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神のみ名と聖書翻訳者たち神のみ名は永久に存続する
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でみ名を用いているものにはバレラ訳(スペイン語,1602年に出版),文語訳聖書(日本語,1888年に出版),アメリカ標準訳(英語,1901年に出版),フランシスコ会訳(日本語,1958年から分冊で出版)などがあります。なお,このフランシスコ会訳はヤーウェという形を用いています。有名なエルサレム聖書をはじめとする幾つかの訳は一貫して神のみ名を用いていますが,Yahwehとつづっています。
ここで,自分たちの翻訳にみ名を用いた翻訳者たちの幾人かの人々の注解を読み,その論議を,み名を省いた人々の論議と比べてみましょう。
他の翻訳者たちがみ名を用いた理由
1901年にアメリカ標準訳を出版した翻訳者たちの注解は次のとおりです。「[翻訳者たち]は全員一致して次のことを確信するに至った。すなわち,神のみ名は神聖すぎて口にできないとするユダヤ人の迷信に,英訳その他いかなる訳の旧約聖書ももはや縛られるべきではない。……この記念の名は出エジプト記 3章14,15節で説明されており,それによって神は,個性を持つ神,契約の神,啓示の神,救出者,ご自分の民の友として,旧約聖書の元の本文に幾度も繰り返し示されている。……この固有のみ名は,それに伴う実に多くの神聖な事柄と共に,聖なる本文中の疑問の余地のない然るべき場所に今や復元されている」。
同様に,ドイツ語のエルバーフェルダー聖書の初版の序文にはこう書かれています。「エホバ。我々はイスラエルの契約の神のこの名を引き続き用いた。読者は長年それに親しんできたからである」。
現代英語聖書の翻訳者であるスティーブン・T・バイイングトンは,神のみ名を用いている理由をこう説明しています。「つづりや発音はそれほど重要ではない。非常に大切なのは,それが固有名詞であることを明らかにしておく点である。この名を『主』といった一般名詞で訳したり,さらに悪いことに,名詞化された形容詞[例えば,永遠者]で訳したりすると,正しく理解できない聖句が幾つも生じる」。
J・B・ロザハムによる翻訳の場合は興味深いものです。ロザハムはその翻訳に神のみ名を用いましたが,ヤハウェという形のほうを好みました。ところが,その後,1911年に出版された,「詩編の研究」(Studies in the Psalms)と題する著作の中で,ロザハムは再びエホバという形を用いました。どうしてでしょうか。ロザハムは次のように説明しています。「エホバ ― 詩編のこの訳で記念の名(出エジプト記 3:18)を英語のこの語形で表わすことは,より正しい発音,つまりヤハウェとすることに対する疑念によるものではない。それは単に,この種の事柄では一般の人々の目と耳になじみ深いほうが望ましいという個人的観点に基づく実際的根拠によるものである。ここで最も重要なのは,神のみ名が示しているものを容易に識別できるようにすることである」。
詩編 34編3節で,エホバの崇拝者たちは,「あなた方はわたしと共にエホバを大いなるものとせよ。わたしたちは相共にそのみ名を高めよう」と勧められています。神のみ名を省いている聖書翻訳を読む人々はどのようにしてその勧めに十分応じることができるでしょうか。ヘブライ語聖書を訳す際,そこに神のみ名を含める勇気を持つ翻訳者が少なくとも幾人かはいたことをクリスチャンはうれしく思います。それによって,スミスとグッドスピードが「原文の趣」と呼んだものが保たれるのです。
しかし,ほとんどの翻訳は,たとえヘブライ語聖書中に神のみ名を用いている場合でも,クリスチャン・ギリシャ語聖書,すなわち「新約聖書」においてはそれを省いています。どんな理由によってそうしているのでしょうか。聖書のこの最後の部分に神のみ名を含めるのを正当なこととする何かの根拠があるでしょうか。
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神のみ名と「新約聖書」神のみ名は永久に存続する
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神のみ名と「新約聖書」
ヘブライ語聖書つまり「旧約聖書」の中で,神のみ名は揺るぎない位置を占めています。ユダヤ人はやがてみ名を発音しなくなりましたが,その宗教信念ゆえに,聖書の古い写本を作る際,それを除くことはしませんでした。ですから,ヘブライ語聖書には,神のみ名が他のどの名よりも多く記されています。
クリスチャン・ギリシャ語聖書つまり「新約聖書」の場合は事情が異なっています。啓示の書(聖書巻末の書)の写本には,神のみ名が「ヤハ」という省略形で(「ハレルヤ」という語に含まれて)出ています。しかしそれを別にすれば,聖書のマタイから啓示までの書の古代ギリシャ語写本で今日わたしたちが手にしているものの中に,神のみ名をすべての箇所に含んでいるものはありません。それは,み名がそこにあるべきではないという意味でしょうか。イエスの追随者たちが神のみ名の重要性を正しく認識しており,神のみ名が神聖なものとされるよう祈り求めることをイエスがわたしたちに教えた事実からすると,そのようなことは考えられません。では,何が起きたのでしょうか。
それを理解するには,今日わたしたちが手にしているクリスチャン・ギリシャ語聖書の写本は原本ではないことを覚えておかなければなりません。マタイやルカ,および他の聖書筆者たちが実際に書き記した書物は十分に使用され,すぐに傷んでしまいました。そこで,写本が作ら
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