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『行って…人々を弟子とし…バプテスマを施しなさい』ものみの塔 1970 | 3月15日
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同労者たちに,『行って,人々を弟子とし(なさい)』と命じた事柄を遂行する方法ではありません。キリスト教世界の諸教会が独自の仕方でバプテスマを施して弟子とした,クリスチャンと称される人々のひととなりは,その方法がまちがっていることを実証しています。幾百もの宗派に分かれている,旧教,東方正教会また新教などはいずれも聖書の述べるキリスト教を奉ずる組織ではありません。
24 マタイ伝 28章19,20節のイエスのことばからすれば,人を弟子とするためにキリスト教世界で用いられてきたどんな方法は非とされますか。
24 イエスご自身のことばによれば,イエスの真の追随者は,すべての国の人々を国籍の別なく弟子とするわざをどんな方法で行なうのですか。イエスは言われました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名によってバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命じた事柄すべてを守るように教えなさい」。(マタイ 28:19,20,新)このことばからすれば,拷問もしくは迫害をもって人を脅かし,強制あるいは屈服させるということは考えられません。また,弟子になることを良心上の理由で拒む人々の大量虐殺も考えられません。キリスト教世界がこれらの方法を用いたからといって,それはイエスがご自分の忠実で従順な追随者に用いることを命じた方法であるとは言えません。
25 マタイ伝 28章19節に基づいて弟子となる人は,実際にはだれの教え子になるのですか。
25 「弟子とし(なさい)」との命令は,マタイ伝 28章19節に用いられているギリシア語の動詞からすれば,「学習者または教え子とし(なさい)」という意味です。このことを示して,K・S・ウェスト訳,「新約聖書詳解訳」はマタイ伝 28章19節を次のように訳出しています。「ゆえにあなたがたは出かけて行って,すべての国の民を教え,彼らをあなたがたの教え子としなさい」。もとより,イエス・キリストの追随者から教えを受ける人は,彼らの教え子,つまり彼らから学ぶ者となります。しかしその教えは確かにキリストに関するものであり,キリストがその追随者に命じた事柄を守るように教えるのですから,実際にはキリストが先生です。これはイエスが弟子たちに語った次のことばと一致しています。「汝らはラビの称を受くな,汝らの師は一人にして,汝らはみな兄弟なり」。(マタイ 23:8)ゆえに弟子となる人々は実際には,その命令を与えたこの唯一の師イエス・キリストの弟子となるのです。
26 そのような弟子たちの師として変わることなく存在しておられるのはだれですか。
26 人間であれば,先生は死去したり,別の土地へ去ったりしますが,イエス・キリストは弟子たちの師として常に存在しておられます。「新英訳新約聖書」にある次のことばどおりです。「ゆえに,出かけていって,すべての国の民をわたしの弟子とし,あらゆる場所の人にバプテスマを施しなさい」。
27 人を弟子とする唯一の正しい方法とはなんですか。バプテスマを正しく受けるには何を学ばねばなりませんか。
27 したがって,人を強制してキリスト教に改宗させるために火や剣,湾曲刀や拷問また異端審問所を用いることは,イエス・キリストが決して許さない事柄です。人々を師イエス・キリストの真の弟子とする唯一の方法は,イエス・キリストに関する聖書の証を愛のある穏かな仕方で行ない,証をする人の弟子ではなく,イエスの弟子になるのを助けることです。そのような人々は,御子についてだけでなく,その天の父および聖霊,すなわち神がそれを用いて御心を遂行される,神の,見えない活動力についても学ばねばなりません。さもなければ,学んでいる人はどうして「父と子と聖霊との名によって」バプテスマを受けることができますか。
28 パウロがエペソで会った12人の人々の例は,そうした知識が必要であることをどのように示していますか。
28 たとえば,昔エペソにいた12人ほどの人々はすでにバプテスマを受けていました。彼らはそれがバプテスマのヨハネの施していたバプテスマであることは知っていましたが,神の聖霊については知りませんでした。したがって彼らは,神の御子イエス・キリストの名によってバプテスマを受けたのではありません。神について知ってはいましたが,神を御子イエス・キリストの父として理解し,かつ認めていたのではありません。ゆえに使徒パウロがイエス・キリストについて彼らに証をした後,彼らは再び,そしてこのたびは『主イエスの名によって』バプテスマを受けねばなりませんでした。それからパウロがそれら新たにバプテスマを受けた人々の上に手を置いたところ,彼らは神の聖霊を受け,その力に動かされて預言を語りはじめました。それは聖霊について知り,あるいは聖霊を受けるまでは,行なったことのない事柄でした。―使行 19:1-7。
29 バプテスマを受けたのち,弟子はもはや何も学ぶ必要がないと言えますか。このことはどうすればわかりますか。
29 水のバプステマを受けたのちでさえ弟子はさらに多くを教えてもらわねばなりません。イエスは,バプテスマを施すことだけでなく,「わたしがあなたがたに命じた事柄すべて」をバプテスマを受けた人に教えるべきことをも述べました。バプテスマを受けた人はひき続き師イエス・キリストについて学ぶ者,またその教え子でなければなりません。「わたしがあなたがたに命じた事柄すべてを守る」べく強制されたり,拷問を受けたりするのではなく,キリストの命じた事柄すべてを守るように忍耐強く穏やかに,かつ愛をもって教えてもらうのです。聖書の記録によればこれこそ使徒たちが人を弟子とするわざを行なった方法です。この事実は,キリスト教世界で用いられてきたのとは異なるこの方法が正しいものであることを実証しています。
30 人を弟子とするわざは,キリストの予告した他のどんなわざとともに行なわれることになっていましたか。小アジアにおけるパウロとバルナバの働きはこのことをどのように例証していますか。
30 人を弟子とするこのわざは,マタイ伝 24章14節(新)の,「御国のこの良いたよりは,すべての国の民への証として,人の住む全地に宣べ伝えられるであろう。それから終わりが来るのである」という預言の中でイエス・キリストが予告された別のわざとともに行なわれることはいうまでもありません。しかし御国を宣明もしくは布告することは,公のわざであり,すべての人々を改宗させるためではなく,「すべての国の民への証として」なされるものです。人を弟子とするわざが伝道のわざとともに行なわれたことは,小アジアで働いたパウロとバルナバの記録からもわかります。こうしるされています。「その町に福音を宣伝へ,多くの人を弟子として後,ルステラ,イコニオム,アンテオケにかへり,弟子たちの心を堅うし信仰にとゞまらんことを勧め(たり)」― 使行 14:21,22。
31 人を弟子とする者,また弟子自身は,人を弟子とするわざにおいて,伝道以外に何をしなければなりませんか。
31 しかし人を弟子とするわざは,御国の宣明もしくは布告による公の証のわざと異なり,むしろ個人的また私的なわざです。人を弟子とするには,まず最初に証をすることに加えて,教えることが必要です。公になされる証は一般の人々から無視され,退けられるかもしれません。しかし人が弟子,学習者または教え子になることは,教え手から学ぶ知識を受け入れて,師イエス・キリストの追随者になることを意味しています。それは,父と子と聖霊との名によって水のバプテスマを受け,その後も唯一の師イエス・キリストの教え方を学び続け,学んだ事柄に従って生活してゆくことを意味しています。
32 バプテスマを受ける人はバプテスマを施す人,その他地上のだれかの弟子になるのですか。説明しなさい。
32 このような仕方でバプテスマを受ける信者は,そうすることによって地上の単なる肉の人間のだれかの弟子となるのではありません。また,バプテスマを受けた人は,水のバプテスマを施した献身した人の弟子となるのでもありません。(コリント前 1:12-17)バプテスマを受けた人はイエス・キリストの弟子となったのです。このことは使徒行伝 11章26節の次の記録からもわかります。「弟子たちの[パウロの追随者ではなく]〔クリスチャン〕と称へらるることは[シリヤの]アンテオケよりはじまれり」〔新〕。
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『人を弟子とする』わざはいつまで行なうのかものみの塔 1970 | 3月15日
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『人を弟子とする』わざはいつまで行なうのか
1 バプテスマを受ける弟子の数が限られているかどうかに関してなぜ質問が提起されますか。
バプテスマはキリストの弟子が特定の人数に達するまで行なわれることになっていましたか。黙示録 7章1-8節また14章1-3節でキリストは14万4,000人の霊的なイスラエル人が天の御国のイエスの共同相続者となることを明らかにされました。したがってキリストはご自分の弟子としてバプテスマを受ける者の数を限定されたのではありませんか。
2 (イ)人を弟子とすることを命じたキリストは,その人数を明示されましたか。(ロ)どんな制限が設けられていたなら,今日,バプテスマを受ける人はほとんどいないと考えられますか。
2 そうではありません。マタイ伝 28章19,20節でイエスはその数を限定せず,ただ次のように言われただけです。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし……彼らにバプテスマを施し(なさい)」。確かにイエスは,ご自分の弟子,学習者または教え子にバプテスマを施すわざを中止すべき時を知ることができ,また,知っておられたことでしょう。彼らの唯一の師であられるイエスは,望みどおり十分の数の弟子を得た時を見定めることができるからです。したがって,忠実な追随者はイエスが許しておられるかぎり,人々をイエスの追随者として,引き続きバプテスマを施すことができるのです。しかし,キリストを通して神に全く献身した後,自分が霊的なイスラエル人,神の相続者,またイエス・キリストの共同相続者であることを示す,神の霊の証を持っていると唱える人だけにバプテスマを施すのであれば,今日わたしたちがバプテスマを施す人はほとんどいません。どうしてそう言えますか。
3,4 (イ)発表された記録によれば,1942年以来,神の霊によって生み出された者であると唱えるバプテスマを受けたクリスチャンの人数には何が生じましたか。(ロ)1969年およびその前年の主の夕食で象徴物にあずかった人々と対照をなすものとして,奉仕年度中にバプテスマを受けた人々の数は前述のことをどのように例証していますか。
3 発表された報告によれば,バプテスマを受けたクリスチャンで,イエス・キリストの霊的な共同相続者として神の霊によって生み出された「残れる者」を構成する人々の数は,1942年以来年ごとに減少してきました。
4 たとえば1969年4月1日,例年の主の夕食に出席して,記念のパンとぶどう酒にあずかったこの油そそがれた霊的な残れる者は1万368名だけでした。しかしこれと著しい対照をなすものとして,御国の宣明の行なわれた昨奉仕年度中,キリストを通して神に献身したしるしとして水によるバプテスマを受けた新しい信者は12万905名を数えました。その前の奉仕年度の主の夕食でパンとぶどう酒にあずかったのは昨年より251名多い1万619名でした。したがって昨奉仕年度中,自分が14万4,000人の霊的なイスラエル人のひとりであることを唱えた人は200人余減少しました。これら残っている人々1万368名のうち何人が,1969奉仕年度中に水のバプテスマを受けた12万905人の中に含まれていますか。もしそのような人だけにバプテスマを施すのであれば,1969奉仕年度中,バプテスマはほとんど施されなかったことでしょう。ところが報告によれば,12万905名がバプテスマを受けたのです。
5 (イ)人々を弟子として,バプテスマを施すわざはどれほどの期間,あるいはいつまで続きますか。(ロ)御国を伝道するわざが予告どおり1914以来続けられていることからすれば,これに関連するどんなわざがそれとともに引き続き行なわれてゆきますか。
5 人をキリストの弟子としてバプテスマを施すわざはどれほどの期間,つまりいつまで続けられるのですか。イエス・キリストは,人を弟子としてバプテスマを施すことに関するマタイ伝 28章19,20節のご命令を与えたのち,この点にふれて言われました。「見よ,わたしは事物の体制の終局までいつもあなたがたとともにいるのである」。それでこのわざは「事物の体制の終局」に至るまで続くことになっていました。1914年の初秋,「諸国民の定められた時」が終わって以来,わたしたちはその終局の時に住んでいます。(ルカ 21:24,新)今日,「御国のこの良いたより」を全地に伝道するわざは,1914年以来かつてなかったほど大規模に推し進められており,「事物の体制の終局」に関するマタイ伝 24章14節のイエスの預言の成就の最高潮を迎えようとしています。したがって,この御国の伝道のわざがキリストの導きを受けて今日まで発展してきたのであれば,人を弟子としてバプテスマを施すわざがそれとともに引き続き行なわれるのは当然なことです。
6 (イ)これらの幾万もの人々はマタイ伝 28章19節によれば,どんな者としてバプテスを施されましたか。(ロ)1923年以来,音信を受け入れた大ぜいの人々は前途のどんな見込みを自分たちの希望としましたか。
6 それでは近年,毎年報告されてきたこれら幾万人もの人々の受けたバプテスマはキリストの「弟子」として施されたバプテスマですか。そのとおりです。献身したクリスチャンがバプテスマを施して教えるようにとマタイ伝 28章19,20節で命じられているのはそのような人だけです。イエス・キリストはご自分の霊的な羊の「小さな群れ」のために祈った後,確かに次のように言われました。「わたしにはまた,このおりのものではない他の羊がある。わたしは彼らをも連れてこなければならない。彼らはわたしの声を聞き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるであろう」。(ヨハネ 10:16,新)これら「他の羊」は,天に行く希望ではなく,地上の楽園でとこしえの命を受ける希望を持つ人々です。1923年,ロサンゼルス(カリフォルニア州)で羊と山羊のたとえ話の意味が説明され,後日,同年10月15日号「ものみの塔」誌にその話が載せられて以来,御国の証を聞いた多くの人々は,神の天の御国の治める地上の楽園を相続する「他の羊」の部類にはいることを望みました。しかしバプテスマを受けるようにとの勧めは幾年ものあいだなされませんでした。
どんな者としてバプテスマを受けたか
7 バプテスマを受けるようにと勧められたそれらの人は,どんな者としてバプテスマを受けることが認められたのですか。
7 このことに関する勧めのことばが1934年8月15日号「ものみの塔」誌,250ページ,34節に掲げられて以来,これら「他の羊」になることを願う人々は,キリストを通して神に献身したことの象徴として水のバプテスマを受けました。しかしどんな者としてバプテスマを受けることが認められたのですか。特に「他の羊」としてですか。
8 1935年6月1日土曜日,ワシントンの大会でバプテスマを受けた人々はどんな者になったかに関してどんな疑問が生じますか。
8 さらに翌春,アメリカの首都ワシントンで開かれた大会では黙示録 7章9-17節の預言が説明され,この句に述べられている「大なる群衆」は,地上で生きる希望をいだく現代の「他の羊」で構成されていることが明らかにされました。この驚くべき解明はのちに1935年8月1日および15日号「ものみの塔」誌に掲載されました。大きな喜びをもたらしたその講演の翌日,「他の羊」の一員になることを望んでいた多数の出席者はバプテスマを受けました。それにしても,1935年6月1日のその土曜日,ワシントン大会で浸礼を受けたこれら大ぜいの人々は,どんな者としてバプテスマを受けたのですか。「他の羊」としてですか。楽園で生きる希望をいだく「大なる群衆」の成員としてですか。神に献身したのは,そのような者になるためでしたか。
9,10 (イ)マタイ伝 25章41-46節また黙示録 7章9-17節は,現代が「他の羊」の『大いなる群衆』の現われる時であることをどのように示していますか。(ロ)信者を類別してバプテスマを施すということに関してどんな質問が生じますか。
9 この問いに対する聖書に基づく答えを得る安全な道は,この問題に関してイエスがその追随者に命じた事柄を参照する以外にありません。羊と山羊に関するイエスのたとえ話は「事物の体制の終局」にかかわるイエスの預言の一部であり,この特異なたとえ話は確かに「事物の体制の終局」の時,つまり現代にあてはまります。また,「大なる群衆」(黙示 7:9)に関する幻が使徒ヨハネに与えられたのは,明らかにヨハネが,印を押された14万4,000人の霊的なイスラエル人の幻を得たのちでした。したがってこの幻は特に1935年以来,つまり14万4,000人の霊的なイスラエル人に印を押すことがほとんど終わったとされているその年以後の現代にあてはまるでしょう。
10 またこの事実と一致して,主の夕食を祝う油そそがれた霊的なイスラエル人の残れる者はますます少なくなっています。ところが今日,献身してバプテスマを受けたエホバの証人はおよそ100万人を数えています。これらのクリスチャンはきたるべき神の報復の日の「大なる患難」を生き残って,神の建てられる地上の新秩序にはいることを望んでいます。ゆえに「他の羊」のこの数え切れない「大なる群衆」が出て来る予定の時は明らかに今日であることがわかります。イエスは,人々を弟子としてバプテスマを施すわざを遂行するご自分の従順な追随者たちと,「事物の体制の終局」の時の今日まで「いつも」ともにいると言われました。しかし,イエスは,天の御父が天の御国を与えることをよしとされた「小さな群れ」の成員としてのバプテスマを献身した人々に施すようにと命じましたか。また,今日「他の羊」に属する者として献身する人々に,神の国の治める地上の楽園を相続する「大なる群衆」の成員としてのバプテスマを施すようにと命じましたか。
11 (イ)こうした質問に対する聖書の答えはどうして献身の意味の再検討を求めるものとなりますか。(ロ)バプテスマを受けたのち,人は神から何が与えられることを期待できますか。
11 聖書は否と答えます。イエスは単に,「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名によって彼らにバプテスマを施し(なさい)」と言われました。(マタイ 28:19,20,新)このゆえにわたしたちはクリスチャンの献身の意味を正しく知らねばなりません。キリストを通して神に献身する場合,わたしたちはある条件を設けて,その条件に基づいてわたしたちの献身を神に受け入れてもらうのではありません。献身する人は,「みよ,我なんぢの御意を行はんとてきたる」と語った御子イエスが行なわれたように,自らを神にささげるのです。(ヘブル 10:9,10。詩 40:7,8)したがって個人の永遠の運命に関して自分自身の願いを言い表わさず,そうした決定はエホバ神にゆだねます。自分自身に関してエホバの御心が行なわれることを願うなら,わたしたちはエホバから割り当てられる事柄を受け入れ,そこに喜びと満足を見いだせるでしょう。(ロマ 9:16)献身してバプテスマを受けた人に対してなされた神の決定に関する証が,バプテスマの後に神から与えられると考えるのは正しいことです。神の霊によって生み出される人には,子としての証が神から与えられるでしょう。―ロマ 8:16,17。
12 (イ)したがって,わたしたちのバプテスマは,どんな助言に従った後,どんな者として受けるバプテスマですか。(ロ)わたしたちは,自分自身はもとより他の人々がバプテスマを受けて,だれの弟子になることを望んでいますか。
12 したがってわたしたちのバプテスマはイエス・キリストの弟子としてのバプテスマです。このことには疑問の余地がありません。それはイエスの命令に基づく,そうです,イエスに見習うバプテスマです。また,まず最初に費用を計算することを勧めたイエスの助言に従ったのち,御心を行なうとの決意をいだいて神に近づくのも同様にイエス・キリストに見習うことです。(ルカ 14:25-33)献身してバプテスマを受けた神のしもべであるわたしたちは,その忠実な御子の弟子以外の何者でもありません。西暦32年の過ぎ越しの後,ある高い山でイエスが変ぼうした時,エホバ神はその場に居合わせた使徒たちに,「これは我がいつくしむ子,わがよろこぶ者なり,汝らこれにきけ」と言われました。(マタイ 17:1-5)神にほんとうに献身した人は,ほかならぬ神ご自身の選ばれたかたの弟子になることを願います。献身してバプテスマを受けた人がイエス・キリスト以外の他の何者かの弟子になることを神は決して望まれません。イエスの変ぼうを目撃した使徒ペテロが,「キリストも汝らのために苦難をうけ,汝らをその足跡にしたがはしめんとて模範をのこし給へるなり」としるしたとおりです。―ペテロ前 2:21。
13 (イ)時代の意味と予告されたできごとを理解しているからといって,バプテスマ希望者は自分の受けるバプテスマをどのようにみなしてはなりませんか。(ロ)その人はバプテスマを受けたのちに,やがて神から何が示されることを期待できますか。
13 今は「事物の体制の終局」の時であり,イエス・キリストは「その栄光の座位」について,象徴的な「羊」を「山羊」から分けておられます。しかしそうだからといって,西暦1934年ないし1935年以後にバプテスマを受けた人が,自分は「他の羊」のひとり,あるいは現代のヨナダブ,もしくは霊的なイスラエルに属さない「大なる群衆」のひとりとしてバプテスマを受けたと考えることはできません。(ヨハネ 10:16。列王下 10:15-23。黙示 7:9-17)たとえ,献身してバプテスマを受けたエホバの証人が全地ですでにおよそ100万人を数え,天の命の希望を持つ霊的なイスラエル人の限定された数14万4,000人をはるかに上回っていることを知っていても,そうした考えを持つべきではありません。バプテスマはイエス・キリストの弟子,学習者または教え子として受けるものであるということを銘記すべきです。また,自分が現代の「他の羊」の「大なる群衆」に属する者とされたかどうかに関する証が,バプテスマを受けたのちに,無条件で自らをささげたエホバ神からやがて与えられるということを期待できるでしょう。
14 こうして示される事柄がなんであれ,どんな基本的な事実は変わりませんか。それらの人はどんな要求を一様に満さねばなりませんか。
14 献身してバプテスマを受けた人が,霊的なイスラエル人のひとりとして神の霊によって生み出されたしるしをやがて神から与えられようと,羊のような性質を持つ人々の「大なる群衆」のひとりになろうと,バプテスマを受けた,キリストの弟子であるという基本的な事実は変わりません。「他の羊」のひとりとなった弟子に対して神は,霊的なイスラエル人の一員になった弟子の場合と同程度の忠実性を求めておられます。弟子はあくまでも弟子です。「小さな群れ」または「大なる群衆」のいずれに属するかにはかかわりなく,弟子たちすべては今や,「ひとりの羊飼い」すなわちすべての羊のためにご自分の命を犠牲にし,人間としての魂を捨てた主イエス・キリストの導かれる「ひとつの群れ」となっています。(ヨハネ 10:15,16,新。ルカ 12:32,新)彼らは世のいろいろな宗教家に従う者ではなく,「ひとりの羊飼い」の追随者です。彼らはこの偉大な羊飼いを通して神から教えを受ける学習者または教え子です。(ヨハネ 6:44,45)したがって,自分の学んだ事柄を実践し,学んだ事柄を忠実に行なう生活をしなければなりません。さもなればクリスチャンと言えません。キリストの弟子でなければ,ハルマゲドンの戦いを生き残ることはできません。
弟子は他の人々を弟子にする
15 マタイ伝 28章16-20節によれば,すでに弟子となった人々は何を行なうように命じられていますか。彼らはこの点でだれに見習いますか。
15 マタイ伝 28章16-20節の記述には注目すべき大切な事柄があります。それはこの記録の述べる次の点です。「十一弟子たちガリラヤに往きて……山にのぼり……イエス進みきたり,彼らに語りて言ひたまふ『……されば汝ら往きて,もろもろの国人を弟子とな(せ)』」。すべての国の民の中で人を弟子とするわざを行なうようにと,よみがえったイエスから命じられたのは,すでに弟子となっていたそれらの人々でした。したがって,キリストの弟子は単にキリストの学習者また教え子であるにとどまらず,他の人を『一人の師』イエス・キリストの弟子とする者であることがわかります。このことを行なう人は,唯一の師イエス・キリストご自身に見習っていることになります。イエス・キリストも人を弟子とするわざを行なわれたからです。(ヨハネ 3:25,26; 4:1)男子はもとより女子にもイエスの弟子となる特権があります。ヨッパのタビタすなわちドルカスという名の婦人は特に弟子と呼ばれています。(使行 9:36)男子はもとより女子もキリストの弟子,すなわちキリストの信者として水のバプテスマを受けました。―使行 8:12; 16:15。
16 キリストのそのご命令によれば,どんなわざが今も続けられていますか。そのわざは今後どうなりますか。
16 今は「事物の体制の終局」の時ですが,人々を弟子としてバプテスマを施すこのわざは依然として続けられています。しかし西暦1914年以来のこの終局の期間の大半がすでに過ぎた今日,人を弟子としてバプテスマを施すわざのために残された時間はまもなく終わろうとしています。よみがえって栄光を受けたイエス・キリストは,その弟子としてのわたしたちに自ら命じたこのわざにおいて約束どおりわたしたちとともにおられるのです。―マタイ 28:20。
17 バプテスマのヨハネは,イエスがまもなく行なおうとしておられるどんな別のバプテスマについて述べましたか。
17 「事物の体制の終局」の時である今日,イエスは,人を弟子としてバプテスマを施すわざを監督するとともに,まぢかな将来に行なわれる別の種類のバプテスマの準備を進めておられます。バプテスマのヨハネは,イエスが19世紀前ヨルダン川でバプテスマを受けられる以前,イエスについてこう述べました。「彼は聖霊と火とにて汝らにバプテスマを施さん。手には箕を持ちてうちばをきよめ,その麦は倉に納め,からは消えぬ火にて焼きつくさん」― マタイ 3:11-13。
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