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  • ほかの人々につかえた偉大な師
    ものみの塔 1970 | 8月1日
    • 弟や妹にどんなことをしてあげられますか。遊び終わったおもちゃをかたずけるように教えてあげられるでしょう。または弟や妹が服を着たり,ねる用意をしたりするのを手つだうことができるかもしれません。そうしてあげると,弟や妹は,ちょうどイエスに従った人々がイエスを愛したように,あなたを愛するようになります。

      学校でもほかの人につかえることができます。クラスのお友だちや先生につかえるのです。だれかが本を落としたなら,それを拾ってあげるのは親切なことです。黒板をふきましょうかといったり,何かお手つだいしましょうか,といって先生につかえることもできるでしょう。ほかの人のために戸をあけてあげるのも親切な行ないです。

      あなたが何かをしてあげても,お礼をいわない人がときどきいます。そのために,あなたは良いことをするのをやめてしまいますか。いいえ,やめてはいけません。多くの人々はイエスの良いわざに感謝しませんでした。それでもイエスは良いことをするのをおやめになりませんでした。

      ですから,ためらわずに,ほかの人々につかえてください,偉大な師であるイエスのことを思い出してイエスのもはんにいつもならうようにしましょう。

  • 弟子になった人々のバプテスマ
    ものみの塔 1970 | 8月1日
    • 弟子になった人々のバプテスマ

      「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名によって彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命じた事柄すべてを守るように教えなさい。見よ,わたしは事物の体制の終局までいつもあなたがたとともにいるのである」― マタイ 28:19,20,新。

      1,2 水に関して,創造者以上に創造されたものが崇拝されてきたのはなぜですか。

      心身をさわやかにする清い水 ― それは,偉大な創造者が人間の命に添えて与えられた数々の祝福の一つです。物事を深く考える敬虔な人は,川の創造者であられるエホバに賛美と感謝をささげます。エホバは,命をはじめ,すべての良い贈り物の与え主であられるのです。しかし,この創造者を知らなかったため,古代の多くの民族は川を崇拝の対象にしました。その一例は古代エジプト人の宗教です。彼らがナイル川を崇拝したことは,ナイルの賛歌から明らかです。「エジプトに生命を与えんとて,この地を訪れる汝に祝福あれ。……汝は人の祈願を聞こし召し……すべて良き物の造り主,穀物の主たり。……かくて穀倉はあふれ,家倉は満てり。げに貧しき者も富み栄えたり」。

      2 エジプト人がナイル川を神として崇拝することは,ずっと昔にすたれてしまいましたが,川の崇拝は依然今日に至るまで存続しています。インドおよびその近隣の国々には,いたるところに「神聖な川」や「川の神々」があり,住民の生活の中で重要な位置を占めています。「神聖な川」の中で有名なのは大河ガンジスで,ある人々は,ヒンズー教の三神一体の一つであるシバの髪からその流れが出ていると信じています。ガンジス川で水浴をすれば霊力と霊験が得られる,と善良なヒンズー教徒すべてが信じていることを思い起こしてください。その「神聖」な水の一滴を舌か両方のまぶたの上に落とすだけで,臨終の人の罪は洗い清められると考えられています。

      3 キリスト教世界の儀式における水の使用と,他の宗教におけるそれとの類似点について説明しなさい。

      3 川の崇拝はあなたにとって受け入れがたいものかもしれません。水を崇拝せよという宗教的な要求は,不合理だと考えるかもしれません。水が人間にとって祝福であることは認めても,祝福の源ではないと言われるでしょう。しかし,一般に言って,水の使用に関するすべての宗教の見解は,霊力や霊験を得ようとして,ガンジス川で水浴する多くの人の見解と大差ないことをご存じですか。その類似点は,水浴にしても,あるいは他の宗教における散水・灌水・浸水,いわゆるバプテスマつまり浸礼のいずれにしても,それを行なえば効果があるとする主張です。

      4 水の用いられる宗教儀式はなんと呼ばれていますか。

      4 罪がどうにかして水によって清められる,したがって,種々の宗教儀式で水を使うとなんらかの霊的な効力あるいは益が得られるという見解は,キリスト教世界の諸教会がそうした儀式を「サクラメント」と呼んでいることにも見られます。ギリシア正教会およびローマ・カトリック教会によると,バプテスマは,7秘蹟(サクラメント)の第一のものであり,プロテスタントのたいていの宗派では,二つの聖礼典(サクラメント)の第一のものとされています。しかし,「サクラメント」と言うことばは聖書には出てきません。浸水や散水あるいは灌水の宗教儀式にあずかる者に,恩寵や清浄または霊的な効力が与えられるという見解は,そう主張する宗教がキリスト教世界のものであると否とを問わず,聖書に根拠を持つものではありません。

      5 キリスト教の儀式において,聖書が水の使用を是認している場合がありますか。

      5 キリスト教の儀式において,聖書が水の使用を是認している場合がありますか。あります。この記事の冒頭に引用した聖句からそれは明らかです。キリスト教の創始者であり,指導者であられるキリスト・イエスがこう命令されたからです。『行って,バプテスマを施しなさい』。さらに,その命令に則してバプテスマを受ける人は,「弟子」となる資格を持つ人でなければならないことをも説明されました。

      6 聖書にかなった,水のバプテスマを正しくかつ十分に知ることはなぜそれほどたいせつですか。

      6 水によるバプテスマは本質的に,エホバ神に献身する各人が踏まねばならない,従順を示す第1段階であると聖書は教えています。そうであってみれば,その理由およびその真の意義について知りたいと願うのは当然でしょう。最初に,聖書に述べられているバプテスマと相いれない事柄を幾つか取り上げます。バプテスマがサクラメントの一つをなすという偽りの教えは,人間に対して犯された宗教上の重大な誤りの一つです。なぜそう言えますか。なぜなら,そうした教えの結果,人々はバプテスマに効力があり,バプテスマを受けると,恩寵や益がもたらされると信じるようになっているからです。水につかったり,ぬれたりすると,その方法が浸水・散水・灌水のいずれであろうと,驚くべきことが起こる,とされているからです。

      サクラメントであるとする主張

      7 カトリック教派は,サクラメントについてなんと主張していますか。

      7 次の引用文は「カトリック百科事典」(英文),第2巻から取られたもので,洗礼に関するカトリック教派の主張を示すものです。「教皇エウゲニウス4世の大勅書『神を喜べ』の中の『アルメニア教令』……『聖洗礼は,霊的新生活への門出であるから,秘蹟の中で第1位を占める。それによって,キリストの一員になり,教会の組織に入れられるからである。……この秘跡の効力は原罪と自罪のすべてをゆるし,罪のための罰のすべてをゆるすものである』」。

      8 次の点に関して,聖書の真理とキリスト教世界の主張とを比較しなさい。(イ)罪のゆるし,(ロ)罪と死からの解放,(ハ)故意の罪に対する罰,(ニ)霊的な会衆の成員になること。

      8 この教えによると,水に浸された人,あるいは水を注がれた人は,天の命を受けることになります。なぜなら,カトリック教会は,「原罪が,天に行く権利の特典を人類から奪った」と唱えているからです。つまり,水の浸礼によって原罪のゆるしが得られるとするところに,サクラメントが神のみことば聖書の真理を不明りょうにさせている原因があるのです。水でぬらされても,罪のゆるしは得られません。それは,原罪であろうと,それ以後の罪であろうと同じです。罪のゆるしは,エホバの備えであるキリスト・イエスの犠牲を通してのみ得られます。イエスが完全な人間の命を犠牲にされたゆえに人類が罪と死から解放されることは,ヨハネ伝 1章29節,コリント後書 5章21節,ヘブル書 9章24-26節,ヨハネ第一の書 2章1,2節に述べられているとおりです。また,水につかったからといって,腐敗したこの世に住む人の故意に犯した罪に対する罰がゆるされないことも,ヨハネ伝 15章19節,ガラテヤ書 1章3,4節,黙示録 18章3-8節に指摘されているとおりです。水の浸礼を受けたからといって,教会,つまりキリストのからだである霊的な会衆の一員になるわけではありません。―テサロニケ後 2:13。ヨハネ 17:6。ロマ 8:30。

      9-11 洗い清める儀式をサクラメントとする主張が,キリスト教に基づくものでないことを示す別の証拠をあげなさい。

      9 水のバプテスマに関して,「カトリック百科事典」はさらに次のように述べています。「内面の清さを示すものとして,外面を洗い清めるこの象徴的な行為が,きわめて自然な,意味深いものとして認められていた事実は,異教の諸制度に見られる祭式からも明らかである。清めのために水を用いる習慣は,バビロニア人・アッシリア人・エジプト人・ギリシア人・ローマ人・ヒンズー人その他の民族の間に見られたものである」。ここに引用されたカトリックの文献は事実を述べており,異教においても,洗い清めること,また水によるバプテスマは効力を与えるサクラメントと見なされています。カトリック以外の文献も,この百科事典と同様のことを認めているのですから,水のバプテスマはサクラメントの一つであるとする非キリスト教の主張または論理が,悪霊あるいは悪魔に端を発するものであることを証明する二つの典拠文献があるわけになります。

      10 この点について,ヒスロップ著「二つのバビロン」は次のように述べています。「バプテスマによる再生という教理も本質的にはバビロンに由来する。再生という考えがいやしくも異教の世界で知られていたということを知って動揺する人もいることであろう。しかし,そういう人はインドに行ってみるがよい。キリスト教の訓戒に一度も耳を傾けたことのない人々が,我々と同様,再生ということばと意味に通じているのを今日でも見いだすであろう。……このバプテスマとその意図が〔バビロンに由来する〕ことを直接証する古代の著述家は幾人もいる。……テルツリアヌスが明らかにしているとおり,こうしてバプテスマを受けた人には,『再生,また,すべての偽証の罪のゆるし』という結果が約束された。オーディンを崇拝した,我々自身の異教徒の先祖がバプテスマの儀式を行なったことは知られているが,彼らが明らかにしているその儀式の目的を考慮してみると,少なくとも本来は,生まれたばかりの子どもに水をふりかけたり,生後直ちに湖か川の水の中に子どもをつけたりすると,その子どもの生まれながらの罪や汚れが洗い流されると考えていたに相違ない。大西洋を隔てたメキシコにおいてさえ,コルテスとその戦士たちが上陸した時,バプテスマによる再生のこの同じ教理が原住民の間で力をふるっていた。……ローマがバプテスマに関して,異教の魔よけをいかに忠実に模倣したかは,読者もすでに気づかれたことであろう。ローマ・カトリックのバプテスマに付随する他のすべての特色,たとえば塩・つば・聖香油などの使用,あるいは聖油を注ぐこと,また,額に十字架の印を付けることなどは等しく異教に由来する」。

      11 今日,キリスト教世界の諸教会で行なわれるバプテスマの儀式には,次のような事柄が含まれています。代父母・悪霊をはらうために洗礼志望者の顔に息を吹きかけること・十字を切ること・按手・志望者の口の中に祝福された「塩」を入れること・耳と鼻孔に司祭がつばをぬること・塗油・三重の沐浴・白衣・ともされたろうそく,その他聖書にしるされていない儀式用付属品。「カトリック百科事典」ならびに他の宗教文献は,それらが悪鬼にかかわる行事あるいは悪霊崇拝に付随するものであり,したがってキリスト教のものではないことを確認しています。

      クリスチャンのバプテスマを定める書物に答えを求める

      12,13 (イ)この問題に関して導きとなるものがありますか。それはなんですか。(ロ)マタイ伝 28章19,20節のイエスの命令は,どの時期に適用されますか。(ハ)その命令が今日特別な効力を持っているのはなぜですか。

      12 クリスチャンのバプテスマが実際に何を意味するかを調べるには,伝統や異教の代わりに,クリスチャンの宗教の手引きである聖書に答えを求めねばなりません。(マタイ 15:1-9。マルコ 7:1-8)なかでもマタイ伝 28章19,20節は,クリスチャンのバプテスマに関する重要な聖句です。

      13 バプテスマに関する指示となっているイエスのこのことば(マタイ 28:19,20)は,西暦33年,死から復活したイエスが,その後40日目に昇天する前に述べたものです。これはイエスがお与えになった時から,事物の体制の終局に至るまでの幾世紀ものあいだ効力を有する一般的な命令となってきました。西暦1914年以後の現代は事物の体制の終局に相当します。したがって今日,神のみことばを伝えるクリスチャンの宣教によってその資格を得,弟子となる人がいるかぎり,そういう人にバプテスマを施すのは正しく,かつキリスト・イエスの命令に則したことです。事実,マタイ伝 28章19,20節のこの命令は,「終わりの時」の今,過去のいかなる時代にもまさって重要な意味と重大な効力とを持っています。なぜなら,伝道し,かつ教えるわざは,エホバの忠実な証人によって,「すべての国の人々」の間に広げられてきたからです。このわざは,そうした国々すべての弟子たちにささえられ,そうです,全地に及んでいるのです。昨奉仕年度中,全世界で12万905人がバプテスマを受けました。―マルコ 13:10。

      14 (イ)初期クリスチャンの組織が,イエスの命令を守った証拠をあげなさい。(ロ)現在,それはどの国民を包含していますか。

      14 弟子を作り,その弟子たちにバプテスマを施すようにとの命令をイエスがお与えになった少し後,つまりイエスの昇天後10日目にあたるペンテコステの祝いの日に,ユダヤ人と割礼を受けたユダヤ教の改宗者,約3,000人が,イエス・キリストの信仰に改宗しました。キリストの使徒たちがキリストの命令に従って,それら幾千人からなる割礼を受けた信者に,「〔彼ら〕の罪の許しのため,……イエス・キリストの名によって」水によるバプテスマを施すわざをはじめたのは,その時,エルサレムのその場所においてでした。(使行 2:1-41〔新〕)使徒行伝 10章1-48節の記録に示されているとおり,イスラエルの律法契約の取り決めの下に一度もはいっていなかった非ユダヤ人も,後日,同様にイエス・キリストの名によってバプテスマを受けはじめました。このように,イエスの命じられたバプテスマを施すことは,クリスチャン会衆誕生の時に行なわれ,以来長年続けられてきたのです。そして,「事物の体制の終局」にあたる今日,すべての国の弟子たちを包含するほど広範に行なわれるようになりました。こうした水の用い方こそ,水に浸すこと,あるいは浸礼もしくはバプテスマとして知られる,キリスト教の儀式に関して,聖書が規定しているものです。イエスの指示にこれからも従わねばなりません。

      すべての人が有資格者ではない

      15 クリスチャンのバプテスマを受ける資格を持つ人はだれですか。

      15 だれがバプテスマを受ける資格を持つかは,『弟子とし,……彼らにバプテスマを施しなさい』と言われたイエスのことばからわかります。(マタイ 28:19,新)弟子とは学ぶ人です。つまり,何かについて知らされると,その知らされた事柄に関して判断を下す人のことです。この場合,キリスト・イエス,その天の父であられるエホバ神,神のことば聖書,神の目的また,そうした個々の弟子がイエス・キリストを通して持つエホバとの関係についての判断が問題にされます。ここで,次のように尋ねるかたがあるかもしれません。「そうだとすると,幼児や赤ん坊がどうしてバプテスマを受けることができるのだろうか。イエスの命令されたクリスチャンのバプテスマを受ける資格があるのだろうか」。

      16,17 (イ)幼児洗礼はなぜマタイ伝 28章19節に反していますか。(ロ)それが使徒たちによって始められたのではないとどうして言えますか。

      16 小さな赤ん坊が悔い改め,知識を得,信仰を働かし,エホバ神に献身することができますか。いいえ,できません。言いかえれば,赤ん坊が弟子になることはできません。また,バプテスマはサクラメントではありませんから,バプテスマを受けた人に何かバプテスマそのものに宿る効力が及ぶわけではありません。つまり,幼児洗礼にはなんら価値がなく,まして神のみことばに支持されているものでもありません。コルネリオの改宗についてしるした使徒行伝 10章44-48節をお読みになれば,神のことばを聞いていた人に聖霊がくだったことに気づかれるでしょう。それらの人々がバプテスマを受ける資格を得,浸礼を受けたのです。幼児は理解力を持って神のみことばを聞くことができ,かつ,その影響を受けられるから,クリスチャンのバプテスマを受ける資格があると言うことはできません。

      17 使徒たちの時代以後の初期クリスチャン会衆に関して,指導的な立場を占めたとされる歴史家ネアンダーは,幼児洗礼について次のように述べています。「信仰とバプテスマは常に結びついていた。ゆえに,この二つが結びつきえた時にのみバプテスマが施されたこと,また,当時,幼児洗礼が知られていなかったことには疑問の余地がないほどである。後日,イレニウスの時代(それより過去にさかのぼることはまずない)に至って,幼児洗礼の行なわれはじめた形跡が見られる。3世紀になって,それが使徒からの伝統によるものとして認められるようになった事実は,幼児洗礼が使徒たちによって始められたものとして受けいれることを,有利にするどころか不利にする証拠と言える」。―「キリスト教会の創設と養成」(英文)。

      18 その資格を持つのはどんなおとなですか。

      18 キリスト教の正しい浸礼を希望する人は,弟子であることが要求されていますから,赤ん坊はおろか,それ以外の人,たとえ成人といえども,神のみことばを知らず,また,それに応じない者には資格がありません。イエスの命令は,バプテスマを受けるにふさわしい希望者は弟子とされねばならないだけでなく,その人は学んできた者でなければならないことを強調しています。なぜなら,イエスは,「わたしがあなたがたに命じた事柄すべてを守るように教えなさい」,と言われたからです。(マタイ 28:20,新)イエスの命令を守るように教えられたということは,単にそれらの命令を知らされたという以上のことを意味しています。告げられても,あるいは知らされても,それに応じない場合があるからです。しかし,そうした事柄を教えられた人は,それに応ずることによって教えられているという事実を証明します。

      19 資格を持っていることを示す神のみことばに応ずる行動と,それに伴うすぐれた結果とを述べなさい。

      19 使徒行伝 2章41節に,「ペテロの言をききいれし者はバプテスマを受く」としるされているのはそのためです。初期クリスチャン会衆の中には,『ピリポを信じて』バプテスマを受けた人もいます。そういう信者は,「男女ともにバプテスマを受」けました。(使行 8:12)弟子が神のみことばに応ずるのであれば,人類の中でも命を得る者が踏むべき道を選ぶでしょう。その道こそ,人間のいだく願望の中で至高のもの,最も高貴なものです。(ヨハネ 17:2,3。詩 119:1,2)それは,人間をその創造者との正しい関係に導き入れるものであり,それこそ,神に対する唯一かつ真実の崇拝を意味しています。今日,それなくして個人が神を崇拝することは実際にはありえませんし,さらにそれは,とこしえの命に導く道なのです。その道とは,エホバに対する個人的な献身をさします。

      先行する献身

      20 クリスチャンの献身にはどんな事柄が含まれていますか。

      20 ご存じのように,献身には宣言する,確約する,正式に述べる,すべてをささげるという意味があり,何かをある用途のために別にする,あるいはささげる行為を表わします。その行為は,それによって人や物を,ある道あるいは針路もしくは用途に進ませたりします。以上のことをキリスト・イエスの弟子にあてはめると,その人の献身とは,エホバ神に対する,したがって神への奉仕または崇拝に対するクリスチャンの専心の献身であることが容易に理解できます。それは個人的な事柄であり,キリスト・イエスを通して,エホバ神の御心をまったく無条件に行なうことを決定する行為です。(箴言 14:27)献身は,エホバに対する全幅の信頼と確信を表明するものです。また,献身した人は,エホバが神であり,神は正しく,そのお目的は必ず達成されるということを知っており,さらに,その人の心と思いには少しの疑念もなく,エホバの側に立場を取ることを喜びとし,幸福であることを明らかにするものです。ですから,「あなたがたの以前の生き方に基づき,人を欺く欲望にしたがって腐敗している古い人格を脱ぎすて,あなたがたの心に働く力によって新たにされ,真の義と忠節にそいつつ,神の御心にしたがって造られた新しい人格を着け」なさい。(エペソ 4:22-24,新)クリスチャンはキリスト・イエスの追随者ですから,エホバ神のしもべであり,それゆえにエホバ神に仕え,自分自身をささげ,献身するのです。―使行 11:26。

      21 今日,エホバ神と密接な関係を持っている人々はだれですか,

      21 献身する弟子がエホバ神と密接な関係を持つようになることを,イエスの命令は強調しています。今日この地上には,献身の段階を経て,献身を水の浸礼つまりバプテスマで表わした忠実なエホバのクリスチャン証人が幾十万人もおり,エホバ神に忠実に仕え,そのみことばのために奉仕して,エホバに賛美を帰し,仲間の人間には祝福をもたらしています。

      22 従順な弟子はなぜバプテスマを受けねばなりませんか。

      22 彼らは献身を水のバプテスマで表わします。浸礼が問題となるのはこの点です。イエスはこう言われたからです。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,……彼らにバプテスマを施し,教えなさい」。(マタイ 28:19,20,新)聖書の要求に従いたいと願う弟子は,バプテスマを受けねばなりません。バプテスマは,神の御心を行なう決定をしたことを,衆人の前で公にする正式な儀式です。献身した人はそれを証人たちの前で行なわねばなりません。個人が献身したことを明らかにする,見える証拠がなければならないのは必然です。なぜなら,献身はその人の生活における変化あるいは転機をしるしづけるものであり,仲間のクリスチャンにはそれを知る権利があり,その結果,当人に今後なにを期待すべきかを知らされるのです。

      23 (イ)エホバの証人はなぜこの儀礼にふさわしい象徴となることを行ないますか。それはなんですか。(ロ)イエスのバプテスマは何を表わすものでしたか。(ハ)西暦36年に至るまでの,イエスに従ったユダヤ人の弟子たちの場合についてはどうですか。(ニ)それ以後はどうですか。

      23 献身の象徴として,献身をふさわしく表わす何ものかを捜す必要はありません。聖書は浸礼をそれに相当するものとして指定しており,また,それにまさる適正かつ,ふさわしい象徴はありえないからです。クリスチャンはキリスト・イエスの追随者です。「汝らはこれがために召されたり,キリストも汝らのために苦難をうけ,汝らをその足跡にしたがはしめんとて模範をのこし給へるなり」。(ペテロ前 2:21)この指導者キリストは,献身したユダヤ国民の一員として,ご自分をささげることを表わすために,バプテスマのヨハネから浸礼を受けました。「ここにイエス,ヨハネにバプテスマを受けんとて,ガリラヤよりヨルダンに来り給ふ。……イエス答へて言ひたまふ『今は許せ,われらかく正しき事をことごとくしとぐるは,当然なり』イエス,バプテスマを受けて直ちに水より上り給ひしとき,視よ……また天より声あり,いはく『これは我が愛しむ子,わが悦ぶ者なり』」。(マタイ 3:13-17。詩 40:7,8。ヘブル 10:7)イエスがご自分をささげたこと,またその象徴を,天の父であるエホバが是認されたのはこの記述から明らかです。イエスの示された模範にならって,初期クリスチャン会衆の成員はバプテスマを受けました。(使行 10:48; 8:12,36,38,39)ユダヤ国民の場合,西暦36年までの彼らの浸礼はやはり,献身した国民として自分たちをささげることを象徴するものでした。それ以降のクリスチャンのバプテスマは,その祖先がユダヤ人か否かにかかわらず,献身を象徴しました。エホバが律法契約を通してユダヤ人と持たれた関係は,西暦33年,イエスの死後,終わりを告げていましたし,イスラエルに対する特別な恩恵の期間は,非ユダヤ人にクリスチャンの福音が伝えられる直前に満了していたからです。したがって,そのときからかなりの時代を経た今日,生来のユダヤ人であると否とを問わず,すべての人種また血筋の人々はエホバの前に同じ立場を占めています。つまり個人的に献身し,そのうえで献身を水の浸礼によって表わす義務を履行する機会が,各人に与えられているのです。

      [459ページの図版]

      ヒンズー教徒は彼らの「神聖な川」ガンジスにおける水浴が,効力をもち,罪を洗い去る神秘な一種のサクラメントであると信じている

      [461ページの図版]

      赤ん坊は弟子となりえないから,洗礼を施してもなんら価値がない

      [463ページの写真]

      バプテスマは,弟子が神の御心を行なう献身をしたことを示す公の儀式。昨奉仕年度中,120,905人がバプテスマを受けた

  • エホバに対するあなたの良心
    ものみの塔 1970 | 8月1日
    • エホバに対するあなたの良心

      「肉の汚れを除くものではなく,神に対して良心を求めること」― ペテロ前 3:21,新。

      1 (イ)キリストの弟子はどんな肝要な事柄を知っていますか。(ロ)彼らはどんな決定を下しましたか。(ハ)どうしてバプテスマは従順の第1段階と言えますか。

      弟子は教えられた者ですから,イエスの命じた事柄を知っています。したがって彼らは,エホバのクリスチャン組織の道徳規準を尊重する義務,また良いたより,つまりエホバの御国の音信を携える宣教に関し聖書に述べられている責任や要求についても知っています。献身の決定および献身の行為は,献身を表わす水の浸礼に常に先行します。ですから,バプテスマは資格のある人が取る,従順の最初の段階です。献身の象徴を通して,弟子は神との密接な良い関係を求める願いを表明するのです。

      2,3 バプテスマにおいて,弟子はどんなことを神に求めるのですか。

      2 『それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父の名によってバプテスマを施しなさい』。(マタイ 28:19,新)この命令は,正しくバプテスマを施された弟子が導きいれられる,エホバとの密接な関係を示しています。すでに調べたように,水のバプテスマは,「肉の汚れを除く」ことを表わすものではありません。それは,ヨハネ第一の書 1章7節と黙示録 1章5節に述べられている,イエスの血によってわたしたちが罪から洗われたことを表わすものではありません。そうではなく,水のバプテスマは「神に対して良心を求めること」を表現するものです。「むかしノアの箱舟が造られていた間,神が寛容をもって待っておられた…その箱舟に乗り込み,水を経て救われたのは,わずかに八名だけであった。〔この水に相当するもの,つまりバプテスマ(肉の汚れを除くものではなく,神に対して良心を求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通じて今あなたがたを救っている〕」。(ペテロ前 3:20,口語,21〔新〕)ノアの時代に全地をおおった洪水が水のバプテスマを思わせると述べたペテロは,洪水の前に箱舟にはいり込むことの実体は,彼が行なうように命令されたもの,すなわち水のバプテスマであると語っていたのです。しかし,それはなぜ「神に対して良心を求めること」になりますか。

      3 それは,神に対するまったき献身のうちにイエス・キリストを通して自分を神にささげることによって神に求める願いです。この点に関して,「新約聖書に見られるすぐれた叙述」第6巻の中で,A・T・ロバートソン博士は次のように述べています。「よく吟味してなされた,神に対する聖別の誓い,これがここの意味であろう。つまり,悔い改めて神に帰ったのであるから,今度はその事実をバプテスマ(それ以前に起こった,心の内面的な変化の象徴)によって,公に宣言するのである」。

      4 良心に関して,弟子は「過ぎにし日」からどのように変わりますか。

      4 したがって,弟子 ― あなたが弟子であるなら,あなたも含まれます ― の神に対する良心はかつては悪いものでしたが,今や救いの良いたよりを受けいれたため,神に対して良心を願い求めるようになり,そのために,まったき献身のうちに神に自分をささげ,良心を持てるよう神に求めるのです。「なんぢら過ぎにし日は,異邦人の好む所をおこなひ,…もはや足れり」。(ペテロ前 3:21–4:6)献身によって,わたしたちは良心を持てるよう神に願いをなし,その願いは献身の後,水のバプテスマによって達成されます。そういう理由に基づいて,わたしたちは水のバプテスマによって献身を表わし,その結果,求めていた良心を得るのです。神のこのバプテスマにかかわるすべての取り決めにより,わたしたちはこの罪深い,良心を持たない,滅びに定められた人類の世から切り離され,解放されるのです。あなたは神の前に良心を持ちたいと願いますか。しかし,神に対する献身もせず,水のバプテスマも受けずして,そうした良心が得られると思いますか。

      5 良心に従って,まず最初にだれの名前によって弟子はバプテスマを受けますか。その理由は。

      5 これはエホバとの密接な関係を示すものであり,弟子はまず最初にそのお名前によってバプテスマを施されます。献身した人は,多くの教会が聖書の示す事実として受けいれなくても,神が父であることを認めねばなりません。その御父の名前は擁護されねばなりません。「エホバという名前を持たれるあなただけが全地の至上者であられる」からです。(詩 83:18,新)また,「命の源はあなたにあるからです」― 詩 36:9,新。

      子の名によって受けるのはなぜか

      6 (イ)御子はご自分の公式の権威をだれから受けましたか。(ロ)なぜ子の名によってバプテスマを受けるのですか。

      6 この御父には,深く愛しておられる御子があります。「それゆえ,行って,…弟子とし,…子…の名によってバプテスマを施し」なさい。(マタイ 28:19,新)わたしたちは御子の足跡に従うべきであり,彼について,ピリピ書 2章9-11節はこう述べています。「神は彼を高く上げて,これにもろもろの名にまさる名を賜ひたり。これ天に在るもの,地に在るもの,地の下にあるもの,ことごとくイエスの名によりてひざを屈め,かつもろもろの舌の『イエス・キリストは主なり』と言ひあらはして,栄光を父なる神に帰せんためなり」。バプテスマを受ける行為は,神の御子の示された模範に従うことであり,御子は従うのにふさわしいかたです。なぜなら,その天の御父はこう述べておられます。「視よ われ彼をたてゝもろもろの民の証とし またもろもろの民の君となし 命令する者となせり」。(イザヤ 55:4)「(彼には)『王の王,主の主』と記せる名あり」。(黙示 19:16)「神は唯一なり,また神と人との間の中保も唯一にして,人なるキリスト・イエスこれなり」― テモテ前 2:5。

      7 (イ)御子はなんの原となられましたか。(ロ)弟子はバプテスマの際,どのような認識を示しますか。

      7 わたしたちが望み,かつ信頼している救いは,エホバの偉大な備えとしてのキリスト・イエスに依存しており,わたしたちがその救いにあずかるため,彼は祭司の職務をつかさどることになります。パウロの次のことばは,この点を明らかにしています。「すべて己に順ふ者のために永遠の救の源となりて,神よりメルキゼデクの位に等しき大祭司ととなへられ給へり」。(ヘブル 5:9,10)したがって,この高い位を持つかたの名前によって浸礼を受けることは,エホバに対する献身に,その御子への認識が伴っていること,また,エホバとの関係が御子キリスト・イエスを介している事実を認識していること,さらに,御子の主としての地位を認めて,御父なる神に栄光をもたらしていることを示すものです。水につかることではなく,キリストの犠牲がわたしたちの救いと罪の許しの原となることがよく理解されます。ですから,御子の権威ある職務,すなわち大祭司としての役割を認めるのは喜びです。

      8 知識を得ることに加えて,弟子には何が要求されていますか。

      8 弟子は御子の追随者として,行ないや道徳に関する聖書の要求を知るだけでなく,個人生活をすべての面にわたって,神のみことばに述べられている高い規準に従わせ,その要求にそった生活を送らねばなりません。さらに,聖書の原則に反した行ないや宗教また企てから手を切らねばなりません。バプテスマを受けることを望む人はまず,少なくとも聖書の基本的な教えについての正確な知識を得なければなりません。このことは,最初に弟子を作り,その後その人々にバプテスマを施せというイエスの指示に一致します。

      弟子に対する確かなささえ

      9 第三にどんな名によって,弟子はバプテスマを受けるかを説明しなさい。

      9 「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,……聖霊……の名によって彼らにバプテスマを施し……なさい」。(マタイ 28:19,新)聖霊は人格ではなく,エホバの御心を成し遂げ,かつ弟子がエホバに対する献身を忠実に果たすのに不可欠な,エホバ神の活動力です。イエスの述べた次のことばは,聖霊に関するものです。「われ父に請はん,父は他に助主をあたへて,永遠に汝らとともに居らしめ給ふべし。これは真理の御霊なり」。(ヨハネ 14:16,17)神のみことばはクリスチャンの導きとなるため,「霊の剣」と言われています。(エペソ 6:17,新)同様に,ペテロは聖書を神の霊と関係づけて述べています。「預言はどんな時にも人の意志によってもたらされたものではなく,人々が聖霊に導かれ,神から語ったものである」― ペテロ後 1:21,新。

      10 (イ)聖霊を通して成し遂げられることを幾つか述べなさい。(ロ)その名によってバプテスマを受けるとは何を意味しますか。(ハ)新しい弟子は何を活用できますか。それはバプテスマとどんな関係にありますか。

      10 神の霊はみことば聖書を備え,真理のみことばを保存し,それを明らかにし,神のしもべにそれを理解させ,神のみことばの宣教を行なう権限を,キリスト・イエスの追随者に付与します。(コリント前 2:10)聖霊の名によって正しくバプテスマを受けた人は,良いたよりの奉仕者としてクリスチャンに義務が課せられていること,それゆえ奉仕者は,他の人々を弟子とし,次いで彼らを教える,世界的な大きなわざにあずからねばならないことを認識しなければなりません。これは,神の民の会衆と協力すること,また,会衆を通して設けられるすべてのすぐれた備えを活用しながら,会衆と交わることを意味します。神の霊はその会衆に宿り,その中のすべての人の霊的福祉を図ります。事実,弟子となることを熟慮し,エホバに献身するところまで来た人は,会衆の組織の中で奉仕の地位にあるしもべたちとともに,「あなたのみことばはわたしの足のともしび」と題する出版物を検討することができます。ものみの塔協会の出版したこの教訓的な出版物には,聖書の基本的な80の教えが収められています。それを一つ一つ討議してください。そうすれば,浸礼希望者とクリスチャン会衆の彼の仲間を含め全員が,献身を表わしたいと望んでいる人に,神のみことばのそれらの基本的な教えに対する理解と認識があることを知ります。

      11 霊の神聖さはどれほど重要ですか。

      11 バプテスマが聖霊の名によること,神のみことばは聖霊によって備えられ,かつ保存されてきたこと,さらに神の霊は神聖なものであり,悪霊からのものではないことに対する認識は,聖霊の導きに逆らわずに従うためには重要です。

      12 悪霊に源を発する教理と違って,弟子はどんな基本的な真理を知らねばなりませんか。

      12 クリスチャンのこうした正しいふるまいは,公私の別を問わず,生活のあらゆる面に関係するため,聖書の基本的な教えをそのように検討することが必要となるのです。その教えには,御国・祈り・今日のクリスチャン宣教・会衆・神とクリスチャンとの敵・サタン悪魔・悪霊・ハルマゲドン・魂・罪・復活・正しいふるまい・道徳的な清さ・血の神聖さ・家族内での神権的なふるまい,そして神のしもべである仲間と一般の人々に対するクリスチャン個人の関係などが含まれます。さらに,神に献身した人が,その象徴としてなぜバプテスマを受けねばならないかも知らねばなりません。

      13 ヨエル書 2章28,29節はどのように成就していますか。それは30-32節に関するどんな前兆となっていますか。

      13 聖霊の名によってバプテスマを受けることには,ヨエル書 2章28,29節の預言の成就に対する認識も伴います。「われわが霊を一切の人に注がん 汝らの男子女子は預言せん 汝らの老たる人は夢を見,汝らの少き人は異象を見ん その日我またわが霊をしもべ しもめに注がん」。神の霊が,ペンテコステの際に集まっていたご自分の民に注がれたとき,この預言は初期クリスチャン会衆の上に最初の,かつ部分的な成就を見ました。(使行 2:1-4)ヨエルの預言は今日その完全な成就を遂げています。「終わりの時」の今,献身した神のしもべたちに神の霊が最終的に注がれていることは,ヨエルの預言の残りの部分,つまり,エホバとその御国に敵対している巨大な世界的組織の崩壊が必ず成就する前兆になっています。(ヨエル 2:30-32。ダニエル 12:4)バプテスマを受ける人はこの点に関する認識を持たねばならず,その認識に基づき,聖霊に一致した奉仕を行ない,エホバに献身していない人類のこの世の組織から離れなければなりません。

      弟子たちで構成される群衆に宿る真価

      14 ペテロ前書 4章12-14節の原則と,黙示録 7章9,10節の『大いなる群衆』との関係を説明しなさい。

      14 「愛する者よ,汝らを試みんとて来れる火のごとき試煉を異なる事として怪しまず,反ってキリストの苦難にあづかれば,あづかるほど喜べ,なんぢら彼の栄光のあらはれん時にも喜び楽しまん為なり。もし汝らキリストの名のためにそしられなば幸福なり。栄光の御霊,すなはち神の御霊なんぢらの上に留まり給へばなり」。(ペテロ前 4:12-14)初期クリスチャン会衆に書き送られたこのことばに宿る原則は,今日弟子となる人々にも当てはまります。そのような人は少しも不思議に感ずる必要はありません。事態を理解し,エホバが敵に対して行動を取られるのを見るのです。エホバにささえられて忠誠を保ち,黙示録 7章9,10節に示されている大いなる群衆の真価を発揮できるよう,弟子たちは祈りの特権を十分に活用します。「この後われ見しに,視よ,もろもろの国・族・民・国語の中より,たれも数へつくすこと能はぬ大なる群衆,しろき衣をまとひて手にしゅろの葉をもち,御座とこひつじとの前に立ち,大声に呼はりて言ふ『救は御座に坐したまふ我らの神とこひつじとにこそ在れ』」。

      15 黙示録 7章9,10節の『大いなる群衆』の出所は,イエスのバプテスマに関する命令をどのように確証するものですか。

      15 『大いなる群衆』の出所は,『もろもろの民』ですから,イエスの命令に従って,すべての国民が弟子とされている事実を確証していることになります。黙示録 7章の『大いなる群衆』は,献身して,バプテスマを受けた人々,すなわち地上の楽園に対する希望をいだく,キリストの弟子たちによって構成されています。したがって,その恵まれた部類の人々の中にはいるためには,このような崇拝の段階を踏まねばならないのです。

      16 黙示録 7章9,10節の『大いなる群衆』の発揮する真価はなんですか。

      16 献身した弟子は,サタン悪魔が自分の組織を用いてもたらす迫害の的となります。ですから,忠誠を保ち,そのかん難を耐え忍び,エホバ神を至上者として忠実にたたえ続け,また救いを神とその小羊とに帰することによって,『大いなる群衆』に属する人は最後に救いを得,差し迫ったハルマゲドンの戦いにさえ生き残るのです。その人々は現在いや将来においても,きわめて恵まれた立場を占めているではありませんか。この群衆が信仰と忠実を示し,そのゆえに救いにあずかるとは,なんと称賛に価する業績ではありませんか。

      17 弟子にはどのようなしっかりした態度が要求されていますか。それには祈りがどのように寄与しますか。

      17 みことばを学ぶだけでなく,そのみことばのうちにとどまる人こそ,真にイエスの弟子であると言えます。「汝らもし常に我が言に居らば,真にわが弟子なり。また真理を知らん,しかして真理は汝らに自由を得さすべし」。(ヨハネ 8:31,32)そのためには,忠誠を保たせる祈りの道は不可欠であり,神の御名が清められるように(ルカ 11:2),また,神の御国に対して(ルカ 11:2),神の御心が行なわれるように(マタイ 6:10; 26:42),一日の物質上の必要に関して(ルカ 11:3),許しを請うために(ルカ 11:4。ダニエル 9:19),よこしまな者のもたらす誘惑からのがれるために(マタイ 6:13),神の御心・知恵・理解にかかわる知識に関して(ピリピ 1:9。ヤコブ 1:5。詩 119:34),さらに神の霊を願い求めて(使行 8:14,15。ルカ 11:13)祈るべきです。バプテスマの際でも,バプテスマを施される人は,浸礼を受けたときのイエスと同様,祈りをささげるときのような気持ちでいなければなりません。(ルカ 3:21)そうすれば,神の霊の実を生み出すよう助けられるでしょう。―ガラテヤ 5:22,23。

      再びバプテスマを受ける人もある

      18 再浸礼の要求される場合について説明しなさい。

      18 さて,教えるわざがあらゆる土地で,あらゆる種類の人々の間で行なわれ,正義を愛する人々が建てられたエホバの御国の音信の伝道に応ずるにつれ,聖書に大要されているとおり,新しい弟子たちがバプテスマを受ける立場を取ります。そうした人々の中には,教会で散水や浸水あるいは灌水の儀式を受けたことのある者,またガンジス川で沐浴した者さえいるかもしれません。そうでなくても,なんらかの宗教儀式において水を用いた経験のある人もいるでしょう。また,神権的なクリスチャン会衆と交わっていた人の中にも,「あなたのみことばはわたしの足のともしび」と題する本を研究したことがなく,献身の理解も認識をも持たずに浸礼を受けたかたがいるかもしれません。そのような人は新たにバプテスマを受けるべきか,それとも再びバプテスマを受けるべきか迷っておられるかもしれません。かつてのバプテスマには,先行すべき真の献身が伴っておらず,今度こそ神のみことばの真理に関する知識を得,エホバの御心を行なう献身をして弟子となったのであるなら,そうです,そのような人はバプテスマを受けるべきです。過去に施されたバプテスマが聖書に定められた儀式,つまりエホバに献身したクリスチャン証人の手によって,水中に完全に浸されるものでないならば,新たにバプテスマを受けるべきです。したがって,この点において聖書と一致しておらず,弟子としての有効なバプテスマを受けなかったことがわかるならば,今回はその献身の証拠として,その象徴であるクリスチャンのバプテスマを証人の前で受ける必要があります。

      喜びに満ちた儀式

      19 クリスチャンの水の浸礼の行なわれる式の大要を述べなさい。

      19 バプテスマのために指定された時間に,新しく弟子となった人は会衆の他の人々といっしょに集合します。献身し,浸礼を受けた資格のある奉仕者が,集合した人々に献身とバプテスマに関する重要な事柄を討議する話を約20分間にわたって行なうのは良いことです。これは,浸礼の場所に来る以前にすでに献身した人々が心を探る質問に答える機会を与え,集まった人々はその答えを聞くことができます。肯定の答えをする浸礼希望者は,弟子としての資格を持ち,浸礼を受けるにふさわしい人であり,バプテスマを受けるべきです。バプテスマの際に講演形式のこうした討議をすることには,霊的な益があります。全員が自分の思いをふさわしい状態に整え,行なわれようとしている事柄の象徴的かつ重要な意義に心を集中できます。討議終了後,浸礼希望者は起立し,式の司会者の提起する二つの質問の各に対し,全員に聞こえるような声で答えるべきです。

      20 浸礼希望者に提起される,心を探る質問を分析しなさい。

      20 希望者個人個人の心と思いを探る二つの質問は次のとおりです。(1)あなたは自分が罪人であり,エホバ神からの救いを必要としていることを認めましたか。また,その救いがエホバ神とそのあがない主キリスト・イエスからくることを認めましたか。(2)今後あなたは,神と神のあがないの備えに対する信仰に基づき,キリスト・イエスを通して,また神の聖霊が明らかにする神のみことばを通して啓示されるエホバ神の御心を行なうため,エホバ神に無条件で献身しましたか。この二つの質問に対して,他の出席者が聞こえるように「はい」と答えた人は,バプテスマを受けるにふさわしいかたです。その答えを聞いた出席者は,希望者が献身を確認したことの証人となるわけです。

      21 浸礼の場所に行く前まで,集会はどのように運ばれますか。

      21 次いで,特に浸礼希望者のために司会者が祈りをささげますが,その間も希望者は起立したままでいるのがふさわしいことです。その特別な機会そして特に浸礼を受ける人々に対するエホバの祝福,またエホバの御心がその際,さらに将来において行なわれるよう,式の司会者が一同を代表して願う間,集合した証人のすべてはこうべを下げて祈るべきです。祈りに続いて,必要ならば,浸礼の場所に行く指示を浸礼希望者に与えます。

      22 (イ)浸礼式の最後の,最も重要な行事の際に適切かつ必要なのはどんな水ですか。(ロ)その時と場所にふさわしいことについて述べなさい。

      22 それから,浸礼を施す人 ― すべて献身し,バプテスマを受けたクリスチャン奉仕者で,会衆内の男の成員でなければなりません ― 浸礼を受ける男女,それに式を補佐する人や観覧する人が浸礼の場所に向かいます。海岸・湖・川・室内プールなど,適量の水のあるところならばどんな場所でもよく,それほど広いところが利用できなくても,からだを完全に水中に浸すことができる大きさがあれば,容器や水槽でもかまいません。この喜びに満ちた神聖かつ厳粛な時に臨んで,浸礼会場で遊びにふけるのはふさわしいことではありません。イエスはバプテスマを受けに来たとき祈っておられました。遊んでいたのではありません。ですから,水中に飛び込んだり,泳いだり,その他その場にふさわしくない行ないをされたのではありません。したがって,浸礼場所で,浸礼希望者の用意ができる間,プールや水漕あるいは川の流れに飛び込んだり,泳ぎまわったりしてはなりません。すべての人はその場にふさわしくふるまい,行なわれている事柄やその理由を心に留めるべきです。そうすれば浸礼希望者も同じふるまいをするよう助けられます。

      23,24 浸礼は任命とどんな関係がありますか。

      23 各人はバプテスマの日付を注意深く記録し,かつ心に銘記すべきです。その日のできごとは,バプテスマに関して神のみことばにしるされている神のご命令に従った結果生じたことですから,バプテスマを受けた日時がクリスチャンの任命の時と見なされ,将来必要に応じて記入したり,確認されたりします。エホバの証人の会衆およびものみの塔聖書冊子協会も同様に見なします。したがって,記録の必要な場合,エホバの証人によるバプテスマは,その国の法律の規定内で,エホバの証人にとって有効な任命式となります。自分が以後忠実な奉仕者であることを示す証拠には,使徒パウロが自分の推薦状として指摘したところのもの,すなわち,弟子を作るわざの結果,新たにエホバ神に献身し,弟子とされた人々が含まれます。―コリント後 3:1-3。

      24 以上のことから,世界中のエホバの証人のクリスチャン会衆が,バプテスマについて考慮するのはきわめて適切です。さらに,エホバのクリスチャン証人の大会である,巡回・地域・全国・国際大会において,新しい弟子が,神の定められた水の浸礼の儀式によって献身を表わす備えが設けられているのは,確かに適切なことと言わねばなりません。

      25 (イ)エホバのご要求にはどのような価値がありますか。(ロ)それはイエスの弟子にとってどんな確信となりますか。

      25 献身の生活にはいる人は,現在および将来に対するまったき確信をもってそうすることができます。その人々は,命の源であられる偉大なかたに仕えるという,賢明な決定を下したのです。彼らはどんな事態にあっても,聖書に述べられている道こそ,それをすでに知っていようと,知っていまいと,最善の道であることを認識しています。エホバ神がご自分の民に取るようにと望まれる進路が最善の進路です。神のご要求はそれ自体最善のものです。クリスチャンは,問題が,実はなにかほかのことをしたいのに,単に聖書が要求しているからこうする,というようなものではないことを知っています。言い替えれば,クリスチャンがある行動を取るのは,別の行動を個人では望んでいながら,神がクリスチャンに前者を要求されているからそうするのではありません。いいえ,神がご自分の民のために述べられている事柄は,それ自体最善のものなのです。エホバが求めるから何かをすると言うだけではなく ― それは十分の理由ではありますが ― エホバ神がお求めになることがそれ自体最善であるからです。これは新しい弟子にとってなんという自信また確信なのでしょう。人間の考えが神のみことばと対立する場合,わたしたちはちゅうちょすることなく,神のみことばが正しく,聖書と対立する人間の考えは誤りであると断言します。エホバ神のようなかたに献身し,奉仕をささげるのはいかにもすばらしいことではありませんか。

      [469ページの写真]

      バプテスマに関する話の後,オーストラリアのメルボルンにおける浸礼希望者347人が起立し,彼らの心と思いを探る2つの質問を受けるところ

  • 神への感謝を表わすものを『ためらわずにささげる』
    ものみの塔 1970 | 8月1日
    • 神への感謝を表わすものを『ためらわずにささげる』

      エホバが,ご自分の民である古代イスラエル民族に対してもたれた交渉には,今日のクリスチャンに有益な数々の教訓が含まれています。使徒パウロはこのことを示して,それらは「わたしたちの教えのために書かれた」と述べました。(ロマ 15:4,新)。したがって,聖書の歴史を詳細に調べるなら,今日,神を崇拝する人々に対する神の御心を霊的にいっそうふかく洞察できると確信をもって言えます。

      たとえば,エホバは,ご自分が設けられた崇拝の中心となる場所にいるご自分の祭司のもとに産物の初物を携えることを各人に求められました。それには,(人間と動物の別なく)初めて生まれたもの,各季節に初めて収穫した地の産物,また,刈り取った最初の羊毛さえも含まれていました。(出エジプト 22:29,30; 23:19。申命 18:4)これら初物は,エホバに受け入れられる清い崇拝をささえるために課された10分の1税以外のものでした。

      人間や動物の初子はすべてエホバにささげられました。(出エジプト 13:2)しかし,人間の初子や,犠牲として用いるのにふさわしくない動物の初子は,親あるいは動物の所有者が最低5シケル,つまり日本円にして約860円を支払って,それをあがなうことになっていました。(民数 18:15-17)後になって神は,このことに示されている原則を預言者エゼキエルを通してつぎのように明らかにされました。「すべての霊魂は我に属す」― エゼキエル 18:4。

      他方,牛や羊あるいはヤギの初子をそのような仕方であがなう,つまり買い戻すことはできませんでした。それらの動物の血は祭壇にそそがれねばならなかったのです。これらの動物の血は,罪深い人類のための犠牲として進んで自らをささげられた人間イエス・キリストの血を表わしていました。―ヘブル 9:6-14。黙示 7:14。

      量は定められていない

      地の産物の初物および最初に刈り取った羊

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