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    ものみの塔 1958 | 11月1日
    • によつたからです。イエスは水の中に葬られたときに自分の過去の生活に関しては死んだが,水の中から引き上げられたときはヱホバの御意を行う為に全く生きたと明白に表わし示しました。―マタイ 3:14,15。

      14 (イ)キリストに従う者は何時バプテスマを受けますか。(ロ)献身をして後にバプテスマを延引するということをなぜ避けるべきですか。

      14 同様なバプテスマをするクリスチャンの場合にも同じことが言えます。それですから,学ぶ者がヱホバの御意を行う為に献身した後は,バプテスマを受けることができます。もちろんそれは何の保留もない真心からの決定でなければなりません。それで,バプテスマは極めて重大な場合ですが,しかし悲しい場合でないことはたしかです。そのことがらに十分の考慮を払うべきです。他の人がバブテスマを受けるからという理由で,バプテスマを受けることはできません。その重要さは,伝道之書 5章4,5節に記されています。すなわち神に誓を立てるならば必ず成就しなければならないということです。神への誓を果す重要性に気づく人は,こんな風に言うかも知れません,『この際は見合わせておくべきだろう。思うような具合に行きそうもないしそれにこの献身を果さないなら死を受けることになる。』たしかに誓を破る者たちは『死に値する』者です。(ロマ 1:32)次の事実を忘れてはなりません,すなわち真理を知る機会があり,また生命をヱホバにささげるとはどういうことであるかを知りながら,なおも献身しない人にとつては,死を意味するということです。人がこの点にまで達したとき,その人は知識を持つており,その理解の程度に応じて責任を有しているのです。

      15,16 (イ)バプテスマを受ける以前に,人の生活に何が起るべきですか。(ロ)どんな状態下では,バプテスマは無効ですか。(ハ)どんな状態下にあつて,人は再びバプテスマを受けるべきですか。

      15 明らかに分ることですが,バプテスマを受ける以前に人の生活は変化いたします。不道徳な生活を行つていたか,また神の標準から見ると汚れた行いをしていたならば,その生活を清いものにしなくてはなりません。バプテスマを受けても生活を清い正しいものにしておらず,また不道徳な生活をしているか神の律法に違反する行いをしていた場合,バプテスマはヱホバの御意を為す献身を完了するものではありません。そのような献身の見せかけはヱホバの受け入れるところではないのです。汚れた捧げ物は全能の神の受け入れるものではありません。私たちは神のきよい御意を行う為に自らを捧げるべきです。

      16 自分がそのような状態にいると知るなら,生活を清めて真の献身をなし,再びバプテスマを受けることが必要でしよう。汚れた人がすでにバプテスマを受けていたにしても,その献身はヱホバによつて受け入れられたものではありません。その人が生活を清めるとき,再びバプテスマを受けるべきです。そのような状態下にあつては,献身は全能の神に受け入れられるものであり,水のバプテスマは有効なものです。

      17 (イ)献身とバプテスマは,人の生涯において何をしるしづけますか。(ロ)バプテスマの日は,どのように重要ですか。

      17 水による儀式的なバプテスマ,又は象徴的なバプテスマで生命が得られるのではありません。むしろ,その後につづくものすなわち神に捧げる忠実な奉仕によつてこそ生命が得られるのです。水によるバプテスマは,生涯を通して続けて行かねばならぬ或る事柄の最初を公に示すものです。実際のところ,この献身の終りはありません。それは永遠のものであり,心のうちに永久永続ということを考えてつくられねばならないのです。献身とバプテスマをなす時に全能の神から課せられる責任は,決して避けることができません。無関心とか不注意に責任を取り扱うこともできず,またその要求を果さないということがあつてはなりません。献身の日以来,それはその人の生涯の職なる伝道の始まりを示すものです。その日以前にも恐らく証言の業に参加したことでしよう。しかし,献身がなされてその後できるだけ早くバプテスマを受ける時まで,その人はヱホバに献身した関係に入つていません。この意味において,バプテスマを受ける日は,新しい生命に誕生したことを象徴する日です。それは新しい生命の始まりを公に宣べ伝え,現在および永久にわたつて神の新世社会内にいて神に献身した他の僕たちと交わることです。バプテスマを伴う献身は,人が古い世に死んで新しい世ひとすじに生きる時を示します。全くのところ,クリスチャンが献身したヱホバの僕およびイエス・キリストの弟子として生きることです。それですから,バプテスマは献身を公に述べ表わすもの,および任命の儀式として両方の用を果します。生涯中にバプテスマを受けるというこの重要な日は,自分の会衆に報告して記録につけるだけでなく,この記録を自分自身でも保たねばなりません。それはヱホバの目に見える制度によつて任命された日です。

      18,19 (イ)年若い者がバプテスマを受けるときは幾才ですか。(ロ)バプテスマについては年齢の制限がありますか。

      18 幾才のときにバプテスマを受けるべきかという質問がしばしば言われます。年齢というものは決定要素ではありません。10才台になつたばかりの者であつても,その年齢にはかかわりなくもし少年少女が神の真理を学んでヱホバの目的と要求に親しんで,ヱホバを愛しヱホバに奉仕したいと欲して献身をするときは,浸礼を受けることができます。その正しい態度は,イエスの次の言葉に表わし示されています,『もしあなたがたが私を愛するならば,私のいましめを守るべきである。』『もし私のいましめを守るならば,あなたがたは私の愛のうちにおるのである。それは私が私の父のいましめを守つたので,その愛の中におるのと同じである。』― ヨハネ 14:15; 15:10。

      19 一方,年老いた人は,もう年を取りすぎたから献身もバプテスマもできないと考えるかも知れません。この場合でも年齢は重要なものではありません。イエスの述べたごとく,神のいましめを遂行しようというひたむきな決意で一杯ならそしてヱホバに奉仕して永遠の生命を得たいと欲するなら,年寄りの者も献身の象徴としてバプテスマを受けることができます。それをひきのばすべきではありません。

      20 何が真実の永続する幸福をもたらしますか。

      20 生命を愛する人は生命を十二分に欲します。ヱホバだけが附随する祝福と共に生命を与えることができるのです。この愛と無私の献身の故に,人は幸福の中に永遠に存在して神に終りなき奉仕をしようと自発的に身を捧げるのです。

      バプテスマを受ける適当な時

      21 どんな時にバプテスマを受ける取り極めを設けることができますか。

      21 バプテスマを受ける機会はだいたいヱホバの証者の大会のときや,また年に2度行われる巡回大会のときにあります。ふとした具合で定期的に計画されている大会でバプテスマを受けることができない場合,またはなにか病気の為に不能であつた場合,別の時を取りきめることができます。時や場所にかかわりなく,ヱホバに献身している僕が浸礼を施すよう任命されます。

      22,23 (イ)バプテスマを受けたいと希望している人々には,どんな重要な質問が提出されますか。(ロ)どんな答は,受洗希望者がバプテスマをすぐ受けられることを示しますか。

      22 口を開いて信仰を公に言い表わすことは是非大切なものです。そのわけで,受洗希望者には二つの質問を尋ねます。(1)あなたはヱホバ神の御前にあつて救いを必要とする罪人であると認めかつこの救いは御子イエス・キリストを通して父から来ると認めていますか。(2)神にたいするこの信仰と,救いをもたらす神の御準備に対するこの信仰にもとづいて,あなたは神に全く献身し,今後はイエス・キリストを通し,かつ聖霊のなす啓発の力の下に聖書を通してあなたに啓示される神の御意を行いますか。

      23 これらの質問に『はい』と答え得る人は,みなバプテスマを受ける資格を持ちます。そして,ためらうことなくまたおくれることなく,この行いをするすべきです。

  • いまだに『マナ』を食べる
    ものみの塔 1958 | 11月1日
    • いまだに『マナ』を食べる

      聖書は,40年間も荒野をさまよつたイスラエル民族を神がマナで養われたことを述べています。マナは白い実に似ていて,『蜜をいれたる菓子』のように甘いものでした。(出エジプト 16:13-31)この説明を考えると,アメリカの「ナショナル・ジオグラフィック」誌が,1957年12月号の『旧約聖書時代をよみがえらす』という記事で,マナについて述べている事がらに興味をひかれます。

      『われわれはまたもや,動かし得ない事実が聖書の物語を支持しているのを知つた。というのは,天からふつた奇跡のマナは,シナイでは毎年みられるからである。甘くて栄養のある白い小滴が,夏ごとに必ずかん木の上に奇跡的に現われる。最も多い時期には,男一人で1日に2ポンド以上を集めることができる。

      『1927年,エルサレムにあるヘブル語大学の動物学者F・S・ボデンヘイマー教授は,マナの秘密を探るためシナイ半島に出かけた。彼の訓練された目は,たちまちその秘密を解き明した。その蜜のつゆの滴は,カイガラムシが出すものである。

      『この小さな生物は,同化作用のバランスをとる必要にせまられるので,窒素の不足している木から炭水化物を多く含む樹液を吸う。窒素を使うと,甘い過剰液を滴にして排出してしまう。そしてこの液は蒸発してすぐにねばねばした固形に変る。

      『マナは,今日に至るまで近東の人々が好む糖分である。最も有名な種類は,カーディスタンでとれるもので,行商人たちは,これでつくつた菓子に「マン」という名前をつけ,バグダッドの街で売り歩いている。』

      イスラエル人全部に十分のマナを供給し,特に金曜日毎にその2倍の量を与え安息日である土曜日にないようにするには,奇跡が必要であつたことは疑いありません。しかしそれにしても,このマナが自然のものであつたり,イスラエル民族が滞在したと聖書が記録している場所にいまだに見られるということは,ほんとうに興味あることです。

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