-
世界展望目ざめよ! 1980 | 5月22日
-
-
最近,アフリカのサイについて,「これはアフリカに生息するあらゆる哺乳動物の中で最も多く,どこにでもいる動物であった」と語った。ところが,サイの角にまつわる迷信とその結果としての商業的価値ゆえに,密猟者が暗躍して,1万4,000頭いたケニヤの黒サイの数を過去10年間に1,500頭そこそこにしてしまった。アフリカ全体でも,生き残っているのはわずか1万5,000頭ほどであろうと考えられている。
難しい決定を強いられた法廷
◆ 最近,米国,フロリダ州の法廷は,いずれにしても満足のゆかない選択をしなければならない事態に直面した。三人の少女を,結婚していない女性と暮らす父親のもとで育てるべきか,女性の愛人と暮らしている両性愛者の母親のもとで育てるべきかという選択に迫られたのである。R・A・グリーン,Jr.判事は,子供たちの保護監督権を異性愛者のカップルに与える判決を下した。同判事は父母双方を責め,母親が「社会で非とされている関係」を送っていることを告げた後,「聖書に教えられている道徳はどうなってしまったのかと首をかしげずにはいられない」と語った。
農夫たちのぞっとするような発見物
◆ 第二次世界大戦が終了して35年がたとうとしているが,戦死した米兵の遺体がヨーロッパで毎年のように発見されている。これを発見するのは普通,農夫たちである。昨年の5月,泥炭地で作業をしていたドイツ人の一農夫が,パラシュートにからまった航空服を見つけ,次いで米国の空軍兵の遺体を発見した。この米兵はナチス・ドイツに爆撃を仕掛けて撃ち落とされたものである。合計すると,1978年には四人,1977年には二人,1976年には四人,1975年には一人,戦死した米兵の遺体が発見されている。1974年には,フランスの一農夫が,第一次世界大戦の際掘られた戦闘ざんごうで七人の米兵の遺体を偶然見つけた。
調子外れの音
◆ フィンランドの新聞ウーシ・スオミによると,コトカで若い音楽家たちがリハーサルの際に出す音が屠殺直前の動物の肉を劣化させている。殺される定めにある動物がその種の音楽を聞くと緊張することを示す研究結果が明らかにされるに及んで,若者たちは屠殺場の使用を禁じられた。肉は強いアルカリ性を帯びるようになり,すぐに劣化してしまうのである。屠殺場の経営者は,『動物たちは平穏な最後の夜を必要としている』と語ったとのことである。
-
-
聖書理解の助け ― 聖書(その二)目ざめよ! 1980 | 5月22日
-
-
聖書理解の助け ― 聖書(その二)
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
聖書(その二)。
内容
書物の中の書物である聖書は,その内容として,過去を明らかにし,現在の事柄を説明し,将来を予告しています。それは,始めから終わりを知っておられる方だけが著わし得る事柄です。(イザヤ 46:10)聖書はまず最初に,過去のいつかに行なわれた天と地の創造から説き起こして,人間の住みかとして地が整えられた4万2,000年余の期間にわたる事柄を記しています。それから,人間の起源に関する真の科学的説明 ― 生命がどのようにして,ただ生命の授与者からのみもたらされるか ― 今や著者としての役割を持たれる創造者のみが説明し得る事実 ― が示されています。(創世 1:26-28; 2:7)次いで,人間が死ぬようになったいきさつの記述があって,聖書全巻を貫いている全体的な主題が紹介されています。エホバのみ名を聖なるものにし,立証するという,その主題は,『女の胤』に関する最初の預言の中に含まれています。(創世 3:15,新)「胤」に関するこの約束が再び言及されたのはそれから二千年余の後のことですが,神はアブラハムにこう告げられました。「あなたの胤によって,地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう」。(創世 22:18,新)それから,八百年余の後,アブラハムの子孫ダビデ王に改めて保証の言葉が与えられました。その後も,時の経過と共に,エホバの預言者がこの希望の火を赤々と燃え立たせました。(サムエル後 7:12,16。イザヤ 9:6,7)ダビデの後,さらに千年を経て,つまりエデンで最初の預言が行なわれてから四千年余の後,約束された胤,「その父ダビデの座」に就く正当な相続人,イエス・キリストが現われました。(ルカ 1:31-33。ガラテア 3:16)この「至高者の子」は,「へび」の地的な胤によって砕かれて死に,アダムの子孫の失われた命の権利を買いもどすための贖いの価を備え,こうして人間が永遠の命を得ることのできる唯一の手だてを備えました。それから,イエスは天によみがえらされ,『初めからのへびで,悪魔またサタンと呼ばれた』者を地に投げ落とす定めの時を待つことになりました。サタンはついにはそこで永久に滅ぼされるのです。こうして,創世記で発表され,その後ずっと聖書の残りの箇所で展開され,詳述されてきたこの堂々たる主題は,聖書巻末に至って,エホバの王国によって成し遂げられるその偉大な目的が明らかにされると共に,最高潮を迎えます。―啓示 11:15; 12:1-12,17; 19:11-16; 20:1-3,7-10; 21:1-5; 22:3-5。
約束された胤であるキリストの治めるこの王国は,神のみ名,エホバを聖なるものにし,立証することを成し遂げる手だてです。聖書はこの主題を追って,他のどんな本も比べものにならない程,エホバの名を大いなるものにしています。この名はヘブライ語のマソラ本文に6,800回余出ていますが,そのほかにも省略形の「ヤハ」や,他の語と結合して,「エホバは救い」という意味の「イエス」というような名で何度も出てきます。創造者の名や,この名にかかわるエデンでの反逆が引き起こした大問題や,全創造物の前でそのみ名を聖なるものにし,立証するという神の目的が聖書の中で明らかにされなかったなら,わたしたちはこのような事を知るよしもありませんでした。
六十六冊の書で成るこの書物の中で,王国という主題とエホバのみ名は,多くの論題に関する情報と密接なかかわりを持っています。この書物は農業,建築,天文学,化学,商業,工学,民族学,政治,衛生,音楽,詩,言語学,戦術などの分野の知識に言及していますが,それはその主題の展開の上では枝葉的なことで,この書物は論文のようなものではありません。それでも,これは考古学者や古文書学者にとって情報の得られる真の宝庫となっています。一般的に言って,この膨大な情報の分野は次の四つの論題に分けられます。(1)歴史と預言。(2)基礎的な真理と教理。(3)基本的な原則。(4)クリスチャンの奉仕。
聖書は歴史的に正確ですし,大変遠い過去にまでさかのぼる書物ですから,他のどんな書物よりもはるかに優れています。しかし,聖書は永遠の王以外に正確に啓示できない将来の事柄を予告していますから,預言の分野ではさらに大きな価値があります。幾世紀にもわたる世界強国の進展は,現代の諸制度のぼっ興や終えんに至るまで,聖書の長期間の預言の中で予告されていました。
神の真理の言葉は,非常に実際的な仕方で,無知や迷信,人間の哲学や無意味な伝承から人を解放します。(ヨハネ 8:32)「神のことばは生きていて,力を及ぼし」ます。(ヘブライ 4:12)聖書がなければ,わたしたちはエホバを知らなかったでしょうし,キリストの贖いの犠牲のもたらすすばらしい益も知らず,神の義の王国で,あるいはそのもとで永遠の命を得るために満たさなければならない必要条件も理解できなかったでしょう。
聖書はほかの点でもまた大変実際的な書物です。それは,現在の生活の仕方,奉仕の仕方および,神に反対し,快楽を追求するこの事物の体制の終わりを生き残る方法について,クリスチャンに健全な助言を与えてくれるからです。クリスチャンは世の人のような考え方をやめて思いを作り直し,『この事物の体制に合わせてはならない』と告げられていますが,「キリスト・イエスにあった」のと同様の謙そんな精神的態度を持ち,古い人格を脱ぎ捨て,新しい人格を着けることによって,前述の勧めに従えます。(ローマ 12:2。フィリピ 2:5-8。エフェソス 4:23,24。コロサイ 3:5-10)それは神の霊の実,「愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制」を表わすことを意味しています。これらの論題については聖書全体で多くの事が書かれています。―ガラテア 5:22,23。コロサイ 3:12-14。
信憑性
聖書の真実性は各方面から論難されてきましたが,そのような努力で少しでも聖書の立場を危うくしたり,弱めたりしたものは一つもありません。かつてアイザック・ニュートン卿は,「聖書にはどんな世俗史よりも多くの,信憑性を示す確かな証拠が見られる」と言いました。真実のその正直な記述は,どの点を吟味しても,確かなことが分かります。その歴史は正確で,信頼できます。例えば,バビロンがメデア人とペルシャ人の前に倒れたことに関する記述は首尾よく反ばくできるものではありません。(エレミヤ 51:11,12,28。ダニエル 5:28)あるいは,バビロニア人ネブカデネザル(エレミヤ 27:20。ダニエル 1:1),エジプト人のシシャク王(列王上 14:25。歴代下 12:2),アッシリア人テグラテ・ピレセルやセナケリブ(列王下 15:29; 16:7; 18:13),あるいはローマ皇帝,アウグスツス,ティベリウス,クラウディウス(ルカ 2:1; 3:1。使徒 18:2)のような人物,あるいはピラト,フェリクス,フェスト(使徒 4:27; 23:26; 24:27)のようなローマ人や,エフェソスのアルテミスの大神殿やアテネのアレオパゴス(使徒 19:35; 17:19-34)などについて述べる事柄 ― 聖書がこのような人物や場所や出来事その他について述べることは,詳細に至るまで歴史的に正確です。
聖書が人間の人種や言語について述べることもやはり真実です。背丈,文化,皮膚の色,言葉などにかかわりなく,すべての民族は被造物の単一の種です。人間家族がヤペテ,ハムおよびセムの三つの種族に分かれましたが,すべてノアを経てアダムから来たことは,首尾よく論ばくできるものではありません。(創世 9:18,19。使徒 17:26)ヘンリー・ローリンソン卿は言いました。「たとえ,我々が単なる言語学上の道筋の交差点に導かれて,聖書の記録を一切参照しなくても,我々は依然,シナルの平野を様々の言語上の系統がそこから方々へ分かれ出た中心地と定めるようになるであろう」。―「聖書の記録の真実性に関する歴史的証拠」287ページ。
聖書の教えや模範や教理も,現代人にとって大変実際的です。そこに含まれている義の原則や高い道徳規準のゆえに,聖書は他のすべての本に勝って孤高な存在となっています。聖書は重要な問題に答えるのみならず,数多くの実際的な提案をも述べており,もし人々がこれに従うなら,それは地上の住民の身体的,精神的健康を高めるのに大いに役立つでしょう。聖書は仕事の上での物事の正しい扱い方の定規ともなる正邪の原則(レビ 19:35,36。箴 20:10; 22:22,23。マタイ 7:12),勤勉さ(エフェソス 4:28。コロサイ 3:23。テサロニケ第一 4:11,12。テサロニケ第二 3:10-12),清い道徳行為(出エジプト 20:14-17。レビ 20:10-16。ガラテア 5:19-23),築き上げる交わり(箴 5:3-11; 13:20。コリント第一 15:33。ヘブライ 10:24,25)正しい家族関係 ― 妻や子に対する夫の務め,夫や子供に対する妻の務め,親に対する子供の務め(申命 6:4-9。箴 13:24。エフェソス 5:21-33; 6:1-4。コロサイ 3:18-21)を定めています。聖書を愛する人はその益として思いの平安,満足感および安全を享受します。有名な教育者,ウィリアム・ライアン・フェルプスがかつて,「聖書抜きの大学の課程よりも,大学の課程抜きの聖書の知識の方が貴重だと思う」と述べ
-