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あなたは洗礼をうけましたか? どのように? なぜ?ものみの塔 1955 | 9月15日
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れました。西暦36年までの新しいクリスチャンたちとは,ユダヤ人や,ユダヤ人と縁故関係にある割礼をうけたサマリヤ人や,そしてもともとユダヤ人ではなくてもユダヤ人の宗教に改宗して割礼を受け,いまではキリスト教に改宗した者たちでした。その後,キリスト教の福音が異邦人のところに伝えられた時,割礼をうけていなかつた非ユダヤ人も洗礼をうけました。使徒パウロになつたサウロについて,聖書にはこう書かれています。『彼(サウロ)は目が見えるようになり,起つて洗礼をうけた。』― 使行 9:18,新世。
洗礼は罪を許さず
15 サウロ(パウロ)の罪は,洗礼によつて許されましたか?
15 『起つて,洗礼をうけ,そして御名を唱えてあなたの罪を洗い落しなさい。』使徒パウロの言葉によると,彼が改宗したとき,そのように告げられました。(使行 22:16,新世)パウロが洗礼をうけた時,彼の罪はゆるされ,その罪は水の中に洗い清められたということなのでしようか? パウロはそのように述べておらず,むしろ,こう言つています。彼は洗礼をうけるようにと命ぜられたのであり,罪の洗い清めは,キリスト・イエスを通してヱホバの御名を唱えることによるというのです。イエスの名にあつて,ヱホバを呼び求めたことは,その改宗を忠実に為し遂げた,つまり献身ということを示しました。パウロ(あるいはサウロ)のキリスト教への改宗は,その献身と同じものでしたか? そうです。改宗とは,自分の行を変えて,イエス・キリスに従うことを意味するからです。
16,17 (イ)悔い改めは,浸礼の後ですか,それとも前ですか?(ロ)洗礼は献身を象徴すると,何がさらに良く示していますか?
16 このことは,クリスチャン浸礼の型を残された方は,罪のゆるしを必要とせず,また洗礼をうける以前に私たちが悔い改めねばならないという事実とぴつたり一致するものです。「神に立ち帰つた」とき『私は音信を述べ伝え,彼らが悔い改めて神に立ち帰り,悔い改めにふさわしい業をするようにすすめた』とパウロは述べています。(使行 26:20,新世)『神への悔い改めと,私たちの主イエスへの信仰について,私はユダヤ人とギリシャ人の両方に全き証言を為した。』(使行 20:21,新世)イエスの示した途に従うクリスチャンの全き献身は,浸礼によつて象徴されますが,次の聖句はそのことを更によく示しています。『じつさいに,この道のためにあなた方は召されたのである。キリストはあなた方のために苦しみを受けられ,あなた方が彼の足跡にしつかりと従うようにと手本を残されたのである。』(ペテロ前 2:21,新世)『イエスは弟子たちに言われた。私に従いたい人は,自分を捨ててその刑柱を負い,私に従つて来なさい。』(マタイ 16:24,新世)水の浸礼で象徴されるごとく過去の生涯に関しては葬られ,そしてキリスト・イエスを通してヱホバ神の御意を為そうという決意,つまり献身はイエスの話された類似の言葉の中でも述べられています。『誰でも私に従いたいならば,自分を捨て,日々刑柱を負つて私に従つてきなさい。』― ルカ 9:23,新世。
17 罪のゆるしを浸礼と結びつけている聖句も,いくらかあります。それらを研究するため,いまヨハネの洗礼に考慮を払つてみましよう。
洗礼者ヨハネの洗礼
18 どのような状態のために,浸礼者ヨハネの宣教は必要になりましたか?
18 洗礼者ヨハネは,キリストの先駆者であつて,キリストを宣べ伝えていました。この宣教により,イスラエルの国民に準備を施し,イエスが献身と洗礼をうけて宣教を始めたときに,イエスをうけ入れさせました。このことは必要でした。イスラエルの国民は,キリストにみちびかれるモーセの律法を持つていましたが,その律法に違反し,罪を犯したからでした。メシヤが来るとすぐに,メシヤを認めてうけ入れるためには,まず準備の業が為されねばならないのは当然でありましよう。それで,ヨハネは悔い改めの音信をユダヤ人に伝道するとともに,彼らの行つたあらゆる不義に対して強い叱責の言葉を述べたのでした。
19 ヨハネは伝道をするかたわら,なぜ洗礼を施しましたか?
19 しかし,ヨハネは伝道するかたわら,なぜ洗礼を施しましたか? その洗礼は,ヨハネによつて浸礼されたイスラエル人の罪を取りましたか? ヨハネの伝道の目的は何であつたか?という別の質問はその答に助けを与えるものです。その目的は,心の変化である悔い改めをすすめて,キリストをうけ入れさせる準備をイスラエル人に為していたのでした。人々のうちのある者は,ヨハネの良い音信に答え応じて,悔い改め,自分たちの罪を告白し,そして公やけに洗礼をうけました。初期のクリスチャンたちはそのことを認め,後になつてこのように述べています。『その方の来られる前に,ヨハネはイスラエルのすべての民に悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。』(使行 13:24,新世)そして又『ヨハネは悔い改めの洗礼を施し,彼の後に来る方,すなわちイエスを信ずるよう人々に告げた。』(使行 19:4,新世)それで,これから分るように,洗礼は罪をゆるすものではなく,むしろ悔い改めた者になされたと聖書は述べています。それは,ヨハネの教えの目的であり,かつ悔い改めることによつて,律法契約に対する罪のゆるしは得られたのです。洗礼自体,彼らが悔い改めたためになされ,悔い改めが条件とされていたものです。洗礼は,悔い改めのしるしであり,悔い改めを表わすものです。それで,悔い改めは,ヨハネと他の人々の前ではつきり表示されました。悔い改めを公やけに発表して,それを表示した人々は,浸礼者ヨハネの述べ伝えたキリスト・イエス,すなわちメシヤをうけ入れる用意ができていました。
20 (イ)ヨハネの浸礼は,以前の悔い改めを象徴するものであつたという事実を更に示しなさい。(ロ)クリスチャンのうけるイエスの洗礼は,ヨハネの洗礼と異るものか否かを示しなさい。
20 キリスト教徒ギリシャ語聖書(多く新約聖書と言われる)の近代訳は,この点を良く証明しています。たとえば,マタイ伝 3章11節のヨハネの言葉を次のように訳出していることからも分ります。『あなた方が悔い改めているために,私は水の洗礼を授けている。』(新世)『あなた方が悔い改めているしるしとして,私は水の洗礼を施している。』(アメリカ訳)『あなた方の悔い改めを示すため,私は水の洗礼を施している。』(シー・ビー・ウイリアムズ訳)ルカ伝 3章3節ではこう書かれています。洗礼者ヨハネは,『罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。』(新世)『悔い改めを条件にしている洗礼を宣べ伝えた。』(ウイリアムズ訳)『罪のゆるしを得ようとして悔い改めた者たちに洗礼を宣べ伝えた。』(ノックス訳)律法に対する罪を悔い改めた象徴として,ヨハネは人々に洗礼を施していました。そのことから,律法に対する罪を持たぬイエスがなぜ浸礼をうけに来たか,ヨハネには分らなかつたのです。しかし,ヨハネにむかつてイエスはこう言いました『いまはそうおつしやるな。義しいことをすべてなしとげるのは,私たちにふさわしいのである。』(マタイ 3:15,新世)使徒行伝 19章1-5節(新世)には,次のように書かれており,イエスの洗礼とクリスチャン浸礼は,洗礼者ヨハネの行つた洗礼と異ることが,更に証明されています。『さて,アポロがコリントにいるあいだ,パウロは内地を通つてエペソに至り,幾人かの弟子に会つた。彼は「あなた方が信者になつたとき,聖霊をうけましたか」と彼らに尋ねた。「聖霊があるなどとは,聞いたこともありません。」と彼らは答えた。「それでは,あなた方は何の洗礼をうけましたか」とパウロは尋ねた。「ヨハネの洗礼です」と彼らは答えた。「ヨハネは悔い改めの洗礼を施し,後に来る方,つまりイエスを信ぜよと人々に語つたのである。」とパウロは言つた。この言葉を聞いて,彼らは主イエスの名によつて洗礼をうけた。』
21 洗礼をうけた者について,まだ何を考慮しなければなりませんか?
21 それで,イエスは新しい型を始められたのです。それは,罪のゆるしを得る洗礼でもなければ,悔い改めの象徴としての洗礼でもなく,献身を象徴したクリスチャン洗礼でありました。イエス御自身も,その浸礼により献身を象徴したのです。今日,洗礼と洗礼をうけた者にたいしてキリスト教の要求している事項については,次の記事を見て下さい。
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新世社会のクリスチャン洗礼ものみの塔 1955 | 9月15日
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新世社会のクリスチャン洗礼
『我らはその(ヱホバの)路を歩まん。』― ミカ 4:2,ア標。
1 いまヱホバに献身する各人は,浸礼をうけるべきですか? 主の『他の羊』も浸礼をうけるべきですか?
前号とこの号の『ものみの塔』の中で,ヱホバへの献身と,その献身の象徴である洗礼について,多くのことが述べられています。さて,論議をいま少し進めます。前に述べられていることを基にして考えるとき,主イエスの『他の羊』は,洗礼をうけるべきですか?(ヨハネ 10:16)この質問の答は,肯定であります。神の御意を行うために献身するすべての人は,その献身の証として浸礼をうけるべきです。そして,主の『他の羊』に属する者たち,つまり地上における永遠の生命の希望を持つ『大いなる群衆』も,その浸礼をうけるべきです。(黙示 7:9)彼らは,義しいことをことごとく果そうと欲しています。そのことから見ても,彼らが浸礼をうけるのは,正しいことであつて,イエスが,御自身の洗礼についてマタイ伝 3章15節で述べている言葉通りです。いま集められているこれらヱホバの崇拝者たちは,各人それぞれ献身していますが,そのことは,他の聖句の中でも古いミカの予言により証明されます。『多くの民来りて言ん。いざわれらヱホバの山に登り,ヤコブの神の家にゆかん。ヱホバその道を我らに教えて,我らにその路を歩ましめたまわん。』(ミカ 4:1-5)それは,神への献身,つまり『彼の路を歩む』ことを示します。ここで,私たちが確信しすることのできるように正しい洗礼の施し方を学ぶのは,大切なことです。
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