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ゲヘナの火についてはどうですか今ある命がすべてですか
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したがって,ゲヘナに関する真理は,偽りの宗教と関係を持たないようにすることの大切さを認識する助けになります。イエスが示したとおり,指導者たちだけでなく,偽りの宗教の教え手を支持する人々も危険な立場にあるのです。事実,イエス・キリストは,書士やパリサイ人の改宗者となる人々が『彼らに倍してゲヘナに行くべき者』となる,と述べました。(マタイ 23:15)したがって,今日,偽りの宗教の教えに盲従してゆく人々は,神からの不利な裁きを免れることは期待できません。
これは,わたしたちが自分の立場を真剣に考慮することを促しますが,同時にまた慰めの保証をも与えています。どのようにですか。エホバ神は重大な悪行を処罰のないままにはしておかれない,ということを確信させるからです。エホバの義の律法に従うことを望まず,殊更に悪の道を歩み続ける人がいるなら,エホバは,そうした人々が義に従う人々の平和を乱し続けることを長くは許さないのです。
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『火の湖での責め苦』とはなんのことですか今ある命がすべてですか
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第14章
『火の湖での責め苦』とはなんのことですか
聖書は,死者に意識がないことを述べています。そのことを知った今,責め苦の場所について述べる聖書の句を見つけたとすれば,あなたはどのように反応しますか。それによって他のすべての聖句を無視し,やはり死後に意識的な存在が続くのかもしれないと考えますか。それとも,その句の前後関係を慎重に調べ,その句が実際に何を意味しているのか,それが聖書の他の部分とどのように調和するかを考えますか。
上記のことを述べるのは,聖書の「ヨハネへの啓示」が「火の湖」における「責め苦」について述べているからです。啓示 20章10節はこう述べています。「彼らを惑わしていた悪魔は火といおうとの湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方がすでにいるところであった。そして彼らは昼も夜もかぎりなく永久に責め苦に遭うのである」。―啓示 19:20もご覧ください。
「火の湖」に投げ込まれる者はどのようなかたちで責め苦を受けるのでしょうか。わたしたちはこの表現を,早まって文字どおりの意味に取るべきではありません。そのことは,「ヨハネへの啓示」がどのような性質の書であるかという点を考えれば明らかです。その書の冒頭の言葉はこう述べています。「イエス・キリストによる啓示,これは,ほどなくして必ず起きる事がらをご自分の奴隷たちに示すため,神が彼に与えたものである。そして,彼は自分の使いを送り,その使いを通して,しるしによりそれを自分の奴隷ヨハネに示したのである」― 啓示 1:1。
ここに述べられているとおり,この啓示は「しるし」によって示されたものです。では,「火の湖」とそこでの「責め苦」についてはどうでしょうか。それは文字どおりのものですか。それとも,やはり「しるし」つまり象徴ですか。
悪魔と「野獣」と「偽預言者」以外に何が火の湖に投げ込まれるかについてさらに情報を得れば,問題の答えがいっそう明らかになります。啓示 20章14,15節の言葉に注意してください。「死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。
さて,死とハデスを文字どおり火の湖に投げ込むことができるでしょうか。もとよりそのようなことはできません。それらは,物体や動物や人間ではないからです。死とはひとつの状態です。それをどのようにして文字どおり火の湖の中にほうり込むことができるでしょうか。ハデスのほうは,人類の共通な墓を表わしています。どのような湖がそれを入れることができるでしょうか。
また,啓示 20章14,15節自体も,その湖が文字どおりのものであるとは述べていません。むしろ,「火の湖」とは「第二の死」を表わすしるしもしくは象徴であると述べています。同じことは啓示 21章8節の中でも述べられています。「憶病な者,信仰のない者,不潔で嫌悪すべき者,殺人をする者,淫行の者,心霊術を行なう者,偶像を礼拝する者,またすべての偽り者については,その分は火といおうで燃える湖の中にあるであろう。これは第二の死を表わしている」。
火の湖とは第二の死の象徴ですから,死とハデスをその中に投げ込むということは,それらのものが永久に滅ぼし去られることの象徴表現にすぎません。このことは,『最後の敵として,死が無に帰せしめられる』という聖書の言葉とも一致します。(コリント第一 15:26)そして,人類一般の共通の墓であるハデスは空になって「もはや死もなく(なる)」のです。このことは,ハデスがその機能を持たなくなり,存在しなくなることを意味しています。―啓示 20:13; 21:4。
比喩的な意味での責め苦
では,「火の湖」に投げ込まれる邪悪な人間その他が経験する「責め苦」とはなんでしょうか。意識のあるかたちで存在しているのでないかぎり,それらが文字どおりの責め苦を経験することはできないはずです。そして,それらが意識のあるかたちで存在し続けることを示す聖書の証拠は何もありません。では,なぜ聖書は,「火の湖」におけるとこしえの責め苦について述べているのでしょうか。
「火の湖」は象徴的なものですから,それと結び付いている責め苦も象徴的もしくは比喩的なものであるに違いありません。「火の湖」に投げ込まれるものについて聖書がなんと述べ
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