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    目ざめよ! 1971 | 11月8日
    • に明るくしたへやを使うほうが,1箇所を照らす光の下で読むよりも目が疲れない。

      他の動物の目のレンズ

      あるこん虫の目のレンズをのぞいてみると,それが,素早く飛び立ったり,速度を判断したりするのに役だつものであることがわかるだろう。こん虫の目は,それぞれ個別に像を結ぶ無数のレンズでできている。像が目の中の個々のレンズから他のレンズに移るさいに経過する時間は,対象物の速度を示すものとなる。

      脊椎動物はものを見るために一対のレンズを備えている。馬のように,パノラマ式に,つまりほとんど四方の見える動物もいる。人間をも含めて,フクロウやサルなど他の動物の目は頭部の前方にあり,両眼の像は重なって映る。鳥の目は,望遠鏡的効果と顕徴鏡的効果を発揮する,きわめてすばらしいレンズを備えている。このため,鳥類は全生物の中で最も鋭敏な視力を持っている。それで,ワシやハゲタカその他この類の鳥ははるかかなたにある小さなものでも見ることができる。

      人間は屈折と視力にかかわる原理が自然界の中でさまざまに応用されていることに驚嘆するとともに,創造者の御手のわざを学んだのち,知力を働かして,それを自分たち自身の便宜を図るために活用してきたのである。

  • 清潔さは理にかなう
    目ざめよ! 1971 | 11月8日
    • 清潔さは理にかなう

      人間は生まれつき美的感覚をもっていて,美を愛し渇望する。これは創造者の賜物である。しかし創造者はそれだけにかぎらず,その渇望を満たす終わりのない機会をも与えてくださった。人間のすみかである地球には,美しい川や湖,山や渓谷,樹木や花があり,きわだって美しい鳥や魚や野の獣がいる。そして最高の美は人間自身のあいだに見いだされる。

      美と常に手を携えているのは清潔さである。不潔は美をおおいかくす。雨がたくさん降ったあとは,すべての物が気持ちよく新鮮で清潔に見える。動物でさえ多くのものは,いつも身づくろいをして,毛をきれいに光らせておく。鳥はくちばしで羽根を整える。魚はもちろん『ふろにはいらない』けれども,海には,他の海生動物の寄生虫,または伝染性のできものをそうじして生きている生物がたくさんいて,そのおかげをこうむる生物はこの世話を歓迎する。科学者たちはこの仕組みを「共生」とよぶ。

      しかし人間のあいだでは,清潔さはとくに美の要素といえる。人間の顔はいつも興味深く,多くの場合美しい。手や,からだの他の部分についても同じことがいえる。しかし不潔はその美を奪ってしまう。衣服はからだをおおい,暖かくするほかに,容姿をひき立てる。ただしそれは,清潔で趣味のよいものだけにかぎられる。

      清潔さに対する現代の態度

      だらしのないかっこうをするのが流行である,といまのある人たちは考えている。反抗的な若者のしるしのひとつは,上品さや清潔さを軽べつすることである。自分たちの住む世界にざせつ感をいだく彼らは,もじゃもじゃの頭髪,だらしない服,不潔なからだによってその気持ちを表現する。

      しかし,物を清潔に保ったり,きちんと整とんしたり,体裁をととのえたりしておくことに不注意や無関心を募らせているのは若者ばかりではない。多くの大都市では人々が自分の家,自動車,また街路などの外観をしだいに気にしなくなってきている。もちろん,家や調度品が美しく整って見える地域はまだある。しかし調査の示すところによると,自動車や家の手入れに注意を配る人すべてが,近所の人の目のとどかないところにまで同様の注意を払っているわけではない。それはどういうことだろう。つまり,めったにふろにはいらないとか,くつしたや下着も,よごれきるまで取り替えない,というようなことである。

      清潔は敬神につぐ美徳

      かつて,アングロ・サクソンの国々にはとりわけ,「清潔は敬神につぐ美徳」ということわざに共鳴する人が多かった。近ごろは,汚染が広がっているために,ある人はこれを清潔は不可能につぐと言い変えるかもしれない。しかし清潔の重要性は軽々しく放置すべきものではない。美との不可分な関係もさることながら,クリスチャンは清潔に対する神の態度のゆえに,清潔さに配慮すべきである。

      なるほど,清潔にかんする聖書のことばは,霊的な清潔さ,つまり宗教的,道徳的な意味での清潔さと関連したものが大部分である。神のことばは,異教徒の崇拝の対像を「ふんのような偶像」とよび,そのような霊的な汚染にかんして,神のしもべたちは「汚れたるものに触るなかれ……エホバの器をになふ者よ,なんぢら潔くあれ」と命じられている。(列王上 15:12,エレミヤ 50:2,新。イザヤ 52:11)クリスチャンたちは「肉と霊とのけがれより」自分を清めるように訓戒されている。(コリント後 7:1)また神の聖徒たちは「輝ける潔き細布」で身を飾っていると象徴的に描写されている。―黙示 19:8。

      しかし,もし肉体の清潔さが神にとって取るに足りないもの,神が少しも意に介さないものであるとすれば,霊的および道徳的な清さにかんするこれらの表現は,力も効果もないものになる。霊的な清さへのこのすすめには,神が肉体の清潔さも合わせて期待し,要求されていることが暗示されている。事実,聖書で肉体の清さが言及されている箇所は大部分,イスラエル民族の神に対する正式な崇拝と関連している。からだを洗うことは祭司たちの義務であった。怠ると死刑に処せられるほどそれは重要な事柄であった。ほかの人々の儀式的な面での清さも,しばしばからだを洗うことや水浴することが要求された。水源の衛生についてはとくに注意が払われ,死体などによって水が汚されないようにするための予防処置が律法に含まれていた。人体の排泄物は土でおおうことになっていた。このすべてに神の知恵がうかがわれる。神ご自身の神聖さがそれを要求するのである。―出エジプト 30:17-21。レビ 11:35,36; 15:1-11。申命 23:12-14。

      健康と実用的な考慮

      神から与えられた美を愛する心や,事物の合目的性に対する感覚をほかにしても,清潔にすることは健康と関係した要素をもつゆえに意味がある。不潔は病気という結果を招くおそれがある。伝染性肝炎や他の多くの病気は,おもにきたない水によって広がる。事実,現代多くの国で寿命が延びているのは,医学よりも衛生におうところが大きいとされている。有名な著述家ルイス・マムフォードは,「歴史の中の都市」という本の中で,「19世紀以前の幼児死亡率をひき下げた」のは,現代文明の出現よりもむしろ,「せっけん

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