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  • 私たちはどのように聖書を得ましたか
    ものみの塔 1957 | 5月1日
    • 私たちはどのように聖書を得ましたか

      私たちが神の考えを得るために,聖書は書かれました。私たちには神の考えが必要です。『ヱホバの御口から来るすべての言葉』は,生命に欠くことのできない大切なものだ,と神の子は言われました。生命の与え主の考えは,書かれたものになつています。私たちは,どのようにそれを得ましたか。

      聖書は普通の本ではありません。聖書は全く独特のものです。それは神の本です。聖書の中に神の考えが述べられています。聖書は,神の目的が何であるか,そして私たちのどんな行を神が望んでおられるか,を述べています。創造主の崇高な考えを学ぶことは,必要です。人間は,生命の与え主の考えを是非とも知らねばなりません。そのことを悟られていたキリスト・イエスは,次のように言われました,『人はパンだけではなく,ヱホバの御口から来るすべての言葉によつて生きなければならない。』― マタイ 4:4,新世。

      神の書かれた言葉は,今日では幾百という言語で読むことができます。多くの国々の普通の人々は聖書を自由に読むことができます。しかし,中世紀の一般の人々は,聖書を読むことができませんでした。聖書の言葉は廃語のものだつたのです。

      しかし,神が始めて聖書を書かせられたとき,神は廃語で書かせるようなことをされませんでした。神は,人々が御自分の考えを得てもらいたい,と欲せられました。語る言葉が無益なものにならないようにするため,聖書の著者は人々の使つていた言葉で,御自分の考えを書かせました。

      神の選民であつたイスラエルが毎日使つていた言語は,ヘブル語でした。それで,聖書の著者は,ヘブル語を用いて,いわゆる旧約の部分,正しくはヘブル語聖書と呼ばれる部分,を書かせました。

      聖書は,何時書き始められましたか。イスラエル人がエジプトの束縛から解放されて間もない頃であるキリスト前1513年頃です。ヱホバは,モーセにむかい,『これを書に筆して記念となし』と言われました。ヱホバ御自身も,『律法の板二枚……,是は石の板にして神が手をもて書したまいしもの』をモーセに与えました。この板には,十のいましめが書かれていたのです。モーセは,聖書の最初の五書を書いたとき,出エジプト記の中にこのいましめを記しました。―出エジプト 17:14; 31:18。

      その時以来,聖書を書くことは続けられました。神は,あらゆる生活層に属する多くの人々を用いました。例えば,将軍のヨシュア,裁き人のサムエル,王のダビデ,首相のダニエル,筆記者のエズラ,宮廷の仕え人であるネヘミヤ,農夫のアモス,そして予言者のエレミヤのような人々です。これらの人々は,聖書の創作者の無限の智恵と力によつて書きました。そして,自分の考えによつて書いたのではない,とはつきり述べています。『ヱホバの御霊わが中にありて言いたもう。そのさとし我が舌にあり。』とダビデは言いました。―サムエル後 23:2。

      モーセが創世記を書き始めてから約11世紀たつたときマラキ書が書かれ,かくしてヘブル語聖書を書くことは終了しました。

      しかし,聖書をさらに書きつづけることは必要でした。だが,今度は異つた言語で書かねばなりません。キリスト・イエスは,地に来られました。キリスト教を設立した方の生涯と教えを書き留めることは,絶対に肝要なものです。それでキリストの弟子や使徒は,神の霊感をうけてマタイ伝から黙示録までの27章を書きました。このわけで,キリストの使徒は次の言葉を述べることができたのです,『聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであつて,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。それによつて,神の人があらゆる良いわざに対して十分な準備ができて,完全にととのえられた者になるのである。』― テモテ後 3:16,17,新口。

      この霊感を受けて書かれた27章は,どんな言語で書かれましたか。ヘブル語ではありません。ヘブル語は廃語になつていたからです。平俗のギリシヤ語であるコイネが,国際的な言語で人々の話し言葉になつていました。神は,平俗のギリシャ語を用いて,いわゆる『新約』と言われる部分,正しくはクリスチャン・ギリシャ語聖書と呼ばれる部分,を書かせました。

      それで,全く明白に分るごとく,人々が神の御考えを学ぶようにと,神は望まれました。詩篇 119篇105節は,こう述べています,『なんじの聖言は,わが足の灯火,わが路のひかりなり。』聖書は,人間を導くものです。聖書を手で書いた写本が,たくさんつくられました。これらの写本は,すべてのクリスチャンのために,遠く広く配布されたのです。

      しかし,時が経つにつれて言語は変ります。新しい言語ができてきました。それで,神の御考えを保有するために,聖書の翻訳が必要になつてきたのです。キリスト前3世紀と4世紀という昔でも,アレキサンドリヤとエジプトにいてギリシャ語を話していたユダヤ人たちは,ヘブル語の聖書が読めませんでした。そのわけで,歴史家ヨハネスの引用している手紙によると,キリスト前280年頃,70人くらいの人々がヘブル語聖書を平俗のギリシャ語に翻訳する仕事を始めました。キリスト前第1世紀中に完了したこの翻訳は,『七十人訳』と呼ばれました。また,七十を表わすローマ数字LXXで知られています。

      七十人訳の写本は,非常に多く求められました。特に,クリスチャン時代の第1世紀には,その需要はたいへんなものでした。アレキサンドリヤの出版所では,その需要をまかなうことが難しかつたにちがいありません。出版は,ユダヤ人地区の学者<ラビ>の家々で,大規模に組織されてなされました。筆記職長が「七十人訳」をゆつくり読みます。すると,机に坐つている5人から10人の筆記者は一齊に,言葉を書きました。筆記者たちは,ペンとインクを用い,早く書きました。校正読みが注意深くされてから,そのパピルスは巻かれて,荷づくりされ,そしてギリシャ語を話す世界中に送られました。七十人訳の聖書は遠く広く配布されたのです。それですから,宣教の旅行をしていた使徒パウロは,聖書のことを前から知つていた異邦人の多いのに気づきました。

      廃語の聖書

      世紀が経つにつれて,ギリシャ語も国際言語ではなくなりました。西ヨーロッパでは,ラテン語が一般の言葉になりました。4世紀の終り頃,ジェロームという人は聖書をラテン語に翻訳しました。その翻訳は,『ラテン・バルゲート』と呼ばれています。しかし,一般普通人に関するかぎり,ラテン語さえも廃語になつてしまつたのです。他のいろいろな言語が使用されるようになりましたが,その中の一つの言葉は,英語でした。

      言語がこのように変化したにもかかわらず,人々の持つていたものは,とうてい分らないラテン語聖書だけでした。ところが,聖書を人々の言語に訳して,人々にも読まさせる,などということは,ローマ・カトリック教会権威者の強く禁ずるものでした。法王イノセント3世は,1199年に次の言明文を出しています,『信仰の奥義は,あらゆる場所にいるすべての人に説明してはならない。世界中のすべての人が信仰の奥義を理解することはできないのだ。』他の法王は,一般人の聖書の使用を禁じました。人々は,たしかにラテン語聖書を持つていました。しかし,その聖書は廃語のものでしたから,聖書のない状態とたいしてちがいません。

      14世紀の後半期に,オクスフォードの学者でありまた講議者であつたジョン・ウィクリフと言うローマ・カトリックの牧師は,高位の牧師や下位の牧師のあいだに見出された霊的な無関心と無知を非難しました。牧師が聖書について,こんなにも無知であつたなら,一般の人々はどういうことになるでしようか。多くの人々は,聖書という本のあることすら知らなかつたのです。ウィクリフは,『聖書について無知であることは,キリストについて無知であることだ。』と語りました。それで,ウィクリフはラテン語聖書から,初めて聖書全部を英語に訳したのです。これは,1382年頃でした。

      ローマ・カトリック教会は,ウィクリフの努力を感謝するどころか,ひどく反対しました。1412年,ローマ法王に書き送つた手紙の中で,大僧正アルンデルはウィクリフのことを『極悪無道の者,忌まわしい記憶を残した者……,極悪の最高潮に,聖書を母国語に訳した者』と呼んでいました。教会の権威者たちは聖書を英語に翻訳することを一切禁じました。

      しかし,1453年にコンスタンチノープルの陥落という出来事が起りました。このため,学者たちは西欧に分散して行きました。これらの学者たちは,西欧諸国の人々がほとんど忘れていたギリシャ語の知識を持つていたのです。又,それと同じ頃に,ヨハネス・グーテンベルグは活版印刷術を発明しました。この二つの出来事が偶然にかち合つて,神の御考えを人々の日常の言葉で表わす活動が活潑に始まつてきました。

      一般の人々に神の御考えを得させる仕事で指導的な役を果した人は,ウィリアム・チンディルでした。チンディルは,オクスフォードとケンブリッジの立派な学者でした。彼はギリシャ語を知つていました。そして,ウィクリフの英語訳の聖書は,聖書の原語から訳されたのでなく,ラテン語聖書から訳されたため,翻訳の翻訳である,ということに気づきました。チンディルは,原語から直接に聖書を翻訳しようと欲しました。その目標は,正確であることと,原語に全く忠実である,ということでした。

      教会の指導者たちは,チンディルに疑惑の目を向け,チンディルは,しばしば,議論の的になりました。敵対者の一人は,『法王の律法があるなら,神の律法がなくても良い』と言いました。烈火のごとく怒つたチンディルは,こう叫びました,『神が私の生命を救い給うなら,私は何時の日か英国で鋤を使う少年の方が,法王よりもずつと良く聖書を知るように,させる。』チンディルは,確かにその言葉を実行しました。

      『英国侵入』

      チンディルは,しばしば逮捕される危険に会いましたが,欧州大陸に逃げて地下に潜りました。地下に潜つても,その生命は絶えず脅かされていたのです。しかし,1525年までには,チンディルの英語訳クリスチャン・ギリシャ語聖書は,印刷を俟つばかりになりました。教会の一役員は,チンディルの仕事のことを知り,ヘンリー8世に手紙を書き送つて聖書の『英国侵入』を警告しました。その手紙は,港湾を厳重に見張つて,『有害な商品』の入ることを阻止しなさい,と王に警告していました。聖書は,綿の樽や,粉の袋の中に入れられて,英国に密輸入されました。英国に入つてからは,聖書は飛ぶように売れたのです。牧師は,びつくり仰天しました。そして,探し出した聖書をみな買い上げて,燃しました。ロンドンの司祭は,アントワーブに交易しているパキングトンという商人を呼び,欧州大陸で売られている聖書全部を買つてきてもらいたい,と願いました。

      内々ではチンディルの友であつたパキングトンは,次のように答えました,『猊下,このことにつきましては,私は英国内のどの商人よりも上々の仕事をすることができる,と思います。まだ,売れていない聖書を必らずみな手に求めてごらんに入れます。』

      『みな求めてきてもらいたい。その値段がどんなに高かろうとも構わない。余はよろこんで支払う。パウロの十字架のところで,それらの聖書を1冊残らず燃してしまう』と司祭は言いました。

      4週間たつて後に,この商人は,財政に苦しんでいたチンディルに会い,こう言いました,『チンディル先生,先生の著作を買う良いお客さんを見つけてきました。』『それは誰かね?』とチンディルは尋ねました。『ロンドンの司祭です!』『司祭が聖書を欲するのは,ただ焼くためだけなのだ。』とチンディルは言いました。すると,商人はこう答えたのです,『それが,どういうことになりましよう。どつちみち,司祭は本を焼いてしまうでしよう。それですから,一番良いことは先生がお金を得られて,燃された本の跡埋めする聖書を印刷されることです。』

      それから取引が始まりました。司祭は聖書を得て,チンディルは金を得ました。チンディルは,こう語つています,『このことから二つの益が得られるので,私はずつとうれしく思う。私は負債を返すことができ,また全世界は神の言葉を焼くことに対して猛烈な反対をするようになるだろう。それに,あまつたお金で,私はもつと研究をすることができ,いわゆる新約聖書の誤りを訂正することができる。それから,同じものを再版するが,再版のものは初版のものよりもずつと良いもの,と信ずる。』このようなわけで,聖書の最悪の敵であるロンドンの司祭は,知らずしてチンディルに経済援助を行い,聖書の翻訳をさせたのです。その後,聖書はどんどん英国に来ました。前よりも3倍も多い数になつて来たのです。程無くして,教会の権威者は,印刷された聖書を燃しつくすことは,とうてい不可能である,と知りました。牧師は,説教壇から英語の聖書を攻撃しました。この間,チンディルはヘブル語を研究して,原語から直接にヘブル語聖書を翻訳して,その幾らかを翻訳しましたが,1535年,彼は教会の権威者に捕えられました。その翌年,彼は邪教徒と処罰せられ,絞首刑を受けて,杙の上で焼かれました。チンディルの体は死んでも,彼の仕事は抹殺されなかつたのです。

      チンディルが死んでから75年間に,6つの重要な英語の聖書が出ました。それは,コバデイル聖書,マスュウ聖書,大聖書,ジェネバ聖書,ビショップ聖書,そしてレイムスードーエイ聖書です。ドーエイ聖書は,ラテン語聖書から翻訳されたものです。しかし,他の聖書は,本質的に見て,チンディルの聖書の改訳でした。

      16世紀から17世紀にかけてなされた翻訳の中でも一番大きな影響を及ぼした翻訳が,英国に現われました。これは,欽定訳聖書で,その90パーセントはチンディルの翻訳から取られたものと推定されています。

      チンディルは,立派な仕事をしました。彼は神の御考えを一般の人々に知らせました。

  • 彼らは妥協を拒絶した
    ものみの塔 1957 | 5月1日
    • 彼らは妥協を拒絶した

      真のキリスト教が,大多数の人々の間で人気を呼んだことは,一度もありません。第1世紀の宗教指導者にとつては,イエスは宗教界の好ましからぬ侵入者でした。イエスは,妥協せずに真理を宣明したため,宗教指導者の自己偽善や人間の言い伝えは神より否認されたもの,と曝露されました。(マタイ 15:1-9; 23:1-39)イエスは,唯一の真の神の崇拝を教え,そして神の言葉は真理である,と躊躇せずに語りました。(ヨハネ 17:3,17)すると,この国々の神々や,また宗教家たちが神の名の下に伝道していた矛盾し合う悪い教えは,偽りであり,人を惑すもの,ということになります。イエスは正しかつたのですから,彼らは間ちがつていました。その峻厳な真理は,彼らの心を傷つけました。

      政治界も,『ユダヤ人の王』になる者が現われた,ということによろこびを感ぜず,ヘロデは『賢人』からその者の誕生を知つたとき,悪鬼のそそのかしに従つてその者を殺してしまおう,という運動を始めました。その企みは失敗しました。しかし,それから後の年になると,総督ピラトは宗教的なパリサイ人の要求に屈し,キリストを恰も暴動をそそのかす法律違反者のごとくに見なして,死刑に処したのです。―ヨハネ 19:12-16。

      真実のクリスチャンたちは,神の子の模範の道に従いました。そして,イエスがヱホバに専心の献身を捧げ,またそのような崇拝こそ唯一の正しい宗教であると躊躇せずに宣べ伝えたごとく,イエスの弟子たちは彼の足跡にしつかりと従つてきました。使徒ヨハネは,次の言葉を述べましたが,それは全く正しいものです,『私たちは神から出た者であり,全世界は悪しき者の配下にあることを,知つている。』(ヨハネ第一書 5:19,新口)しかし,この世は,キリストの態度を好まなかつたと同じように,ヨハネのなした行にも是認を与えませんでした。ドミチアン皇帝は,ヨハネをパトモス島に追放しました。

      ユダヤ教の宗教教職制度や,その帰依者たちは,特にクリスチャンたちに対して激しい怒りを持ちました。彼らは,キリストを殺すために,すでに異教ローマと憎むべき同盟を結んでいたのです。しかし,五旬節以来,キリストの弟子の数がぐつと増加し,又多数の人々がユダヤ教を棄ててキリストの教えに従うようになるにつれて,彼らの憎しみは一向に減らなかつたのです。

      ステパノは殺されました。『さてサウロはなおも主の弟子たちに対する脅迫,殺害の息をはずませながら,大祭司のところに行つて,ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは,この道の者を見つけ次第,男女の別なく縛り上げて,エルサレムにひつぱつてくるためであつた。』(使行 9:1,2,新口)サウロはクリスチャンたちを迫害した理由について,こう述べています,『私は激しく神の会衆を迫害し,また荒しまわつていた。そして,同国人の中で私と同年輩の多くの者にまさつてユダヤ教に精進し,先祖たちの言伝えに対して,だれよりもはるかに熱心であつた。』(ガラテヤ 1:13,14,新口)しかし,このサウロがクリスチャンになると,今まで迫害を加えていた彼が,こんどは迫害を受ける者になりました。

      それで,ローマの異邦人だけでなく,宗教心の強いユダヤ人も共々に,クリスチャンたちを憎んだのです。或る歴史家たちの考えによると,悪名高いネロの妻,ポッパイアは,すくなくともユダヤ教への改宗者であつたとのことです。それですから,夫をけしかけて鬼畜行為のようなクリスチャン迫害をさせた,ということについて幾らかの責任を負う者です。

      ローマ人から迫害さる

      それでは,クリスチャン時代の初期の世紀では,クリスチャンの迫害はユダヤ人からの反対だけだつたのでしようか。もし,そのように結論するなら,全貌の一部を考えることになります。『ローマ人がキリスト教に敵意を抱いた主要な理由は,クリスチャンの崇拝が他の宗教に共通なものをひとつも持つていなかつた

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