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    ものみの塔 1973 | 7月15日
    • 「真理のことばを正しく扱う」

      「自分自身を,是認された者,また真理のことばを正しく扱う,なんら恥ずべきところのない働き人として神にささげるため,力をつくして励みなさい」― テモテ後 2:15,新。

      1 神のみことばは何にたとえられていますか。それで,みことばを用いるさい,わたしたちは,どんな態度を持つべきですか。

      神のみことばはわたしたちの生活の中で生きており,強力な力を及ぼします。それは剣のように,魂と霊を分けることができます。(ヘブル 4:12,新)それはわたしたちの行為の理由にふれています。それは,生きた魂としての外見上の自分と,心や態度そして霊の面でのほんとうの自分とを区別します。神のみことばは剣にたとえられているのですから,わたしたちはそれをぜひとも巧みに用いられるようでありたいと思います。そのような鋭利な道具を,まちがった仕方ではなくて,パウロが助言したように,「正しく」用いるよう注意したいものです。神のみことばを読んだり研究したりする場合には,その真意をつかみ,述べられている事がらをはっきりと理解するような仕方で読んだり研究したりしたいものです。

      2 聖書をどうみなすべきではありませんか。それで,聖書の一部を読むさい,どんな質問を考慮するのは適切ですか。

      2 多くの場合,読んでいる節の前後の文脈あるいは資料を考慮すると,その節を理解し,正しく適用するよう助けられます。聖書は,一貫性のない互いに無関係の句を,それも正しいと思われる点を証明するのに,どんな状況のもとでも用いるのに適している句を手当たりしだい集めて編集した書物ではないということを思い起こしたいものです。むしろ,神のみことばを読む場合には,総合的な理解を得なければなりません。話し手はだれで,だれに,またどんな事がらについて話しているのだろうか。その聖句は特定の論題だけに関係しているのだろうかなどと自問してみなければなりません。「真理のことばを正しく扱う」ためには,これは重要な事がらです。

      幾つかの実例

      3 テモテ後書 2章15節を正しく理解するのに,どんな背景的資料が助けとなりますか。

      3 このことを示す例として,テモテにあてて書かれたテモテ後書 2章15節(新)のパウロのことばを考慮してみましょう。その箇所で彼はこう述べています。「自分自身を,是認された者,また真理のことばを正しく扱う,なんら恥ずべきところのない働き人として神にささげるため,力をつくして励みなさい」。このことばは,神の真理の基礎の上にしっかりと立って神の意志を行なっている人に宛てて書きしるされました。わたしたちはこのことを知っています。それはこの手紙の始めのほうにしるされているとおり,パウロは少し前にテモテに向かってこう述べているからです。『これなんじにある偽りなき信仰をおもい出だすによりてなり。その信仰のさきに汝の祖母ロイスおよび母ユニケに宿りしごとく,汝にも然るを確信す』。(テモテ後 1:1,2,5)テモテ後書 2章15節にしるされていることばの中でパウロは,神の会衆の一部を成すクリスチャンに指図を与える仕方をテモテに告げていたのです。確かにクリスチャンは不信者と話し合う場合,真理のことばを正しく用いるべきですが,この句の場合,パウロは不信者をキリスト教に転向させる方法についてテモテに告げていたのではありません。このことは,パウロがその教えに関してテモテに述べた次の事柄からもわかります。『我マケドニヤに行きしとき汝に勧めしごとく,汝なおエペソに留まり,ある人々に命じて異なる教えを伝うることな(からしめよ)』。このことから,クリスチャン会衆内のある者たちは異なった教理を教えており,『真理のことばを正しく扱って』はいなかったことがわかります。パウロはまた,テモテに向かって,『おおくの証人の前にて我より聴きしところをほかの者に教えうる人々に委ねよ』と助言しました。(テモテ前 1:3; 4:16。テモテ後 2:2)自らもやはり適正な仕方で他の人びとを教えうる忠実な人たちに重要な情報を委ねることに言及しているこの句もまた,テモテはクリスチャン会衆内の人たちを取り扱っていたことをさらに証明しています。テモテは自分の兄弟たちに益をもたらし,兄弟たちを導くために真理を用いることになっていたのです。

      論点を証明しようとして聖書を曲解することは避けなさい

      4 (イ)キリスト教世界の僧職者はマタイ伝 10章28節をどの程度誤用しているかを述べなさい。(ロ)人間の魂についていえば,この聖句は実際にどんな真理を述べていますか。

      4 自分たちの論点を証明しようとして聖句を故意に誤用することは,絶対に避けなければなりません。キリスト教世界の僧職者はしばしば,ほかならぬこの種の罪を犯しています。たとえば,マタイ伝 10章28節〔新〕を例に取ってみましょう。その句はこう述べています。『身を殺して〔魂〕をころし得ぬ者どもを恐るな,身と〔魂〕とをゲヘナにて滅ぼし得る者をおそれよ』。僧職者は,魂は不滅であって死滅するものではないことを証明しようとして,イエスのこのことばの最初の部分を指摘するでしょう。イエスが実際に述べたのはそのことですか。この節の真中で読むのをやめたとすれば,そのように思えるかもしれません。しかし,節の残りを読めば,イエスは身と魂とをゲヘナで滅ぼしうる者を恐れるべきであると述べて,魂の不滅性に関する教理をはっきりと暴露されたことがわかります。「真理のことばを正しく扱う」ことによって,真の意義つまり真意が前面に出されるのです。

      5 (イ)ある人びとはペテロ前書 4章6節をどのように解釈していますか。(ロ)この節の真意は何ですか。そのことを証明する別のどんな聖句を引用できますか。

      5 魂の不滅性に関する教理と密接な関係を持つ考えを一部の人びとは信じています。それは,生き延びるのは人間の霊であって,人間の霊は個々の人間と同一であるという考えです。このような見方を支持するためにペテロ前書 4章6節(新)が引用されます。その句は次のとおりです。「事実,このために良いたよりは死んだ者たちにも宣べ伝えられたのです。すなわち,彼らが,肉に関しては人間の観点から裁かれた者となっても,霊に関しては神の観点から生きた者となるためでした」。理知を持つ存在としての霊は肉体の死後も生き残るという考えを信ずる人びとは,この句の中でペテロは死者に宣べ伝えられる良いたよりに言及して,そうした考えを裏づける証拠を提供していると主張します。しかし,そうでしょうか。『神のことばを正しく扱う』ためには,神のことばそのものに語ってもらわねばなりません。その句の中でペテロは物理的な意味での死者に言及したのでしょうか。物理的な意味での死者は『何事をも知らない』のですから(伝道 9:5),ペテロが指摘している死者とは,イエスが「死にたる者にその死にたる者を葬らせよ」と述べて言及した人びと,また使徒パウロが「あなたがたは自分の罪過と罪にあって死んでいましたが,そのあなたがたを神は生かしてくださいました」と書いて言及した人びとと同様の人たちのことなのです。エホバから見て死んだ者とみなされている生きた人間はだれでも,神のことばを聞いて悔い改め,主イエスに従うことによって霊的な意味でよみがえることができます。文字どおりの死者のための希望は,復活であり,次いで良いたよりを開き,裁きを受ける機会にあずかることなのです。―マタイ 8:22。エペソ 2:1,新。

      6 (イ)イザヤ書 14章12-16節に関してはどんな説明がなされてきましたか。(ロ)聖書に基づく説明を述べなさい。(ハ)それで,イザヤ書 14章12-16節の明星とはだれのことですか。それはだれの態度を反映していますか。

      6 エホバの民もまた,宣べ伝えて教えるその活動にさいして神のみことばを正しく提示するため,聖句を適用するさいに注意する必要があります。一例として,サタン悪魔に与えられた名前の一つは明星であるとする,時々述べられる説を取り上げてみましょう。ある人はイザヤ書 14章12-16節を引くかもしれません。その12節はこう述べています。『あしたの子明星よ いかにして天より落ちしや もろもろの国をたおしし者よいかにして切られて地にたおれしや』。「明星」ということばは,「輝く者」という意味のヘブル語ヘーレルの訳語です。ここで用いられているヘーレルは個人の名称もしくは称号ではなくて,むしろネブカデネザルの家系の王の治めたバビロン王朝の占めた輝かしい地位を描写した用語です。悪魔サタンはここで,それが彼の名前の一つでもあるかのように明星と呼ばれているというのは正しいことではありません。ここで用いられている表現はおもにバビロンの王をさしています。というのは,4節には,『この歌をとなえバビロン王をせめていわん』とあるからです。また,この14章の15,16節(新)によれば,この「輝く者」(明星)は,サタン悪魔の住みかではなくて人類共通の墓であるシェオールに落とされるといわれています。さらに,そうした状態に落とされるその「輝く者」を見る人たちは,『この人は地をふるわせ列国をうごかし(しものなるか)』と述べるであろうといわれています。サタンは人間ではなくて,目に見えない霊的被造物です。このようなわけで,バビロンの王はその父である悪魔の態度を反映してはいたものの,明星ということばはサタン悪魔に与えられた名前ではありません。「真理のことばを正しく扱う」ことによって,わたしたちは,聖書の各ページに印刷されているとおりの神の言われた明確なことばを話す用意を整えることができます。

      7 (イ)特定の論点を証明するために,正しく選定された聖句を用いても,聖書に対して決して不正なことがなされるわけではありません。なぜですか。そうする点で,わたしたちにはだれの模範がありますか。(ロ)キリストは苦しみを受け,そして死人の中からよみがえるべきことを,使徒パウロはヘブル語聖書の句を参照してどのように証明したと考えられるかを示しなさい。

      7 しかし,神のしもべたちが教理上の論点を証明するために,正しく選定された聖句を聖書のさまざまの箇所から引用するからといって,神のみことばに対して不正なことが行なわれたとは決していえません。確かに,神のみことばに反対する人びとは時として,エホバの証人は自分たちの論点を証明するため,聖書のあちこちの聖句を不正な仕方で用いるとして非難する場合がありますが,聖書を調べてみると,イエスやその使徒たちはある基本的な真理を証明するために精選された聖句を用いたことがよくわかります。たとえば,40日間の断食の終わりに荒野で誘惑されたイエスは,悪魔の論議を論ばくするため神のみことばのいろいろの句に言及されました。(マタイ 4:3-10。申命 8:3; 6:13,16; 5:9)使徒パウロもまた,会堂で教えるさい,ユダヤ人に対してこの手法を用いました。使徒行伝 17章2,3節(新)の記録はこう述べています。「それで,パウロは自分の習慣どおり彼らのところにはいり,三つの安息日にわたって彼らと聖書から論じ,キリストが苦しみを受け,そして死人の中からよみがえることが必要であったことを説明したり,関連した事がらを挙げて証明したりして,『わたしがあなたがたに広めているこのイエス,これがキリストです』と言った」。―詩篇 22篇7,8節; イザヤ書 50章6節; 53章3-5節; 詩篇 16篇8-10節をご覧ください。

      聖句の意味はしばしば文脈の中に秘められている

      8 (イ)聖句の誤用はなぜ避けるべきですか。(ロ)箴言 10章7節の真意を述べなさい。それはなぜですか。(ハ)どんな人びとは復活させられる資格がないかについて論ずる場合には,どんな聖句を用いるのが賢明でしょうか。

      8 しかし,聖句を故意に誤用するのは,聖書に対するはなはだしい不正行為です。わたしたちは,おおよそささいな事がらにおいてさえ,そうした誤用の罪を犯したいとは思いません。この点を示すものとして,復活についてある人と話し合うさい,聖書は悪人には復活がないことをはっきりと証明しています,と言ったとしましょう。それから,次の聖句を読んだとします。『義者の名はほめられ 悪しき者の名は腐る』。(箴 10:7)さて,キリスト・イエスの贖いの犠牲によってゆるされることのない,ゆゆしい悪人とエホバからみなされる人は,確かに復活にはあずかりません。とはいえ,箴言 10章7節は,エホバによるそうした決定を確証するものではありません。なぜですか。箴言のこの章の文脈を追って読んでゆくと,賢い息子と愚かな息子,一生懸命働く人と手をつかねている人,洞察力のある息子と恥ずべき行為をする息子などの一連の対照をなす事がらが略述されていることに気づきます。しかし,復活やゲヘナのことはそこでは論じられていません。ですから,この聖句がその問題を扱っているというのは適切なことではありません。むしろ,ここで強調すべき要点は,悪人の名あるいは評判は楽しい思い出ではなくて,不快な,鼻持ちならない思い出になるということです。復活しない人びとがいることを証明するためには,ゲヘナつまり第二の死に関する聖句を参照するほうがよいでしょう。―マタイ 23:33。黙示 21:8。また,マタイ伝 25章46節をも見てください。

      9 聖句の文脈を考慮すべきであると主張するからといって,真理を説明する妨げとはなりません。なぜですか。

      9 このように前後を読み,文脈の意味をつかむことによって物事を確かめるとはいっても,真理を説明するのに妨げとなるわけではありません。それどころか逆に,聖書に基づく論議は強化されます。なぜなら,教えを受ける人にとって,教えられている事がらがほんとうに聖書の述べる事がらであるということが容易に明らかになるからです。聖書は霊感のもとにしるされた全能の神のみことばですから,物事に関する神の考えを知るのは,書きしるされたみことばの中に示されている創造者の知恵の益にあずかることなのです。エホバはある句を聖書の中に収めさせるさい,ある事がらを念頭に置かれました。エホバはわたしたちが何を必要としているかを正確にご存じです。ですから,エホバは,わたしたちが識別力において,またエホバに関する正確な知識において霊的に成長するよう,わたしたちを助ける手だてを備えておられるのです。

      10,11 (イ)ヨハネ第一の書 4章18節はどんな意味に容易に解される場合がありますか。(ロ)文脈によればそのほんとうの意味はなんですか。(ハ)このことは詩篇 139篇とどのように合致しますか。

      10 エホバとのわたしたちの関係は,その子たちとしての関係であるべきです。そのような者として,わたしたちはわたしたちに対するエホバの愛と世話をどれほど誠実に感謝しているでしょうか。わたしたちは,エホバにささげるわたしたちの個人的な祈りについてみことばが述べる事がらに関し,『エホバのことばを正しく扱って』いるでしょうか。また,エホバがわたしたちにご自分に対してどう感じてほしいと思っておられるかに関し,みことばの述べることを理解しているでしょうか。完全な愛に関するヨハネ第一の書 4章18節(新)のことばを読んで,誤った仕方で適用する人は少なくありません。聖書のその句はこう述べています。「愛には恐れがなく,完全な愛は恐れを外に追いやります。恐れは拘束となるからです。実際のところ,恐れのもとにある者は愛の点で完全にされていません」。中には,最初この句を一見して,愛の点で完全になることなど,自分にはとうていできないと結論する人がいます。なぜなら,人は危険を恐れて,できる場合にはいつでも回り道をしたり,危険などころからは走り去ったりするからです。しかし,使徒がここで話しているのはその種の恐れについてでしょうか。

      11 ヨハネ第一の書 4章18節の文脈を読み取ると,この聖句の特別の意味を理解するのに助けとなります。前の節を調べてみると,ヨハネは「はばかりない言い方」をするという問題について論議を続けていることがわかります。ヨハネはここで,王国の良いたよりを宣べ伝えるさいにはばかりなく話すという問題について述べているのではありません。むしろ,神に対してはばかりなく話すという問題について述べているのです。このことはヨハネ第一書の3章19-21節(新)からわかります。それで,自分自身のうちに神の愛が十分に顕われている人は,全き確信をいだいて,はばかることなく天の父に近づきたいと思います。自分自身の不完全さや罪深い状態のゆえに,エホバの意志を行なうにさいしてエホバに近づいて助けを請うのを思いとどまらされることはありません。子どもはたとえまちがいをした場合でも,理解して助けてもらえるという全き確信をいだいて愛ある父親に近づけるように,人は自分の天の父エホバに関して同様に感ずるべきでしょう。何らかの問題があれば,はばかることなくそれを持ってエホバに近づき,み父の意志を行なう上での援助を請うべきでしょう。エホバは不完全で罪深い被造物に絶対の公正を要求するかたであり,思いと心の罪深い状態ゆえに人を直ちに罪に定めるかたであると考えて,天の父に不健全な恐れをいだくべきではありません。とはいっても,悪を行なうことを大いに喜びとしながら,その後エホバに近づいて許しを求め,そのようにしてエホバの憐れみにつけ込んでもよいと言うのではありません。しかし,エホバは個々の人について知るべきことはすべてご存じだからといって,天の父に近づいて不正な事がらを正し,自分の不完全な考え,もしくは行動を矯正しようとするのを恐れる必要は確かにありません。―詩 139:1-3,15-18,23,24。

      12 ヨハネ第一の書 4章18節を正しく理解すると,わたしたちは個人個人どのように益にあずかれますか。

      12 ヨハネ第一書 4章18節に関するこうした正しい理解を得ると,創造者エホバとの自分の霊的な関係の優れた価値をほんとうに理解できるようになります。そして,心底からエホバに語りかけ,自分の生活がエホバに喜ばれるものであるよう,生活上の導きをエホバに求めます。このようなわけて,「愛の点で完全にされて」いるというのは,自分の内にある神への愛が何らかの点で十分に発達していないというのではなくて,むしろ完全な愛ゆえに,天の父である創造者に対する全き確信をいだいて心をこめてみ父の意志を行なうよう絶えず動かされているという意味です。その結果,今度は,なおいっそうはばかることなく祈りを通して神に近づけるようになります。―エペソ 3:12。ヘブル 4:16。ヨハネ第一 5:14。

      預言的な聖句を正しく扱う

      13 (イ)ヘブル語聖書の数多くの預言に関しては何を念頭に置くのは大切なことですか。イザヤ書 35章1,7節の預言に関連して,このことはどのように示されていますか。(ロ)古代のエホバの民の上に預言が成就したことは,どんな事がらの確かな保証となっていますか。

      13 神のみことばを研究し,そのうるわしい音信や実生活におけるその意義に精通するにつれて,エホバの意図しておられる仕方でみことばを理解するのは自分をいっそう豊かにし,ためになるものであることがよくわかります。神の義の新秩序における人類のために備えられている祝福に関するヘブル語聖書の預言をわたしたちは何と頻繁に引用してきたことでしょう。そして,それはもっともなことです。しかし,それらの預言の多くは古代イスラエルに関連して縮図的な規模ですでに成就したものであることをしばしば見落としているかもしれません。たとえば,イザヤ書 35章1,7節のことばを取り上げてみましょう。こうしるされています。『荒れ野とうるおいなき地とはたのしみ 砂漠はよろこびて番紅の花のごとくに咲きかがやかん やけたる砂は池となり うるおいなき地は水の源となり 野犬のふしたるすみかは蘆よしのしげりあう所となるべし』。この聖句の文脈を調べると,それは総督ゼルバベルの時代にユダヤ人の流刑者たちが帰ってきた当時の事態に適用されるものであることがよくわかります。10節は,『エホバに贖いすくわれし者……帰りてシオンにきた(らん)』と述べています。その地を彼らのために縮図的な意味での楽園とするのはエホバの目的でした。それには,エホバが荒れ野やうるおいなき地はもとより砂漠を蘆のしげる所また水の源とする必要がありました。神の言われたこれらのことを正しく適用すれば,古代のご自分の選民のためにエホバが奇跡を行なわれたのは,そのみ子,主イエス・キリストの支配下でそうした約束がそれ以上のいっそう大規模な成就を遂げる保証であることが十分に理解できます。キリスト・イエスによる王国の支配下でエホバはこの地にほんとうに祝福を注ぎ,砂漠を『番紅の花のごとくに咲きかがやか』させるだけでなく,この預言の述べるとおり,めしいの目を開き,みみしいの耳をいやし,あしなえを再び健やかにさせてくださるということが容易にわかります。―イザヤ 35:5,6。

      14 真のクリスチャンはすべて,神の真理のみことばを正しく扱いたいと願うべきです。なぜですか。

      14 確かに,『神のことばは生きていて,力を及ぼす』と言えます。(ヘブル 4:12,新)神は生きておられます。そして,その生きた本である聖書のページを通して人類に語りかけており,そうすることによって,ご自分のしもべたちに力を与え,ご自身と人類に対するご自分の目的に関する深い真理の理解を与えておられるのです。エホバ神のクリスチャン証人はすべて,そのようなことばを正しく扱いたいと願うべきでしょう。それは,他の人びとを教えるさいに,また大いなるバビロンつまり偽りの宗教の世界帝国に捕われている無数の人びとの思いや心をめくらにしている宗教上の偽りの教えを切り倒すさいに,みことばを効果的に用いられるようになるためです。パウロはテモテにこう述べました。「聖書はみな神の感動によるものにして教えと譴責と矯正と義を薫陶するとに益あり。これ神の人の全くなりて,もろもろのよきわざに備えを全うせんためなり』― テモテ後 3:16,17。

      15 神のみことばを理解し,正しく評価するためには,わたしたちはどんな努力を払うべきですか。

      15 神のみことばを正しく用いるためには,それを読んで研究し,その中に秘められている宝を求めなければなりません。その種の理解や認識は自動的にもたらされるのではありません。かえって,一生懸命勉強し,真剣に尋ね求めなければなりません。箴言はこう述べています。『わが子よ汝もしわがことばをうけ わが誡命を汝のこころに蔵め かくて汝の耳を知恵に傾け汝の心をさとりにむけ もし知識を呼び求め聡明をえんと汝の声をあげ 銀のごとくこれを探り かくれたる宝のごとくこれを尋ねば 汝エホバを恐るるをさとり 神を知ることをうべし』。(箴 2:1-5)これまでに考慮してきたことからすれば,神のみことばにしるされている事がらはどうしてそのように述べられているのか,またそれらのことばはどのように適用できるのかを知りたいと願うべきであることがわかります。わたしたちは常に,物事がなぜそのような仕方で説明されているかを究明し,神のみことばを正しく扱うよう努力すべきです。

      16 さらにどんな資料を考慮すれば,神のみことばを正しく扱う助けが得られますか。

      16 次の記事をお読みになれば,聖書全巻はそれぞれ特定の人びとや伝えるべき特定の音信を念頭において書きしるされたものであることがわかります。神のこの貴重なことばを正しい仕方で扱う上で,この問題に関する資料を求め,霊感のもとにしるされたことばの背景や目的また価値を知るのは有益なことでしょう。

  • どうしてそのように書かれているのですか
    ものみの塔 1973 | 7月15日
    • どうしてそのように書かれているのですか

      「わたしに理解させてください。わたしがあなたの律法を守り行ない,心をこめてそれを守るためです」― 詩 119:34,新。

      1 励ましを必要とするのは,ごく普通の問題ですか。励ましはしばしばどこに見いだせますか。

      あなたはしばしば励ましを必要としたとき,神のことばの宝庫である聖書の真理から,個人的な試練や問題に立ち向かう力を得てきたことにお気づきではありませんか。わたしたちはみな,クリスチャンとしての生活の中でそのような経験をしてきたように思えます。

      2 エホバの証人の多くは多年,どんな失意に直面してきましたか。それにもかかわらず彼らはどのようにして堅く立つことができましたか。

      2 たとえば,反対者たちが神の民を軽べつし,神の民がエホバのクリスチャン証人として真理を擁護したとして,反対者たちが暴力に訴えることをさえしたりしたため,今日の多くの人びとは失意の時期を経てきました。50年か60年にわたって真のクリスチャンと交わってきた人たちの多くは,第一次世界大戦中またその後のエホバの証人に対する隣人その他の人びとの冷淡な発言や行為をよく覚えています。証人たちの多くは,ラッセル派,千年期黎明派などと呼ばれて盛んに嘲笑されたものです。中には,打たれ,タールをかけられたうえに羽毛をくっつけられ,投獄され,ののしられ,むち打たれ,つばを吐きかけられた人たちもいました。エホバのクリスチャン証人はその間もずっと,自分たちの神エホバから命じられたわざを続行しました。証人たちはどのようにしてそうすることができたのでしょうか。一半の理由は,彼らが神のみことばと,邪悪なこの時代に「忠実で思慮深い奴隷」が発行してきた出版物から理解と励みと力とを得てきたことにあります。

      3 聖書を読む場合,どんな見方をすべきですか。

      3 しかも実際,それこそ,つまりエホバのしもべたちを建て起こすことこそ神のみことばの目的なのです。そのようなわけで,聖書中のいろいろの書を読むさい,それぞれの書とその筆者に関する背景的な資料を念頭に置くべきです。聖書を読む人は,どうしてそのように書かれているのだろうかと自問してみるのは良いことです。

      4 これから特に聖書の中のどの書に注意を向けますか。

      4 では,聖書中の一つの書を取り上げて,それがどうしてそのような仕方で,またそのような論議を用いて書かれたのか,その理由を見定めるため,少しのあいだ調べてみましょう。エルサレムのクリスチャンに宛てて書かれた使徒パウロの手紙を中心にして論ずることにしましょう。それは普通,クリスチャン・ギリシア語聖書の中で,ヘブル人への書として知られています。(ヘブル 13:22)パウロがその手紙を著わした1900年前の当時の事情を考慮すれば,パウロはなぜそのような内容の手紙を書いて神の民を強め,また慰めたのかを理解し,正しく評価することができるでしょう。

      キリスト教に関する1世紀当時の人びとの見解

      5 西暦61年ごろのエルサレムの一般的な宗教事情はどんなものでしたか。

      5 西暦61年ごろのエルサレムの都に戻ってみましょう。それはイエスがエルサレムの城壁のすぐ外の苦しみの杭につけられて亡くなって後,28年ほど経った時分です。ユダヤ人にとってはエルサレムは聖都です。外観からすればどう見てもエルサレムは,ナザレ出身の軽べつされたイエスの時代を切り抜けたかに見えました。ユダヤ人の宗教は彼らの先祖アブラハムの時代にさかのぼる由緒ある宗教とされています。ユダヤ人の精神的指導者つまりラビたちは,人びとから大いに尊敬されています。彼らは名声を博し,栄誉を受けています。彼らは自らモーセの座に着き,晩さんにさいしては最も目立つ席に着き,会堂では前列の席を占め,市場では人びとからあいさつを受け,「ラビ」と呼ばれています。彼らは確かに当代の宗教上の権力構造の一部なのです。―マタイ 23:6,7。

      6 (イ)ユダヤ教の宗教指導者たちは,その都にいたクリスチャンをどう見ましたか。(ロ)それよりもほんの何年か前にその都にいた使徒パウロは,どんな経験をしましたか。(ハ)エルサレムにいたクリスチャンの少数グループが大いに必要としていたのは何ですか。

      6 同時にエルサレムの都には比較的少数ですが,クリスチャンもしくは「この道」と呼ばれる憎まれた宗派に属する人びとがいます。(使行 9:2; 19:9; 22:4)彼らはユダヤ教の宗教指導者やその追随者たちからさげすまれています。また,迫害され,非難されています。そのうえ,彼らはおもにユダヤ人の血筋の者なので,ユダヤ教を捨てて,イエスつまり「いわゆる」キリストの追随者になったとして,なおさら憎まれています。クリスチャンに対する憎しみは非常なもので,それよりも何年か前に使徒パウロがこの都に留まったときなど,彼が神殿に姿を現わしただけで一騒動が持ち上がり,ユダヤ教徒たちは,『かくのごとき者をば地より除け,生かしおくべき者ならず』と絶叫したほどです。(使行 22:22)40人余りのユダヤ人は,パウロを亡き者にするまでは飲み食いをしないという呪いの誓いを立てました。(使行 23:12-15)宗教的狂信やクリスチャンに対する憎しみの満ちたこうした環境の中で会衆は生活を営み,宣べ伝えるわざを行ない,自ら堅い信仰を保たねばなりませんでした。彼らはユダヤ教に逆戻りしてモーセの律法を守るようなことを避けるために,励ましや,キリストとキリストがモーセの律法を成就した仕方とに関する健全な知識や理解を,どんなにか必要としていたことでしょう。確かにパウロは,彼らが何を必要としているかを知っていました。パウロは一個人として,彼らの遭遇していた試練について知っていたのです。

      7 ユダヤ教の宗教指導者とその追随者たちがクリスチャンに反対して用いたと思われる議論の幾つかを挙げなさい。

      7 それら初期のユダヤ人のクリスチャンが直面しなければならなかった議論や反対の幾つかを少しの間考えてみてください。まず第一に,ユダヤ教の宗教指導者やその追随者たちが,それら憎まれたクリスチャンに自分たちは神の恵みを得ているなどと考えさせるままにしておくわけがありません。神の祝福を示す実質的な証拠を持っていたのはユダヤ人ではありませんか。神は確かにみ使いたちを通してユダヤ人と交渉を持ったのではありませんでしたか。確かにそうです。『エホバの使いしばのなかの炎のうちにて[モーセ]にあらわる』とモーセの書が述べるとおりです。後日,エホバは言われました。『見よ我天の使いをつかわして汝に先だたせ道にて汝を守らせ汝をわが備えし所に導かしめん』。(出エジプト 3:2; 23:20)ユダヤ人は,モーセは神とさし向かいで話をしさえしたとして誇っていたかもしれません。そのうえ,聖なる所や至聖所などの仕切り室のある壮大な神殿を見てください。そのきわだった美しさ,その威力,その確固とした土台に注目してください。それらはみな,ユダヤ人のものだったのです。ほかにもあります。ユダヤ教の祭司職のことを考えてください。それは遠く,レビ族の成員であるアロンとその息子たちにまでさかのぼるものなのです。大祭司はその特別の家系の子孫でした。ユダヤ人は神ご自身からモーセに与えられた律法契約を持っていました。また,神聖な王国を持っていましたし,エルサレム,そうです,エルサレムは神の支配がそこから他に及ぶ帝都だったのです。

      8,9 (イ)ユダヤ教の宗教指導者たちはキリスト教の創始者とその追随者たちをどのように激しく非難したと考えられますか。(ロ)それら宗教指導者は,クリスチャンそのものと彼らの質素な集会場をおそらくどんなものと比較したと考えられますか。

      8 今度はエルサレムにいるクリスチャンを見てください。彼らは何を持っていましたか。ユダヤ人の指導者たちの見地からすれば,比較できるようなものをクリスチャンは何も持っていませんでした。彼らの指導者イエスは死にました。それも,普通の犯罪者として死んだのです。彼はどんな人間でしたか。ユダヤ人の指導者たちに関するかぎり,イエスには傑出したところは何もありませんでした。彼はしがない大工のせがれで,おまけにナザレの出身でした。教育についていえば,ラビの上級学校で正規の訓練など全然受けませんでした。ユダヤ人の見地からすれば,彼らの教師や講師の知識やその受けた教育と比べて,イエスは知識や教育の点で何と欠けていたのでしょう。それだけではありません。イエスの追随者の中には,学問のある人はごく少数でした。漁師,税金徴収人そして異邦人さえもがイエスの追随者の大半を成しており,それら異邦人はユダヤ人の指導者たちの目からすれば確かにアブラハムの生来のすえではなかったのです。クリスチャンはたとえ一瞬でも,自分たちは神の恵みを得ており,神は自分たちと交渉を持っておられるなどと,どうして考えることができたでしょうか。ユダヤ人は自分たちこそ神によって選ばれた者だと感じていました。なぜなら,彼らはアブラハムの子孫だったからです。それに加えて,クリスチャンは階上の部屋その他,人目につかない所で会合していましたが,ユダヤには集まり合える美しい神殿がありました。

      9 ユダヤ人のクリスチャンに対しては,このような,またその他のさまざまの議論が仕かけられたに違いありません。彼らは励ましや,当時の事情に関する理解をどんなにか必要としていたことでしょう。だれかが彼らの必要とする事がらを知っていて,慰めや助けを与えさえしたなら,どんなにか喜ばれたことでしょう。

      モーセよりもキリストを支持する反対論

      10 クリスチャンの直面したそうした問題についてだれが知っていましたか。それで,だれが霊感を受けて,彼らを建て起こすために手紙を書きましたか。

      10 もちろん,天におられるエホバ神は彼らの窮状をご存じでした。エホバは霊感によって使徒パウロを動かし,彼らの直面した状況に関心を向けさせました。それでパウロはエルサレムにいたそれらの忠実な人たちに手紙を書き送りました。ですから,ヘブル書には1世紀のキリスト教に対してまさしくその敵がもたらした数々の非難に対するパウロの答えが収められています。

      11,12 (イ)そこでパウロはどのような線に沿った論議を進めましたか。それはなぜ適切でしたか。(ロ)み使いに比べてイエスのほうが優れていることをパウロはどのように示しましたか。(ハ)モーセとの比較についてはどうですか。

      11 ユダヤ人の主張そのものを取り上げたパウロは,ユダヤ教と比べてキリスト教の体制とその祭司職がいかに優れているかを示しています。パウロがそれを明らかにするのは重要なことでした。エルサレムにいた当時のクリスチャンは確かに大多数がユダヤ人の血筋の者であり,モーセの律法やユダヤ教の指導者たちの議論をよく知っていました。それゆえにこそパウロには,それらクリスチャンに反対論を,つまり問題の真相を示し,ユダヤ教の宗教指導者たちから彼らの受けた非難の偽りを暴露する義務がありました。たとえば,確かにモーセの律法はみ使いたちを通して伝えられました。しかし,み使いたちは主イエスとどのように比べられるでしょうか。パウロはヘブル書 1章4-6節にこう書きしるしました。『[イエスは]御使いよりはさらに勝る者となり給えり。神はいずれの御使いにかつてかく言い給いしぞ「なんじは我が子なり われ今日なんじを生めり」と。また初子を再び世に入れ給うとき「神のすべての使いはこれを拝すべし」と言い給う』。ですから,パウロは実際のところ,み使いたちはしもべであって,イエスは神のみ子であることを指摘しているのです。

      12 しかし,神がモーセに面と向かって話されたという事実についてはどうですか。それは重大な意義を持つ事がらだったということには疑問の余地がありません。が,イエス・キリストに関してパウロはこう書きました。『家を造る者の家より勝りて尊ばるるごとく,彼[すなわちイエス]もモーセに勝りて大いなる栄光を受くるにふさわしき者とせられ給えり。…モーセは…しもべとして神の全家に忠実なりしが,キリストは子として神の家を忠実につかさどり給えり』。ここでパウロは事実上,『兄弟たち,家の中ではだれがいっそう偉い人ですか。―モーセの場合のようにしもべですか。それともイエス・キリストのように家の持ち主の子ですか』と尋ねたのです。エルサレムで生活していたユダヤ人のクリスチャンにとって,問題に関するこうした理解を得ることは非常な励みとなったに違いありません。―ヘブル 3:3-6。

      大祭司としてのキリストの優れた立場

      13 (イ)エルサレムにあった有形の神殿よりもまさっているのは何でしたか。キリスト・イエスはどこにおられましたか。(ロ)アロンの祭司職と比べてキリストの祭司職が優れていることをパウロはどのように示しましたか。

      13 パウロは今度は別の論議,つまりエルサレムにある美しい有形の神殿に関する論議を進めてゆきます。そして,それは確かに美しい高価な神殿でした。しかし,ほかならぬ神のみ前にいることと比べれば,有形の神殿にはいったいどれほどの意義があるのでしょうか。西暦前11世紀の昔,エルサレムのモリア山上に最初の美しい神殿を建てたのはソロモン王でしたが,彼はその献堂式のさい,エホバは実際のところその人工の建造物の中に住むようなかたではないと述べました。かえって,天の天も全能の神エホバを入れることができない以上,自分の建てた神殿などなおさらそうすることはできない,と言いました。(列王上 8:27)ですから,天でエホバのみ前にいるのは,何らかの地上の神殿で仕えるよりもどれほどすばらしいことか知れません。ゆえに,パウロはキリスト・イエスについて,彼は『もろもろの天を通って』その父エホバのみ前にはいられたと書いているのです。(ヘブル 4:14)また,当時エホバの神殿で仕えていたアロンの家系の祭司の職について,パウロはそれをキリストの祭司職と比較し,後者がはるかに優れていることを示しています。というのは,それはメルキゼデクにならったものだからです。ヘブル書 5章5,6節でパウロはこう述べます。『キリストも己を崇めて自ら大祭司となり給わず。これに向かいて「なんじはわが子なり,われ今日なんじを生めり」と語り給いし者,これを立てたり。…「なんじはとこしえにメルキゼデクの位に等しき祭司たり」』。そうです,とこしえに祭司なのです。それは罪深い肉の受け継いだものにではなく,神の誓いに依存するものだったのです。この点に関するパウロのことばはヘブル書 7章19-22節にこうしるされています。「律法は何をも全うせざりしなり。さらに優れたる望みを置かれたり,この望みによりて我らは神に近づくなり。…誓いなくしてはせられず……イエスはかくも優れたる契約の保証となり給えり』。また,後継者の必要もなく永続することに関しては,パウロはさらにこう述べています。『かの人々は[ユダヤ人の律法のもとでは]死によりて永くその職に留まることを得ざるゆえに,祭司となりし者の数多かりき。されど彼[イエス]は永遠にいませば,〔後継者を持たずに〕祭司の職を保ちたもう。このゆえに彼は己によりて神にきたる者のために執成をなさんとて常に生くれば,これを全く救うことを得給うなり」― ヘブル 7:23-25〔新〕。

      14 キリストの犠牲が優れているという事実は,その手紙を読むクリスチャンに励みをもたらしたに違いありません。どうしてそうなったかを述べなさい。

      14 これは確かに愛する使徒パウロが仲間のクリスチャンの立場を強化し,信仰のうちにしっかりと留まるよう彼らを援助することを意図した強力な論議でした。しかし,それでおしまいだったのではありません。パウロは,エホバの天の神殿で仕える大祭司としてのイエスの優れた立場を引き続き明らかに示し,クリスチャンを擁護する特別の議論を述べて事態の核心をついています。主イエスの犠牲と,ユダヤ教の指導者たちが非常な誇りとしていた,アロンの家系の祭司のささげる犠牲とを比較したパウロは,7章の26節から28節にこう書いています。『かくのごとき大祭司こそ我らにふさわしき者なれ,すなわち聖にして悪なく,汚れなく,罪人より遠ざかり,もろもろの天よりも高くせられ給えり。ほかの大祭司のごとく先ず己の罪のため,次に民の罪のために日々犠牲をささぐるを要し給わず,そは一たび己をささげてこれを成し給いたればなり。律法は弱みある人々を立てて大祭司とすれども,律法の後なる誓いのことばは,とこしえに全うせられ給える御子を大祭司となせり』。これらのことばが,エルサレムにいた忠実な人たちにどれほど励みをもたらしたかを考えてみてください。そうです,人類のためにご自分の完全な命をささげた大祭司であるキリストは,今や神のなされた誓いによって,後継者を要さない永遠の祭司となられたのです。

      新しい契約は古い契約をすたれさせる

      15 より良い契約に関してヘブル書 8章7-13節に述べられているパウロの論議はどんな点を突いていますか。論理的に言って,古い契約に関してはどんな結論が下されますか。

      15 それからパウロは,これもやはりクリスチャンに益をもたらす別の論議を続けてゆきます。それは神と,キリストに仕える地上の忠実な者たちとの間でキリストの仲介によって結ばれたより良い契約と対比される,モーセの仲介による律法契約にかかわる論議です。ヘブル書 8章7-13節にしるされているパウロの論議に注目してください。『初めの契約もし欠くるところなくば,第二の契約を求むる事なかりしならん』。初めの契約は欠けるところのないものでしたか。いいえ,そうではありません。というのは,エホバ自ら次のように言われたからです。『我イスラエルの家とユダの家とに,新しき契約を設くる日きたらん。この契約は我かれらの先祖の手を取りて,エジプトの地より導き出だしし時に立てしところのごときにあらず,彼らはわが契約に止まら(ざりしなり)』。『されば,かの日の後に我がイスラエルの家と立つる契約はこれなり』。『われわが律法を彼らの念に置き,その心にこれをしるさん,また我かれらの神となり,彼らはわが民とならん』とエホバは言われます。そこでパウロは,『すでに「新し」と言い給えば』,神は『初めのものを古しとし給えるなり,古びて衰えるものは,消え失せんとするなり』と論じます。―エレミヤ記 31章31-33節と比べてください。

      16 今や励みを得る理由を持つことになったのはだれですか。失望するいわれを持ったのはだれですか。なぜですか。

      16 『初めのものを古しとし給えるなり,古びて衰えるものは,消え失せんとするなり』。こうしたことばはどれほど励みを与えるものになったかを考えてみてください。今や悲しみや嘆きではなくて幸福を味わうことができたのはだれですか。それらのクリスチャンです。なぜなら,彼らは,古い契約つまり律法契約に取って代わるものとなった契約に忠実に従っていたからです。悲しみと嘆きを味わうことになったのは,キリスト教に敵対して戦っていた宗教指導者たちでした。彼らが依存していたものはもはや,神がご自分の民と交渉を持つための手だてではありませんでした。復活させられて天の栄光を受けた,神のみ子,主イエス・キリストは,より良い,またより永続する約束に基づいた新しい,しかもより良い契約の仲介者となってその成立を図り,またいっそう貴重な犠牲,つまりご自身の流された血によってその新しい契約を有効にしたのです。

      天のシオンの山に確立された王国

      17 (イ)モーセが律法契約のことでシナイ山に近づいたのとは対照的に,それらのクリスチャンは何に近づいていましたか。(ロ)天のエルサレムは地上のエルサレムとどのように比べられますか。

      17 しかし,王国の権利はユダヤ人と関係があり,エルサレムはそこから神の支配が他に及ぶ神の都であるという主張についてはどうですか。パウロはヘブル人にあてたその手紙の中でこの議論をどのように扱いましたか。非常に興味深いことに,パウロは12章18-27節〔新〕で彼の論議をこのように始めています。『汝らの近づきたるは,火の燃ゆる触りうべき山・黒雲・黒闇・嵐……にあらず』。確かにクリスチャンは,イスラエル国民のための律法契約が与えられた昔のシナイ山に近づいていたのではありません。さわろうと思えばそうすることもできるもの,また燃える炎の出る様子の見えるものに近づいていたのではありません。そうではなくて,22節からパウロはこう語っています。『汝らの近づきたるはシオンの山,生ける神の都なる天のエルサレム,千万の御使いの集まり,天にしるされたる長子どもの〔会衆〕,万民の審判主なる神……〔新しい契約〕の仲立ちなるイエス…なり』。そうです,それこそ彼らが近づいていたものだったのです。すなわちそれは,神,千万のみ使い,長子たちの会衆そして新しい契約の仲介者であるイエスがともにおられる,権威と支配の真の座である,地上のものではない,天のエルサレムなのです。それに比べて,ユダヤ人の神殿や祭司職はもとより,地上のエルサレムも,またシナイ山も無意味な存在と化しました。

      18 (イ)天のエルサレムはどれほどの期間存続しますか。(ロ)地上のエルサレムにはすでに何が起きましたか。また,二度めに何が起きようとしていましたか。

      18 しかも,そのシオンの山また天のエルサレムはどれほど堅固で,どれほど永続し,どれほどしっかりと土台を据えられていますか。その点では疑問の余地は残されていません。というのは,パウロはこう付け加えているからです。『このゆえに我らは震われぬ〔王国〕を受けたれば,感謝して恭しきと恐れとをもて御心にかなう奉仕を神になすべし』。(ヘブル 12:28〔新〕)その王国は,地上のエルサレムが西暦前607年から537年まで70年間激しく震われたように,またほどなくしてチツス配下のローマ軍によって再び震われることになっていたように震い動かされることはありません。

      19,20 今やそれらユダヤ人のクリスチャンは何をすべきでしたか。パウロはその論議の中で何に訴えましたか。

      19 パウロのことばはそれら初期のユダヤ人のクリスチャンを大いに慰め,大いに奮いたたせるものとなったに違いありません。19世紀の後でもそのことばは依然として生きており,この20世紀のわたしたちクリスチャンにとっても非常に意味深いものとなっています。

      20 ゆえに,ユダヤ人の反対者たちが古代の文物,物質の富,権力,はなやかな典礼,種々の儀式そしてこの世の知恵に頼っていた時期に,クリスチャンは信仰,つまり望んでいる事がらに対する確証された期待,また見えない実体についての明白な論証の点で成長すべきだったのです。西暦61年ごろ神に仕えていた忠実な人たちにとって,その手紙は大いに励みを与えるものだったに違いありません。実際,永遠の祝福を伴う命への「道」が彼らの前に明確に据えられました。しかも,生来のユダヤ人としての彼らの考えや論理に訴え,信仰の点で彼らを築くことを意図して,パウロはその手紙を書きしるしたのです。ヘブル書にしるされているパウロのことばは同様に,現代のクリスチャンにとっても慰めをもたらすものです。

      21 この研究記事の中で例を挙げて説明されたように,わたしたちすべては神のみことばに対する認識をどのようにしていっそう深めることができますか。それは何のためですか。

      21 聖書の益に十分にあずかるには,聖書がなぜそのように書かれているかを正しく認識する必要があります。「聖書はすべて神の霊感によるものであり,有益である」(英文)と題する本や他の数多くの出版物はもとより,「聖書を理解する助け」(英文)と題する本などを助けとして用いるなら,聖書中のおのおのの書がどのようにして,またなぜそのように書かれたのかを知る助けとなる知識の宝庫を確かに用いることができます。こうして視野を広げるなら,わたしたちは確かに,神がわたしたちに与えて行なわせようとなさる,あらゆる良いわざに対して備えることができるようになります。聖書のヘブル書に関して行なったように,神のみことばである聖書を構成している他の65冊の書に関しても同様のことが行なえます。ヘブル人にあてた手紙の最後の章にしるされている次のことばは,何と適切なことばでしょう。『願わくは…平和の神,その喜びたもうところを,イエス・キリストによりて我らのうちに行ない,御意を行なわしめんために,すべてのよき事につきて汝らを全うし給わんことを』― ヘブル 13:20,21。

  • 禁令下のドミニカ共和国での活動
    ものみの塔 1973 | 7月15日
    • 禁令下のドミニカ共和国での活動

      ● 1950年以後の,迫害が厳しかったころ,霊的必要物を定期的に供給することがおもに考慮されました。「ものみの塔」誌が,郵便や使いによって,また他の方法によってわたしたちのところに届いたことはエホバの愛あるすばらしいご準備を示すものです。検閲が厳しくなるにつれ,個人的に運んでもらうのが唯一の確実な方法になりました。そのように運ぶ人のひとりはどんなことが起きるかをこう述べています:

      「サント・ドミンゴにある空港では,旅行者が税関を通るさいに,その職員は旅行者を一定の場所に立たせ,そこの壁にかかっているサインを読ませます。その壁のうしろには蛍光透視器があり,旅行者が武器を携帯していないかどうかを調べる仕掛けになっているのです。私は雑誌の止め金がその装置にどう映るだろうか,とよくいぶかったものです。ところが何年にもわたって,一冊の文書も探知されませんでした。ちょうどソドムの男たちが明らかに盲目にされたような,また,預言者エリシャをとりこにして連れ去ろうと試みたシリア軍のある者もそうされたような方法でエホバが彼らを盲目にされたように思えたことも時々ありました。(創世 19:4-11。列王下 6:15,18-20)ひとたびエホバの証人の手に渡ると,雑誌の研究記事は謄写版で印刷され,国中に配布することができました。―「1972年のエホバの証人の年鑑」から。

  • 今,学びなさい
    ものみの塔 1973 | 7月15日
    • 今,学びなさい

      ● 『「11時に」救われたいと考える人は,たいてい,10時半に死ぬものだ』と言ったことばがある。しかし,聖書は,それとはすぐれた対照をなす,西暦一世紀のある看守に関するでき事を述べている。使徒パウロと仲間のシラスは獄にいれられていた時のこと,真夜中に地震が起きて,獄の戸がみな開き,ふたりはかせを解かれて奇跡的に自由にされた。その同じ夜,その獄の看守とその家の者は時を逸さず,「エホバのことば」を述べるパウロの話に耳を傾けた。そして看守は「全家とともに神を信じて喜(んだ)」。(使行 16:25-34)命を与えるそのような知識を時を逸さずに取り入れるよう行動を起こすことは,今もなお知恵の道である。

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