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過去から学びなさいものみの塔 1958 | 11月1日
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過去から学びなさい
過ぎ去った10年を再び生活することができるとすると,あなたは違つた生活をいたしますか。特定な決定をしなかつたなら,または特定な事をしたならば,どんなことになつたであろうかと考えたことがありますか。
時を取り戻して違つた風に生活してみたいとどんなに願つたところで,過去を変えることはできません。丁度,口から出て行く言葉のようです。言葉がひとたび唇から出ると,言葉をつかまえることもできず,またひき戻すこともできません。
あなたの生命の道は,あなたの行つたことでしるしづけられています。乾き切らないコンクリートに足跡を残すと,それが消えずに残るのと同じ具合です。振返つて過去の行つたことを見ることができます,しかし精々見るだけです。それを消し去ることもできず,また変えることもできません。その生活が愚かなもので利己的なものであつたなら,それは破れた友情とか不幸に終つた結婚というものがついていることでしよう。不正直,欺き,そして恐らくは暴力行為もついていることでしよう。もし賢明な行いをしたならば他の者に思いやりを示したならば,そして愛を示したならばどういうことになつていたかと考えてごらんなさい。
しかし,将来は過去の繰り返しというものではありません。自分のあやまちを繰り返すとか,同じ道を歩みつづける必要はありません。先ず正しい決定が何であるか,また何かをする前に正しい事柄が何であるかを知りなさい。賢明な助言を持つているとき,そして有益な例がたくさんある場合に,これは不可能ではありません。
聖書は必要な助言を与えています。その知恵は,あなたの足の灯火の働きをします。『なんじの御言葉はわが足の灯火,わが路の光なり。』(詩 119:105)聖書の原則と一致する決定をつくり,聖書の教えと一致する事柄をしているかぎり悪に走るということはないでしよう。それは過去に対する窓です。聖書から,或る人は自分のした行いによつて苦境に陥り,他の人は祝福を得ているということが悟れます。それらの人々の生活を見ることにより,あなた自身の生活を計画することができます。そのようにして過去から学ぶことができます。
過去の或る人が,心痛とか問題,または災をもたらすような間ちがいをしたなら,あなたも同じ間ちがいをして同じ不幸を経験するというのは愚かなことでありましよう。イスラエルの国民は,過去の間ちがいから学ばなかつたという典型的な例です。約束の地に入つて間もなく,イスラエル人はヱホバ神からそむき物言えぬ偶像崇拝をいたしました。この間ちがいの結果,彼らは敵の奴隷となり圧迫を受けました。年月の経つにつれて後の世代の者も同じ間ちがいを繰り返し,同じ実を刈りとりました。
これらの人々に生じたことは,私たちの為の手本として書かれたのであり,私たちが愚かな行をしないようにする為であると聖書は指摘しています,『これらの出来事は,わたし達に対する警告であつて,彼らが悪をむさぼつたように,私たちも悪をむさぼることのないためなのである。だから,彼らの中のある者たちのように偶像礼拝者になつてはならない。また,ある者たちがしたように,私たちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が,一日に二万三千人もあつた。また,ある者たちがしたように,わたしたちはヱホバを試みてはならない。ヱホバを試みた者は,へびに殺された。さてこれらのことは前例として彼らに起つたのであり,この組織制度の全き終りに臨んでいるわたしたちへの警告のために書かれたのである。』― コリント前 10:6-9,11,新世。
正しい導きが必要
過ぎ去つた生涯を振り返つて見て悪い決定をなしたところを見るのは容易なことです。しかし,将来を見透して正しい決定をつくることは難しいものです。善いみちびき,賢明な助言,そして正しい指示が必要です。聖書は過去の多くの例を記載しているだけでなく,その3つのものをも与えているのです。
エルサレムの民が神の予言者の語つた賢明な助言に聞き従つたならば,エルサレムはキリスト前607年と西暦70年に滅ぼされることはなかつたでしよう。聖書は今日の私たちの益の為にその助言を書き留めています。ノアの時代の人々は,もしノアの警告に注意を払い,そして先祖たちの為したと同じ悪い決定をしなかつたならば,大洪水で滅びることはなかつたでしよう。この終りの時の今日に生活している人々の為に,聖書は類似の警告を記載しています。
賢明な人は,神の書かれた御言葉を無視せず,むしろその言葉に頼つて聖書からの良いみちびきを求めます。その人は,過去についての聖書の記録を注意深く考慮するでしよう。或る人は神の祝福と永遠の生命の約束を受けたが,他の者は神の不興をこうむつて滅びに宣告せられた理由を学ぶでしよう。その人は,他の人が愚かにもなした同じまちがいを行つて自分も神の不興をこうむるなどということをいたしません。聖書に記されている良い助言と指示に反する事柄を為せば,悪い結果が生ずると先を見こします。それで,過去から学ぶことがらは,その人の将来をみちびくことができます。
ノアが大洪水について警告したように,聖書はそれよりも一層大きな災害であるハルマゲドンの戦いを警告しています。以前から予告されているこの神の戦争は,現在の悪い組織制度を終らすでしよう。神の御言葉を自分の生涯のみちびきとする賢い人は,この災害を見こして,その災害を防ぐため神の保護を求めます。『賢き者は災を見てみずから避け,拙き者はすすみて罰を受く。』― シンゲン 22:3。
経験のない者は,過去から学ばず,助言に耳を傾けません。昔の愚かな人々のように,彼らは失敗します。聖書のみちびきに従えるのですから,そのような愚か者にならずに済むでしよう。過去について聖書から学ぶ事柄は,あなたの将来をみちびくことができます。
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説教の処方せんものみの塔 1958 | 11月1日
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説教の処方せん
牧師で著述家の有名なワルター・ラッセル・ボワイエは述べました,『キリスト教の教会は,人気を集める説教はこれ以上必要ではない。しかしもう少し人気のない説教が必要だ。』
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聖書時代の飲物ものみの塔 1958 | 11月1日
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聖書時代の飲物
イー・ダヴリュ・ヒートンは,『旧約時代の日常生活』という本を書き,その中でイスラエル人の用いた飲料について語つています,『水は少ししかなく,それに美味なものでなかつたため,乳が多く飲まれた。山羊の乳とか羊の乳であつた。ヘブル語には新鮮な乳という言葉があるにはあるが,パレスチナの気候にあつては,酸い乳という言葉ほど多く使われなかつた。新鮮な乳も山羊の皮の袋に入れると,すぐに凝固して酸いものになつてしまう。しかし,渇をいやすには猶更に良いものと考えられていた。
葡萄酒を飲むことは,ひろく行われていた。水といつしよに葡萄酒を飲むとか,又は山々からの雪でもつて葡萄酒を冷やして飲むというのは後になつて出来た習慣である。そして,雪で冷やすという飲み方は,日常生活の一部ではなかつた。我々の時代の普通のイスラエル人は,自然の状態のままの葡萄酒を飲むか,又は(アッシリヤ人のように)香料とか薬味をまぜてその「酒質」を増した。旧約の中に度を越して飲むことを禁ずる言葉が多くあるのも当然である。イスラエル人の男はまたざくろ酒をも飲んだ……しかし,ビールは多く飲まなかつたようだ。この点では近くに住んでいたペリシテ人と異なる。ペリシテ人の使用していた濾過用の注口のついているビール吞器は幾百となく発見されている。』
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