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神は人々が生きることを望まれているものみの塔 1976 | 5月15日
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あずかる取り決めのほとんど全部を支持できるでしょう。しかし長老たちの中には事情があってそうすることのできない人もいます。聖書の音信の重要さを認識しているゆえに,長老は仲間の信者と共に聖書の真理を他の人に伝えるため,都合できる時間を最大限に活用したいと望むに違いありません。(エフェソス 4:11,12)長老は自分たちが率先しないならば,会衆をひどく失望させるおそれのあることを知っています。
そのうえ,会衆のメンバーは,聖書の価値そしてイエス・キリストの忠節な弟子として神に仕える重要さを悟るように他の人々を助ける際,どのようにその事を行なえばよいかを教えられる必要があります。牧者また教える者としての自分たちの責任を真剣に考える時,長老は言葉と行ないにより喜んで助けを与えるでしょう。(ヘブライ 13:7)彼らはまた資格ある他の人を招いて援助に当たらせます。
エホバ神の献身したしもべすべては,聖書のことばを伝道し教えることにあずかる重要さを銘記しなければなりません。次の事を自問してごらんなさい。イエス・キリストが同胞の国人の多くの示した冷淡さのため,あるいは何か他の理由であきらめてしまったとすれば,今日わたしはどうなっているだろうか。わたしたちのうち,だれひとり終わりのない命を得る機会を与えられなかったことでしょう。イエス・キリストがご自分の使命にずっと忠実であられたことは,わたしたちにとってなんとうれしいことでしょう!―ヨハネ 17:6-8。ヘブライ 3:6。
会う人ごとにその人もわたしたちと共に神の新しい秩序にいてほしいとその人のために願い,そのことについて考えるのはなんと良いではありませんか。人々がどんな態度をとってもそれにはかかわりなく,わたしたちは次の事実を見失ってはなりません。すなわちキリストはその人々のために死なれたこと,エホバ神はその人々が「真理の正確な知識に至」って生きることを望まれているという事実です。(テモテ第一 2:3,4)世界情勢あるいは人々自身の生活に起こる変化について人は目ざめ,起きている事柄のゆえに「歎き哀しむ」ようになるかもしれません。(エゼキエル 9:4)人は何か良いものを切望するようになるかもしれないのです。わたしたちはさっそくその人を助けることができますか。エホバ神は人々が生きるのを望まれているという事を本当に認識しているならば,わたしたちは必ずやその人々を助けにおもむくでしょう。
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聖書は霊的な必要に目ざめさせるものみの塔 1976 | 5月15日
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聖書は霊的な必要に目ざめさせる
● 時として人は聖書の数節を読んだだけで,霊的な必要に目ざめることがあります。
例えばフィリピンのある婦人は聖書を読んだことがありませんでした。彼女が子供の時に父親の求めておいた聖書が,彼女の結婚の時に与えられました。その後,夫の宝石加工場で働いていた時,包装紙が無くなったので彼女は聖書のページを包装紙の代用にしはじめました。その事を続けているうちに,ある日,彼女は「エホバ」のお名前が全部,大文字で印刷されているページを見て驚きました。彼女はその先を読み,エホバを知らないために悪人が滅びると述べられていることに感銘を受けました。
それ以後,婦人は聖書の残りの部分を保存して定期的に読み始めたのです。ある時,宝石を戸別に売り歩いていた彼女は,エホバの証人の一人と聖書を学んでいるグループに出会いました。彼女はその証人を自分の家に招いて聖書を学びました。いま彼女は四人の子供と共にそろってエホバに奉仕しています。確かに聖書は霊的な必要に目ざめさせ,良い結果を生みました。
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