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信頼できる導きがありますか目ざめよ! 1976 | 1月8日
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信頼できる導きがありますか
導きが信頼できるものであり,また人類にとって真に有用なものであるためには,一定の要求にかなったものであることが必要です。すなわちそれは簡明,率直で,理解できるものでなければなりません。それは人間の考えのレベルを引き上げて励みと希望を与えるものであることが必要です。それはあらゆる時代そして社会において実際的であり,適用し得るものであって,かつまたすべての人の手にはいるものであることが必要です。
聖書は,このような導きであると主張する本です。聖書は創造者の意志を伝える本としてさしのべられています。聖書の述べるところによれば,それは人の道を導くともしびです。―詩 119:105。
現代における人間の進歩は聖書の及ぶ範囲を越えてしまったとして,ある人々はその古さのゆえに聖書を批判してきました。この批判は正当なものですか。確かに人間社会はその初めから変化を重ね,今日わたしたちは科学技術の時代に生きています。しかしわたしたちは依然として相も変わらぬ人間ではありませんか。愛と希望と基本的な欲求は人類の初めから同じではありませんか。
そのうえ今日の問題の大多数はどこに見いだされますか。家庭においてであり,人と人との関係においてです。科学技術は問題を大きくし,それをいっそう早く表面に出したにすぎません。生きることに目的を持ち,安心と幸福を得ることは,いつにもまして重要です。そして人類の必要とするものは,実際には何千年前と変わっていません。
人間の基本的に必要とするものが何世紀たっても別に変わっていない以上,古い歴史を持つ導きは,時の重みに耐えることのなかったものよりも価値があるのではないでしょうか。ひとつの時代にとどまらず多くの時代の経験に照らして与えられた導きは,取り上げられた問題についていっそう行き届いたものになるのではありませんか。ゆえに聖書の古さは弱点であるよりも,信頼できる導きであるとの聖書の主張を裏づける要素のひとつではないでしょうか。
確かに,非常に古い書物はほかにもあります。しかしそのひとつとして聖書と同じくらい古い起源を持つものはありません。聖書が書き始められたのはおよそ3,500年前のことですが,神の語ったことばとしての聖書の初まりは,それよりもずっと古いと言えます。記録は神が最初の人間アダムに語ったことを示しているからです。そののち,神はノアの洪水の時に至るまで人間に語ることをされました。それで神のことばを導きとして用いた人々は「神と偕に歩」むことができ,神に義と認められました。―創世 1:28; 6:9; 7:1。
聖書は人間の作り出したものにすぎないか
「しかし聖書は人間が書いたものにすぎない」と言う人もいます。そのことのために聖書の権威あるいは効力はいささかでも減ずるでしょうか。ご自身モーセのために十戒を石板に記された神は,完成された本を人間に与えることもできたはずです。しかしたとえそうであったとしても,そのような本は,神の霊感によることを認める人間が書いた本以上に今日の人々に受け入れられるでしょうか。現存する本を取り上げて,それが何千年もの昔,人間の創造者から直接に与えられたものであることを,証明できる人が今日いるでしょうか。証明不可能なそのような主張は,信頼できる導きとしてその本を受け入れるうえに妨げとなるのではありませんか。他方,聖書が人間によって書かれた本であるという聖書の主張は,だれでも認めることができます。そして聖書を読む人は,その内容からみて聖書が次のように主張するとおりのものかどうかを,自ら確かめられます。「聖書全体は神の霊感を受けたものであり,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力をそなえ,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです」― テモテ第二 3:16,17。
そのうえ,神を恐れる正直な人々が,神から啓示された事柄を心をこめて書き記した時,こうして生み出された記録には暖かみがそえられました。人間味を欠いた単なる客観的な叙述であったならば,そのような暖かみはなかったでしょう。わたしたちと同じ情を持ち,同じ経験,問題,試練を経た人間によって記録されたことには,確かに心に訴えるものがあります。
聖書が神の霊感を受けた人々によって書かれたことを示す最も驚くべき証拠は,聖書に含まれる多くの預言から得られます。聖書は古代ニネベやバビロンのような強大な都市が永遠の廃虚になることを預言していました。(イザヤ 13:19,20。ゼパニヤ 2:13,14)バビロンを征服したクロスの名前さえも,クロスが生まれる何年も前に示されていました。(イザヤ 45:1,2)今世紀の特徴となってきた状態そのものも,目に見えるように描写されています。たとえばテモテ第二 3章1-5節に次のように書かれています。「このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。というのは,人びとは自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,裏切る者,片意地な者,誇りのために思い上がる者,神を愛するよりも快楽を愛する者,敬神の専念という形を取りながらその力において実質のない者となるからです」。しかし聖書が述べていることはこれだけにとどまりません。「終わりの日」の向こうには,地球が人間の安全な住みかとなる時があることを聖書は指し示しており,またそれを楽しむ人の中にはいるためにわたしたちがなすべきことを示しています。(啓示 21:3,4)これほど正確で,かつまた心を強める情報を載せた本がほかにありますか。
永続する価値
聖書の価値は,最も強硬な反対と,聖書をまっ殺しようとする企てに耐えて聖書が存続してきたことからも明らかです。ある評論家は次のように述べています。
「人間の持ち物の中で聖書ほど大切にされ,また非とされたものはない。それは嘲笑され,禁止され,焼かれた。しかしそれはまた宝とされ,保護されてきた。そして聖書は生き抜いた。
「命を捨てても聖書を擁護した人が少なからずいた。警察の手で没収されるのを免れるために,それを隠しとおした人々もいた。大衆にわかる言語に聖書を翻訳した人々は死刑にされた。……
「およそ二世紀前にボルテールは次のように言ったものである。『キリスト教を確立するには十二人を要した。ひとりの力でそれを引き裂くことができることを,わたしは世に示そう。百年たつうちに聖書は廃れた本となり,好古家の,ほこりだらけの棚にあげられてしまうであろう』」― ジョージ・W・コーネル(AP記者),1973年12月22日付モントリオールのスター紙。
ボルテールや彼のような人々の主張は根拠のないものであることが判明しました。歴史は聖書の述べる次の真理を明白に示しています。「肉なるものはみな草のごとく,その栄光はみな草の花のようである。草は枯れ,花は落ちる。しかしエホバ[神]の語られることばは永久に存続する」。(ペテロ第一 1:24,25)聖書に記されている神の「語られることば」は確かに存続しました。一方,聖書を攻撃した多くの人々はとうの昔,命のない塵にもどりました。
ゆえに聖書はあなたにとって徹底的に調べるだけの価値があると,あなたは言われないでしょうか。そのような努力をするとき,「聖書全体は神の霊感を受けたものであり……有益」であることを得心されるに違いありません。―テモテ第二 3:16。
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神話の本,それとも誤り伝えられてきた導き?目ざめよ! 1976 | 1月8日
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神話の本,それとも誤り伝えられてきた導き?
神話に満ちた本が信頼できる導きとなることはありません。ところが,聖書が教えていると一般に考えられている事柄の中には,明らかに健全ではないものも少なくありません。それはなぜでしょうか。聖書は実際に間違っているのでしょうか。それとも,聖書そのものは事実に基づく信頼できる導きであるのに,聖書の教えであると広く信じられている事柄の多くが実際には神話であるということなのでしょうか。次の点を考慮してください。
聖書の教えであると人々の
考えている事柄 聖書の教える事柄
神は,一日を24時間とする六日 聖書は,創造の各一日を24時間の期間とは定義していません。
の間に,地球とその上のすべて 時間に対する神の見方についてこう述べられています。
の生物を創造された。あなた 「千年も,あなたの目には,過ぎ去ればつい昨日のようで,
はこのことを信じますか。 夜の間の一区切りのようです」。(詩 90:4,新)
「エホバにあっては,一日は千年のようであり,
千年は一日のよう(です)」― ペテロ第二 3:8。
悪人の持つ不滅の魂は, 「すべての魂 ― それはわたしのもの。父の魂も,子の魂も
とこしえに火の燃える苦しみ 同様 ― それはわたしのもの。罪を犯している魂 ― それが
の場所である地獄に行く。 死ぬ」。(エゼキエル 18:4,新)
「罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主
キリスト・イエスによる永遠の命……です」。(ローマ 6:23)
「死者は,なんの意識も全くない」。(伝道 9:5,新)
「あなたの手にあるなすべき事はみな,力を尽くして行ない
なさい。シェオール[地獄,“ドウェー訳”],すなわち
あなたの行こうとしている所には,業も考案も知識も知恵も
ないからである」― 伝道 9:10,新。
『黒人は神にのろわれている』 ノアと言う人は預言的な意味でその孫カナンをのろいましたが,
と言う人もいる。 神が黒人をのろったことは一度もありません。(創世 9:25)
聖書は,民族的,国家的,および人種的な優越感を持つことを
非としています。こう書かれています。
『神は不公平なかたではなく,どの国民でも,神を恐れ,
義を行なう人は神に受け入れられる』。(使徒 10:34,35)
『神は,ひとりの人からすべての国の人を作った』― 使徒 17:26。
人間がいる限り戦争はなくなら 「[神]は必ず諸国民の間にさばきを下し,数多くの民について
ない。それは本当ですか。 物事を正されるであろう。そして彼らはその剣を鋤の刃に
打ちかえ,その槍を刈込みばさみに打ちかえねばならなくなる
であろう。国は国に向かって剣を振り上げず,また,彼らは
戦いのことをもはや学ばない」であろう。(イザヤ 2:4,新)
「上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人びとの
間にあるように」― ルカ 2:14。
地球はいつの日か燃え尽きる。 「天の創造者,真の神なる方,地を形造った方で,その造り主,
それを堅く立て,それを単にむだに創造せず,まさに住まわせる
ためにそれを形造られた方,エホバがこう仰せられる」。
(イザヤ 45:18,新)神は,「地を破滅させている者たちを
破滅に至らせ」ます。(啓示 11:18)「今ある天と地は
火のために蓄え置かれており,不敬虔な人びとの裁きと
滅びとの日まで留め置かれているのです」― ペテロ第二 3:7。
それゆえ,一般に信じられている事柄を聖書と比較してみると,どんな点が明らかになりますか。それは,聖書が誤り伝えられてきたということです。ですから,他の人が聖書について述べる事柄や聖書に従うと唱える人の行動などに基づいて聖書に対する偏見を持ってはなりません。聖書の導きが,現在の生活をより幸福なものにし,すばらしい将来を指し示すものとなるかどうかを,ご自身で確かめてください。
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聖書は現実的な本目ざめよ! 1976 | 1月8日
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聖書は現実的な本
ある導きが現実的であるためには,神話や誤った慨念を全く含んでいないだけでなく,人が直面する事件や問題に対して健全な考え方を示すものでなければなりません。この点に関して,人間が将来について考えたり予測したりしている事柄と,聖書の述べる事柄とを比較してみましょう。
とどまるところのないインフレ,失業問題,数多くの国際問題など様々の不安があっても,事態はよくなると信じている人は少なくありません。それらの人々は,政治的な不和,人種間また国家間の紛争,食糧不足,エネルギー危機などに対しては長期的な解決策があると見ています。そして,世界は平和と安全の行き渡る時代の門口にまで来ていると信じています。
最近,米国の一雑誌は,次のような見解を表明しました。「全体として,それは,平和な時期を迎えようとしている米国にとって有望な見通しを与えるものである……歴史は,今や経済成長,つまり国にとってより幸福な時期を迎えるための準備が整ったことを示している。過去において,米国は種々の苦難の中から一段とたくましくなって出てきたが,今回もそうであろう」。
世界の前途について,ジョージ・W・シェパード二世は,クリスチャン・センチュリー誌の中に次のように書いています。「現実の世界は……困難ではあっても,過半数の国々,特に第三世界の国々の権利や利益を十分に認めた国際的な合意に基づいてのみ平和の確立できる世界である。そのような合意を実行に移し得る現存する唯一の機構は国際連合である。それゆえにこそ,平和のための新しい“和解手段”とでも言うべきものの展開と共に,その組織体の回復を見ているのである」。
しかし,わたしたちは,現在の体制の継続や“より良い世界”に対して人々の希望を保たせるために,世界の指導者がどんな訴えをしているのを見ていますか。それら指導者たちは,幾世紀も前からなされてきたのと同じ約束をしているのではありませんか。過去の世界強国すべては,自国の栄光と力に人々の注意を向けさせ,その国こそ世界に希望を投げかけるものと思い込ませてきませんでしたか。しかし,そうした国々の栄光は今どこに残っていますか。今日,人々に示されている事柄もそれと同じではありませんか。そして,多くの人は自分たちの指導者に対する信頼感を失ったとはいえ,より良い希望がないために,物事を正すことのできる人物が何らかの方法で現われるのではないかと考えています。それは現実的な考えですか。
この世界に対する人間の“予言的観測”の一例として,ワールドブック百科事典に記されている故ウォルター・リップマンの次の言葉があります。「物事の内面を見ると,大革命とも言えるものが進行している点に気付く。それで,やがて人類社会が繁栄するよう,その土台となる平和と安定をもたらすために,我々はこの大革命に頼らねばならない。
「……その大革命とは何か。それは,人間の境遇の根本的な変化であり,人間の進歩した知識,すなわち地上における自分の生命を取り巻く物質上の条件をどのように制御するかに関する知識の所産である」。
ところが,そのような“予言”を単なる夢とみなす人もいます。1975年5月5日号のUSニューズ・アンド・ワールドリポート誌は次のように述べています。「最近,“新世界秩序”に関する話を聞くことはいよいよ少なくなったが,それは少しも驚くに当たらない。世界は,多くの場合対抗し合って,ほとんど協力の見られない地域的な集団に分けられる傾向にある。しかも,そうした集団でさえ,国家主義に引き裂かれ,しだいに問題が増え,不安定になっているようである」。
聖書の観点 ― それは現実的か
一方,聖書の観点は,混乱したものでも,動揺するものでもありません。聖書は,なぜ人間の企てが失敗に終わり,年々問題が深刻化してゆくかを指摘しています。霊感による神の言葉聖書は,人類の苦難の原因は人間すべての不完全さにあるとしています。(ローマ 5:12)聖書はこう述べています。「自分の歩みを定めることさえ,歩む人によるのではない」。(エレミヤ 10:23,新)人間が神の導きに従おうとするなら,この不完全な世にある今でさえ有益な結果をもたらすことも聖書は教えています。(箴 2:6-9)しかし人間,特に世界の指導者たちは,聖書の原則に自分の歩みを合わせることを拒み,その結果として無秩序と腐敗を刈り取っています。なぜでしょうか。基本的に言って,それら指導者たちが神に依存しない主権を望んでいるからです。彼らは,神を至高の助言者また王として認めようとはしないのです。―使徒 4:24-26。啓示 17:12-14。
そうです,聖書は現実的な仕方で人類の諸問題の真相を見きわめており,現在の情勢やそうした情勢が存在する理由について健全な見方を与えています。将来についてはどうでしょうか。聖書は,人類最後の日について預言していますか。それとも,喜ばしい希望を差し伸べているでしょうか。
将来に対する現実的な展望は?
その答えとして,次のような質問をした弟子たちに対してイエスが与えた預言の言葉を調べてみましょう。弟子たちはこう尋ねました。「あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。(マタイ 24:3)イエスは,霊感によって,今のわたしたちの時代を正確に描写し,次のように言われました。「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震がある(の)です。これらすべては苦しみの劇痛のはじまりです」― マタイ 24:7,8。
今の世代の人々は,1914年以来この預言の成就を目撃してきました。その年は,それ以前の戦争や食糧不足とは異なった「苦しみの劇痛のはじまり」とならなかったでしょうか。「1914年」と題する本の中で,ジェームズ・カメロンはこう述べています。「1914年に,それまで知られ,受け入れられてきた世界は終わりを告げた。あとにも先にも,これほどに20世紀の区切りとなった年はない」。
どうしてそう言えるのですか。今の世代が目撃してきた戦争は普通の戦争ではなかったからです。それらは,適切にも“世界大戦”と名付けられました。イエスはまた,諸国民は『逃げ道を知らずに苦もんし』,人々は,『人の住む地に臨もうとする事がらへの恐れと予想から気を失う』とも言われました。これらの事柄を始め,イエスがマタイ 24章,マルコ 13章,ルカ 17章と21章で預言した他の多くの事柄は,現に起きており,今の世代の特徴となっています。イエスは次のようにも預言されました。「すべての事が起こるまで,[これらの事柄を経験している]この世代は決して過ぎ去りません」― ルカ 21:32。
一世代のうちに起きる「すべての事」とは何を指していますか。その中には,現在の人間が作り出したこの事物の体制の終わりが含まれてはいますが,それは文字通りの地球やその上に住む全人類の終わりではありません。それは,人類が現在置かれている,腐敗した,圧制的で,汚染された状態からの救出を意味します。正しい事柄を行ないたいと願い,信仰を持って聖書を調べる人々に向かって,イエスはこう言われました。「これらの事が起こり始めたなら,あなたがたは身をまっすぐ起こし,頭を上げなさい。あなたがたの救出が近づいているからです」。(ルカ 21:28)ですから聖書は,陰惨な“人類最後の日”の到来ではなく,正義と平和を望む人々に対する明るい見通しを与えています。そして,この滅びゆく体制の腐敗した事柄に固執する利己的な人々や神の主権を認めようとしない人々に対してのみ,暗い前途を予告しています。―テサロニケ第二 1:6-8。
これらの証拠,つまり諸国民の苦もんや地に臨もうとする事柄への恐れなど世の指導者たちを悩ませている事柄,および核戦争の危険,犯罪,汚染,不道徳などの増大というような証拠以外に,今の事物の体制の終わりが近づいたことを示すどんな証拠がありますか。それがこれ以上長く続いたり,ある人の言うように今後幾世紀もの間保たれたりすることはないとどうして言えますか。
今存在しているのは最後の世界強国
聖書は,人類史に登場する七つの世界強国について,実際の記録や預言的な記録を与えてくれます。それらは,小さくて,取るに足りない国々ではなく,その存在期間中,最大級の影響力を持っていた強国です。それぞれの強国の全盛期に,諸国家はその強国を最強の国として認めざるを得ませんでした。それらの強国というのは,エジプト,アッシリア,バビロニア,メディア・ペルシャ,ギリシャ,ローマ,そして英米世界強国です。聖書のダニエル書の預言は,ダニエルの生存当時の強国,つまりバビロニアとメディア・ペルシャについて正確に述べ,三つの世界強国がそれに続くことを予告していました。その預言は,メディア・ペルシャとギリシャの各世界強国の名を挙げて預言し,それに続く二つの強国を描写しました。それらの強国について,ダニエルの預言はどんなことを述べているでしょうか。
神から与えられた幻の中で,ダニエルは四頭の巨大な野獣を見ました。それらは,「王たち」を象徴するつまり表わすものです。(ダニエル 7:17)それらの象徴的な野獣は,ライオン(バビロニア),クマ(メディア・ペルシャ),そしてヒョウ(ギリシャ)であり,その後に,他のすべての野獣と異なり,鉄の歯と十本の角を持つ恐ろしい野獣が続きました。この野獣から,小さな角で表わされる別の「王」が出て来て,目立つようになり,壮大な事柄を語ります。この最後の角は,別の世界強国によってではなく,全能の神によって直接執行される裁きに直面します。恐ろしい野獣はローマ世界強国を表わし,それから生え出た角は,地上の最後の強国となる第七世界強国を表わしています。それは英米世界強国です。―ダニエル 7:2-12。ダニエル 8:20-22と比較してください。
わたしたちが本当にこの事物の体制の終わりの時にいるとすれば,それは非常に重大かつ緊急なことです。それはわたしたちが,メシアによる王国の支配がこの地に及ぶ時にいることを意味しています。疑う余地のないほど十分な証拠をわたしたちが得られるように,神は,聖書の最後の本の中に,ダニエルの預言の真実性,また義をもって地を治めるメシアの千年にわたる支配を確信させるに十分な保証を備えられました。第六世界強国つまりローマ帝国の支配期間中に生きていた使徒ヨハネは,神から与えられた幻を記録し,次のように書いています。「七人の王がいる。五人はすでに[ヨハネの時代までに]倒れ,ひとり[ローマ]はいまおり,他のひとりはまだ到来していない。しかし到来したなら,少しの間とどまらなければならない」― 啓示 17:10。
第七世界強国の構成国である米国は,約200年しかとどまっていません。それは世界史全体から見ればわずかな年月です。終わりがいよいよ近づいていることを示す証拠として,ヨハネは八人めの王についても語っています。しかし,この王の存続期間は非常に短く,『その七人から出て』,第七世界強国と同時に存在するものです。この「王」は,七つの世界強国の特色を残す国々からなる複合の政府,つまり世界的な同盟です。その王は,第七世界強国と共に『去って滅びに至り』ます。ですから,聖書は,第七世界強国の後に残る世界強国を挙げていないのです。それが最後のものとなります。―啓示 17:11。
それで,今わたしたちが目撃している世界情勢を正確に予告し,わたしたちが歴史の流れのどこに位置しているかを教え,救いの時が近いことを理解するよう助けているのですから,聖書は確かに現実的であると言えないでしょうか。確かに聖書は,世界強国を明らかにする点で率直です。また,聖書は,人間の努力によって世界が現在直面している諸問題を解決して,人々に幸福をもたらすことはできないという点を示しています。人間の努力による「平和だ,安全だ」と言う叫びは,人間によって建てられた体制の滅亡の直前に起きる偽りの慰めであると述べている点でも聖書は現実的です。―テサロニケ第一 5:3。
そうです,聖書は,政治家や経済専門家,さらには僧職者などの口にする約束よりもずっと現実的です。聖書は,世の諸問題が存在する理由,そして前途には実際に何があるかを示しています。しかし,聖書は日常の生活に関して,実際的で今すぐ役立つ助言を与えることができますか。その点について次に調べてみましょう。
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良い結果をもたらす実際的な導き目ざめよ! 1976 | 1月8日
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良い結果をもたらす実際的な導き
自分の持つ様々な問題を処理するのに他からの助けが必要なことを認める誠実な人は今日少なくありません。米国フロリダ州に住む,精神科医でもある著名な医師は次のように語りました。「かなり多くの人は現代的な生活用式の結果,感情面での障害を抱えている。彼らは,麻薬や乱れた性生活,身分不相応な生活から来る圧力,変化する道徳的価値観,家庭生活の崩壊などの問題に対処できると考えている。だが,実際にはそれができない」。それでは,人々は,自分たちが大いに必要としている導きをどこに見いだせるでしょうか。
米国の政治家バーナード・バルークは,聖書の実践的価値を指摘し,かつてこう語りました。「十戒と山上の垂訓は,今でも,われわれの最良の導きである」。バルークはなぜこう語ったのでしょうか。有名な山上の垂訓の中で語られた幾つかの原則を,ここで簡単に考慮してみましょう。人間の必要物について,イエスはこう言われました。「思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません。……あなたがたの天の父は,あなたがたがこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。……それで,次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には次の日の思い煩いがあるのです。一日ごとの悪はその日にとってじゅうぶんです」。また後日,次のようにも言われました。『満ちあふれるほどに豊かであっても,人の命はその所有している物からは生じない』。―マタイ 6:31-34。ルカ 12:15。
ここでは,人間の必要とする衣食住に対する普通の関心に重きが置かれています。しかし,物質主義の世界は,多くの場合,人間の必要物よりも欲望を強調します。商業主義は,人々が持っている物で決して満足できないよう,ぜいたく品に対する欲望を次々にかき立てます。それゆえ,満足感は,富んでいる人にではなく,欲望の少ない人にもたらされることがわかります。人は,自分が実際に何を必要としているかについて正しい見方を持ち,それら必要物を得るのに求められる実際的な導きを認識しなければなりません。
聖書の導きは今日でも実際的
聖書は幾十世紀も前に書かれましたが,そこに記されている導きは,今日でも実際的です。時の経過とともに多くの事柄は変化しましたが,人間性そのものは変化していません。人間は,やはり昔の人たちが抱えていたのと同じ問題に直面しています。ただ異なっているのは,今日では問題の規模がはるかに大きく,影響がより広範囲に及ぶという点です。ワールドブック百科事典はこう述べています。「科学技術の進歩にもかかわらず,人間は,人類の諸問題に対処する点であまり成功していない」。それら諸問題に対する信頼できる唯一の解決策は,聖書の中に見いだされます。「すべて賢い者はこれらの事に心をよせ,[エホバ,文]のいつくしみをさとるようにせよ」― 詩 107:43,口。
簡素な生活は望ましいもの
神は簡素な生活を次のように勧めておられます。「あゝ地に住む人よ,彼は,何が良いかをあなたに告げた。エホバがあなたに求めておられるのは公正を行ない,親切を愛し,慎み深くあなたの神とともに歩むことではないか」。(ミカ 6:8,新)こうした実際的な導きに従い,人間が創造された際に意図された人間本来の生活を送るなら,現在の邪悪な体制のもとにあっても,かなりの幸福を見いだせます。こうした基本的な勧めのことばを越え,それ以上のものを望むなら,その人の生活用式は,実際には不必要で重要でない数多くの物事のゆえに複雑なものとなり,それが害をもたらすものとなるでしょう。
多額の負債,不必要な物に対する欲望,名声や地位をめぐる競争,社会的身分を確立するための奮闘,良心に反する道徳規準に従って生活しようと努めることなど,これらのものすべてが,不幸や欲求不満や,不和に満ち,自殺者をも生み出す,“混乱した”社会の一因となっているのです。医師や精神科医のもとに助けを求めに行ったり,緊張から解放されるために精神“薬剤”に手を出したり,多くの場合事態を悪化させてしまうような助言に頼ったりする人は少なくありません。
仮に聖書の真実性と実用性に関する証拠がほかにないとしても,聖書の義の原則や道徳規準それ自体,聖書がまさしく神の思考の所産であることを明らかにしています。聖書は,日常生活のあらゆる面で実際に役立ちます。万物の起源,とりわけ人類の起源について,また地球と人間に対する創造者の目的について,聖書のように道理にかなった説明を与えている書物は他にありません。聖書の助言が適用される時,どれほど効果があるかに注目してください。
今日,民族主義や国家主義が原因となって様々の難しい問題が起きています。しかし,聖書はそうしたイデオロギーを支持しておらず,むしろ,神は『ひとりの人からすべての国の人を作って地の全面に住まわせた』,とはっきり告げています。(使徒 17:26)この事実を認めるなら,多くの深刻な問題は除去されるでしょう。
道徳律
聖書は,結婚のわく外で持たれる性関係を「淫行」と呼んでいます。「淫行の者(は)……キリストの,そして神の王国に何の相続財産もない」ゆえに,「淫行から逃れなさい」と,実際的な導きを与えています。(エフェソス 5:5。コリント第一 6:18)また聖書は,「姦淫の罪を犯す者,倒錯した同性愛の罪を犯す者……は,いずれも神の王国を受け継ぐことはない」とも告げています。(コリント第一 6:9,10,新英語聖書)聖書のこうした助言に従うなら,どれほど多くの不幸な事態や憎しみ,病気などが除かれることでしょう。―ローマ 1:24-27。
結婚と家庭生活
結婚生活に関する助言の中で,神のことばはこう勧めています。「妻は主に対するように自分の夫に服しなさい」。「夫は自分の体のように妻を愛すべきです」。「子どもたちよ,主と結ばれたあなたがたの親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです」― エフェソス 5:22,28; 6:1。
家族の一致の重要性は,どれほど強調しても強調しすぎることはありません。聖書は,夫婦の関係,子どもの教育やしつけ,家族の幸福といった点に関する助言にかなりの紙面をさいています。こうした聖書の助言はどれほど実際的なものですか。チャールズ・W・ソカリデス博士は,著書「同性愛 ― 一種の病気であり正常な生き方ではない」と題する記事を書き,その中で,「同性愛 ― 男子同性愛者に関する精神分析学上の研究」と題するアービング・ビーバー博士の著書に言及しています。106人の男子同性愛者と100人の正常な男子を対象にした研究報告書の中で,同性愛者は,子供に冷淡で敵意をさえ持つ父親と,逆に過保護で過度に親密な母親との間に育った男子に多いという点が注目されました。
ソカリデス博士は続いてこう述べています。「同性愛は,通常三歳までには達成され,性の識別に決定的な要素となる,幼年期初期の個性形成期に,育児法の誤りから正常に成育しなかったことに起因している,と私は確信する。その点でしくじると,男の子の場合男らしさに欠け,むしろ,女性を母親だと思う初期の傾向がそのまま維持されるか,いっそう強くなっていく。こうして,同性愛への第一歩が踏み出される」。
同性愛は,家庭での夫と妻,父と母そして子供の占めるべき正しい立場を認めないことが一因となって生じる悪い実の一つにすぎません。家族の一致,信頼,信用そして幸福がなくなるなら,どのようにして子供を正しく導けるでしょうか。破壊した家庭,意思の疎通や愛ある関係のない家庭,健全な状態やしつけのない家庭は,様々な犯罪を生み出す要因となっています。家庭生活に関する聖書の教えを無視して,良い結果が得られたと本当に言える人がいるでしょうか。
悪い交わり
多くの場合,悪い傾向が家庭内で芽生えるとはいえ,堕落した道徳を広める要因は,もちろんほかにもあります。わいせつな文書を読むなら,その著者と精神的な交わりを持つことになります。また,道徳観念の低い者と実際に交われば,初めは悪行に走る傾向がなくても,やがて下劣なよどみにまで落ち込んでしまいます。(ペテロ第一 4:4)聖書は,正しい事柄を考えるようにと勧める一方で,「悪い交わりは有益な習慣をそこなう」と警告しています。(コリント第一 15:33。フィリピ 4:8)邪悪な事柄をならわしにしている者たちを“友”とするなら,悪いならわしを避けることはできません。聖書は,ごく率直なことばでこう述べています。「賢い人々とともに歩んでいる者は賢くなるが,愚かな者たちと関係をもっている者はうまくゆかない」。(箴 13:20,新)これは確かに,健全で正しい,実際的な諭しではありませんか。
商取引
聖書は商取引に関しても助言を与えています。聖書には,次のような原則が記されています。「互いに違った二種のはかり,二種のます[一つは仕入れのときに,他の一つは売るときに用いる]は,ひとしく主[エホバ,新]に憎まれる」。「貧しい者を,貧しいゆえに,かすめてはならない」。(箴 20:10; 22:22,口)聖書はさらに,働きたくないために,“金持ちから巻き上げよ”というスローガンを唱える人の態度を戒めています。金持ちにも貧しい人にも公平でなければならない,というのが聖書の原則です。こう書かれています。「貧しい者を片よってかばい,力ある者を曲げて助けてはならない」― レビ 19:15,口。
人間関係に関する聖書全体の実際的な教えはイエスの次のことばに要約することができます。「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません。事実,これが律法と預言者たちの意味するところです」。(マタイ 7:12)考えてください。人々がこの原則に従うなら,世界はどんな変化を遂げるでしょうか。今よりもはるかに幸福な生活が送れるのではありませんか。
幸福な生活に欠かせない導き
今日,多くの人は聖書を持っており,中には,実際に聖書を読む人もいますが,大多数の人が聖書の原則を生活に適用してこなかったことは明らかです。単に聖書を持っているだけでは,いいえ,たとえ何かの宗教を奉じているとしても,それだけでは不十分です。幸福を望むなら,聖書の原則を適用しなければなりません。中には懐疑的な人もいるかもしれませんが,わたしたちが腐敗した事物の体制の中で生活していても,聖書の助言を首尾よく適用するのは可能なことです。今そうすることによって,自分の生活の質を確かに改善することができます。聖書がこう述べている通りです。『敬神の専念はすべての事に益があります。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです』。(テモテ第一 4:8)これは単なる理論ではなく,人々の生活に見られる豊富な証拠が十分に,しかも納得のいく仕方で実証しているように事実なのです。
[17ページの図版]
正直に商売をすれば顧客に喜んでもらえる
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人々の生活の中に見られる証拠目ざめよ! 1976 | 1月8日
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人々の生活の中に見られる証拠
この混乱した世の中で,自分の生活を簡略にし,心の平和と幸福を見いだすのはむずかしいことです。聖書の原則と助言は,もし実践されるなら,それを本当に成し遂げるでしょうか。もちろん,正しい事が実際に行なわれれば,満足のいく具体的な結果が生み出されるはずです。聖書が人の心を動かして,幸福な生活に必要な変化をさせ得ることを示す証拠があるのでしょうか。聖書は,どんな立場や境遇にある人々をも助けることができますか。
そうです,できるのです。現在,世界には,聖書を実際に勉強してその助言を自分の生活のあらゆる面に適用すべく最善の努力をしている人たちが,少なくとも200万人はいます。その人々は,聖書を唯一の導きにするときに有益で建設的な生活が送れるようになることを知りました。彼らはエホバの証人として知られています。なかには過去において無法な,また不道徳な生活を送っていた人たちもいますが,証人の大多数は,正常な,法律を守る生活をしていた人々です。以前教会に行っていた人,あまり宗教的でなかった人,家族が一致している家庭の人,分裂している家庭の人,と様々です。しかし皆一つの共通点を持っていました。それは,感情の安定を得る必要を感じていたことと,生活の中で何か価値のある永続的な事を成し遂げたいと望んでいた点です。神は,幸福な生活を渇望する人,正しいことをしたいと思う人,神について学んで神に奉仕したいと考える人すべてを顧みられます。このことは次に掲げる経験によって証明されます。
聖書が家族の助けになることを悟った心理学者
聖書は,人々を,また一家全員を助けるのに,多くのことを成し遂げます。心理学の分野で働いていたある人は,この真理が実現するのを実際に見て驚くと同時に確信を得ました。彼は次のように語っています。
「私は父に勧められて大学に入りました。心理学専攻学生としての教育を終えたあと,人を矯正する分野の仕事に従事しました。自分は本当に人を助けていると感じられたので,私はその仕事から,物事を成し遂げる満足感を得ることができました。
「ところが,何年かたって私は,自分の用いてきた方法が若者たちを大して変化させていないことに気づき始めました。なるほど表面は変わっていました。しかし永続性のある個人的,社会的変化はほとんど見られませんでした。このことで私はひどく悩みました。幾年も費やして学んだことを応用しても,実際には良いほうへの効果があまりなかったのです」。
仮釈放中の非行少年の補導員という資格で,その人は非常に考えさせられる一つの問題を扱いました。それは,三人の子どものいるある家族に関係したケースで,その三人が三人とも問題のある子どもでした。そのケースを扱っていたとき九か月の中断期間が生じました。彼はもう希望はないと考えていました。しかし次にその家族に会ったとき,彼はすばらしい変化に気づきました。とても汚くて散らかっていた家が,小ざっぱりときれいに片付いていました。子どもたちは見苦しくない服装をし,以前よりもしっかりしているように思えました。この驚くべき変化をもたらしたのはいったい何だったでしょうか。母親がエホバの証人と聖書の勉強を始め,聖書の示す原則を家族生活に当てはめることに努力していたのです。このすばらしい変わりようを見て彼は,自分が受けた教育をもってするよりもさらに優れた結果をもたらし得るものが何かあったのではなかろうか,と考えさせられました。
彼を非常に憂慮させたもう一つの事柄は,世相の悪化と,彼が協力して働いていた社会問題に対処するための機関の力のなさでした。彼は次のように話しています。
「その機関は,成果をあげるために様々の手段を試みました。取扱い件数を減らすこともしました。新しい方法も試してみました。過去のやり方を復活させて新しい名称を付してもみました。しかし,こうした努力もすべて実りのないものに思えました」。
その結果この人は,より良いものを探求し始め,聖書も読んでみましたが,理解はあまり得られませんでした。彼が大学に入ったころエホバの証人になっていた彼の母親は,日ごろ彼にいろいろな事を説明していましたけれども,彼は母親の言うことに心からの関心を示しませんでした。しかしついにエホバの証人の王国会館に行くようになり,聖書を真剣に勉強し始めました。彼はまた若い人々に目をとめました。そのなかには,以前麻薬常用者であった人や非行少年だった若者も幾人かいました。しかし今の彼らは見方と性格をすっかり変えて,信頼できる,品行の正しい人になっていました。その時からその人は,聖書の原則に従うと人の性格は,自分の場合をも含め,表面だけでなく心底から変わるのだということを認識するようになりました。
暴力を事とする生活から転向した囚人
1975年5月11日のサウス・ミドルセックス(マサチューセッツ州)・ニューズ紙面でも,同様のケースが報道され,「在監者,宗教的負債を返済」という見出しで,ある中年の囚人のことが伝えられました。
その男は,エホバの証人になっていた囚人と同じ監房に入れられました。彼はカトリック教徒だったので,次のように語りました。『エホバの証人の言うことはみな,私が教わっていたことと衝突しました。しかし最後に私は,エホバの証人が,その矛盾すべてに対して答えをもっていることを認めるようになりました』。今この元犯罪者は,「以前一度も持ったことのない」しっかりした土台と目標を与えられた,と言っています。労働釈放計画で外出するときには,マサチューセッツ州,フラミグトンで王国会館を建てているエホバの証人の手伝いをしています。彼が得た聖書の知識は,彼の家族にみられる「暴力に走る傾向」を完全に変えるのに役立った,と彼は言っています。
彼を扱った心理学者も,自分の患者が,「道徳意識のない破壊的な人間から良心のある人間に」変わったことを述べて,彼のことばを支持しています。「彼がこうした変化を遂げたのはひとえに,証人たちと接した経験によると私は思う。証人たちは過去二年半にわたり,非常な力と効果のある社会的再教育を行なってきたのである。この男がこれまでになれるような治療法は全くない。私は彼が道徳意識のない,破壊的な態度を捨て,しっかりした責任感を持つ人間へと変わっていくのを見てきた。そのように変化することは容易なことではないのである」。
特にこの人のような経歴を持つ者にとって,「それはものすごい事柄」なので,人々から「果たして長続きするだろうかと思われるのも無理のないことかもしれない」が,これは永久的な変化であると私は確信している,と同心理学者は述べ,次のようにつけ加えました。『むろん,こうしたことについての記録はないし,保証もない。しかし私は,彼が彼の生活を変えてしまった一つの大きな社会的準拠集団を発見したのだと信じている』。
確かに聖書の訓戒は,それが守られると,経歴のいかんにかかわらず,人の生活に健全な影響を与えます。正しい道徳的な生活をしてきた,そして自分の仕事からある程度の満足を得ている人でさえ,充実した幸福な生活を与え得るものは,より優れた希望と高い原則を有する聖書しかないことに気づいています。
聖書教育は公衆衛生教育よりも勝っている
ニューヨーク市に住むある婦人の経験を考えてみましょう。彼女は同胞を助けることを目的として,公衆衛生教育に献身的に従事する生活を送っていました。これは賞賛すべき仕事で,彼女は今も看護の仕事に携わっています。しかしついに彼女は,完全な幸福と真の満足を得るには,自分の職業以上のものが必要であることに気づき始めました。しかし,彼女の生活に欠けているものを見いだすかぎとなる聖書を受け入れる道には,幾つかの障害が立ちはだかっていました。彼女は次のように語りました。
「私は宗教的な人間ではありませんでした。それどころか,神の存在について大きな疑問を抱いていました。不具になる病気や,身体の自由のきかない中風などの老人が生き続けているのに,なぜ赤ちゃんが死ぬのか,私にはどうしても理解できませんでした。それでも私の職業である公衆衛生看護および教育は,私にある程度の満足を与えてくれました。
「私は職業柄,地域社会の問題である程度の活動を要求されていました。ある公立学校を訪問して,木造の階段がぐらぐら動いて危険な状態にあるのに気づいた時のことを思い出します。私は公衆衛生保健局を代表して,地域社会がその問題に対処するのを助ける目的で組織された,実業家,医師,弁護士,教師などでなる委員会の委員を努めておりましたので,同委員会は,その老朽校舎の危険な状態に対して何か手を打つようにとの勧告状を教育局宛てに作成しました。それから三年たちましたが,何の対策も講じられませんでした。その間,委員会は三通の手紙を送りました。そして送るたびに,地域社会に対する私たちの関心をほめたたえる感謝状が来ました。しかしその危険な状態は放置されたままでした。
「私はまた,文化偏見に基づく身分制度がつくづくいやになりました。こうした問題を,エホバの証人である兄に話したところ,兄は官史の手さえ縛られていることを指摘し,『彼らがそのより良い動機を実行に移してとことんまでやり遂げるのを体制が阻んでいるのだ』と言いました。私はそれを聞いて考えさせられました。
「兄は聖書の解説書をくれました。私は本当に関心はなかったのですが,欠点を見付けることだけを目的にして,それを調べ始めました。時々,書いてあることに憤慨しては,自分の聖書を開いてその陳述が正しいかどうかを調べましたが,まさしくその通りでした。そこで私は,議論する前に聖書を読むほうがよさそうだと考えました。
「そのうちに私は,聖書が信頼できるものであり神の霊感によるものであることを,認識するようになりました。特に印象深かったのは聖書の預言で,神が幾世紀も前に預言されたことまで成就しているのには驚かされました。また『罪』という語の意味も,自分がどんな立場にいるかを悟るのに役立ちました。私は自分を悪人だとは思っていませんでした。私はうそつきでも,泥棒でも,また淫婦でもありませんでした。『罪人』というレッテルは私には狂信的なものに思えました。しかし,聖書の『罪』ということばは,原語で『的をはずす』という意味であることを学んでから,理解できるようになりました。なぜなら,私にもほかの人たちと同じように弱点があることを知っていたからです。
「それから私は,人類がこの古い体制の終わりの日に住んでいること,そして私たちの天の父が,浄化されたこの地上で人類を完全な健康状態に回復させる意図をお持ちであること,またそれが近い将来に始まることを学びました。これこそ,かつてなかった最善の福祉計画です! 今では私は,他の人々をやはり肉体的に助けながら,霊的にも援助することができます」。
結婚生活における幸せ
聖書の導きのある生活とない生活の違いおよび両者が家族生活に及ぼす対照的な影響をよく示しているのは,米空軍に入隊していたある青年の場合です。
空軍にいる間に彼は不道徳な生活を始めました。そのうちに一人の少女が彼の子どもをみごもったので,仕方がないという気持ちでその少女と結婚しました。しかし結婚しても彼は夫また父親としての責任を果たそうとはせず,彼女を親元に帰しました。そして自分は妻に対して忠実ではありませんでした。ついにその最初の結婚は離婚に終わり,彼の以前の妻は再婚しました。
除隊になったときにその人は自宅に帰り,父母や兄弟と一緒に住むことにしました。そのころ彼の家族はエホバの証人と聖書を勉強していました。そこで彼も勉強を始め,聖書に従って生活する点で進歩しました。聖書からみて自由に結婚できる立場にあったので,彼はついに結婚しました。過去と現在を比較しながら彼は次のように語りました。
「過去の私には,女性に対する敬意が欠けていました。あのような生き方をして,私は自分にも他人にも不幸をもたらし,特に先妻には非常な苦労をかけました。聖書に従う生活をするようになってから,私は聖書の原則に従うことこそ最善の生き方であることがわかるようになりました。二度目の妻をクリスチャンにふさわしい仕方で遇し,自分自身を愛するように妻を愛することによって,私は結婚における真の幸せを見いだしました。10年にわたる私たちの結婚生活は,比較的に問題のないものでした。夫婦間の問題についてほかの人たちから相談されるときには,私は聖書のことばに彼らの注意を引きます。聖書の助言に従えば本当にうまくいくことを私は自分の経験から知っています。反面,意識的にせよ無意識にせよ,聖書の原則を無視する人は,多くの不幸と心痛を経験しなければなりません」。
自殺から救われる
聖書が与える導きは,絶望状態にある人を救い出し,生きる目的を与えることができます。西部アメリカに住むある若者はこれを経験しました。
12歳の時にこの青年は父親を亡くしました。母親はアル中だったので,子どもを導くことがあまりできませんでした。そのために彼は情緒的に非常に不安定でした。ほかのティーンエージャーたちと交際しているうちに,しだいに大酒を飲むようになり,マリファナを吸い,ついにはバルビツール剤を用いるようになりました。そうしたことはみな彼を一層みじめにしました。彼は劣等感に陥り,生きて行くことに非常な困難をおぼえました。
17歳になったとき,彼は宗教に助けを求め始めました。休暇の間は朝昼晩教会に行き,毎日数時間そこで過ごしました。彼は長い祈りをささげ,聖書を読み始めました。そして詩篇や箴言が非常に助けになり,心をさわやかにするのを知りました。しかし,真剣な努力や祈りにもかかわらず,自分がほとんど進歩していないのを感じました。
ある夜,教会から歩いて家に帰る途中,非常な絶望感に襲われました。彼は祈りました。そして11時半ごろ義姉に電話をかけ,もう希望がないので自殺するということを伝えました。義姉は何を言っていいかわからず,もう一度電話をかけるまで待っていなさい,と言いました。そして大急ぎで職場の同僚,つまり自分が問題にぶつかる時よく助けてくれるエホバの証人に電話をかけました。
この証人はその若者に電話をし,その晩彼の義姉の家で会う約束をしました。夜の11時45分ごろ,証人と彼女の十代の息子は,彼を乗せるために車で到着しました。その母親と息子の非常に親密な様子や二人の振る舞いは彼に強い印象を与えました。その後彼らは三時間にわたり,死者はどこにいるか,神はなぜ悪の存在を許しておられるか,といった問題について話し合いました。聖書の預言によると,現体制はその「終わりの日」に来ており,まもなく正義の新体制に取って代わられるということを学んで,その若者は勇気づけられました。また,年を取って死ぬのを待たずに父親に再会できる可能性のあることを知って胸を踊らせました。この体制の終わりを生き残り,復活してくる父親を迎える機会が実際にあるかもしれません。
聖書の勉強をしたいかどうか尋ねられたとき,彼はしばらく考えていました。彼が聞いたことは本当に助けになりました。もし聖書を定期的に勉強すればさらに大きな益が得られると考えて,彼は勧めに応じましたが,実際その通りになりました。聖書を勉強し聖書に従ったために,彼は人生の目標および将来に対する確かな希望を得,また考え方を完全に変えることができました。悲しみと絶望に沈んでいた彼の心は深い喜びに変わりました。現在彼は自分の時間を賢明に用い,他の人々が聖書にある優れた導きについて学ぶのを助けています。
以上の経験のとおり,世界中のエホバの証人は,聖書に従えばそれだけ幸せになれることを知りました。もとより,完全に解決しきれない問題もあります。しかし聖書の助言は,人が自分の生活を乱されないように問題に対処することを可能にするのです。
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今あるものをはるかに超えたもの目ざめよ! 1976 | 1月8日
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今あるものをはるかに超えたもの
『今どんな益がありますか』。新しい概念が提出されると,大抵人はこうした反応を示します。もちろん,当面の益を望むのはごく自然なことです。しかし,それと同時に,将来のことを無視するわけにはゆきません。生活の導きが,将来に対する希望や目標を差し伸べていないなら,それには確かに大きな欠陥があると言わねばなりません。今何を持っているかにかかわりなく,自分の持つ将来に対する見通しは人の現在の歩みに大きな影響を及ぼすからです。
聖書は,将来に対する健全な希望,それに向かって努力すべき目標を差し伸べています。使徒パウロは,クリスチャンの原則に従って30年近く生活した後にこう述べました。『敬神の専念はすべての事に益があります。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです』― テモテ第一 4:8。
これまでにお読みになった記事の中には,自分の生活の仕方を変化させ,現在その益にあずかっている人々の経験が載せられていました。そうした人々は,単に変化しようと決意して,それに従っただけで,そうした変化を遂げたのでしょうか。そうではありません。彼らは,自分の行なってきたことが良いものではなく,自分の望むような満足のゆく生活をもたらさなかったことを認め,何らかの変化を望みました。ところが,どんな調整を加えるべきなのか,また,どのようにそうしたらよいのかを知りませんでした。それらの人が,エホバの証人を観察して,証人たちが幸福であり,生活に有益な変化を加えたことを認めた場合もありました。しかし,ただ自分たちの意志や力でそのような調整を成し遂げることはできませんでした。そのためには,聖書を研究し,人類に対する神の目的を理解しなければなりませんでした。自分がなぜ変化を遂げなければならないかを心の中で理解し,変化する時に神の助けがあることを悟るためには,神および他のクリスチャンからの援助が必要でした。さらに,その変化が自分と自分の家族に真の益をもたらすことをも理解しました。そうした人々は,生きてゆく上での目的を必要としていましたが,その目的は神の目的に従って形造られねばならないことを学びました。
そうです,現在より良い生活をするために必要なのは,創造者が人間を造った際に意図されたところに従って生活するよう学ぶことである,という点にこれら誠実な人々は気付きました。それは,家族や隣人と平和に暮らし,人を正しい方向に導くことのできる唯一のかたである神を畏れ,またその神に仕える生活です。聖書はこう述べています。『人よ 彼さきに善き事の何なるを汝に告げたり エホバの汝に求めたまう事は ただ正義を行ない 憐れみを愛し へりくだりて汝の神とともに歩む事ならずや』。(ミカ 6:8)そうした人々は,敬神の専念が「きたるべき命」の約束を保つものであることをも認めています。
完全な幸福には健康が必要
将来の命が幸福なものとなるため,それには何が必要ですか。まず最初に,健康のことが頭に浮かぶでしょう。それがなければ,喜びもありません。では,「きたるべき命」において健康はどのように備わるのでしょうか。
聖書は,神の王国だけが地を支配する時に,人々が健康に恵まれて幸福になることを保証しています。今でさえ,神の原則や命令に服することは,人の健康を損なう緊張や病気の多くを避けるのに役立ちます。聖書の有益な言葉は,「これを得る者の命であり,またその全身を健やかにする」のです。(箴 4:22,口)聖書の教えは,霊的な意味だけでなく,身体的な意味でも「健全なことば」であると言えます。霊的な福祉は,身体の健康を保つ上でも不可欠なものだからです。―テモテ第二 1:13; 4:3。
しかし,人間が健康や活力の面で完全になるには,実際の身体的いやしも必要です。正しい生き方そのものは,身体面のそうした治癒をもたらしません。それ以上のものが必要です。そうしたいやしは,どのように行なわれるのでしょうか。
人間は不完全さを受け継いでいるゆえに,自らをいやすことはできません。(詩 51:5)特に圧力を受けた時など,人間は正しくないことをしがちです。これは,間違ったことをしたくないと思っている人も含め,すべての人が罪人であるからです。聖書で使われている罪という語は,実際には「的を外す」という意味があります。人間は自力で向上することはできません。また,他の人を救うことのできる人間もいません。すべての人は,やがては死に至る,不完全さという“泥沼”にはまり込んでいるからです。詩篇作者は,富んでいる人,賢い人,権力がある人を含め,あらゆる人についてこう書きました。「そのひとりとして,決して兄弟をさえ請け出すことができない。彼のための贖いを神に支払うこともできない。人がとこしえに生き長らえて,穴を見ないために……」― 詩 49:6-9,新。
ゆえに神からの助けが必要となります。聖書の中で,病気は罪と結び付けられ,いやしはゆるしと関連付けられています。ダビデ王は人間の置かれている境遇を悟り,イスラエルに対してこう書きました。『わがたましいよ エホバを讃めまつれ そのすべての恵みをわするるなかれ エホバはなんぢがすべての不義をゆるし 汝のすべての疾いをいやしたもう』。(詩 103:2,3。ルカ 5:18-25と比較)完全な健康のうちに生きることを望むなら,この助けを待ち望まねばなりません。このいやしは,いつ行なわれるでしょうか。神のみ子イエス・キリストの千年統治の期間中です。あらゆる証拠は,その統治の始まりが間近に迫っていることを示しています。―マタイ 24:32-34。
これは期待すべきもの,わたしたちの生活の目標となり,神のご意志について学び,それに付き従うことを促すものです。しかし,神がわたしたちのためにそうした事柄をするというどんな保証があるのか,とお尋ねになるかもしれません。では,わたしたちの信仰の強固な土台として,聖書がそれをどれほど十分に説明しているか,また,人類をいやして元の状態に戻すために,神がどれほど注意深く取り決めを設けてこられたかに注目してください。
人類をいやすために神が整えられた方法
エホバ神は,ちょうど父親がその息子を愛するのと同じように,ご自分が創造したものを愛しておられます。イエスは,地上にいた時,こう言いました。『神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされた』。(ヨハネ 3:16)このみ子は,元来,地が創造される前から,天でみ父と共におられました。(ヨハネ 1:1。啓示 3:14)み子は,地上にいた時,祈りの中で,人間になる前の自分の存在に言及して,次のように神に願い求めました。「父よ,世がある前にわたしがみそばで持っていた栄光で,わたしを今ご自身のかたわらにあって栄光ある者としてください」― ヨハネ 17:5。
み子が人間として生まれ,不完全で罪深い人間と共に生活するよう,その命をユダヤ人のひとりの娘の子宮に移してみ子を地上に遣わすことが,神にとってどれほど大きな犠牲であったかを考えてください。また,地上で奴隷よりもひどい扱いを受け,最後には不名誉な死を遂げるために天における富を捨てたみ子の従順さと神に対するその愛について考えてみてください。(ペテロ第一 2:21-25)イエスの行なったことについて,使徒パウロはこう書いています。「彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。いえむしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のようなさまになりました。それだけでなく,人のすがたでいた時,彼は自分を低くし,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になられました」― フィリピ 2:6-8。
人類を死から救い出す手段として,なぜみ子の死が必要だったのでしょうか。人類の父ではないみ子は,人間家族の頭でも,人類の所有者でもありません。人類は,エホバ神に属しています。神は,全宇宙に対するご自分の正当な主権を持続する上で,罪を大目に見たり,それを見過ごしたりはできません。また,政府や裁判官の多くが今日行なっているように,犯罪者がその罪を“うまく逃れる”のを許し,国民の道徳心を弱めるようなこともされません。それで犠牲,つまり代価としての贖いの支払いが必要でした。その代価は完全な人間の命でなければなりません。人類の先祖アダムは,完全な命を持っていたにもかかわらず,自ら罪を犯してそれを失ったからです。アダムの子孫は,選択の余地なく,罪と死への隷属状態に売られました。(ローマ 7:14; 8:20)人間となったイエス・キリストは,必要とされたその代価を持ち,それを自ら与えました。ですから,本当の意味で,また法的に人類に対する命の与え主となるために,イエスは第二の,つまり「最後のアダム」にならなければなりませんでした。(コリント第一 15:45)こうして,公正のはかりの釣合が取られました。神は,よるべのない人類に憐れみを示して機会を与える一方,ご自分の統治においては完全な公正と義を保たれました。―ローマ 3:23-26。
イエス・キリストは,今や人類を買い取りました。全人類は,神のご意志に従って扱われるべくキリストに属しています。ご自分の命の血をもってすべての人を買い取ったキリストにとって,貴重でない人は一人もいません。自分は無価値であると考える人がいたとしても,その人の命はキリストの目には大変貴重なものです。イエスは,ふさわしい人が一人といえども命を失うがままにしたりはしません。ですから,キリストの王国の支配の下では,非常に親切で,本当に慈父からのような扱いを受けることを期待できます。(ペテロ第一 1:18,19。ルカ 15:4-10と比較)神に対する愛と従順,そして隣人への愛という神の普遍的な原則を受け入れ,それに従うなら,あらゆる病気のいやしを含む,義と公正と憐れみに満ちた助けの得られることを全く確信できます。―マタイ 22:37-40。ローマ 13:8-10。
キリストがこうしたことを行なえることがどうして分かりますか。まず最初に,み父であるエホバ神によって復活を受けたキリストが再び生きているという点が挙げられます。(使徒 2:32)またイエスは,買い取って得た権利によって人類を所有しているだけでなく,人類が必要とする物事すべて,自分が地上にいた時にはなし得なかった事柄をも行なう力を持っています。使徒パウロはこう書いています。『まさにこのゆえにも[イエスの死に至るまでの従順]……神は彼をさらに上の地位に高め,他のあらゆる名にまさる名をすすんでお与えになったのです。それは,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名においてかがむためでした』― フィリピ 2:9,10。
ですから,キリストの復活は,わたしたちが助けを受けることの保証であり,信仰の基です。それだけでなく,キリストの復活は,「地の下にあるもの」,つまり墓の中で死の眠りについている者たちが復活を受けることの保証でもあります。(使徒 17:31)過去の生き方の良し悪しを問わず,そうした人々は贖いの備えについて学び,それを受け入れ,王国による義の支配期間中従順に従う機会を与えられます。(使徒 24:15)そして,やがて完全さに達し,他の従順な人類と同様,神の家族の成員となります。―ローマ 8:21。
義の「新しい地」
わたしたちは,神の子になるということが何を意味するかを十分には理解できないかもしれません。それでもわたしたちは,神の子になることがどんなにすばらしいかをかいま見るだけの情報を聖書の中に見いだせます。公害,病気,犯罪,憎悪,人種間の緊張,そして戦争などの全くない,美化された地球に住むことを考えてください。雄大な山々,涼気とさわやかさを感じさせる森林,花で飾られた庭園,きらめく小川や河川,そして汚染されていない海洋など,地上の美しさから得られる純粋の喜びについて思い巡らしてください。わたしたちの恒久的な住まいにはこうしたものが存在することを,聖書は保証しています。
しかし,一層大きな喜びをもたらすのは,思いと心と身体の完全性を取り戻した,健康で喜びに輝く人々です。幸福であるためには,知能と体の双方にとって仕事が必要です。これは,すべての不安や抑圧された状態が過去のものとなるとはいえ,パラダイスの地に挑戦となる事柄がなくなるわけではないことを意味しています。
人間男女は,最初人間に与えられながら,果たし得なかった命令を遂行します。それは何ですか。地を『従わせて』,地や海や空のすべての動物を服従させることです。そうする際に,自分たちの能力を活用し,工夫を凝らさねばならない問題に直面するでしょう。
動植物の世話をすることは,多くの人にとって楽しみとなるでしょう。自分の持つ才能や能力を生かして,他の人々のために働くことは喜びとなります。地球は,人間が永遠にわたって研究や探究を続けるに事欠かないほどの不思議を秘めた,巨大な“科学実験室”です。発見された事実は,それぞれ人類に益をもたらす新たな門戸,新たな展望を開きます。ですから人間男女には,尽きることのないエネルギーと知恵の源であるエホバ神から,永遠に続く喜びある仕事が与えられます。(イザヤ 40:28,29)命は,本当に目的のあるものとなります。また,その世界の安全を脅かしたり,生活の輝きを曇らせたりするものもなくなります。過去の不快な事柄について,神の言葉はこう述べています。「以前の物事は思い出されることがなく,それが心に上ることもない」― イザヤ 65:17,新。
以上の描写は,単なる希望的な幻想ではありません。こうした事柄に関する約束は,「偽ることのできない」神の言葉聖書に記されているのです。(テトス 1:2。ヘブライ 6:18)イエスは地上にいた時,自分が人類をいやし,また祝福する力を持っており,その力を必ず行使するという十分の保証を与えました。(マルコ 1:40,41)そして,あらゆる種類の病気を,数え切れないほどいやしました。しかもイエスは,人々の信仰の度合に応じていやしたのではなく,自分の力で,人間に対する愛に動かされてそうしました。イエスのいやしは即座に行なわれたものであり,普通の医学的な手段を用いた漸進的な治療法ではなく,また特別な規定食,手術,入院などを必要とするものでもありませんでした。いやされた人は,「健康」になり,仕事をすることができました。―ヨハネ 5:9。
中にはイエスによってよみがえらされた人たちもいます。しかも,少なくともそのうちの一人の場合は,体が腐り始めていたのです。(ヨハネ 11:38-44。ルカ 7:11-17。マタイ 9:18-26)しかし,これらいやされたり,よみがえらされたりした人々すべてはやがて死にました。そのいやしは,身体を完全にするものではなかったのです。なぜでしょうか。それは,キリストの王国が支配を始め,現在のこの事物の体制を除き去る時がまだ到来していなかったからです。まずそれがなされなければ,健康,安全,幸福な家庭生活,そして平和などを保つ上で古い体制が妨げとなるでしょう。鉄の杖をもってなされるキリストの支配によって,この体制は,世界に臨む「大患難」の際に除き去られます。(マタイ 24:21)この事物の体制は,その不正や圧制と共に,地上から全く消え去らねばなりません。こうして,途切れることのない義の支配のために道が開かれます。聖書の導きに本当に従って生活している人々は生き残ります。(啓示 7:9,14,15)従って,わたしたちはこの出来事を恐れるべきではなく,むしろ自分たちの救出を意味するものとして待ち望むべきです。―ヨハネ第一 2:17。
それから,聖書の結びの章が述べるとおり,「命の水の川」が人類に向かって流れるようになります。キリストを通してもたらされる,命のための神の備えを象徴するこの「水」を飲み,川の両岸に並ぶ「木」の「実」を食べ,『諸国民をいやすための木の葉』を用いることによって,地上のパラダイスの住民は完全性へと引き上げられます。(啓示 22:1,2; 7:15-17)こうした取り決めを通して次の言葉が成就します。神は「彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:3,4。
現在わたしたちが経験しうる最良の,そして非常に幸福で生産的な生き方でさえ,神の新秩序での命とは比べものになりません。その命は,単に70年ほどではなく,百年,いや千年をさえしのぐ,永遠のものです。確かに,今日敬神の専念を示すなら,「今の命ときたるべき命との約束」を保ち,将来に対する魅力的な希望が与えられます。(テモテ第一 4:8)全知全能の愛ある創造者のみが,こうした命を与えることができます。エホバ神とそのみ子は,そうした命を与える時を大きな期待を抱いて待っておられます。人類に対する神の良い目的に関するこの知識は,神が備えてくださった導きである聖書に従って,自分の生活を調整するようあなたを動かすのではありませんか。そうであれば,あなたも,地に対する神の王国の千年支配を,熱心に待ち望めるでしょう。
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神は全地がパラダイスになると保証しておられます。このことは,神の意志と目的について学ぶようあなたを励ますのではありませんか
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あなたはどちらを選びますか目ざめよ! 1976 | 1月8日
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あなたはどちらを選びますか
人間の思想や理論は常に変わってゆきます。歴史はそのことを裏付けています。それゆえ,生活上の健全な導きを与えるものとして,人間の言葉をそのまま信頼することはできません。一方,聖書は,本当にそれに従う人に安全な導きとなってきたことが,幾世紀にもわたって証明されてきました。この点から見て,あなたはどちらを生活の導きにしたいと思われますか。聖書ですか,それとも人間の変わりゆく考えや哲学ですか。
今日,聖書に従って生きる人はあまり多くありませんが,そのことのゆえに失望しないでください。人々がそうしないのは,聖書の導きに従うのが難しすぎるからではありません。例えば,イスラエル人に与えた律法について,神がモーセを通して言われたことに注目してください。「わたしが,きょう,あなたに命じるこの戒めは,むずかしいものではなく,また遠いものでもない。これは天にあるのではないから,『だれがわれわれのために天に上り,それをわれわれのところへ持ってきて,われわれに聞かせ,行なわせるであろうか』と言うに及ばない。またこれは海のかなたにあるのではないから,『だれがわれわれのために海を渡って行き,それをわれわれのところへ携えてきて,われわれに聞かせ,行なわせるであろうか』と言うに及ばない。この言葉はあなたに,はなはだ近くあってあなたの口にあり,またあなたの心にあるから,あなたはこれを行なうことができる」― 申命 30:11-14,口。
クリスチャン使徒パウロは,ローマ 10章5節から8節で,モーセが述べた上記の言葉に預言的な意味を付していますが,その点を知らないユダヤ人たちは,この聖句の意味をただ次のように考えたかもしれません。つまり,おきてを守り,それによって神のあわれみを得るようにするのは,自分たちの能力を超えたことではないと。彼らはおきてによって,何をすべきかを容易に理解できました。神が何を望んでおられるかを知るため,ユダヤ人たちは天にそびえる山に登り,そこでエホバ神の代弁者に聞く必要はありませんでした。だれでも広大な海の「かなた」にある遠い国に旅行し,神の人であるだれか他の人の足下に座し,その人から指示を受けねばならない,ということはありませんでした。律法は書き記され,その全体がイスラエル人に読み聞かされました。ですから,それは彼らの口と心にある,と言うことができました。イスラエル人はその律法を自分たちの話題としたり,考察したり,思い起こしたり,心から熟考したりすることができました。
今日でも,神の要求される事柄は人が達し得ないものではありません。今の命を最大限に活用するため,特別な訓練を受ける目的で,いわばお金のかかる旅行をする必要はありません。事実,幸福な家庭生活や仲間の人間と良い関係を保つために必要な導きは,一冊の聖書という形でお宅の身近な所にあるのです。もし聖書をお持ちでなければ,恐らくあなたがお読みになれる言語で書かれた聖書を,簡単に求められるでしょう。全訳や部分訳の聖書は,地上の住民の97%の人々の言語で入手できます。
しかし,あなたが,少なくとも聖書の一部を読んだことのある幾百幾千万の人々の一人であるとしても,聖書を理解することは必ずしも容易でないと感じておられるかもしれません。聖書のある箇所については,確かにそう言えます。しかし,聖書が日常生活の事柄を扱っている場合に,それは明快で率直です。
しかし,聖書の理解しやすい箇所を知るだけで満足してはなりません。聖書の一部だけでなく,そのすべては「神の霊感を受けたものであり……有益です」から,確かに聖書をできるだけ多く理解したいと願うべきです。―テモテ第二 3:16。
恐らく,あなたも聖書をより良く理解したいと思っておられることでしょう。そうしたあなたの態度は,エチオピア人の女王カンダケの宮廷で仕えていた,教育を受けたある役人の態度に似ているかもしれません。この役人が聖書のイザヤ書を読んでいた時,キリスト教の福音宣明者フィリポが彼に近づき,「あなたは自分の読んでいる事がらがほんとうにわかりますか」と尋ねました。その人は,「だれかが手引きしてくれなければ,いったいどうしてわかるでしょうか」と答えました。―使徒 8:30,31。
もしあなたが同じように感じておられるなら,あなたの住んでおられる区域のエホバのクリスチャン証人は,フィリポがエチオピアの役人に与えたのと同じような援助を喜んで差し伸べます。証人たちはあなたのご都合の良い時間に,毎週一時間ほど,喜んでご一緒に聖書を調べるでしょう。そのために経済的な負担のかかることはありません。考慮できる主題には,「神とはだれですか」,「わたしたちが年老いて死ぬ理由」,「死んだ人はどこにいますか」,「神はなぜ今日まで悪を許してこられましたか」,「どうすれば神に祈りを聞いていただけますか」,「幸福な家庭生活を築く」などがあります。ご自分の聖書を開いてこうした問題について考えることは,あなたが,神との親しい関係という益を受けるのに大いに役立つのではありませんか。毎年幾十万もの人々が,毎週行なわれる聖書研究により,まさにそうするための助けを受けています。さらにそれらの人々は,過去において自分たちを悩ました問題に対する答えを見いだし,人生には真の意味と目的があることを知るようになりました。
聖書の知識を増し加えるにつれ,生活の中で起きる問題により良く対処できることに気付かれるでしょう。あなたご自身の場合,聖書の次の言葉が成就していることを認められるでしょう。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら,その人は神に求めつづけなさい。神はすべての者に寛大に,またとがめることなく与えてくださるのです」― ヤコブ 1:5。
試練や問題に首尾よく対処するため,神から与えられる知恵こそ真に望ましいものです。あなたが得たいと思われるのは,そのような知恵ではありませんか。
それで,現在まだエホバのクリスチャン証人と聖書を研究しておられないのであれば,そのようにすることにより,聖書が生活のための真にすばらしい導きであることをお調べになることはいかがですか。他の幾百万もの人々,つまり若い人やお年寄り,独身者や夫婦,家族など,様々な人々と同じように,あなたもこの勧めに応じたことをうれしく思われるに違いありません。どうぞ土地のエホバのクリスチャン証人と連絡を取るか,この雑誌の発行者に手紙を書き,お宅あるいは他のご都合の良い場所で聖書研究をなさりたい旨お知らせください。そうすれば,だれかがあなたを訪問する取り決めが設けられます。
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聖書研究によって得られる知識は,生活上の諸問題に首尾よく対処するのに役立ちます
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中国における活動と反応目ざめよ! 1976 | 1月8日
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中国における活動と反応
人の活動が,のちの時代になって多少意外な反応を引き起こすことは,人の世の事柄の中には非常によくあるものです。中国におけるキリスト教世界の宣教師たちに関連してこれが事実であったことは明らかです。聖書がはっきりと忠告しているにもかかわらずそれに背いて,過去の教会の宣教師たちは政治に手を出しました。そして彼らは,改宗者を得るための一種の手段として,物資のことを強調しました。ミカエル・エドワーズ著「ヨーロッパ時代1498-1955年におけるアジア」は,そのことを指摘して次のように述べています。
「19世紀の初めに,ナポレオンは次のように言った。『宣教師団は,アジアやアフリカまたアメリカにおいて,大いにわたしの役に立つかもしれない。彼らの服装の神々しさは,彼らの保護となるばかりか,彼らが行なう政治的,経済的調査を覆い隠すのにも役立つ』。西側の政治家で,これほど露骨なことを実際に言った者は他にはいないが,それを方針にした点では変わりはなかった。……宣教師たちは『保護された人々』としてその土地の政治に関与した。中国人の中には,自国の政府からの保護を外国の権力に求めることができるので,クリスチャンになることは有利だと考えた者がいた。宣教師たちは第五列,西側の,そして西側が全中国を懐柔するための,前衛部隊と見られていた。
「中国におけるキリスト教布教活動の成果は比較的に小さなものであった。改宗者たちはどちらかというと,キリストの教えの霊的賜物よりも,宣教師および彼を保護する者たちの銃のひごの下にあった,クリスチャンとして知られる場合のこの世的に有利な地歩を宣教師たちによって約束された。……さらに,平和を作り出すキリストの音信と,『キリスト教』勢力の侵略的な行動との間の根本的な相違は,だれの目にも明らかであった」― 190,191ページ。
教会の宣教師たちのこうした非聖書的な活動と態度に対して,歴史はどのように反応しましたか。最近,共産主義中国を一か月間旅行してきたアメリカ人の一バプテスト派信者は,ある宗教雑誌の中で次のように報告しています。「わたしは責任ある地位にいる党員たちに,イエス・キリストが唱道しなかったどんな事柄を毛沢東主席が唱道したのか,と尋ねてみた。毛沢東とキリストとは全く比較にならない,という返事であった。……土地改革と富の再分配以来,農夫たちは,毛沢東は神が次の世で約束していることをこの世で与えてくれた,と考えていると彼らは言った。……『宣教師』ということばは,中国ではいやなことばなのである。人々は宣教師の活動を帝国主義と同じに見ている。そのように見ているのはなにも中国人だけではない。わたしは中国訪問の前にアフリカの12の国を訪問したが,その時にわたしは,アフリカ人が宣教師を非常にきらっていることを知った」。
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