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あなたは洗礼をうけましたか? どのように? なぜ?ものみの塔 1955 | 9月15日
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あなたは洗礼をうけましたか? どのように? なぜ?
『見なさい,水があります。私が洗礼をうけるのにさしつかえがありますか?』― 使行 8:36,新世。
1 形式的な洗礼は,一般にどれ程広く知られていますか?
ヱホバの御言葉である聖書の中には,洗礼についての多くの助言が記されています。洗礼,つまり浸礼は,従順の最初の段階であると,聖書は示し,そして,ヱホバに献身する人は,みな行わねばならないと聖書は命じています。なぜですか? 洗礼の意味は何ですか? 洗礼はどんな目的を果しますか? 読者のみなさんは,全世界の各地に住んでおり,多くの方々は,宗教的な意味を持つある形式の水の『洗礼』を経験しており,そして違つた宗教が違つた場所で行うその儀式の意味を知つておられるでしよう。クリスチャンのうける聖書的な洗礼の意味を論ずる前に,正しくないキリスト教の洗礼を考えることは益のあるものです。
2 実際のところ,洗礼は聖儀式であるという教えは何ですか?
2 一般に言つて,昔でも今でも,世界の多くの宗教は,水の洗礼を聖儀式と考えています。人類に為された大きな宗教的害悪のひとつは,水の浸礼が聖儀式であると言う宗教の偽の教えです。洗礼が聖儀式であるなどとは,聖書の中に記されていません。洗礼が聖儀式であるという教えは,儀式または人為の行に価値があり,洗礼をうける者には恵みと益を与えると,実際には教えているものです。人が真実に洗礼をうけるとき,その人は水に沈められます。そして,聖儀式を主張する人は,水に沈められる,また濡らされる行の結果,その洗礼を受けた人には素晴らしい事柄が生ずると言います。
3 カトリック百科辞典は,洗礼について何を主張していますか?
3 次の資料は,カトリック百科辞典(英文)第2巻からの引用であり,洗礼儀式についてどんな事が主張されているかを示しています。法王ユージン4世の『エグザルテイト・デオ』勅令の中の『アルメニヤ人に対する命令』に『聖なる洗礼は,聖儀式の中で第1の地位を持つ。それは,霊的生命の戸口に当るからである。われわれは,洗礼をうけることによりキリストの一員になり,教会に加えられるからである。……この聖儀式の効果は,原罪も実際の罪も,あらゆる罪の許が得られ,かつ罪によるあらゆる刑罰も許されるのである。』言語学から見ると,こう記されています。『教会の用法においては,洗礼する又は洗礼という言葉が,形容詞を伴わずに用いられるとき,水が体に注がれると同時に魂の罪が清められる聖儀式の洗い清めを示すのに用いられている。』
4 洗礼は聖儀式であるという偽りの主張に対して,聖書はどのように反対していますか?
4 このような浸礼をうけて,主張されているように原罪が許されるならば,浸礼された者は天の生命をうけることになります。なぜなら,カトリックの主張によると,『人類種族は,原罪のため天に達する自然権利を失つた』からです。洗礼を聖儀式と見るために,神の御言葉の多くの真理は,ぼんやりとして分らなくなります。いま洗礼は聖儀式という偽りの主張に深い考慮を払い,かつそれに関連する聖書の教理を詳しく論ずることはできません。しかし,もしあなたが神の御言葉とこの雑誌をしばらくのあいだ研究して来ているなら,原罪にしろ,附随の罪にしろ,水で濡らされたからといつて罪のゆるしが得られないということは御存知のはずです。完全な人間の生命を棄てられたキリスト・イエスの犠牲というヱホバの御準備によつてのみ,人類は罪と死から自由に解放されます。(ヨハネ 1:29。コリント後 5:21。ヘブル 9:24-26。ヨハネ第一書 2:1,2)また,腐敗した古い世の人々は,水に没したからといつて,ことさらに為された罪の刑罰から救われることはありません。(ヨハネ 15:19。ガラテヤ 1:3,4。黙示 18:3-8)それと同じ理由に基いて,人が水の浸礼をうけたところで,キリストの体である教会,つまり会衆の成員になれるわけではありません。
5,6 異教の宗教は,洗礼を何と見なしていますか? その教理は,どれ程ひろく行き亘つていますか?
5 水の洗礼という問題について,カトリック百科辞典は更に註解をつけ,このように述べています。『外面的に洗うという象徴は,内部の清めを示すのに極めて自然のものであり,かつ的確に表わすものである。異教の宗教制度がそれを行つているということからも裏づけされるものである。バビロン人,アッシリヤ人,エジプト人,ギリシャ人,ローマ人,ヒンヅー人,そして他の人種の者たちは,清浄水を使用していた。』異教の宗教の中では水で洗つたり,洗礼をほどこしたりすることは,多くの益を与える聖儀式と見なされています。それは実際の事実です。カトリック以外の権威も,この見解を持つカトリックの権威と,意見が一致し,両者はたがいに一致して,水の洗礼は聖儀式であつて,悪魔から起源を発している非クリスチャンの考え方であることを証明しています。
6 ヒズロップの書いた『二つのバビロン』を引用してみましよう。『洗礼による再生というこの教理は,本質的にはバビロン人のものである。再生という考えが異教の世界に知られていたと聞いて,ある人は恐らくつまづくことであろう。しかし,インドに行つてごらんなさい。今日,キリスト教の教えを一度も聞こうとしない偏狭なヒンヅー人たちは,再生と言う言葉や考えを極めて良く知つているのである。……昔の作家たちは,それぞれこの(バビロン人の)洗礼の事実やその意図の両方について直接の証明を与えている。……このような洗礼を受けた者たちは,ターツリアンの保証するごとく,洗礼の結果を約束されていた。つまり「再生並びにすべての偽誓よりのゆるし」である。我々の異教の先祖であるオデインの崇拝者たちは,洗礼の儀式を行つたものである。洗礼を行うその目的と関連して,生れたばかりの子供たちに水をふりかけたり,または生まれるとすぐ池や河に入れることによつて,その生来の罪や腐敗は,洗い清められると,彼らはもともと信じていたようである。大西洋の向う側メキシコでコルテツとその戦士たちが上陸したとき,洗礼による再生という同じ教理は,土人たちのあいだで大々的に行われていたのである。……洗礼に関連して,ローマが忠実に異教の祓い清めを模倣したことは,読者の知るところである。ローマの洗礼に附随する他のすべての特質,すなわち塩,唾,聖油,塗油を用い,そして額に十字架のしるしをつけるというようなものは,みな等しく異教のものである。』
7 悪魔に起源を発するいろいろな考案は,今日キリスト教国の洗礼儀式で,どの程度まで用いられていますか?
7 今日,キリスト教国の洗礼儀式には,名附け親の制度,悪霊を祓い清めるために志願者の顔に息をふきかけること,十字架のしるしをつくり,按手をしたり,志願者の口に祝福された塩を入れ,牧師の唾を耳や鼻につけ,油を塗り,三重の洗浄式,白い顔覆い,点火されたローソク,等が用いられています。悪魔崇拝に附属するこれらのものや,他のものは,いわゆる洗礼の聖儀式と言われる非クリスチャンの行となり,キリスト教国の各宗教に採用されています。ローマ・カトリックや他の宗教の採用の程度は,それぞれ違つたものであります。それで,クリスチャンの水の浸礼は,異教の聖儀式となんら関係を持たないことを,この際指摘したいと思います。水の浸礼をうけても,罪のゆるしは得られず,天にも行けず,キリストの体にも入れません。クリスチャン洗礼の実際の意義をはつきり知るために,人の言い伝えや異教の教えに頼らず,神の聖なる御言葉,聖書に頼ります。―マタイ 15:1-9。マルコ 7:1-8。
クリスチャン洗礼の意義
8,9 クリスチャン洗礼に関するどんな基礎的な真理は,大切であつて理解しなければなりませんか?
8 聖書の規定するクリスチャンの洗礼は,ヱホバ神への献身を表示します。それは,献身したことを表明するものです。浸礼することだけでは,献身でありません。洗礼は献身の象徴であつて,献身を表示するものです。観ている者は,水に浸された者が献身したことを知ります。水の洗礼は,各人が前もつてなす献身を象徴するものであるというこの真理を悟るとき,他の質問の答えもはつきりと分つてきます。浸礼をうける以前に,献身していなければなりません。さもなければ浸礼をうけても象徴するものは何もありません。浸礼は,献身をまざまざと表明するものです。クリスチャンの水の洗礼は,外面に表われた象徴です。そして,洗礼をうけた者が,王キリスト・イエスを通して,宇宙主権者ヱホバ神の御意を為すため,すべてを捧げる無条件の献身と同意を証者たちの前で証しするものです。水の浸礼によるその意味は,こうです。洗礼をうける人の過去の生活は葬られ,水から出るときには,ただ神の御意のみを行い,そしてその後は新しい生命に歩むということです。
9 実際のところ,洗礼はキリスト教教理の初歩のものです。それで,洗礼は神への悔い改めや信仰と同列に置かれ,初歩に必要であり大切なものとされています。『このわけで,キリストの初歩の教理を後にして,円熟にむかつて進もうではないか。いまさらに,死んだ業の悔い改め,神への信仰,洗礼や……というような基礎を再び置かないようにしよう。』(ヘブル 6:1,2,新世)洗礼が浸礼であるということは,イスラエルに関する事実からも分ります。その選民はモーセに洗礼されたと述べられているからです。『私たちの先祖は,……みな雲と海によりモーセに洗礼された。』(コリント前 10:1,2,新世)この民は後に『一致して答え,「ヱホバの言われたことは,みなよろこんでする」』と言いました。(出エジプト 19:8,新世)イスラエルの献身した国民の従つた律法はキリスト・イエスの来たときに終了しました。(ロマ 10:4)イエスは,30才のとき天の父ヱホバに献身した象徴として,浸礼をうけました。
10 クリスチャン浸礼のこの意義は,何によつて確証されますか?
10 イエスのうけた浸礼の意義は,イエスに交る者と弟子たちのうける浸礼の意義を示し,かつ今日なされるクリスチャン洗礼の目的を示しています。イエスは,30才のとき神に奉仕しようという厳粛な決定をしてから,ヨルダン河にいたヨハネのもとに来て,洗礼を施していただきたいと願いました。イエスは,『偽りなく,汚れず,罪人から離れて』いたため,許しを必要とする罪を有していなかつたのです。(ヘブル 7:26,新世)さらに,『彼は罪を犯さず,その口に欺きはなかつた。』(ペテロ前 2:22,新世)しかし,『イエスも洗礼をうけ,祈りを捧げているとき,天は開けた。』― ルカ 3:21,新世。
11 詩篇 40篇は,生まれたばかりのイエスに適用しましたか? イエスが12才の少年のときに適用しましたか? 30才で浸礼をうけたときに適用しましたか? なぜ?
11 今日,イエスの命令に従つて,行われている洗礼も,彼の残された模範に真似るものです。その故に,イエスの洗礼の意味は今日弟子たちのうける洗礼にもあてはまるのです。それは,イエスの公やけに行われた象徴であつて,御父の御言葉の中に啓示されている御意を為すために献身したと,ヨハネに表示したものです。パウロは,ヘブル書 10章の中で詩篇 40篇の予言をキリスト・イエスに適用し,『彼が世に来られた時に』その予言は適用すると述べています。イエスが30才になつたとき浸礼をうけたということについては,異論はあり得ません。彼は,その時に公けの告白をしたからです。彼は,ヱホバに献身しましたが,生まれたばかりの時にその献身をしたのではありません。生まれた時は,まだ小さな幼児に過ぎません。また12才の時でもありません。12才から30才までの年齢のあいだは,ヱホバの業を行わず,それにキリストに関するすばらしい予言を成就しなかつたからです。12才の時に『私はあなたの御意を為すために来ました』と天の御父に言いながら,それから18年後の30才になるまで待つて,御意を為し始めたのではありません。むしろ,成熟して30才になつて,ヱホバに献身し,水の浸礼によつてその献身を象徴しました。
12,13 神の御意をするためにイエスが来たという事実は,その浸礼が献身の象徴であることを証明しますか? 説明しなさい。
12 イエスに関して,パウロの述べているのは,献身であるということが分ります。パウロの引用している詩篇 40篇とヘブル書 10章は,そのことを述べているからです。イエスは,神の律法を心に持ちつつ,神の御意をするために来ました。全能の神は,その献身の象徴である洗礼を認められ,御霊をキリスト・イエスに送りました。『洗礼をうけてから,イエスはすぐに水から出られた。すると,みなさい! 天は開けて神の霊が鳩のように自分の上に降りてくるのを見た。また見なさい! 天から声が聞えてこう言つた。「これは私の愛する子,私の心にかなう者である。」』(マタイ 3:16,17,新世)この言葉は,イエスが生まれた時,あるいは12才の少年の時,また30才になるまでの18年間の大工の時に述べられたのではありません。
13 イエスの献身は認められて,うけ入れられました。ヱホバはイエスの洗礼を認めるとともに,その献身をも認めました。イエスをヨルダン河の水の下に入れて洗礼を施したヨハネもイエスの洗礼を目撃しました。イエスには,原罪も故意の罪もなかつたために,それらの罪のゆるしをうけるため洗礼をうけたのではなく,またキリストの体に入つたのではありません。彼は自分の体の頭であるキリストになつたからです。彼は水の下に没せられて葬られ,水から引き上げられました。それは,彼の以前の生活については葬られ,そして父の御意を為すために引き上げられたということです。詩篇 40篇とヘブル書 10章は,そのことを述べています。「神よ,私はあなたの御意をするために来ました。あなたの律法は,私の心の中にあります。」
14 それでは,あなたがヱホバに献身した後,最初の従順な行は何ですか?
14 さて,あなたがヱホバ神に献身して後,あなたの従順を示す第1の行は,同じような信仰を持つクリスチャンによつて水による浸礼または洗礼をうけることです。それは,ヱホバ神の御意に従うことであり,しかもあなたに対してキリスト・イエスの述べられた神の御旨にも一致するものです。キリストは,弟子たちに洗礼を施し,かつ洗礼を続けて為すようにと命じました。『彼らはヨハネのところに来て,言つた。「先生<ラビ>ごらんなさい。ヨルダン河の向うで,あなたといつしよにおり,あなたが証しを立てられたあの方は,洗礼を授けており,みなは彼のところに行きます。」……イエスがヨハネよりも多くの弟子たちをつくり,洗礼を授けているとパリサイ人たちが聞き,それを主が知られた。』(ヨハネ 3:26; 4:1,新世)イエスはこう言われました。『それで,行つてすべての国の人々を弟子とし父と子と聖霊の名によつて洗礼を施しなさい。』(マタイ 28:19,新世)イエスが天に昇られた後,クリスチャン改宗者たちに洗礼は施されました。西暦36年までの新しいクリスチャンたちとは,ユダヤ人や,ユダヤ人と縁故関係にある割礼をうけたサマリヤ人や,そしてもともとユダヤ人ではなくてもユダヤ人の宗教に改宗して割礼を受け,いまではキリスト教に改宗した者たちでした。その後,キリスト教の福音が異邦人のところに伝えられた時,割礼をうけていなかつた非ユダヤ人も洗礼をうけました。使徒パウロになつたサウロについて,聖書にはこう書かれています。『彼(サウロ)は目が見えるようになり,起つて洗礼をうけた。』― 使行 9:18,新世。
洗礼は罪を許さず
15 サウロ(パウロ)の罪は,洗礼によつて許されましたか?
15 『起つて,洗礼をうけ,そして御名を唱えてあなたの罪を洗い落しなさい。』使徒パウロの言葉によると,彼が改宗したとき,そのように告げられました。(使行 22:16,新世)パウロが洗礼をうけた時,彼の罪はゆるされ,その罪は水の中に洗い清められたということなのでしようか? パウロはそのように述べておらず,むしろ,こう言つています。彼は洗礼をうけるようにと命ぜられたのであり,罪の洗い清めは,キリスト・イエスを通してヱホバの御名を唱えることによるというのです。イエスの名にあつて,ヱホバを呼び求めたことは,その改宗を忠実に為し遂げた,つまり献身ということを示しました。パウロ(あるいはサウロ)のキリスト教への改宗は,その献身と同じものでしたか? そうです。改宗とは,自分の行を変えて,イエス・キリスに従うことを意味するからです。
16,17 (イ)悔い改めは,浸礼の後ですか,それとも前ですか?(ロ)洗礼は献身を象徴すると,何がさらに良く示していますか?
16 このことは,クリスチャン浸礼の型を残された方は,罪のゆるしを必要とせず,また洗礼をうける以前に私たちが悔い改めねばならないという事実とぴつたり一致するものです。「神に立ち帰つた」とき『私は音信を述べ伝え,彼らが悔い改めて神に立ち帰り,悔い改めにふさわしい業をするようにすすめた』とパウロは述べています。(使行 26:20,新世)『神への悔い改めと,私たちの主イエスへの信仰について,私はユダヤ人とギリシャ人の両方に全き証言を為した。』(使行 20:21,新世)イエスの示した途に従うクリスチャンの全き献身は,浸礼によつて象徴されますが,次の聖句はそのことを更によく示しています。『じつさいに,この道のためにあなた方は召されたのである。キリストはあなた方のために苦しみを受けられ,あなた方が彼の足跡にしつかりと従うようにと手本を残されたのである。』(ペテロ前 2:21,新世)『イエスは弟子たちに言われた。私に従いたい人は,自分を捨ててその刑柱を負い,私に従つて来なさい。』(マタイ 16:24,新世)水の浸礼で象徴されるごとく過去の生涯に関しては葬られ,そしてキリスト・イエスを通してヱホバ神の御意を為そうという決意,つまり献身はイエスの話された類似の言葉の中でも述べられています。『誰でも私に従いたいならば,自分を捨て,日々刑柱を負つて私に従つてきなさい。』― ルカ 9:23,新世。
17 罪のゆるしを浸礼と結びつけている聖句も,いくらかあります。それらを研究するため,いまヨハネの洗礼に考慮を払つてみましよう。
洗礼者ヨハネの洗礼
18 どのような状態のために,浸礼者ヨハネの宣教は必要になりましたか?
18 洗礼者ヨハネは,キリストの先駆者であつて,キリストを宣べ伝えていました。この宣教により,イスラエルの国民に準備を施し,イエスが献身と洗礼をうけて宣教を始めたときに,イエスをうけ入れさせました。このことは必要でした。イスラエルの国民は,キリストにみちびかれるモーセの律法を持つていましたが,その律法に違反し,罪を犯したからでした。メシヤが来るとすぐに,メシヤを認めてうけ入れるためには,まず準備の業が為されねばならないのは当然でありましよう。それで,ヨハネは悔い改めの音信をユダヤ人に伝道するとともに,彼らの行つたあらゆる不義に対して強い叱責の言葉を述べたのでした。
19 ヨハネは伝道をするかたわら,なぜ洗礼を施しましたか?
19 しかし,ヨハネは伝道するかたわら,なぜ洗礼を施しましたか? その洗礼は,ヨハネによつて浸礼されたイスラエル人の罪を取りましたか? ヨハネの伝道の目的は何であつたか?という別の質問はその答に助けを与えるものです。その目的は,心の変化である悔い改めをすすめて,キリストをうけ入れさせる準備をイスラエル人に為していたのでした。人々のうちのある者は,ヨハネの良い音信に答え応じて,悔い改め,自分たちの罪を告白し,そして公やけに洗礼をうけました。初期のクリスチャンたちはそのことを認め,後になつてこのように述べています。『その方の来られる前に,ヨハネはイスラエルのすべての民に悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。』(使行 13:24,新世)そして又『ヨハネは悔い改めの洗礼を施し,彼の後に来る方,すなわちイエスを信ずるよう人々に告げた。』(使行 19:4,新世)それで,これから分るように,洗礼は罪をゆるすものではなく,むしろ悔い改めた者になされたと聖書は述べています。それは,ヨハネの教えの目的であり,かつ悔い改めることによつて,律法契約に対する罪のゆるしは得られたのです。洗礼自体,彼らが悔い改めたためになされ,悔い改めが条件とされていたものです。洗礼は,悔い改めのしるしであり,悔い改めを表わすものです。それで,悔い改めは,ヨハネと他の人々の前ではつきり表示されました。悔い改めを公やけに発表して,それを表示した人々は,浸礼者ヨハネの述べ伝えたキリスト・イエス,すなわちメシヤをうけ入れる用意ができていました。
20 (イ)ヨハネの浸礼は,以前の悔い改めを象徴するものであつたという事実を更に示しなさい。(ロ)クリスチャンのうけるイエスの洗礼は,ヨハネの洗礼と異るものか否かを示しなさい。
20 キリスト教徒ギリシャ語聖書(多く新約聖書と言われる)の近代訳は,この点を良く証明しています。たとえば,マタイ伝 3章11節のヨハネの言葉を次のように訳出していることからも分ります。『あなた方が悔い改めているために,私は水の洗礼を授けている。』(新世)『あなた方が悔い改めているしるしとして,私は水の洗礼を施している。』(アメリカ訳)『あなた方の悔い改めを示すため,私は水の洗礼を施している。』(シー・ビー・ウイリアムズ訳)ルカ伝 3章3節ではこう書かれています。洗礼者ヨハネは,『罪のゆるしを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。』(新世)『悔い改めを条件にしている洗礼を宣べ伝えた。』(ウイリアムズ訳)『罪のゆるしを得ようとして悔い改めた者たちに洗礼を宣べ伝えた。』(ノックス訳)律法に対する罪を悔い改めた象徴として,ヨハネは人々に洗礼を施していました。そのことから,律法に対する罪を持たぬイエスがなぜ浸礼をうけに来たか,ヨハネには分らなかつたのです。しかし,ヨハネにむかつてイエスはこう言いました『いまはそうおつしやるな。義しいことをすべてなしとげるのは,私たちにふさわしいのである。』(マタイ 3:15,新世)使徒行伝 19章1-5節(新世)には,次のように書かれており,イエスの洗礼とクリスチャン浸礼は,洗礼者ヨハネの行つた洗礼と異ることが,更に証明されています。『さて,アポロがコリントにいるあいだ,パウロは内地を通つてエペソに至り,幾人かの弟子に会つた。彼は「あなた方が信者になつたとき,聖霊をうけましたか」と彼らに尋ねた。「聖霊があるなどとは,聞いたこともありません。」と彼らは答えた。「それでは,あなた方は何の洗礼をうけましたか」とパウロは尋ねた。「ヨハネの洗礼です」と彼らは答えた。「ヨハネは悔い改めの洗礼を施し,後に来る方,つまりイエスを信ぜよと人々に語つたのである。」とパウロは言つた。この言葉を聞いて,彼らは主イエスの名によつて洗礼をうけた。』
21 洗礼をうけた者について,まだ何を考慮しなければなりませんか?
21 それで,イエスは新しい型を始められたのです。それは,罪のゆるしを得る洗礼でもなければ,悔い改めの象徴としての洗礼でもなく,献身を象徴したクリスチャン洗礼でありました。イエス御自身も,その浸礼により献身を象徴したのです。今日,洗礼と洗礼をうけた者にたいしてキリスト教の要求している事項については,次の記事を見て下さい。
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新世社会のクリスチャン洗礼ものみの塔 1955 | 9月15日
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新世社会のクリスチャン洗礼
『我らはその(ヱホバの)路を歩まん。』― ミカ 4:2,ア標。
1 いまヱホバに献身する各人は,浸礼をうけるべきですか? 主の『他の羊』も浸礼をうけるべきですか?
前号とこの号の『ものみの塔』の中で,ヱホバへの献身と,その献身の象徴である洗礼について,多くのことが述べられています。さて,論議をいま少し進めます。前に述べられていることを基にして考えるとき,主イエスの『他の羊』は,洗礼をうけるべきですか?(ヨハネ 10:16)この質問の答は,肯定であります。神の御意を行うために献身するすべての人は,その献身の証として浸礼をうけるべきです。そして,主の『他の羊』に属する者たち,つまり地上における永遠の生命の希望を持つ『大いなる群衆』も,その浸礼をうけるべきです。(黙示 7:9)彼らは,義しいことをことごとく果そうと欲しています。そのことから見ても,彼らが浸礼をうけるのは,正しいことであつて,イエスが,御自身の洗礼についてマタイ伝 3章15節で述べている言葉通りです。いま集められているこれらヱホバの崇拝者たちは,各人それぞれ献身していますが,そのことは,他の聖句の中でも古いミカの予言により証明されます。『多くの民来りて言ん。いざわれらヱホバの山に登り,ヤコブの神の家にゆかん。ヱホバその道を我らに教えて,我らにその路を歩ましめたまわん。』(ミカ 4:1-5)それは,神への献身,つまり『彼の路を歩む』ことを示します。ここで,私たちが確信しすることのできるように正しい洗礼の施し方を学ぶのは,大切なことです。
ふりかける,注ぐ,あるいは浸す?
2 今日正統派宗教では,水についてどんな形式が提唱されていますか?
2 洗礼についての一般正統派の見解を述べてみましよう。『現在ラテン教会の権威づけられた儀式によれば,洗礼は志願者の頭を水で洗うことにより行われねばならない。』『水は単に触れるだけではなく,流れねばならぬ』と指摘され,更に『「洗礼する」という言葉自体,洗うという意味である。洗礼の3つの形式がクリスチャンのあいだでひろく行われている。教会は,その全部を正当のものと認める。それらは,洗礼の洗い清めという意義を果しているからである。それらの形式は,浸礼,注入,撒水であつて,むかしひろく用いられた形式は,疑いなく浸礼である。……ラテン教会では,浸礼は12世紀まで行われたようである。』― カトリック百科辞典。
3 『洗礼(バプテスマ)』という言葉の意味は『洗う』ことですか? その意味は何ですか?
3 正統派は,洗い清めるという考えを,あまりに幅ひろくしたため,生まれない幼児にも施すことができる程です! それで,水に浸すことと比べてみてふりかけること,または水を注ぐことは果して良いものか否かの質問が当然に起きてきます。しかし,イエスの残された型は,浸礼であつたということに注意を払うべきです。洗礼(バプテスマ)の意味は,洗うことではなく,水に入れる,水の中に浸すということです。このことは,クリスチャンの水の洗礼について述べている聖書から,そしてまた『洗礼する(バプタイズ)』という言葉の用法からも証明されるものです。水をふりかけたり,注いだりすることは,洗礼を聖儀式とみなし(実際にはそうでありません),洗い清めるという教理に強調を置く正統派宗教の要求に適うかもしれません。しかしながら,聖書の示すところによると,クリスチャン洗礼の意義は献身の象徴であるべきで,過去の生活については葬られ,そしてヱホバの御意を為すためによみがえされることです。浸礼だけが,そのことを象徴し得ます。
4 『死』と『葬られる』ことは,どのような面で,『洗礼(バプテスマ)』の言葉の意味を証明していますか?
4 『洗礼(バプテスマ)』という言葉は,水に浸す,入れる,没するという意味のギリシャ語バプティスマから来ていることに注意して下さい。それは大切なことです。献身を象徴するクリスチャン洗礼の場合,それは水による浸礼ということです。聖書の中には,献身を象徴する水のクリスチャン洗礼を指し示さない浸礼が多く述べられています。たとえば,パウロはロマ書 6章3,4節で,クリスチャンはキリスト・イエスの死にあずかる洗礼をうけ,又その洗礼に葬られていると語つています。それであるのに,人は死の状態にあつて,死をほんの少しだけふりかけられるなどということは到底考えもつきません。人が実際に土の中に葬られるとき,土をほんの少しふりかけるとか,注ぎかけられるなどということはありません。その人は,土で覆われてしまいます。それで,キリスト・イエスの死にあずかるのも同じことです。
5 他の聖句から,聖書は全き浸礼だけを教えているという事実とどのように面しますか?
5 御存知のように,イエスはヨルダン河で浸礼をうけました。浸礼者ヨハネが洗礼を施していたところには,多量の水があつたとヨハネ伝 3章23節に述べられています。また,初期キリスト教改宗者の取つた行動に注意しなさい。『見なさい,水があります。私が洗礼をうけるのにさしつかえがありますか? ……ふたりとも水の中に降りて行つた。……彼は宦官に洗礼を施した。水から出ると,……彼は旅をつづけた。』(使行 8:36,38,39,新世)もつと多くの聖書の例を引用することができます。その一つは,出エジプト記 12章22節(新世)の聖句です。『あなた方はヒソプ一束を取り,皿の血に浸さねばならない。』ヒソプの束を皿の血に入れることを指し示す『浸す』という言葉は,ギリシヤ語七十人訳では,『浸礼する』又は『洗礼する』という意味のギリシャ語バプテインと訳されています。(新世,脚註)次の事実と直面します。すなわち,洗礼(バプテスマ)についての聖書の教えは全き浸礼であり,また宗教的な『洗礼(バプテスマ)』で水をふりかけたり注いだりすることは,人間の考え出したことであつて,聖書の認めるものではありません。カトリックの百科辞典は,聖書だけが唯一つの権威ではなく,いわゆる『聖儀式』の問題については言い伝えに依頼しなければならないと言います。カトリックは,この事柄について自分たちの支持を得るため言い伝えに頼らねばならないでしよう。神の御言葉はカトリックを支持していないからです。
6 『洗礼(バプテスマ)』はいつも浸礼を意味しますが,しかし聖書の中では水の浸礼以外のことを示すのに用いられていますか?
6 また『洗礼(バプテスマ)』という言葉は,キリスト・イエスを通して,キリストの体の成員に召される者たちが神の聖霊に浸されるのを指して用いられています。(使行 1:5; 2:1-4,32,33,新世)『洗礼(バプテスマ)』という言葉は,また献身を象徴する水の浸礼を指さずに,キリストの体の一員になることを,つまり体の一員になつて,キリストに『浸礼される』ことを指し示すのに用いられています。(コリント前 12:12,13。ガラテヤ 3:27,28。エペソ 4:4,5)キリストの死にあずかるということについて,『洗礼(バプテスマ)』という言葉は,マルコ伝 10章38,39節。ルカ伝 12章50節。ロマ書 6章3,4節。コリント前書 15章29節。そして,コロサイ書 2章12節に用いられています。それで,聖書の中の『洗礼(バプテスマ)』という言葉は,いつもクリスチャンのうける水の浸礼を指し示すのではありません。聖句は何を論じているのか,その前後の文脈は何を示しているか,そしてどの点が明らかにされているかを知るのは,必要なことです。このようにして,私たちは出版物を読みます。人間の言い伝えに惑わされて,神の御言葉の教えから離れてはなりません。また,敵を亡すヱホバからの火のごとき物凄い亡びが,火の洗礼と表わされていることにも注意しなさい。―マタイ 3:11,12。ルカ 3:16,17,新世。
7 いままでのことを要約すると,献身と洗礼(バプテスマ)については何と言えますか?
7 献身と洗礼(バプテスマ)についてのいままでの研究が,はつきり理解していただけたものと希望します。要約して言えば,こうです。あなたはヱホバ神に献身すべきです。あなたはヱホバの民である証者の前にあつて,水による洗礼(バプテスマ)をうけるという従順な行をなし,その献身を象徴すべきです。さて,献身した後には,何が要求されますか?
要求
8 マタイ伝 28章19,20節のイエスの言葉を繰り返しなさい。それは聖儀式の定則ですか? その言葉は何を示していますか?
8 ある人は,こんな風に言います。マタイ伝 28章19,20節のイエスの言葉は,浸礼をうけるときに繰り返して言う定則であつて,これらの言葉を繰り返して言うことは,神聖な目的を果すというのです。それは正しい論ではありません。弟子たちに述べられたイエスの諭しめの言葉は,献身した者にいまや何が要求されており,そして何を期待するかを示しています。イエスの言葉は,こうです。『それで,行つてすべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊の名によつて洗礼を施し,私の命じたすべてのことを守るよう教えなさい。』― 新世。
9 「父の名によつて洗礼をうける」ことは,献身をうける方について何を示していますか?
9 『父の名によつて』,とは全くその通りです。献身そのものは父なるヱホバ神になされるからです。父の名によつて洗礼をうけることは,父に献身すること,そして最高者である父の職務,至上権,そして権威を全く認める献身の象徴として洗礼をうけることです。私たちの指導者が『神よ,あなたの御意を行おうとして,私はまいりました。』と言われている通りです。(ヘブル 10:7,新世)献身した者は,キリスト,イエスを通してヱホバに近づきます。そして,『神に近づく者は,神がおられることと,神を熱心に求める者には神は報いを与える方であるということを信じなければならない。』(ヘブル 11:6,新世)イエス御自身もこう述べられました。「父よ,あなたの御名が崇められますように。』『私は私の父の御名によつて来た。』『私が私の父の御名によつてする業は,私について証をする。』― ルカ 11:2。ヨハネ 5:43。ヨハネ 10:25,新世。
10 父は,御自分の名によつて洗礼をうけた者に何を要求しますか?
10 献身した者には,次のことが期待されます。その者は,御父の義である真の崇拝の義を支持し,ヱホバ神の御言葉と御名を崇めつつ伝道し,奉仕者としての責任を全く果し,家から家の野外奉仕の伝道者になり,そして,新しい世の社会の活動に全く参加し,さらに,御国の宣明をおしすすめ,かつヱホバの真の崇拝を支持します。献身した者は,キリスト・イエスや使徒たちと同じく家から家の証者でなければなりません。そして,自分の最善をつくしてそれを行い,神権的な正義の御国を証言し,宣明しなければなりません。献身した者が絶えず神の御言葉を研究して御言葉を伝道し,そして正義に進歩することは,神の御意であります。献身した者は,神と個人的な関係を持つものであつて,ヱホバへの忠実を保たねばなりません。
11 「父の名によつて洗礼をうけた」者は,新しい世の社会制度に関して何をいたしますか?
11 まずヱホバに立ち帰るに先だつて,正義への愛は是非大切なものでしたが,それと同じく正義の愛をつねに保ち続けて,忠実の道を歩み,その献身の誓を果さねばなりません。すなわち,新しい世の社会を清く,正しく,かつ一致の状態に保つということです。新しい世の社会内で,他の人と自分のあいだに起る諸問題を聖書的な仕方で取り扱います。また,会衆とその奉仕に悪影響をまつたく及ぼさず,個人的にされる戒めの言葉や,また新しい世の社会である神権制度内の僕たちによつて公やけのところでされる戒めの言葉をも聞き入れます。間違いの教理を採用せず,汚い不道徳なことに耽らず,また諸問題を起しません。これらの事であつても,または他の事であつても。あるいは個人的なことでも,または宣教のことであつても,天の父の御意に従おうと努めます。その父の御名によつて,洗礼をさずけられ,その献身はその父にたいしてなされたものです。
12 御子は,どんな名前を持つていますか?
12 『子の名によつて,バプテスマを施し。』バプテスマの行は,ヱホバにその献身を象徴した御子の残した模範に従うことです。御子に従うことは,まつたく正しいことであつて,天の父はこう述べられています。『視よ,われ彼をたててもろもろの民の証とし,又もろもろの民の君となし,命令する者となせり。』(イザヤ 55:4)『神は彼を勝れた地位に高めて,すべての名に優る名を彼に与えられたのである。これは,イエスの名にあつて,天にあるもの,地にあるもの,地下にあるものすべてが膝まづき,またすべての舌は,「イエス,キリストは主である」と言い表わして父なる神に栄光を帰するためである。』(ピリピ 2:9-11,新世)キリスト・イエスは,この高い職務に即いています。それで,彼の名によつて洗礼をうけることは,このことを認めるもので,ヱホバの任命をうけてその行使する権威を深く認識することです。黙示録 19章16節(新世)には,こう述べられています。『王の王,主の主という名前が書かれている。』
13 「御子の名によつて洗礼をうける」ことは,何を意味しますか?
13 私たちの希望し,かつ信頼している救は,祭司の職務につくイエスにより,遂にはもたらされます。しかし,その救は,ヱホバの大いなる御準備であるイエスに依存するものであります。パウロは,次のように書いて,その点を示しています。『彼は,自分に従うすべての人に対して永遠の救の源となられた。というのは,神によつて特別にメルキゼデクの状に似た大祭司と呼ばれているからである。』(ヘブル 5:9,10,新世)彼の名前は,王の王,主の主,メルキゼデクの状に似た大祭司と言われていますが,また『その名は驚異,また議士,また力ある神,とこしえのちち,平和の君ととなえられん。』(イザヤ 9:6,ア標)その故に,この大いなる方の名前によつて浸礼をうけることは,次のことを表します。つまり,ヱホバへの献身は御子を認めてなされるのであり,またヱホバ神と私たちとの関係は,御子キリスト・イエスを通すものであるという事実を認めてなされます。そして,私たちは彼の主なることを告白し,父なる神に栄光を帰します。すでに分つたごとく,私たちの救の基となり,罪をゆるすものは,水で濡れることではなく,キリストの犠牲であります。『この方は,たしかに世を救われる方である。』『キリストは,私たちの罪だけではなく,全世界の罪のための贖の犠牲であられる。』(ヨハネ 4:42。ヨハネ第一書 2:2,新世)それで,私たちは権威の職務,すなわち御子の『名前』をよろこんで認めます。
14 なぜ「聖霊の名によつて洗礼をうけ」ますか?
14 『行つて,………聖霊の名によつて洗礼を施し。』聖霊とは何ですか? それは神の活動力であつて,神は聖霊を通して御自分の目的を達成されます。神の御言葉は,その御力により御霊の霊感をうけて人類に与えられたものであり,そして御霊によつていままで保存されてきたものです。私たちはこのことを認めねばなりません。それで,聖霊の名によつて洗礼をうけるということは,神の聖にして義しい活動力の機能と目的を認めて洗礼をうけるということです。この聖霊は,神の民に活動を及ぼします。そして,その聖霊に従つて歩むということは,正義に従つて歩むことです。神の活動力は,真実に聖なる御霊だからです。(ガラテヤ 5:16-26。エペソ 5:18,新世)私たちは是非とも聖霊に従つて歩まねばなりません。こう述べられています。『また霊に播く者は,その霊から永遠の生命を刈り取るであろう。』(ガラテヤ 6:8,新世)献身した者は,忠実と忠節を保ちつつ,クリスチャンの戦に参加せねばなりません。そして,武器を投げ棄てたり,また休暇や休息を求めたりしてはなりません。あらゆる論争の際に,ヱホバの側を支持する機会によろこびを持ちなさい。私たちは,御霊の大きな剣を持つており,その剣を揮わねばなりません。それについて,こう書かれています。『御霊の剣,すなわち神の言葉を………うけいれなさい。』― エペソ 6:17,新世。
15 宗派をつくることは,キリスト教の原則ですか?
15 その故に,クリスチャンは,浸礼を施す人の名前や,ある人の名前や,制度の名前によつて洗礼をうけるのではありません。父と,子と,聖霊の名によつて洗礼をうけます。このことから,キリスト教は教派的なものでなく,また宗派というものはキリスト教となんら関係を持たないということが,はつきりと分ります。『キリストは分裂しているのであろうか? パウロはあなた方のために杭につけられて死んだのであろうか? あなた方はパウロの名によつて洗礼をうけたのであろうか? 私は感謝しているが,クリスポとガイオ以外には,あなた方のうちの誰にも洗礼を授けたことはない。それは,あなた方が私の名によつて洗礼をうけたのだと,だれにも言われることのないためである。』― コリント前 1:13-15,新世。
16 無理にすすめて,洗礼を施すべきですか?
16 献身した神の僕が,神の御要求を果すときに祝福をうけます。しかし,その神の御要求を考慮に入れつつ,献身しようか,しまいかの決定は自由意志からなされるものであつて,無理にすすめるべきものではありません。『神と和解する』よう,人に『すすめます』が,しかし各人が真理に答え応じて何をしようかは,自分自ら最後的に決定しなければなりません。(コリント後 5:20,新世)使徒パウロは,コリント人に宛てた第一の手紙の中で,こう述べています。『キリストが私を遣わされたのは,洗礼を授けさせるためではなく,良いたよりを宣べ伝えさせるためであつた。しかも,智恵の言葉を用いずに,宣べつたえるためであつた。それは,キリストの刑柱が無用のものにならないためである。』― コリント前 1:17,新世。
17 幼児の洗礼についてはどうですか?
17 幼児には,この重大な決定をすることができませんから,幼児に洗礼を施すことは,まつたくの問題外になります。ヱホバに立ち帰るには,信仰がその基礎となります。つぎに,信仰は神の知識と,真理の御言葉をうけいれることに基きます。『「だれでも,ヱホバの御名を呼び求める者は,救われるであろう。」しかし,信じない者をどうして呼び求めようか? それに,聞いたことのない者をどうして信じようか?』(ロマ 10:13,14,新世)洗礼は,聖儀式ではなくして,献身の象徴です。それで,自分の責任を取れる年齢に達していない幼児や小児に施す洗礼は,非キリスト教のものであり,行つてはならないものです。献身は,訓練の期間を経た後になされるものです。訓練は続かねばなりません。洗礼は献身の後になされますが,訓練は洗礼の後にも続かねばなりません。正統ローマ,カトリックが生まれていない赤児に施す『洗礼』は,まつたく異教のものであるとともに,馬鹿らしいものです。幼児の洗礼は必要であると論ずるのは,前ですでに論じたごとく,洗礼が聖儀式であるという偽りの前提に基いているものです。
18 洗礼をうける資格のあることを示すため,どのような方法でそれは公やけに述べられますか?
18 誰がバプテスマをうける資格を持つていますか? 浸礼をうけようとするとき,出席している証者たちの前に立ち,次の質問の夫々にはつきり『はい』と言える人々です。(1)あなたは,ヱホバ神の御前にあつて,自分は救を必要とする罪人であると認め,そしてその救は,御子キリスト,イエスを通して御父から来るということを認めますか?(2)神への信仰と,救に対する神の御準備に基いて,あなたは神に全く献身し,かつキリスト・イエスと聖書を通して啓示され,そして聖霊の啓発をうけて啓示される神の御意をこれから以後行いますか?
19 子供の浸礼については,どうですか?
19 子供たちは,これらの質問に『はい』と答えることができますか? ある子供たちは,もし理解しているならば,答えることができます。理解していない子供たちには,答えることができません。子供を導いて清い崇拝に歩ませるのは,両親の責任です。そして,子供は,自分の責任を取る年齢に達してから,献身をしようかしまいかを,各自めいめいで決定すべきです。献身がなされるならば,子供はその献身の象徴として洗礼をうけるべきです。しかし,もし献身をしないならば,子供に洗礼を施すべきではありません。
20 以前に水をふりかけられたか或は浸礼をうけて献身した方が,正しい洗礼をうけるのは何時の時であるかを述べなさい。
20 ある人は,こんな風に言うことでしよう。私は,むかし洗礼をうけて,浸礼をうけた。または,水をふりかけられたか,或は水を注がれた。しかし,前述の質疑や論議に示されているような洗礼の重要性については何も知らなかつた。私はもう一度洗礼をうけるべきでしようか? そのような場合,答は肯定の『然り』であります。あなたは真理の知識を得てから,ヱホバの御意を行おうと献身したのであり,以前に献身はしておらず,それに以前の洗礼は献身の象徴ではなかつたからです。自分はむかし献身したのであると自覚していようとも,ある宗教儀式でただ水をふりかけられたか,注がれた者であるならば,まだ洗礼をうけたものではありません。それですから,証者たちの前で,自分の献身を証明するクリスチャン洗礼の象徴を表わさねばなりません。
21 洗礼の集りのときどのような事柄を行うべきですか?
21 浸礼をうける希望者たちが集まるとき,献身して,浸礼をうけた,資格ある奉仕者が,数分あるいは25分位のあいだ講話を話し,献身と洗礼に関連する大切な事柄を要約して説明するのは,良いことです。もちろん,希望者は浸礼の場所に来る前に,献身をしなければなりません。そして,何についての儀式であるかを前もつて理解しているはずです。しかし,要約の話は霊的に益のあるものです。それはすべての人の心を正しい状態に置き,そして注意と心を,行われようとする重要な象徴に集中させます。話が終り,希望者が起立して,二つの質問にたいして,他の人々がその献身の言葉の証人になれるようはつきりと答えて後,ヱホバから与えられる祝福,そしてヱホバの御言葉,御霊,制度,そして新世社会にいる人々を通して来る支持と慰めについて簡単に話すことは,適当なものです。それから,出席者全員は祈りを捧げ,ヱホバの祝福,特に浸礼をうけようとする者への祝福を祈ります。そして,ヱホバの御意が現在および将来にもなされるよう祈ります。その後,献身はしてもまだ洗礼をうけていない人々は,浸礼の取り極めに従い,その献身を象徴します。
22 洗礼の場所における適当な行為を概略して述べなさい。
22 その後,浸礼を施す人々と,浸礼をうける人々,そしてその浸礼式を助ける人々や,また見守る人々は,浸礼の場所に行きます。その場所は,海辺か,湖か,河か,または水のあるところ,あるいは室内のプール,そして已むを得ないならば,小さな水容器かタンクが用いられるでしよう。しかし,どの場合であつても,全き浸礼を行うのに十分の大きさでなければなりません。その洗礼の場所で,その時に遊戯をするのは良くありません。洗礼は,大きな意味を持つ厳粛な時だからです。イエスは,洗礼をうけられた時に祈りを捧げておられました。彼はじやぶんと跳びこんで,ばしやばしや泳ぎまわり,平静を乱したり,不適当な行をしたりすることはなかつたのです。それで,プールや,タンクや,河の中に飛びこんで,希望者の準備ができるまで泳ぎまわつてはなりません。むしろ,すべての人は行儀正しく行つて,なにが行われるのか,またその理由が何であるかを心に考えるべきです。そして,希望者にもそうするよう援助すべきです。彼らは洗礼をうけることにより,兄弟たちや他の人々の前にあつて,自分はヱホバ神に献身しているということを記録するのであります。『汝神の前にありては,軽々しく口を開くなかれ,心を摂めて妄に言を出すなかれ。そは神は天にいまし,汝は地におればなり。さればなんじの言葉を少からしめよ。汝神に誓願をかけなば,これを還すことを怠るなかれ。神は愚かなる者を悦びたまわざるなり。汝はそのかけし誓願を還すべし。誓願をかけてこれを還さざるよりは,むしろ誓願をかけざるは汝に善し。汝の口をもて汝の身に罪を犯さしむるなかれ。また使の前にそれは過誤なりというべからず。おそらくは神なんぢの言葉を怒り,汝の手の所為をほろばしたまわん。』― 伝道之書 5:2,4-6。
23 任命の儀式としてのクリスチャン洗礼についての事実は何ですか?
23 神の献身した民にとつて,新しい世の社会は,まつたく大切なものであります。そして,彼らは新しい世の社会と親しく交り,その活動に参加し,忠節と愛の中に,あらゆる面で支持いたします。それで,バプテスマをうける時は,クリスチャン任命の時であります。心からの献身に引きつづくこの従順な行は,その人の表し示す行為を人々の前で立証することであり,神よりの任命に関係するものです。洗礼をうける日は,任命の日であると見るべきです。洗礼は,神の命令に従つてなされるため,権威を持つものです。その表象するものの故に,それは厳粛なものです。それは,新しい世の社会とその機関,すなわちヱホバの証者とその僕『ものみの塔』聖書冊子協会により認められています。記録という目的から見るとき,ヱホバの証者の洗礼または浸礼は,法律の意味から云つてヱホバの証者の任命を示す正当な儀式であります。今後は,忠実な奉仕者であるということについての一番良い証拠は,使徒パウロが推薦の手紙として指摘したものと同じであります。すなわち,努力を払つて,自らヱホバ神に献身した各人であります。―コリント後 3:1-3。
24 (イ)ヱホバの崇拝は,どのように拡大しますか? 新しい世の社会は,どのように建てられていますか?(ロ)あなたは何を賢明に考えるべきですか?
24 そのようにして,ヱホバの崇拝は拡大して行きます。このようにして,新しい世の社会は建てられています。あなたは,この宣教に参加しているか,あるいは参加し得ます。正義の神とその高い原則に献身して忠実を保つとき,必らず得られると聖書の示す祝福された将来を賢明に考えなさい。賢明でありなさい。あなたが最高者に仕えようと決意なされるとき,キリスト・イエスを通してヱホバがあなたを祝福されますように。真の神に献身し,そして洗礼をうけ,かつ忠実な僕として,私たちはいまあなたとともどもによろこびつつ清い崇拝を行います。
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