを考えてつくられねばならないのです。献身とバプテスマをなす時に全能の神から課せられる責任は,決して避けることができません。無関心とか不注意に責任を取り扱うこともできず,またその要求を果さないということがあつてはなりません。献身の日以来,それはその人の生涯の職なる伝道の始まりを示すものです。その日以前にも恐らく証言の業に参加したことでしよう。しかし,献身がなされてその後できるだけ早くバプテスマを受ける時まで,その人はヱホバに献身した関係に入つていません。この意味において,バプテスマを受ける日は,新しい生命に誕生したことを象徴する日です。それは新しい生命の始まりを公に宣べ伝え,現在および永久にわたつて神の新世社会内にいて神に献身した他の僕たちと交わることです。バプテスマを伴う献身は,人が古い世に死んで新しい世ひとすじに生きる時を示します。全くのところ,クリスチャンが献身したヱホバの僕およびイエス・キリストの弟子として生きることです。それですから,バプテスマは献身を公に述べ表わすもの,および任命の儀式として両方の用を果します。生涯中にバプテスマを受けるというこの重要な日は,自分の会衆に報告して記録につけるだけでなく,この記録を自分自身でも保たねばなりません。それはヱホバの目に見える制度によつて任命された日です。

      18,19 (イ)年若い者がバプテスマを受けるときは幾才ですか。(ロ)バプテスマについては年齢の制限がありますか。

      18 幾才のときにバプテスマを受けるべきかという質問がしばしば言われます。年齢というものは決定要素ではありません。10才台になつたばかりの者であつても,その年齢にはかかわりなくもし少年少女が神の真理を学んでヱホバの目的と要求に親しんで,ヱホバを愛しヱホバに奉仕したいと欲して献身をするときは,浸礼を受けることができます。その正しい態度は,イエスの次の言葉に表わし示されています,『もしあなたがたが私を愛するならば,私のいましめを守るべきである。』『もし私のいましめを守るならば,あなたがたは私の愛のうちにおるのである。それは私が私の父のいましめを守つたので,その愛の中におるのと同じである。』― ヨハネ 14:15; 15:10。

      19 一方,年老いた人は,もう年を取りすぎたから献身もバプテスマもできないと考えるかも知れません。この場合でも年齢は重要なものではありません。イエスの述べたごとく,神のいましめを遂行しようというひたむきな決意で一杯ならそしてヱホバに奉仕して永遠の生命を得たいと欲するなら,年寄りの者も献身の象徴としてバプテスマを受けることができます。それをひきのばすべきではありません。

      20 何が真実の永続する幸福をもたらしますか。

      20 生命を愛する人は生命を十二分に欲します。ヱホバだけが附随する祝福と共に生命を与えることができるのです。この愛と無私の献身の故に,人は幸福の中に永遠に存在して神に終りなき奉仕をしようと自発的に身を捧げるのです。

      バプテスマを受ける適当な時

      21 どんな時にバプテスマを受ける取り極めを設けることができますか。

      21 バプテスマを受ける機会はだいたいヱホバの証者の大会のときや,また年に2度行われる巡回大会のときにあります。ふとした具合で定期的に計画されている大会でバプテスマを受けることができない場合,またはなにか病気の為に不能であつた場合,別の時を取りきめることができます。時や場所にかかわりなく,ヱホバに献身している僕が浸礼を施すよう任命されます。

      22,23 (イ)バプテスマを受けたいと希望している人々には,どんな重要な質問が提出されますか。(ロ)どんな答は,受洗希望者がバプテスマをすぐ受けられることを示しますか。

      22 口を開いて信仰を公に言い表わすことは是非大切なものです。そのわけで,受洗希望者には二つの質問を尋ねます。(1)あなたはヱホバ神の御前にあつて救いを必要とする罪人であると認めかつこの救いは御子イエス・キリストを通して父から来ると認めていますか。(2)神にたいするこの信仰と,救いをもたらす神の御準備に対するこの信仰にもとづいて,あなたは神に全く献身し,今後はイエス・キリストを通し,かつ聖霊のなす啓発の力の下に聖書を通してあなたに啓示される神の御意を行いますか。

      23 これらの質問に『はい』と答え得る人は,みなバプテスマを受ける資格を持ちます。そして,ためらうことなくまたおくれることなく,この行いをするすべきです。

  • いまだに『マナ』を食べる
    ものみの塔 1958 | 11月1日
    • いまだに『マナ』を食べる

      聖書は,40年間も荒野をさまよつたイスラエル民族を神がマナで養われたことを述べています。マナは白い実に似ていて,『蜜をいれたる菓子』のように甘いものでした。(出エジプト 16:13-31)この説明を考えると,アメリカの「ナショナル・ジオグラフィック」誌が,1957年12月号の『旧約聖書時代をよみがえらす』という記事で,マナについて述べている事がらに興味をひかれます。

      『われわれはまたもや,動かし得ない事実が聖書の物語を支持しているのを知つた。というのは,天からふつた奇跡のマナは,シナイでは毎年みられるからである。甘くて栄養のある白い小滴が,夏ごとに必ずかん木の上に奇跡的に現われる。最も多い時期には,男一人で1日に2ポンド以上を集めることができる。

      『1927年,エルサレムにあるヘブル語大学の動物学者F・S・ボデンヘイマー教授は,マナの秘密を探るためシナイ半島に出かけた。彼の訓練された目は,たちまちその秘密を解き明した。その蜜のつゆの滴は,カイガラムシが出すものである。

      『この小さな生物は,同化作用のバランスをとる必要にせまられるので,窒素の不足している木から炭水化物を多く含む樹液を吸う。窒素を使うと,甘い過剰液を滴にして排出してしまう。そしてこの液は蒸発してすぐにねばねばした固形に変る。

      『マナは,今日に至るまで近東の人々が好む糖分である。最も有名な種類は,カーディスタンでとれるもので,行商人たちは,これでつくつた菓子に「マン」という名前をつけ,バグダッドの街で売り歩いている。』

      イスラエル人全部に十分のマナを供給し,特に金曜日毎にその2倍の量を与え安息日である土曜日にないようにするには,奇跡が必要であつたことは疑いありません。しかしそれにしても,このマナが自然のものであつたり,イスラエル民族が滞在したと聖書が記録している場所にいまだに見られるということは,ほんとうに興味あることです。

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