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  • 人間はどこに導きを求めるべきか
    目ざめよ! 1971 | 4月8日
    • を見てその知恵に注意を払うよう告げている。他方,動物は本能に動かされるもので,理解も理性も持っていないという事実を聖書は強調している。たとえば,詩篇作者は次のような助言を与えている。「汝等〔理解〕なき馬のごとく驢馬のごとくなるなかれ かれらはくつわたづなのごとき具をもてひきとめずば近づきたることなし」。そのとおりである。馬やラバに,ああしなければならない,こうしなければならないという理由を説明しても意味がない。別の方法を用いなければならないのである。―詩 32:9〔新〕。箴言 6:6-8。ペテロ後 2:12。

      人間の問題には動物よりも高等で複雑な機能が関係している以上,人間の行動に関する諸問題を解決するのに動物を研究したところで何が学べるであろうか。地球の生物の中では,人間だけが理性の力と想像力とを持っている。人間にのみ,概念的に物事を考える力,抽象的な思考力が備わっている。特異なことに,人間には道徳観念があり,それによって善悪を意識する。しかも,より高い力を持つ何ものかを崇拝するという本能は,人間以外のものにはない。人類学者のL・アイズリーが,かつてきわめて的確に評したように,進化者論は人間と獣類とのからだの点での類似点を捜し出すことに熱中するあまり,人間と動物の脳の間に存在している膨大な,しかもより重要な相違を無視してしまっている。

      また,わたしたちは,単なる人間にたよることもできない。不完全な人間の知恵は矛盾している。なんと多くの,いろいろな哲学者がいることであろう。使徒時代のギリシアの賢人たちは,根本的に対立する二つの学派,つまり,ストア学派かエピクロス派におおむね属していた。しかしその両派とも,自分たちが賢者であると主張したのである。哲学者たちは今日に至るまで互いに,両極端の異論をかわし続けてきた。

      政治上の理念についても同じことが言える。だれに導きを求めたらよいのか。合衆国には共和党,民主党,社会党,共産党,保守党,それに種々の戦闘派グループがある。他の人がそれに同意するのか否かは別として,人民にとってどの政党あるいはどのグループが最善であると,いったいだれが言いうるのか。さらに,程度においても数においても,それよりはるかに大がかりな宗教上の相違についてはどうであろう。

      なぜこれほどまでに混乱が見られるのか。聖書は答えを与えている。「知恵ある者は辱しめられ……彼等エホバの言を棄たり彼ら何の知恵あらん」。確かに,「歩行む人は自らその歩履を定むること能はざるなり」,と書かれているとおりである。人間は最初の違背のゆえに不完全で,弱く,利己的である。事実,その性向は「幼少時よりして悪(い)」ものである。この理由で人間の創造者であるエホバ神は,ご自分のみことばを人間の歩む道の光またともしびとして与え,すべてのよきわざのために人間に完全な備えをされた。―エレミヤ 8:9; 10:23。創世 8:21。詩 119:105,新。テモテ後 3:16,17。

      これは,賢明で愛に恵まれる創造者から,わたしたちが当然期待しうることであり,創造者の実存はわたしたちの周囲を取り巻く創造物から明らかである。創造者はわたしたちの物質上の必要を満たすために,豊かな備えをしてはおられないであろうか。そうであれば,創造者が必要な導きを与えてくださると期待できるのではないだろうか。その御ことばを広い思いと正直な心臓とをもって研究し,創造者に導きを求める人々は,その報いとして,豊かに啓発されるのであろう。世界じゅうの140万人以上の人々は,これが真実であることを見いだしている。その結果,彼らは互いどうし平和に生活し,満足感と平安な思いを味わっている。神のことばにしるされている規則や原則の価値を十分に認識しているのである。―ロマ 1:20。ピリピ 4:19。

      わたしたちの全心臓,思い,魂そして力をもってエホバ神を愛し,また,隣人を自分自身のように愛することをわたしたちに教えてくれるのは聖書にほかならない。そこには,『わたしがあなたがたを愛したと同じように,互いに愛し合いなさい』との,イエスの命令もしるされている。地上のすべての人々がそうした命令に従い,その結果,『水の海をおほへるごとくエホバをしるの知識が地にみつる』時,この世界はなんと大きく変化することであろう。―イザヤ 11:9。マルコ 12:29-31。ヨハネ 13:34,35,新。

  • 詩篇を用いて祈ることができますか
    目ざめよ! 1971 | 4月8日
    • 詩篇を用いて祈ることができますか

      神はどんな祈りを聞かれますか

      月面に立った宇宙飛行士の声が,何十万キロものかなたから伝えられ,それがきわめて短時間のうちに,地球上の各地で聞かれたとき,多くの人は感嘆の声を放ちました。この偉業は,電波の働きによって可能にされました。

      宇宙旅行や放送におけるこの劇的な進歩は,偏見をもたぬ人々に,つぎのことを暗示します。それは,月および広大無辺の宇宙空間に散在するすべての星を創造したかたと,人間が交信するのは決して不可能ではないということです。そうです,その創造者に向けられる祈りは,それよりもさらに信じやすいこと,また望ましいことです。

      しかし,重要な問題は,どのように祈れば最善の結果が得られるか,ということです。人間は常に,力のある聞き手,自分が問題を克服するのを助けてくれることのできる聞き手の耳に,自分のさまざまなわずらいごとを打ち明ける必要を感じてきました。ですからどのような宗教を奉じているにせよ,人は,仏教徒,ヒンズー教徒,アラーの崇拝者,キリスト教世界の諸教会の成員のいずれを問わず,みな,祈りをします。ある人々は,自分の崇拝する神に直接話しかけます。また,他の人々は,「聖人」とか像,聖遺物などの媒介物を通して祈ります。

      しかし聖書ほど,祈りについて,教訓的で理性にかなったことがらを多く述べている宗教書はありません。その始めから終わりまで,聖書は,昔の時代の人々,つまり唯一の真の神に信仰をもっていた人々が,どのように祈ったかを伝えています。祈りの中で彼らが言ったこと,祈りの偉大な聞き手に近づいたときの彼らの態度について述べています。(詩 65:2)また,彼らが何にかんして,どんな理由で祈ったかも告げています。

      迷信的な祈り

      キリスト教世界には,たとえばカリブ諸島のいくつかの島の場合のように,おそらく無意識とは思われますが,迷信的な祈りにふける人がたくさんいます。ある人々は,聖書にしるされているというだけの理由で,特定の祈りが神のみまえに大きな力をもつ,と考えているようです。そういう祈りは,彼らにとって一種の呪文のような性格を帯びます。

      この点,聖書の中でとくに注意をひく部分は詩篇です。詩篇には,ダビデ王や,神に忠実であった他の人々が,さまざまな状況のもとでささげた,多くの祈りが収められています。しかし,見のがされがちなのは,それらが,単なる個人的な祈りであるにとどまらず,はるかに重要な意味をもつということです。事実,その多くは明らかに預言的な意味

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