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全人類のための書物ものみの塔 1975 | 6月1日
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指針を与える書物であるとの確信をいだいています。そのような人々の確信は正しいものでしょうか。聖書は単なる古代の賢人の創作にすぎないでしょうか。それとも,人間よりも高い源に由来する書物でしょうか。現在の生活から最善の益を享受し,またあなたご自身とあなたの愛しておられる人々の将来の安全を図るのに聖書は役だつでしょうか。
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聖書は単なる人知の所産ですかものみの塔 1975 | 6月1日
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聖書は単なる人知の所産ですか
多くの人々にとって聖書は単に昔の賢人が書き著わした書物にすぎません。しかし,それは聖書そのものが述べる事柄ではありません。聖書は神による霊感を受けて書き著わされた書物であることをはっきりと述べています。(サムエル後 23:2。テモテ第二 3:16。ペテロ第二 1:20,21)もしその主張が真実であれば,聖書は当時の賢人の単なる創作ではあり得ないことを納得させるに足る証拠が聖書の随所に見いだされてしかるべきでしょう。
そのような証拠がありますか。聖書に収められている知識は,古代の他の文献が同様の問題に関して述べている事柄と比べて勝っていますか。聖書はそのさまざまの部分が書き記された時代に支配的であった間違った見解の影響を免れているでしょうか。現代の知識に照らして調べるなら,聖書はどのように持ちこたえるでしょうか。
地球に関する知識
今日,わたしたちは地球が何ら物理的支えのない所に置かれていることを事実として知っています。しかし,聖書のより古い箇所が書かれていた当時の一般の人々は,このようなことを信じてはいませんでした。当時一般に受け入れられていたある考え方によれば,地球は巨大な海ガメの上に立っている四頭の象に支えられた円盤状のものとして描写されています。
聖書はそのような考え方の影響を受けましたか。いいえ,受けませんでした。ヨブ記 26章7節にはこう書かれています。「[神は]北の天を虚空に張り 地を物なき所に懸けたまふ」。この正確な陳述は,長いあいだ聖書学者たちに感銘を与えてきました。そのような学者の一人であるF・C・クックは19世紀に次のように書きました。「聖書はあらゆる異教徒の間に広く行き渡っている迷信に対して異様なまでに強力な抗議を行なっている……ヨブは広大な地球を支えている堅固な土台については何も知らない。ヨブが天文学によって証明された真理,つまり地球が無の空間に自然に釣合いを保ってかかっていることをどのようにして知り得たかは,聖書が霊感の所産であることを否定する人々にとって容易には解けない疑問である」。
聖書に収められている地球に関するこのような情報は,総合的な音信からすればごく付随的なものにすぎません。聖書のおもな目的は,神のご意志と調和した生活をするための健全な導きを与えることです。ですから,論理的に言って,聖書の述べる事柄は,聖書に従わない不完全な人間が指針としてこれまでに勧めてきた,また今後も勧めてゆく事柄よりはるかに優れているはずです。
医学的にも健全な事柄
一例として,約3,500年前にモーセを通してイスラエル国民に与えられた律法を取り上げてみましょう。その律法の目的の一つは,イスラエル国民の健康と福祉を守ることでした。律法を従順に守るなら,イスラエル国民は健康の面でも無事に過ごせることが約束されていました。(出エジプト 15:26,レビ 26:14-16と比較してください。)それは根拠のない約束でしたか。それとも,モーセの律法の定める処置は確かにその点で寄与するものでしたか。
律法がイスラエル民族に与えられた後でさえ,医学上の種々の概念に関しては当時の大文明国と言えどもさほど進歩してはいませんでした。フランスの医師で学者でもあるジョージ・ルーは,次のように書いています。「メソポタミアの医者の診断と予後は,迷信と正確な観察とを折衷させたものであった」。エジプトの医者とその治療法についてはこう記されています。「現存する古代医学に関するパピルス写本の最大のものはエベルズ写本であるが,それらの写本によれば,当時の医者の医学知識は純粋に経験に基づくもので,おおむね魔術的で,全く非科学的なものであることがわかる。十分の機会があったにもかかわらず,人体解剖学については無知同然であった」― 国際標準聖書百科事典,第4巻2393ページ。
エベルズ写本に収められている処方のほとんどが無価値であるばかりか,その多くはかなり危険なものです。人間や動物の排泄物の使用が関係する治療法については特にそう言えます。かさぶたがとれたのちの傷口を治療するのに,人間,それも写字生のふん便を新鮮な牛乳とよく混ぜ合わせたものが湿布剤として用いられました。とげを抜く手当ての一つとしてはこう記されています。「虫の血,それを煮て,油を入れてつぶす。モグラ,それを殺して煮て,その汁をこして油と混ぜる。ロバの糞,それを新鮮な牛乳と混ぜ合わせて傷口に塗る」。こうした糞の使用は,傷をいやすどころか,破傷風あるいは咬痙を含め,さまざまの危険な伝染病を引き起こす恐れがありました。
モーセの律法の規定は,エベルズ写本に見られるようなまちがった概念の影響を受けてはいません。たとえば,モーセの律法によると,人間の排泄物は汚れたもので,人の目につかないように埋めるよう指示されていました。軍隊の野営地に関する規定は次のように明確に述べています。「あなたはまた陣営の外に一つの所を設けておいて,用をたす時,そこに出て行かなければならない。また武器と共に,くわを備え,外に出て,かがむ時,それをもって土を掘り,向きをかえて,出た物をおおわなければならない」。(申命 23:12,13,口語)神はモーセを通して律法をイスラエル人にお与えになりましたが,そのモーセが「エジプト人の知恵をことごとく教授された」ことを考えると,モーセの律法とエジプト人の行なっていた事柄との相違には実に驚くべきものがあります。―使徒 7:22。
もしモーセの律法のある種の規定の背後にある優れた知恵が,もっと最近の何世紀間かに認められていたなら,一命を取り留め得た人は少なくなかったでしょう。わずか百年前のことですが,ヨーロッパの医学には健全な衛生水準が何もなかったため,死亡率は恐るべきものでした。多くの産科病棟では4人につきおよそ1人の産婦が産褥熱のために死亡しました。なぜですか。それは医学生たちが解剖室で死体を取り扱ったのち,手を洗わずにそのまま産科病棟に行き,種々の検査を行なったためでした。死体の病菌が生きている人に伝染したのです。この点に気づいたオーストリア,ウィーンの産科診療所のゼンメルワイス博士は,種々の検査を行なう学生に漂白粉の溶液で手を洗うよう指示したところ,産科病棟の死亡者は著しく減少し,4人につきおよそ1人であった死亡率が,80人につきおよそ1人の割合になりました。
後日,ゼンメルワイス博士は生まれ故郷のハンガリーで仕事をし,その消毒方法は政府によって認められました。とはいえ,全体としてヨーロッパ医学界は手を洗うことに反対でした。ウィーンの医学雑誌の編集者は,「漂白粉の溶液で手を洗うなどというこんなばかげたことはやめるべき」時が来たとまで酷評しました。1861年,ゼンメルワイス博士は自分が発見した事柄や消毒方法に関する記録を出版し,後にその書物を著名な産科医や医学協会に送りましたが,医学界は好意的な反応を示しませんでした。ドイツの医師や自然科学者の会議では大抵の講演者はゼンメルワイスの健全な医学上の意見を退けました。
19世紀のヨーロッパの医者や科学者たちは自らを学識ある者と考えていました。ところが,確かにそれとは気づかずに,何千年も前にモーセの律法の衛生に関する規定に明らかに示されている,優れた知恵を退けていたのです。その律法によれば,死人に触れた者はだれでも汚れた者となるので,その人は体や衣服を洗うことを含め,清めの処置を講じてもらわなければなりませんでした。汚れた状態の期間は七日間と定められており,その期間中汚れた人は他の人との身体的接触を避けなければなりませんでした。はからずもだれかに触ったなら,相手の人はその日の晩まで汚れた者とされました。こうした処置は,危険な病菌が死人から生きている人へ,またある人から別の人へと伝染するのを防ぐのに役立ちました。―民数 19:11-22。
もし前世紀の医学界がモーセの律法を神からのものと見なしていたなら,どれほど多くの人の命を救い得たかを考えてみてください。もしそのように見なしていたなら,生きている人や死んだ人を扱う際,医師ははるかに大きな注意を払っていたに違いありません。
ある分野では,聖書の述べる事柄の背後にある知恵が最近になってやっと認められるようになりました。その適例は,アブラハムに与えられ,後にモーセの律法の中で再び繰り返された割礼に関する命令です。それによると,生後八日目になるまでは男の赤子には割礼を施してはなりませんでした。(創世 17:12。レビ 12:2,3)しかし,八日目というのはどういうわけですか。
今では,八日目を最適とする医学上の確かな根拠のあることが知られています。生後五日ないし七日目になるまでは,赤子の体内では「ビタミンK」として知られる凝血素は正常な量に達しません。また,血液凝固に不可欠なもう一つの要素であるプロトロンビンの濃度が八日目には幼児期中のどの時期よりも高まるようです。こうした証拠に基づいて,ある大学の医師であるS・I・マクミランは,「割礼を施す理想的な日は八日目である」と結論しています。―「こんな病気はもうたくさん」,22,23ページ。
そのような理想的な日が選ばれたのは,単なる偶然ですか。他の民族も長いあいだ割礼を施してきましたが,聖書の影響を受けた人たちだけが男子の赤子に生後八日目に割礼を施したことで確かに知られているということは注目に価します。であってみれば,人間の創造者がその日を定められたとする聖書の説明を受け入れるのは理にかなったことではないでしょうか。それこそ,その律法を従順に守れば健康を維持するのに役立つと言われた方に期待してしかるべき事ではありませんか。
確かに聖書には目ざましい知恵の言葉が収められているということは否定できません。聖書が単なる人知の所産ではあり得ないことを示す明らかな証拠が確かにあります。聖書には,それが書かれた時代の世の賢人のあずかり知らない知恵を示す言葉が収められているのです。しかもなお,聖書が神からの書物であることを明らかにする,さらに強力な要素があります。それは何ですか。
[325ページの図版]
人間が宇宙空間から地球を眺めるよりもはるかに遠い昔に聖書は,『地は物なき所にかけられた』と述べていた
[327ページの図版]
医学界が聖書を信じていたなら,多数の母親は命を失わずにすんだであろう
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人間には知ることのできるはずがない知識ものみの塔 1975 | 6月1日
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人間には知ることのできるはずがない知識
「あなたがたは,あす自分の命がどうなるかも知らないのです。あなたがたは,少しのあいだ現われては消えてゆく霧のようなものだからです」。聖書にあるこのことばは否定することのできない事実を述べています。つまり,わたしたち人間には明日の事も確かにはわからないということです。―ヤコブ 4:14。
このことを考えれば,人間が将来の大きな出来事を誤ることなく正確に,しかも明白なことばで何世紀も前に予告するのははるかに難しい,いや不可能なことではないでしょうか。このような予告つまり預言が聖書にあるとすれば,聖書を神の霊感によるものとする聖書のことばは確かに裏づけられるのではありませんか。では,そのような預言が聖書にありますか。考えてみてください。
バビロンとニネベの滅び
ユーフラテス川の両岸に建てられたバビロンは,かつて大バビロニア帝国のみごとな首都でした。やしの木に囲まれたこの都は耐久的な水道を設備し,ペルシャ湾から地中海に至る通商路に位置していたので絶好の地の利を占めていました。それにもかかわらず,ヘブライ人の預言者イザヤは,バビロンがアッシリア帝国の単なる衛星国から,世界を征服したバビロニア帝国の首都へと発展を遂げる以前にさえ,すなわち西暦前8世紀に次のことを宣言しました。「国々の誉であり,カルデヤびとの誇である麗しいバビロンは,神に滅ぼされたソドム,ゴモラのようになる。ここにはながく住む者が絶え,世々にいたるまで住みつく者がなく,アラビヤびともそこに天幕を張らず,羊飼もそこに群れを伏させることがない」― イザヤ 13:19,20,口語。
今日このことばの成就はだれも否定できません。すでに何世紀もの間バビロンは廃虚となっています。春になっても羊ややぎの食む草はなく,したがって動物のそのような姿も見られません。バビロンの栄光は消えうせました。フランス国立博物館のアンドレ・パロ館長は次のように述べています。
「私がいつでもそれから受ける印象は,全くの荒廃というにつきる……[観光客は]たいていの場合すっかり失望し,ほとんど口をそろえて何も見るものがないと言う。彼らは宮殿や寺院そして『バベルの塔』が見られると期待しているのである。彼らが見せられるものは廃虚の山にすぎない。その大部分は焼いたれんが ― つまり天火で乾かした粘土のブロックである。灰色をしたそれらのれんがは朽ちてくずれかけており,とても感銘を与えるようなものではない。人間の手による破壊に自然界の力が加わって崩壊を完全なものにした。自然界の力は,発掘によって日の目を見たすべての物を今なお浸食しつつある。最もすぐれた遺物でさえも修理を怠るならば,風雨や霜などによって浸食されたり,徐々に破壊されたりして,それを掘り出したところにあった元の土にもどってしまうであろう……絶え間ないこの浸食を食いとめることは人間にはできない。バビロンの再建はもはや不可能である。その運命はすでに定まった……バビロンは完全に消滅した」―「バビロンと旧約聖書」,13,14ページ。
同様に,アッシリア帝国の首都ニネベも荒廃して廃虚と化しました。この事も聖書預言の正確な成就を証明しています。ニネベがどうなるかについて,預言者ゼパニヤは西暦前7世紀に次のことを述べました。「[神は]ニネベを荒して,荒野のような,かわいた地とされる。家畜の群れ……はその中に伏し……」― ゼパニヤ 2:13,14,口語。
この預言に表明された神のご意志が成し遂げられたことを示す証拠は,今なお存在しています。かつての誇り高いアッシリアの首都の跡を示しているのは,今日そこにある二つの大きな丘です。その一方は頂上に村があり,村には墓地と回教寺院があります。しかし他方には,いくらかの草とわずかな耕地のほかには何もありません。春になると,そこには草を食む羊とやぎの群れが見られます。
強大なバビロンとニネベが共にこのような終わりに至ることを人間が予見し得たでしょうか。古代ニネベの跡には草を食む羊とやぎの群れが見られ,荒廃したバビロンの跡にはそれが見られないのを人間が予見することなどあり得るでしょうか。イザヤにしてもゼパニヤにしても,その預言的音信が自分自身から出たものであるとは主張していません。彼らは,その語ったことがエホバというお名前を持たれる真の神の音信つまり「言葉」であると述べています。(イザヤ 1:1,2; ゼパニヤ 1:1,口語)彼らの預言がまさしく成就したのを見るとき,彼らの語った事を受け入れるのは理にかなっていないでしょうか。
書かれた時期あるいはそれに類する事柄の論議も,これら成就した預言の力を弱めるものではありません。昔の栄光を失ったとはいえ,バビロンは西暦前1世紀に至るまでもなお存在していました。そうであるのに,イザヤ書の死海写本(学者によれば西暦前2世紀の終わりか1世紀初めのものとされている)には,後代の写本と同様,バビロンに関するこの同じ預言が含まれています。ゆえにこれらの事をその起きたあとに記録して預言のように見せかけたという説には,全く根拠がありません。また,バビロンとニネベが荒廃に帰したことも,言い抜けることのできない事実です。
聖書預言は独特で,目的を持つもの
もちろん,ある人々は聖書預言の明白に示す事柄を正当に評価せず,昔の預言者のある者たちは聖書の神エホバの霊感を主張していないことを指摘します。しかしそのような他の預言者が予告したのはどんな事ですか。彼らの預言は実際にどんな価値がありましたか。アメリカナ百科事典(1956年版22巻664ページ)の述べる事柄に注目してください。「ヘブライ人のものを別にすれば,これら預言者たちのだれにしても,その語った事柄の,現存する記録に見るべきものはひとつもない。……ヘブライ人以外の諸民族に見られる預言は,個人の特定な質問に答えたもので,おおむね千里眼のたぐいのものである。したがって,一般的また永続的な価値を持たない」。それで他の預言者の存在にしても,ヘブライ人預言者が神からの霊感を受けたという事実をなんら疑わせるものではありません。むしろそれとは反対に,預言の内容が著しく対照的であることは,聖書がその述べるとおり神の音信であることをいっそう明らかに物語っています。
そのうえ聖書に記録された預言には,はっきりした目的がありました。道徳上の正しい道を乱した罰として滅びが臨むことを指摘している場合でさえ,神の霊感の預言は人々と国民がその道と行ないを反省して改め,災いをまぬかれる機会を与えています。これは,前もって公に告げられた神の裁きのすべてについて言えることです。神が預言者エレミヤによって言われたことばからもそれは明らかにわかります。「ある時には,わたしが民または国を抜く,破る,滅ぼすということがあるが,もしわたしの言った国がその悪を離れるならば,わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす」― エレミヤ 18:7,8,口語。
西暦前9世紀のニネベに向けられたヨナの預言は,そのことを示す例です。彼は町中をめぐり,「四十日を経たらニネベは滅びる」と告げました。(ヨナ 3:4,口語)この音信はニネベの人々の心を強くうったので,彼らは自分たちの悪を悔い改めました。王はみずから荒布を着,すべての住民と家畜が断食して荒布を着るべきことを布告しました。ニネベ人は悔い改めたゆえに,さもなければ定められた40日の期間の終わりに臨んだはずの災いをまぬかれたのです。―ヨナ 3:5-10,口語。
この点を示す別の例は,エルサレムとその神殿が,イエスのことばを聞いた世代の人々の生涯中に滅びることを予告したイエス・キリストの預言です。その預言は,積極的に行動して逃れる道をはっきり指摘していました。イエスは弟子たちにこう告げました。「また,エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,その荒廃が近づいたことを知りなさい。その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。都の中にいる者はそこを出なさい。町外れにいる者は都の中に入ってはなりません」― ルカ 21:20,21。
イエスの弟子たちは,この預言的なことばに従って行動することがどうしてできましたか。人間の考えからすれば,いったん敵の軍勢に包囲されたエルサレムから逃げ出すことはとうてい危険で不可能だったでしょう。(しかし1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスの著作からうかがわれるように,全く予期しない事態の発展によって逃れる道が開かれました。
ケスチウス・ガルスの率いるローマ軍がエルサレムに攻めて来たのは,西暦66年のことでした。都がローマ軍の手に陥ることは確かのように思われました。しかし不可解なことに,ガルスは都の陥落まで包囲を無理につづけませんでした。ヨセフスの伝えるところによれば,彼は「突然に攻撃を中止させ,なんらの敗退もこうむっていないのに攻略をあきらめた。そして全く理屈に合わないことに都から撤退した」のです。イエスの預言を信じた人々は,こうした形勢の異常な変化によって,エルサレムとユダヤを見捨て,ヨルダン川の東の山地に安全を見いだすのに必要な機会を与えられました。
しかし,イエスの預言に少しも注意しなかった人々はどうでしたか。彼らは重大な苦難の時を経験することになりました。西暦70年の過ぎ越しの時期に,このたびはティツスに率いられたローマ軍が再び来てエルサレムを包囲しました。攻囲の期間は5か月に満たなかったものの,その結果は恐るべきものでした。都は過ぎ越しを祝う人々でこみあっており,しかも食糧を町に持ち込む道が絶たれたので恐ろしい飢餓の状態が出現しました。攻囲の最中に死んだと伝えられるおよそ110万人のうち,その大多数は疫病と飢餓の犠牲者でした。(戦いが始まってから終わるまでに)捕虜となった9万7千人ははずかしめられました。多くの者はエジプトやローマで重労働に服させられ,他の者たちはローマ諸州の闘技場で死に渡されました。17歳以下の者は売られ,いちばん背が高く,また容ぼうの美しい若者たちは,ローマ人のがいせん行進のためにわけられました。
エルサレムとその神殿は灰じんに帰し,立っているものといえば西の城壁の一部と三つの塔を残すのみでした。「都を囲んでいた城壁の他の部分はすべて完全にくずされたので,その場所を訪れる人は,そこにかつて人が住んでいたことを信じられないであろう」とヨセフスは書いています。
都がそれほど完全に破壊されたことは注目に値します。なぜですか。なぜなら,それはティツス将軍の意図ではなかったからです。歴史家ヨセフスは,ティツスがユダヤ人に語った次のことばを引用しています。「全く不本意ながら私は城壁にまで兵器を進めた。私は血にうえかわく兵士たちをおさえた。勝利のたびごとに,私はそれが敗北であるかのように休戦を訴えた。神殿の近くにまで迫った時,私は勝者の権利をふたたび故意に放棄して,諸君に開城の自由と安全の保証を与え,あるいは諸君が望むならば他の場所で戦う機会を提供し,こうして諸君自身の聖域と聖所を救うように訴えた」。しかし,おそらくはティツスの初めの意図であった事に反するにもかかわらず,エルサレムとその神殿にかかわるイエスの預言は成就したのです。「彼らは……あなたの中で石を石の上に残したままにはしておかないでしょう」― ルカ 19:44; 21:6。
西暦70年にエルサレムの攻略に成功したことを記念するティツスの凱旋門は,今日に至るまでローマの都に見られます。聖書に記録された真の預言の警告を無視することが災いをもたらすことを,この門は無言のうちに思い起こさせてくれます。
イエス・キリストはその預言した事柄がご自分から出たものであるとは主張していないことにも注目してください。イエスは彼以前のヘブライ人預言者たちと同じく,霊感の真の源が神であることを認めていました。あるとき,イエスはユダヤ人たちにこう語られました。「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わしたかたに属するものです。だれでもこのかたのご意志を行なおうと思うなら,この教えについて,それが神からのものか,それともわたしが独自の考えで話しているのかわかるでしょう」。(ヨハネ 7:16,17)イエスの預言的なことばの成就は,それが神の「言葉」であることの証拠と言えるでしょう。
聖書預言から今日,益を得る
過去において預言のことばに一致して行動したことが多くの場合,生命を救う結果になったという事実は,今日,預言を考慮することの重要さをたしかに強調しています。何世紀も前に記録されたとはいえ,これから成就する預言が数多くあり,したがって積極的な行動が必要です。それらの預言には,あらゆる腐敗,不正,圧制の終わりの近いことを告げる預言が含まれています。
エルサレムと荘厳なその神殿の滅びを預言したイエス・キリストこそ,現在の邪悪な事物の体制からの大いなる救い,すなわちキリストの弟子たちがこの時代に経験する救いについて預言したかたです。その救いが近いことを示す情勢の変化について言えば,イエスはきわめて暗い,荒涼とした時勢を暗示しています。それはあたかも太陽,月,星が光を放つのをやめ,暗やみにおき去りにされた人間が手さぐりするような状態です。(マタイ 24:29)イエスは言われました。「地上では,海のとどろきとその動揺のゆえに逃げ道を知らない諸国民の苦もんがあるでしょう。同時に人びとは,人の住む地に臨もうとする事がらへの恐れと予想から気を失います」― ルカ 21:25,26。
このすべての事が起きている最中にも,イエスの追随者は,希望を失いはて絶望してうなだれる必要を感じないでしょう。イエスは次のようにことばをつづけました。「しかし,これらの事が起こり始めたなら,あなたがたは身をまっすぐに起こし,頭を上げなさい。あなたがたの救出が近づいているからです」。ついでイエスはたとえによって論点を説明し,こう言われました。「いちじくの木やほかのすべての木をよく見なさい。それらがすでに芽ぐんでいれば,あなたがたはそれを観察して,もう夏の近いことを自分で知ります。このように,あなたがたはまた,これらの事が起きているのを見たなら,神の王国の近いことを知りなさい」― ルカ 21:28-31。
今日,世界の動きに気づいている人々が前途にあるものを非常に恐れているのは事実ではありませんか。人口過剰,食糧不足,犯罪と暴力,土地と空気と海洋の汚染そして経済の不安定は,人々と国家が首尾よく対処することのできない,ますます重大な問題となっていませんか。第1次世界大戦の勃発以前において,人類がこれほど多くの問題に直面した時がはたしてあったでしょうか。したがって,わたしたちの生きている時代は,イエスが預言した,みぞうの恐れと困難の時代であるに違いありません。そのことを示す明白なしるしがあると言えないでしょうか。確かに言えます!
これは,神の王国による大いなる救いがきわめて近いということです。聖書の預言によれば,その王国とは正義の政府であって,この地からあらゆる腐敗の源を除き去り,真の平和と安全の時代を招来します。―ダニエル 2:44。ペテロ第二 3:13。
あなたはこの王国のことをもっと学び,またどうすれば王国のもたらす大いなる解放にあずかる人のひとりになれるかを学ぶことができます。聖書はあなたがそうすることを可能にするでしょう。預言の正確な成就から明らかなように,聖書は全人類に対する神の音信として信用することのできるものです。もちろん,あなたはイエスの,不信仰な同国人のようになりたくはないでしょう。彼らは預言のことばに一致して行動しさえすれば,西暦1世紀に災いをまぬかれることができたのです。確かに,これはあなたご自身とあなたの愛する人々の安全かつ幸福な将来につながる事柄ですから,それについてよく知るためにいくらかの時間をとり,積極的に行動するならば,これにまさる時間の使い方はあり得ません。
[330ページの図版]
強大なバビロンが家畜の群れの伏すこともない廃墟となり…
[331ページの図版]
一方,ニネベは,同じく廃墟ではあっても家畜の群れの伏すところとなることを,はたして人間が予見し得たであろうか
[332ページの図版]
ローマにあるティツスの凱旋門は,神の預言のことばの真実さを確証している
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聖書 ― 人間が書いたとはいえ,神からの音信を収めた書物ものみの塔 1975 | 6月1日
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聖書 ― 人間が書いたとはいえ,神からの音信を収めた書物
1 人間的な見地からすると,聖書記述者たちはどんな人たちでしたか。
聖書は約16世紀にわたる期間に40人ほどの人によって書かれました。その人々も不完全で,弱点もあれば間違いもしました。人間ですから,他の人々と変わったところはありませんでした。それらの一人であったパウロは,彼と彼の宣教仲間のバルナバとを間違って神と考えた人々に向かい,「わたしたちも,あなたがたと同じ弱さを持つ人間です」と言いました。(使徒 14:15)人間的な見地からすれば,聖書記述者の多くは特別に博学の人でも,才能のある人でもありませんでした。彼らの中には,羊飼いとか漁師といった職業を持つごく普通の人たちもいました。
2 不完全な人間が,実際に神の「ことば」である一つの記録を作り上げることができたのはなぜですか。
2 ではそれら不完全な人々が,実際に神からの音信である一つの記録を作り上げることができたのはなぜですか。彼らは自分自身の衝動に駆られて書いたのではありません。神の霊感を受けて書いたのです。使徒パウロは,当時手に入れることができた分の聖書につき,「聖書全体は神の霊感を受けたものであ(る)」と述べました。―テモテ第二 3:16。
3,4 聖書が霊感によって書かれたことに疑いをいだくことには,どんな危険が潜在しますか。
3 あなたは聖書を,神の霊感によることば,と信じておられるかもしれません。しかしその信仰はどれほど強いものですか。試練に遭ってもくじけないものですか。預言者エレミヤは,『エホバの言日々にわが身の恥辱となり嘲弄となるなり』と言いました。(エレミヤ 20:8)あなたは神のことばのためなら,悪口や肉体的虐待に進んで耐え,死をさえ辞さないでしょうか。神のことばである聖書が霊感によって書かれたことについて少しでも疑いをいだいているなら,苦しみや反対などの圧迫の下に置かれるときにその疑いは一層大きくなり,信仰はくつがえされ,誘惑に対する抵抗力は弱められる恐れがあります。(ヤコブ 1:6)しかし,聖書が神のことばであること,聖書に従って生きることが唯一の正しい生き方であることを心から信じているなら,苦しみに耐えるにも,ご都合主義の道を歩まないようにするにも,はるかに有利な立場にあることになります。
4 聖書は ― 少なくともある部分は ― 単なる人間の思考の所産にすぎないかもしれないと論ずる人は,問題を逃れようとして,聖書のことばを無視したことを正当化しようとするかもしれません。しかしそれは実際には,永遠の命の見込みを犠牲にすることかもしれません。イエス・キリストは言われました。「だれでも,自分の魂を自分のために安全に守ろうとする者はそれを失い,一方,それを失う者は,それを生き長らえさせるのです」。(ルカ 17:33)したがって,人間によって書かれた本である聖書がなぜ本当に神のことばと言えるかを考えることは,一時的な興味を満足させることなどとはわけが違います。それにはわたしたちの命が関係しているのです。
聖書記述者たちが情報を受けたその方法
5 聖書を記録するに際し,直接的な口授はどんな役目を果たしましたか。
5 神は「多くの方法」を用いて地上の人間に音信を伝えられましたが,そのうちの一つは直接に口授する方法です。(ヘブライ 1:1,2)十戒(二枚の石板の上に書かれた文書の形でも与えられた)および神がイスラエル人と結ばれた契約のなかの他のすべての律法と規定は,聖書の口授された部分にはいります。エホバ神はみ使いたちを通してこの律法契約をお伝えになりました。(使徒 7:53)そのあとモーセは,『なんじこれらの言語を書きしるせ』という指示を受けました。(出エジプト 34:27)モーセ以外の預言者たちも特定の音信を受け,のちほどそれを書き記しました。(たとえばサムエル後 7:5-16,イザヤ 7:3-9そしてエレミヤ 7:1-34をご覧ください。)こうした特定の音信は,神の代理のみ使いによって語られるのが常でした。―創世 31:11-13。
6 夢,幻,恍惚状態の性質および神よりの音信を人間に伝えるに当たりそれらが果たした役割について述べなさい。
6 エホバ神は,ご自分の音信を人間に伝えるのに,夢や幻,恍惚状態などを利用されたこともありました。(民数 12:6。サムエル前 3:4-14。サムエル後 7:17。ダニエル 9:20-27)夢,すなわち「夜の幻」の場合には,眠っている人は,神のお告げもしくは目的を伝える一つの動く光景を見,それを頭に焼きつけられました。幻を見た他の人たちの場合は完全に目が覚めていました。そして情報を,意識のはっきりしている頭に描画的に印象づけられました。(マタイ 17:2-9。ルカ 9:32)幾つかの幻は,恍惚状態に陥ったあと与えられました。それを見た人は意識はありましたが,幻に夢中になっていたので,自分の周りのもののことはまったく頭にありませんでした。(使徒 10:10-16; 11:5-10)こうして夢や幻や恍惚状態などの手段によって情報を受け取った聖書記述者たちは,そのあと,自分が見たことを意味深いことばで叙述するために,用語や表現を選択しなければなりませんでした。―ハバクク 2:2。啓示 1:1,11。
7 聖書記述者たちは,歴史的な部分の情報をどのように手に入れましたか。
7 聖書のかなりの部分は,歴史,つまり個人や家族,部族,民族が経験した事柄を物語っています。聖書記述者たちはどのようにしてその情報を得たのでしょうか。時には彼らは自分が記録した出来事を目撃していたこともありました。しかし多くの場合,すでに存在していた歴史的記録や系譜を調べたり,直接あるいは間接に手に入れた信頼できる情報を提供できる人たちに意見を聞くことさえして,他の情報源に頼らねばなりませんでした。ですから記述者は,広範囲にわたる,注意深い調査を要求されました。祭司であり熟練した写字者であったエズラは,歴代志略上下を編さんするのに20余の記録資料を用いました。医師ルカは彼の福音書について書いたとき,「わたくしも,すべてのことについて始めから正確にそのあとをたどりましたので,それを……論理的な順序で書いてお伝えする」と述べました。(ルカ 1:3)人間の始まりやそれ以前の出来事,目に見えない天で交わされた会話やその他に関する(創世記やヨブ記にあるような)歴史的資料は,神が記述者に啓示されたものか,または最初に他の者に啓示されていたものです。もし記述者以外の者に知らされたものであれば,それは聖書の記録の一部となる時まで,口から口に,あるいは文書の形で伝えられたに違いありません。
8 聖書の格言や助言の多くは何に基づいて語られましたか。
8 聖書には歴史のほかに格言や助言がたくさんのせられています。その記述者たちは,彼らが手に入れることのできた聖書の研究と適用とを背景にし,自分自身や他の人々の体験をもとにして書きました。聖書にはこのことを示すことばがしばしば出てきます。詩篇作者ダビデは,神がご自分のしもべたちの世話をされるのを自分が見てきたことについて『われむかし年わかくして今おいたれど 義者のすてられ あるいはその裔の糧こいありくを見しことなし』と述べています。(詩 37:25)伝道の書の知恵にたけた筆者,ダビデの子ソロモンは,自分が観察したことから次のような結論を引き出しました。「人には,食べたり飲んだりし,自分の労苦のゆえに自分の魂に良いものを見させるよりほかに良いことはない。これもまた,真の神のみ手から出ることをわたしはみた」。(伝道 2:24,新)人間経験に基づく資料をまとめるには記述者の側の勤勉な努力が要求されました。そのことは,次のように書かれている伝道の書 12章9,10節(新)からみて明らかです。「召集者は賢い者となっていたが,なお常に民に知識を教え,また思いめぐらしかつあますところなく探り求めて,多くの格言をまとめようとした。召集者は,喜ばしいことばを見いだし,また真実の正しいことばを書くことに努めた」。
神の霊が果たした役割
9 聖書の記述に人間が多くの努力を払ったということは,聖書は限られた範囲でのみ神よりの音信であるという意味ですか。
9 聖書の記述に人間が非常に多くの努力を払った以上,そのことは,聖書が限られた範囲においてのみ神のことばである,ということを意味するのでしょうか。神が口授された部分だけが,神からの音信なのでしょうか。そうではありません。聖書は,ある部分だけでなく全部が神の霊感によって書かれたものです。そう言えるのは,エホバ神がご自身の活動力すなわち霊によって聖書記述者を導かれたからです。詩篇作者ダビデはその点を認め,「エホバの霊がわたしによって語り,そのことばはわたしの舌にあった」と述べました。―サムエル後 23:2,新。
10 『神のことば』という表現は,聖書の資料と関係している場合には何を意味しますか。
10 ダビデの舌にあった神の「ことば」というのは,一個の「ことば」ではなく,総合的な音信でした。そのことは,「ことば」という語の聖書における用法からみて明らかです。たとえば,預言者エリシャの従者のひとりは,イスラエルの軍の頭エヒウに向かって,「隊長よ,あなたに申し上げるべきことばがあります」と言いました。(列王下 9:5,新)その「ことば」は神からの音信であることがわかりました。それは,エヒウが十支族のイスラエル王国の王として神より選ばれたことを明示し,かつアハブの王家に対して刑を執行することを彼に命ずるものでした。(列王下 9:6-10)同様に,エレミヤ記 23章29節も,ただ一つの「ことば」ではなく一つの音信に言及しているものであることは明らかです。『エホバ言いたまわく 我がことばは火のごとくならずや また磐を打ち砕く槌のごとくならずや』。どんな「ことば」でも,ただ一語でそのような破壊的影響を及ぼしうるものはありません。しかし強力な音信は,その内容が実施される時には,そのような破壊的影響を及ぼしえます。神はそのような強力な音信を聖書記述者たちの思いの中に入れ,そしてそれが神の「ことば」として存続することを保証するのに,ご自身の霊をどのように用いられたのでしょうか。
11 聖書の預言は「どれも個人的な解釈からは出ていない」というのはどういうことですか。
11 預言に関連して神の霊が果たした役割については,聖書は次のように述べています。「聖書の預言はどれも個人的な解釈からは出て(いません)。預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです」。(ペテロ第二 1:20,21)これは次のことを意味します。つまり聖書の預言は,記述者自身がその時代の人間の世界の出来事や傾向を分析したり解釈したりしてそれらがどうなっていくかを考えた結果ではないということです。むしろ記述者は,神の霊によって思いを刺激され,啓示された音信を,たいていの場合自分のことばで,言い表わすように動かされたのです。ですからことばは記述者のものでしたが,その音信はエホバ神から出たものでした。
12 過去の出来事を記録するよう導くことにおいて神の霊はどんな役割を果たしましたか。
12 しかし,聖書の一部となった資料は,記述されている出来事が起きてから何年もたって書かれた場合が多いのではありませんか。そうです。たとえばイエスの地上での宣教に関する記録などはそれです。しかし正確な記録を作らせたのは神の霊でした。このことはイエスが弟子たちに言われた次のことばから明らかです。「父がわたしの名において遣わしてくださる助け手,つまり聖霊のことですが,その者はあなたがたにすべてのことを教え,わたしが告げたすべての事がらを思い起こさせるでしょう」。(ヨハネ 14:26)ですから,聖書の記録に含められた情報を正確に思い起こさせたのは神の霊でした。
13 聖書に載せる資料の選択を神の霊が導いたということについては,どんな証拠がありますか。
13 エホバ神はまた,ご自分の目的に合致した事柄が記録されるようご自分の霊によって取り計らわれ,エホバに是認されたしもべとなる,そしてそのようなしもべとしてとどまることを望む者たちに欠くことのできない指示をお与えになりました。神は含めるべき資料の選択も導かれました。だからこそ使徒パウロは,「以前に書かれた事がらはみなわたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの慰めとによって希望を持つためです」と言うことができたのです。(ローマ 15:4)またモーセの時代のイスラエル人が経験した事柄に明確に言及し,次のように述べました。「これらの事は例[「型」,欽定訳欄外]として彼らに降りかかったのであり,それが書かれたのは,[ユダヤ教の]事物の諸体制の終わりに臨んでいるわたしたちに対する警告のためです」― コリント第一 10:11。
14 エホバ神は,イスラエル人の悪行と関係のある事件を,クリスチャンたちへの警告として記録させることができるように“演出”されたのですか。説明してください。
14 しかしこのことからわたしたちは,神はあらゆる場合にいわば大“劇作家”として行動し,後代の神のしもべたちが見せしめとし励ましとしうる例となる事件を,計画的に演出されたのだと結論すべきではありません。そうではないからです。使徒が言及した事件の場合のように,イスラエル人が不平や偶像崇拝や淫行のとりこになったときには,彼らは自分自身の好みと欲望とに従って状況に反応したのです。神が彼らを動かしてそうさせたのではありません。(コリント第一 10:1-10)イスラエル人は神の契約の民でしたから,彼らが誘惑に屈したという事実は,その後使徒が与える「立っていると思う者は,倒れることがないよう気をつけなさい」という警告にいっそうの迫力を加えます。―コリント第一 10:12。
15 ユダの手紙は,神の霊が資料の選択を導いたことを,どのように示していますか。
15 ですからエホバ神は,こうした多くの事件を発生させるというよりも,むしろ多くの状況を自然の成り行きに従って発展するにまかせ,しかるのち記述者たちをして,将来役立つとご自分が知っておられた事柄を記録させられたのです。聖書に記録する資料の選択が実際に神の霊の導きを受けたことは,弟子ユダの手紙の場合によく示されています。ユダは最初,霊で油そそがれたクリスチャンたちがともにあずかる救いについて書くつもりでした。しかし,神の霊の影響により,仲間の信者たちが,彼らの直面している状況に対処するのに別のものを必要としていることを悟りました。彼は最初の計画を変えた理由を説明し,次のように書きました。「愛する者たちよ,わたしたちがともにあずかる救いについてあなたがたに書き送るため,わたしはあらゆる努力をしていましたが,聖なる者たちに一度かぎり伝えられた信仰のために厳しい戦いをするよう,あなたがたに書き送って説き勧める必要のあることを知りました。その理由は,聖書によりずっと以前からこの裁きに定められていたある人びとが忍び込み,その不敬虔な者たちが,わたしたちの神のご親切を不品行の口実に変え,わたしたちの唯一の所有者また主であるイエス・キリストに不実な者となっているからです」。(ユダ 3,4)以下ユダが神の霊に導かれて述べたことは,腐敗的な影響に抵抗するために仲間の信者たちが必要としていたものでした。
16 聖書記述者たちは,資料を説明するさいに,自分の意思を働かせることがありましたか。説明しなさい。
16 聖書に記録される資料の選択を神の霊が導いたということは,書くことに関係した人々が,彼らの書物の内容に関し,個人の意思をまったく働かせなかったということでしょうか。そうではありません。多くの場合彼らは実際に目標を立て,それに従って書きました。彼らは特定の質問に答え,あるいは誤解を生じさせていた点をはっきり説明することに努めました。このことを示す一つの例は,テサロニケの会衆にあてた使徒パウロの第二の手紙です。同会衆には,王権を持つイエス・キリストの臨在が間近い,と間違って考えていた人たちがいました。それからまた,彼が以前に与えた,『一生懸命に働き,会衆外の人びととの関係において適正に歩む』ことについての助言を心に銘記していなかった人たちもいました。パウロの第二の手紙は真正面からこの問題と取り組み,これらの点に関する,クリスチャンにふさわしい正しい見方を示しました。(テサロニケ第一 4:10-12。テサロニケ第二 2:1-3; 3:10-15)パウロのような聖書記述者たちは,神の霊の導きにこたえ応じましたから,彼らが書いた事柄は神の目的と完全に一致していました。したがって信頼できるものでした。
人間の意見 ― 神の後ろ盾の有無
17,18 『わたしの意見を述べる』という使徒パウロのことばをわたしたちはどのように理解すべきですか。
17 しかし,聖書記述者たちが自分の意見を述べたと思われる場合についてはどうでしょうか。たとえば使徒パウロの次のことばを考えてみてください。「他の人たちにわたしは言います。そうです,主ではなく,わたしがです」。「さて童貞の人について,わたしは主からなんの命令も受けていませんが,……わたしの意見を述べます」。「しかし,わたしの意見では,彼女[やもめ]はそのままでいたほうが幸福です。わたしは自分も神の霊を持っていると確かに考えています」。(コリント第一 7:12,25,40)パウロはどういう意味でこういうことを言ったのでしょうか。
18 同使徒は,論議中の事柄に関し主イエス・キリストの直接の教えを引用することができなかったので,自分の「意見」を述べました。とはいえ,彼は神の霊の指示のもとに書きましたから,彼の意見は神に導かれたものであり,神ご自身の見方を言い表わしたものでした。このことは,使徒ペテロがパウロの手紙を聖書の残りの部分と同列に置いて,次のように述べた事実により確証されています。「わたしたちの主のしんぼうを救いと考えなさい。それはわたしたちの愛する兄弟パウロも,自分に与えられた知恵にしたがってあなたがたに書いたとおりであり,彼はそのすべての手紙の中でしているように,これらのことについて述べているのです。しかし彼の手紙の中には理解しにくいところもあって,教えを受けていない不安定な者たちは,聖書の残りの部分についてもしているように,これを曲解して自らの滅びを招いています」― ペテロ第二 3:15,16。
19 どんな点で聖書は神よりの音信と言えますか。
19 ですからすべての事柄が神の霊の導きのもとに記録され,神の目的にかないかつ物事が事実通りに述べられるようにされたという点で,聖書は全体が神の「ことば」であるということが分かります。聖書が人間の言ったことを引用しているとき,あるいは特定の状況のもとで人間が行なったことについて述べているときはいつでも,その文脈を見ると,彼らの行ないは見倣うべきものであるかまたは避けるべきものであるか,彼らの論議は受け入れるべきものであるかまたは拒否すべきものであるかが明らかにされています。
20 人はどのようにして,不完全な人間の見方を神の見方としてしまうような聖書の用い方をすることがあるか,説明しなさい。
20 一例としてヨブ記を考えてみましょう。この本の大半は,ヨブの三人の友が述べた,そして時にはヨブ自身が述べた間違った見方を取り上げています。そのような間違った結論や事実の誤用は明らかに神の霊感によるものではありませんでした。ヨブの友エリパズは例えを用いて神に間違った非難をあびせます。「神はその聖者にすら信を置き給わず もろもろの天もその目の前には潔からざるなり」。(ヨブ 15:15)エホバ神はのちほど,神を誤り伝えたかどでエリパズと彼の友を叱責されました。エリパズはこう言われました。『我なんじと汝の二人の友を怒る そはなんじらが我につきて言い述べたるところは わがしもべヨブの言いたることのごとく正当からざればなり』。(ヨブ 42:7)エリパズとその友たちは明らかに神の霊感を受けていませんでしたが,ヨブ記の記述者は,彼らの言ったことを,神の霊の導きのもとに正確に記録しました。この記録は,神が悪の存在を許しておられることに関する間違った論議を見分けまた暴露するのに役立ちます。したがって,全体が神の霊感によることばもしくは知らせです。とはいえこれは,聖書のある部分を引用するときには注意がいることを示しています。もしその部分を,正しい背景からはずして,つまり文脈からはずして取るなら,実際には不完全な人間の見方であるのにそれを神の見方とするという間違いが起こり得ます。
人間を用いてご自身のことばを記録させられたことに示されている神の知恵
21 エホバ神が,聖書全巻を書くのにみ使いたちをお用いになっていたなら,聖書は,不完全な人間であるわたしたちにとって,本当にもっと価値のあるものとなっていたでしょうか。
21 神がご自分の「ことば」を記録するのに人間をお用いになったということは,わたしたち不完全な人間にちょうど必要なものを供給する神の偉大な知恵の表われです。神はみ使いたちをお用いになることもできました。しかしその場合神の「ことば」は同じほど人の心に訴えるものとなったでしょうか。み使いたちが神の驚くべき特質やすばらしい行動を書き表わすことができたことは事実です。彼らは神に対する彼ら自身の献身の深さや,神のかぎりない賜物に対する感謝を伝えることができたでしょう。しかし,わたしたちよりもはるかに優れた経験や知識を持つ完全な霊者の表現が記されている記録になじむことは不完全な人間であるわたしたちにとって困難だったのではないでしょうか。み使いたちの領域での生活は,喜びと共に恐れや失望や悲しみなどを伴う,わたしたち人間の知っている生活に類するものとして描くことはできなかったでしょう。したがって,エホバ神は人間を用いることにより,人間が書くときにのみ与え得る暖かさ,変化,人の心に訴える力を,ご自分の「ことば」が持つよう取り計らわれたのです。
22 聖書に人間的要素が全くなかったなら,わたしたちはそれを理解するに当たってどんな問題にぶつかるでしょうか。
22 もし聖書に人間的要素が全くなかったなら,わたしたちは聖書にのせられている音信の意味を理解することにも,非常な困難を感じたことでしょう。不完全な人間であるわたしたちがどうして創造者の是認を得られる可能性があるのかを理解することは難しいかもしれません。たとえば,『神は憐れみ深いかたである』とだけ記録してあっても,それが何を意味するかをわたしたちが理解するには,それだけでは不十分でしょう。わたしたち人間は,わたしたちが意味をつかめるような方法でそのような問題を説明してもらう必要があります。聖書は人間によって書かれたのですから,そこに載せられている例は実生活から取られた具体的なものであり,人間の立場から把握できるように述べられています。神の律法を知りながら自分の弱さに負けて重大な罪を犯した人間たちについて聖書は述べており,時にはその人々がどのように感じ反応したかについて彼ら自身のことばが記述されていることもあります。また同時に,彼らがどの程度憐れみを示されたかをわたしたちは知ることができます。
23,24 バテシバに関連してダビデに起きたことを述べ,このことからわたしたちがエホバ神についてどんなことを学ぶか示しなさい。
23 ダビデ王の場合を考えてみましょう。彼は並々ならぬ信仰の持ち主であることを示していました。ところが,周囲の事情から悪い欲望のとりこになってしまいました。ダビデは,彼の王権を忠節に支持したヘテ人ウリヤの妻に心を引かれるようになりました。彼はその欲望をつのらせ,ウリヤの妻バテシバを自分の宮殿に実際に連れてきました。彼女と実際に性関係を持つつもりはなかったかもしれませんが,彼の情熱はかき立てられ,本当に姦淫を犯すまでになりました。その結果バテシバが妊娠したことを知ったダビデは,ウリヤを家に帰らせて妻と性行為を行なわせることを試み,それによって問題を急いでもみ消そうとしました。しかしそれは失敗し,ダビデは必死になりました。バテシバが彼と姦淫を犯した女であることが露見するのを防ぐ道はただ一つしかないように思われました。それは彼女の夫をなき者にして彼女を自分の妻とすることでした。そこでダビデは,まず確実に戦死するようなところにウリヤを配置させるよう取り計らいました。ウリヤは殺されました。それでダビデはやもめとなったバテシバを自分の妻にしました。―サムエル後 11:2-27。
24 預言者ナタンが,ダビデの重大な悪事を彼に向かって暴露した時,それはひどくダビデの胸にこたえ,ダビデは自分が罪を犯したことに対し非常な悲しみを表わしました。『我エホバに罪を犯したり』と彼は叫びました。(サムエル後 12:13)エホバはダビデの心からの悔い改めをご覧になったのでそれを受け入れ,彼に罰を加えられましたが,ご自分のしもべの位置から彼を追放することはされませんでした。ですから,ダビデが一つの詩篇の中で,『されど主よなんじは憐れみとめぐみとにとみ 怒りをおそくし 愛しみと真実とにゆたかなる神にましませり』とうたったのは決して誇張ではありませんでした。―詩 86:15。
25 エレミヤの時代のイスラエル人に対するエホバのご行動から,わたしたちはエホバの憐れみについて何を学びますか。
25 一方,聖書は,エレミヤの時代に住んでいた不忠実なエルサレムの住民について述べています。人々は全体的に,悔い改めなさいという度重なる勧告にも耳をかそうとしませんでした。彼らは不敵にも不法な事柄を行ないつづけました。そこでエホバ神は憐れみを断ち,彼らからご自分の保護を撤回し,彼らがバビロニヤ人の手にかかって非常な苦難を経験するままにされました。彼らが必死になって助けを求めても,エホバはそれにこたえられませんでした。なぜでしょうか。なぜなら彼らは依然として悔い改めていなかったからです。そのことについて預言者エレミヤは,『なんじ震怒をもてみずからおおい 我らを追い攻め殺してあわれまず 雲をもてみずからおおい 祈りをして通ぜざらしめ』,と書いています。―哀歌 3:43,44。
26 実生活から取られた例は,わたしたちがエホバを知るのにどのように助けになりますか。
26 現実の生活から取られたそのような例の背景に面すると,エホバ神の性質や,わたしたちに対する行動について平衡の取れた見方をしないわけにはいきません。不完全な人間は,どんなに重大な罪を犯そうとも,本当に悔い改めているなら,神の赦しを得ることができます。しかし悔い改めることをせずに神の義の命令にそむきつづけるなら,不利な裁きを逃れることはできません。聖書は,わたしたち不完全な人間の心に訴え得ることばで,神のご性格を広範囲に示していますから,わたしたちは神を人格的存在として本当に知ることができるようになります。
27 聖書が書かれているその方法は,心を試すのにどのように役立ちますか。
27 聖書が書かれているその方法は,人々の心にあるものを明らかにする働きをしてきました。(ヘブライ 4:12)欠点や矛盾と思われるものを聖書の中に見つけたいと考える人たちはそれを見つけることができます。それができる一つの理由は,詳細な事柄を逐一述べてはいないということにあります。聖書は多くの場合,人々の推理やことばや行動を,直接には良いとも悪いとも言わずに述べています。そのためにある人々は一つの記録を読んで,神のしたことは本当に正しく公平だっただろうか,という疑問をいだきます。そしてそのことを口実にして,聖書が勧めている,生き方を変えるということをしません。このことは,本当に神を愛し神の属性ゆえに神の真価を認める者だけをご自分の是認したしもべとする,という神の目的にかないます。―申命 30:11-20。ヨハネ第一 4:8-10; 5:2,3。
28 聖書の価値を認識している人々は,一見矛盾と思われる事柄に対してどのような見方を持ちますか。例を挙げなさい。
28 しかしながら,聖書を真剣に調べ,それが生活の非常にすばらしい導きであることを実際に経験した人は,人間に対する神からの音信としての聖書の信用を落とそうとして矛盾と思える点に飛びつくといったようなことはしません。問題と思えるところを見ないようにするというのでは決してありません。そのような人は,聖書が一つの調和した総合体であることを認めているので,その内容の流れというものを無視しないように注意します。聖書は総合体として,その流れの中で,ある特定の事件もしくは状況を述べているのです。一つの例として,あなたに非常によい友人がいたとしましょう。あなたはその友人が良い父親で,子どもたちの福祉を本当に気遣っている人であることを知っていました。その人が息子を厳しく罰したということを聞いたなら,あなたはすぐに,このことでは彼は全く正しくなかった,無理なことをしたのだ,と結論しますか。もちろんそうは考えません。あなたはその人を知っていますから,そのような措置に出たからには確かな根拠があったにちがいないと考えるでしょう。同様に聖書は,エホバがどんな神であるかわたしたちに分かるように,エホバの属性や道や行動について十分の情報を提供しています。したがって,特定の状況において詳細な事柄が述べられていない場合でも,神には愛も憐れみもないとか不公平だとか考えて腹を立てる必要はだれにもありません。そう考えるということは,エホバが愛と憐れみと公正の神であることを示す,聖書全体に見られる多くの証拠を否定することになります。―出エジプト 34:6,7。イザヤ 63:7-9。
29 聖書中に矛盾らしき点を幾つか見いだしても,わたしたちはなぜ驚くべきではありませんか。
29 類似の資料について論議するさいに,わずかな相違や矛盾らしきものが聖書中に見られることを予期しなければならない理由がもう一つあります。地上におけるイエスの宣教に関する記録について考えてみましょう。それらの記録は四人の人によって書かれました。三人の職業的背景をわたしたちは知っていますが,一人は教育のある医師で別の一人は収税人,三人めは漁師でした。エホバ神は彼らが書くべきことを口授されたのではなく,彼らが事柄を正確に記述するようご自分の霊によって彼らを導かれたにすぎませんでしたから,当然そこには変化がありました。各記述者は,実際に記述したよりもはるかに多くの情報を盛り込むことができました。記述者のひとりであった使徒ヨハネは,「確かにイエスは,弟子たちの前でほかにも多くのしるしを行なわれたのであるが,それはこの巻き物の中には記されていない」とさえ述べています。(ヨハネ 20:30)ですから福音書の記録は非常に凝縮されたものなのです。一つの記録には特定の詳細な点が記されていますが,他の記録では省かれています。四つの記録は互いに矛盾しているというよりも,むしろ互いに補足し合って,わたしたちが事情をより完全に把握できるように助けているのです。またこの変化は同時に,聖書が信頼できるものであることの一層の証拠となります。なぜでしょうか。それは,記述者たちが共謀したのでないこと,偽りの物語を書くことを一緒になってたくらんだのでないことを実証しているからです。
30 聖書に関連して,ささいな相違でとやかく言う理由はありませんが,なぜですか。
30 そういうわけで,人々がささいな事柄でとやかく言う理由は実際には全くないのです。いかに博識で高い教育のある人でも,自分が直接に見たのでもない事柄に関して断定を下すことは実際にはできないことです。またたとえ彼らが現場にいたとしても,彼らもまたそれぞれ,見聞きした事柄のやや異なる面を強調する記事を書いたことでしょう。実際,福音書の記録の公正な評価は,それらの記録が,一つの重要な真理,すなわちイエス・キリストは神の子である,という真理を確証する,調和した四つの別々の証言であることを明らかにするのです。―ヨハネ 20:31。
神よりの音信は信頼できる方法で伝えられたか
31 聖書原典が存在しないことを考えると,どんな疑問が湧きますか。
31 四福音書および聖書の残りの部分に載せられている神よりの音信は,原本の形では保存されていません。原本は,使い古されたか,あるいは気候の破壊的影響を受けたかして,遠い昔になくなってしまいました。では神よりの音信が,写本されまた写本されして幾世紀を経たあともなおゆがめられていないということを,わたしたちはどうして確信できますか。
32 神よりの音信の永続的性質について,聖書自身どのように述べていますか。このことはその保存に関してどんなことを要求しましたか。
32 聖書自身が,神の「ことば」の永続的性質に注意を引いています。イザヤ書 40章8節にこう書かれています。『草はかれ花はしぼむ されどわれらの神のことばは永遠にたたん』。このことばが将来の時代においても真実であるためには,神の「ことば」は歪曲されない状態にとどまる必要があります。写本のさいに人間がたくさんの間違いをしたために信頼できないものとなったとすれば,それはもはや神よりの音信ではなくなるでしょう。しかし,神の「ことば」が信頼できる形で存続してきたことを示すなんらかの証拠があるのでしょうか。確かにあります。
33 聖書を写した人々は一般にどのように仕事を進めましたか。
33 聖書を写した人々は非常な注意を払いました。多くのヘブライ語聖書の書士たちは,写本に際し,単語だけでなく文字まで数えました。少しの誤り ― ひとつの文字の書き間違い ― でも見つかると,その部分全体を切り取り,新しい,誤りのないものと取り替えました。各語を,書く前に大きな声で読むことが書士たちのならわしとなりました。一語でも記憶を頼りに書くことは大きな罪である,と考えた書士も少なくありませんでした。キリスト教徒の聖書写本家たちは,多くの場合専門家ではありませんでしたが,同様に注意深い仕事をしました。その結果,誤りは驚くほど少なく,その誤りさえも音信に大きな影響を与えるものではありませんでした。
34 古代の写本の比較研究は,わたしたちが今日持っているような聖書本文の信頼性について何を示しますか。
34 2,000年ほど前のものを幾つか含む幾千という古い聖書写本の比較研究は,原文が正確に伝えられたに違いないことを明らかにしています。ヘブライ語聖書の本文について,学者のW・H・グリーンは,「古代の著作で,これほど正確に伝えられたものはほかにはない,と言っても誇張ではあるまい」と述べています。また有名な学者,サー・フレデリック・ケニオンは,「チェスター・ビーティー・パピルス聖書」に関する七巻にわたる著作の序論の中で次のように述べています。
「それら[パピルス]の調査から出た最初の,そして最も重要な結論は,現存する本文のこの上ない健全さがそれらのパピルスによって確証されるという満足のいくものであった。旧約聖書にも新約聖書にも,著しい,もしくは基本的な変化は見られない。大いに問題となる節や句の削除や挿入もなく,重要な事実や教理に影響する変化もない。本文の変化は,語順とか正確なことばを使うといったささいな事柄に影響するにすぎない。……しかしそれらの真の重要性は,今までに手に入れられたものよりも日付が古いという証拠により,今われわれの手元にある本文が元のままの状態であることを確証することにある」。
同様に,彼は自著「聖書と考古学」の中でも次のように述べています。
「したがって,最初に書かれた時代と現存する最古の確証との間の間隔は,実際に無視してよいほど小さくなり,聖書が実質上書かれた時のままの状態で現在まで伝わってきたということに対する疑いの最後の土台は取り除かれた。新約聖書の諸文書の典拠性と,全体的な保全性とは,ついに確証されたと考えてよいだろう」。
35 聖書は今日わたしたちにどんな影響を及ぼし得ますか。
35 確かに,神の導きのもとに人間によって書かれた神よりの音信は,信頼できる状態で今日まで存続しました。その信頼できる保存には目的がありました。その音信自体は,神から来るものとして受け入れる人々に,大いにためになる影響を与えることができます。テサロニケのクリスチャンたちに対して言われたことばは,今日でさえ,世界じゅうの幾十万という人々に当てはまります。「わたしたちから聞いて神のことば[すなわち音信]を受けた時,あなたがたはそれを,人間のことばとしてではなく,事実どおり神のことばとして受け入れたからです。それはまたあなたがた信ずる者の中で働いています」。(テサロニケ第一 2:13)テサロニケ人と同じく,今日多くの人々が,聖書こそ本当に神の霊感による「ことば」であると信じて,それに忠実に従うゆえに生ずる苦しみに進んで耐えてきました。(テサロニケ第一 2:14-16)あなたも同様の確信をお持ちですか。その「ことば」もしくは音信は,あなたの中で働いていますか。日々の生活の中でそれから益を得ていますか。
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