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耐え忍びつつエホバを待ち望むものみの塔 1970 | 4月15日
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がなされ,ニューヨーク市ブルックリンから講演者がきて話をしました。講演終了後,はじめて出席した聴衆数人から多くの質問を受けたため,講演者はたった1本しかないブルックリン行きの夜行列車に乗り遅れてしまいました。わたしはアトランチックシチー線の駅まで,彼を車で送ることにしました。しかし,それがどんな結果になるかは,わたしのまったく予想もしないことでした。わたしたちの会衆を訪問したその講演者は自動車の中で,わたし個人のことについて尋ねました。それからかれは,わたしが協会のブルックリン本部のベテルにきて働く気持ちはないかと質問しました。そうしたいと思う気持ちはやまやまですが,事務の仕事についてはなにも知らない,とわたしは答えました。それはさしつかえない,協会は自分たちの手で全部の印刷を始める計画だから,ありとあらゆる働き手が必要である,と彼は話しました。それにしても,工場の仕事についてなにか知っているわけでもない,と彼に知らせました。
汽車が駅にはいってきたとき,講演者は,「お願いがあるんですが」とわたしのほうに向いて言いました。わたしは,どうぞ,と答えました。「それでは,さっそくブルックリンに手紙を書いて,ベテル奉仕の申込書をもらってくださいませんか」。そうします,とわたしは彼に約束しました。表情には表わさなかったことと思いますが,内心わたしはほんとうに興奮していました。下宿先に帰る道すがら,わたしの古い車がたいへんおそく感じられたほどです。その夜のうちに手紙を書いたわたしは,わざわざ郵便局まで出かけて行って,その手紙を投かんしました。
返事はすぐきました。11月10日,翌日からブルックリンで働くようにとの電報を受け取りました。わたしがニューヨークに着いたとき,町では鐘や汽笛が鳴り響き,銃声がとどろき,通りは行列でにぎわっていました。ニューヨーク市民は休戦記念日を祝っていたのです。その日は11月11日でした。しかし,わたしにはもっとうれしいことがありました。わたしはまったく新しい生活に乗り出したのです。それはここベテルにおける,少なくとも47年間に及ぶ奉仕の生活の始まりを画するものでした。
すぐれた日程のもとで仕事に耐え忍ぶ
ベルの音とともに起床,食事,仕事をし,ベルが鳴ると終業こうした日程の新しい生活にはいったのです。そういう生活がきびし過ぎる,また堅苦し過ぎると感じる人も少しはいました。しかしわたしはそういう生活が大好きでした。これこそ明らかに,貴重な時間の浪費をなくす生活の仕方でした。わたしの最初の仕事は装丁のいたんだ本を直すことでした。その仕事を二,三日した後,わたしは労働組合員が「鋳造工場」と呼ぶ部門で働くように割り当てられました。そこでは,輪転機にかけられるすべての印刷用鉛版が鋳造されていました。
わたしは今に至るまでずっと同じ部門で働いています。ベテルにきた人のなかには,仕事の割り当てがすぐに変わらないというだけの理由で,自分は見過ごされているとか,無視されているとか,あるいは落ち着かないと感ずる人さえいます。幸いなことに,わたしは一度もそのように感じませんでした。仕事が与えられるなら,たとえそれがどんな仕事であろうと,楽しいことでした。そして,与えられた仕事に全力を尽くし,たえず仕事の質を改善するように心がけるべきだ,とわたしは思いました。
当時のニューヨークには,聖書研究生の会衆が一つしかありませんでした。わたしは自動車を持っていましたから,週末には,少し離れたロングアイランドの区域で伝道するように誘いを受け,自動車に人を押し込んでは伝道に行きました。いつも準備をして,熱心にわたしたちの群れに加わってくれたのは,わたしのクリスチャン兄弟の一人であるN・H・ノアでした。その後,放送局の建築のため,さらに多くの働き人が必要となったとき,ロングアイランドでの伝道はできなくなりました。わたしは,自分の車でしばしば建設敷地であるスターテン島に出向きました。用事がすむと,新しい放送局の近辺を戸別伝道したものです。
忍耐に対する報い
ベテルで耐え忍びつつ今日まで働いてきた間に,わたしたちは何度も何度も心の踊る経験をしてきました。世界ぢゅうの野外でわざが拡大するにつれ,わたしたちの施設は拡大が必要となりました。ブルックリンのコンコード通り18番地にあった工場はまもなくまにあわなくなりました。そのときから,工場の相重なる新築,さらにベテルの家の数回にわたる新設さえ行なわれました。市の4区画をわたしたちの印刷工場と発送施設が占め,さらに3区画の主要部分がベテルの家と事務所で占められているのです。まったく思いもよらないことでした。それらの一つ一つはわたしたちにとって驚くべきことばかりでした。
ご自分の民に対するエホバの祝福や恵みの証拠となるそうした事柄を,まのあたりに目撃し,またそれに実際にあずかれるというのは,なんという喜びだったでしょう。過去何年かに,次のような増加を経験したのもわたしの特権といえます。大型輪転機は2台から27台にふえ,「ものみの塔」誌の各号の発行部数は,3万5,000から今や総計600万部という驚くべき数になりました。また,ニューヨーク市の会衆の数が,一つから191にふえたことからも,なんと信仰を強められたことでしょう。エホバを待ち望んで,わざに励むのは,報いのあることでした。
エホバに導きを求める
1930年代は騒然とした時期になりました。証人が逮捕されはじめたのです。わたしはロングアイランドで戸別訪問に携わり,聖書文書を配布していたとき逮捕されました。また1936年にはペンシルバニア州アレンタウンで逮捕され,数時間拘留されました。第二次世界大戦が近づくにつれて,事態はますます危険になってきました。1939年,マジソン・スクエア・ガーデンで行なわれたわたしたちの平和な集会を,カトリック行動派の一グループが解散させようとしました。そのときわたしはたまたま会場整理の責任者でした。数分間,事態はたいへん険悪に見えました。しかし,集会はしばらく中断されただけですみその事件が,新聞に報道されたため,大々的な証言がなされる結果になりました。
そうした困難な時期にあっても,御国の証言のわざは進行し,その足並みが乱されることは一度もありませんでした。わたしたちはエホバにより頼み,引き続き前進しました。戦争のためいろいろな物資が不足しましたが,その問題もなんとか回避したり,克服したりすることができました。わたしはニッケル板の在庫を確保する責任を持っていました。ニッケルは印刷機の回転に長時間耐えられるように,印刷用鉛版の表面を硬化するのに使用されます。戦争による興奮状態が高まってきたとき,わたしたちは直ちにニッケルの延棒1トンを注文しました。その後ある日,わたしたちに好意を持っているひとりの実業家から電話があり,アメリカは今にも戦争に突入しそうだから,必要な金属品は即刻入手するようにと忠告してくれました。そこでもう1トンのニッケルが注文され,その注文品の荷がわたしたちの工場でおろされている際中に,アメリカ政府はニッケルの引き渡しをすべて停止し,ニッケルを最重要品目リストに載せました。しかし,わたしたちの手元には十分のニッケルがあったので,終戦まで不自由しませんでした。
失望することはない
自分の務めを果たしつつエホバに忍耐強く仕える者をエホバはけっして失望させません。たとえば,ベテルで奉仕すると,旅行したり,どこかに行ったりすることはほとんどできなくなるのではないか,と考えた人もいます。その考えはまったくまちがっています。旅行の機会は多くなります。
ベテルで奉仕をしている間,わたしはハワイとアラスカを除くアメリカ合衆国のすべての州,それにカナダの全州を訪問し,休暇もとりましたし,大会にも出席しました。さらに,ヨーロッパにも3度旅行することができました。そうした旅行や多くの国々の仲間の証人に会うことは励みとなり,ここベテルで成し遂げられねばならない仕事に携わっているということが,いよいよ楽しみになりました。その仕事とは,増大する熱心な証人の大軍に,彼らが宣教に必要とする文書を供給することにほかなりません。
すべての国の多くの民と同様,単にエホバがなにかをなさるのを待ち望むだけが重要なのではありません。それ以上のことが必要です。神のことばである聖書は,「耐忍びて善をおこない光栄と尊貴と朽ちざる事とを求むる者」に,すばらしい報いを約束しています。(ロマ 2:7)その待ち望んでいる期間を,エホバに対するわたしたちの愛を実証するわざで満たすのは,なんと満足すべきことではありませんか。
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『すべての国の人々を弟子とする』ものみの塔 1970 | 4月15日
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『すべての国の人々を弟子とする』
エホバの証人の1970年度年鑑より
フィリピン共和国
人口: 37,000,000人
伝道者最高数: 49,257人
比率: 751人に1人
「われエホバその時いたらば速かにこの事をなさん」。(イザヤ 60:22)このことばのとおり,昨奉仕年度中,フィリピンでの人々を集めるわざの速度は確かに一段と増しました。1昨年と比べて,伝道者は毎月平均5,746人増加し,また,バプテスマを受けた人は6,381人で,これはフィリピンでこれまでの最高数です。
このような発展をもたらした要因の一つは,昨奉仕年度中に開かれた九つの地域大会で発表された「真理」の本を用いる6か月間の聖書研究の取り決めが始まったことです。ひとりの特別開拓者は,この本が発表されたその月に四つの新しい聖書研究を始めたことを報告しました。また6か月間の聖書研究の提案を直ちに実行して,6か月と少しの間に3人の人を献身の段階にまで援助した開拓者もいます。
ある女教師は「真理」の本を読んで深い感動を覚え,週に2回研究したいと申し出ました。そして,3か月間で「真理」の本の研究を終え,6か月たたない中にバプテスマを受けました。その後,聖書研究を望む生徒に学校で聖書を教える許可を校長から得て,昨奉仕年度の終わりには,受け持ちの生徒のうちの9人と聖書研究を行なっていました。
ある弁護士は以前聖書研究に応じようとしませんでしたが,6か月間の聖書研究が勧められたとき今度は喜んで受け入れ,最初の研究は3時間も続きました。わずか二,三週間後に,大いなるバビロンとのかかわりをいっさい断ち切った彼は,今では家族そろって定期的に集会に出席しています。ある看護婦は,「真理」の本を学びはじめてから4か月後に,自分の好きな星占術の本や崇拝のための像や祈祷書を処分しました。
キリスト教世界の諸教会は聖書を教えていないため,多くの人々は真理に心を向けています。聖書に関するいろいろな疑問の答えを求めて次々と教会を尋ねたひとりの若者は,エホバの証人であるおばからの答えを得て,ようやく満足することができました。しかし,熱心なカトリック教徒であるその妻は,カトリック教会が間違っているとは信じられませんでした。それで,夫のまちがいを証明するため,教区司祭にカトリック訳聖書を注文しました。そして,夫を伴って聖書を受け取るため司祭のもとに行ったところ,司祭は次のように言いました。「聖書は良い本です。聖書の本の最初の二つを読み終えたところですが,聖書はほんとうにすばらしい本ですね。わたしたちは今大会を開いているのですが,毎日,聖書のある問題について報告するように割り当てられています。聖書を実際に読んだのはこれが初めてです。神学校ではこのようなことは決してしませんでした」。これを聞いた彼女は話をさえぎって,「神父さま,今まで一度も読んだことがないのですか」と尋ねました。司祭は,親指と人さし指を合わせてわずかにひらき,少ないことを強調しながら,「ええ,読んだといっても,ほんのわずかだけですよ」と答え,さらにこう続けました。「わたしたちは,儀式や教理,そして祈りや聖書の注釈書をおもに取り扱いました。わたしたちがしてきたのはそれだけです。どの司祭にでも聞いてごらんなさい。ほんとうに正直な司祭なら,同じように答えるでしょう。カトリック教会が聖書の研究を奨励したのは,つい最近のことですよ」。司祭から思いがけない話を聞いた妻は考え方を完全に変え,熱心に聖書を研究しました。そして,昨奉仕年度の初めに夫婦そろってバプテスマを受けました。
心要の大きな場所に移って奉仕してはどうですか,との呼びかけに応じた開拓者たちは,数多くのすぐれた経験をしています。ダバオの一開拓者は,
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