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生命の言葉を学ぶものみの塔 1963 | 12月1日
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生命の言葉を学ぶ
「これまでに書かれた事がらは,すべてわたしたちの教のために書かれたのであって,それは聖書の与える忍耐と慰めとによって,望みをいだかせるためである」― ロマ 15:4,新口。
1 神は何を通して語っていますか。神のことばに耳を傾けることはなぜ賢明ですか。
創造主は聖書を通して語りかけ,過去におけるみわざ,将来に為し遂げようとする事柄を告げます。また人を最善の道に導く健全なさとしと賢明な教えを授けます。人間のとうてい及ばない知恵を持つ創造主のことばに耳を傾けるのは,賢明なことです。創造主に聞くならば,文字に書かれたそのことばは,生命のことばとなります。「わが子よ,わたしの教を忘れず,わたしの戒めを心にとめよ。そうすれば,これはあなたの日を長くし,命の年を延べ,あなたに平安を増し加える」― 箴言 3:1,2,新口。
2 神のことばから宝を得ることのできない人があるのは,なぜですか。
2 神のことばを学ぶことには大きな報いがあります。しかしその報いは努力なしには得られません。精神を集中し,思いめぐらすと共に,読むことに多くの時間をかけることが必要です。週刊誌,新聞,手軽な小説よりほかに読むことをしない浅簿な心の持ち主にとって,これは楽しいことではありません。努力して神のことばの深い事柄をきわめようとしない人は,知恵という宝を得ません。しかし努力する人はそれを得ます。「もし知識を呼求めさとりをえんと汝の声をあげ銀の如くにこれを探り,かくれたる宝の如くこれを尋ねば,汝エホバを畏るることをさとり神を知ることを得べし」。(箴言 2:3-5)このためには勉強が必要です。学ぶことを怠り,神のことばをおろそかにするとどうなりますか。むかし神と契約を結んだ民の末路は,そのことを示しています。
3 むかし神の契約の民を治めた王には,何が要求されていましたか。その事はなぜ有益でしたか。
3 エホバの契約の民を治める王は,神の律法を書き写させて,一生のあいだそれを何回も読むべきでした。それに従って歩むとき,民を最善の道に導くことができます。王がエホバの律法を何時も学ぶことは,王自身のみならず国民全部の益となりました。「彼その国の位に座するにいたらば祭司なるレビ人の前にある書よりしてこの律法を一の書に書写さしめ,世にながらふる日の間つねにこれを己の許におきてよみ斯してその神エホバを畏るることを学びこの律法の一切の言と是等の法度を守りて行ふべし」― 申命 17:18,19。
4 神の選民を治めた王の大多数は,どんな道をとりましたか。
4 エホバの選民を治めた王の大部分は,この命令を守りませんでした。神のことばを学ぶことをせず,その賢明な教えに従わなかったのです。それどころか自分自身の知恵に頼って,歩んではならないと神が命じた道に民をひき入れました。愚かにも神への従順をなおざりにした王は,忌むべき偶像崇拝に陥りました。「エホバがイスラエルの子孫の前よりおひはらひ給ひし異邦人の法度に歩み又イスラエルの王等の設けし法度にあゆみたるによってなりイスラエルの子孫ただしからぬ事をもてその神エホバを掩ひかくしその邑々に崇邸をたてたり看守台より城に至るまで然り彼ら一切の高丘の上すべての青樹の下に偶像とアシラ像を立てエホバがかれらの前より移したまひし異邦人のなせしごとくにその崇邸に香を焚き又悪を行ひてエホバを怒らせたり」― 列王下 17:8-11。
5 一般にレビの祭司はどんな間違いをしましたか。その事はどんな結果になりましたか。
5 聖書の賢明なさとしと身を守る教えを求めなかった多くの王にならい,レビ人の祭司も一般に聖書をおろそかにしていました。エホバは心を養う真理を与えました。しかしそれで心を養うことをしなかった祭司は,その崇拝した偶像のように空しい者となり,エホバの祭司でありながら,忌むべき偶像と崇邸の祭司になってなんら良心の責めを感じませんでした。「預言者と祭司はともに邪悪なり我家においてすら彼等の悪を見たりとエホバいひたまふ」。(エレミヤ 23:11)このように道を踏みはずした王の多い中で,ヨシヤパテ王は数少ない例外の一人でした。
6 ヨシヤパテの時代にレビ人のした賢明な行いを説明しなさい。それはなぜ国民の益となりましたか。
6 ヨシヤパテの時代のレビ人は神のことばを学び,神の律法を民に教えて祭司の務をはたしました。ヨシヤパテ王がその事をさせたのです。王の命をうけた祭司は国中を巡回して教えました。この有益なわざは民を強め,神への従順を励ましました。「彼らはエホバの律法の書を携へユダにおいて教えをなしユダの邑々をことごとく行きめぐりて民を教えたり」。(歴代下 17:9)人々に神のことばを教えるこの建設的努力が後の王の時代にもつづけられたならば,この民の歴史は実際とはよほど異なっていたに違いありません。23代にわたるユダ歴代の王のうち,ヨシヤパテのような王はまれでした。
律法の書を見出す
7,8 (イ)ヨシアはその治世の間にどんな注目すべき事をしましたか。(ロ)宮の修理はなぜ必要でしたか。
7 ヨシアの支配は,ユダ王国の歴史の中で傑出しています。そのことに与って力があったのは,文字に書かれた神のことばでした。ヨシアは250年以上昔のヨシヤパテと同じく,神のことばを非常に重んじたのです。エホバに従順な道を歩むことを願ったヨシアは,その父アモンと祖父マナセの時代にはびこった憎むべき偶像崇拝の行いを一掃することにとりかかりました。偶像は砕かれ,バアルの祭司の骨はその祭壇の上で焼かれ,祭壇はくずされました。聖なる柱は宮から引き抜かれて捨てられ,太陽崇拝に用いられた太陽の馬車はこわされました。太陽にささげられた馬が宮にはいって宮を汚すことを,ヨシア王はもはや許しませんでした。ヒンノムの谷でさえも町のごみ捨て場となり,偶像崇拝に用いることができなくなりました。―歴代下 34:3-7。列王下 23:6,10,11。
8 その治世の8年目にあたり,25歳のヨシア王は,エホバの宮を修理せよとの命令を出しました。ヨシアより200年以上昔のヨアシの時代から宮の大修理は行なわれていなかったようです。ヨシアの祖父マナセは25年間,父アモンは2年間治めましたが,その間に宮は偶像崇拝の場所になることが多く,その維持はおろそかにされていました。宮の外郭の建物は偶像を崇拝した王の手で荒され,建て直すことが必要だったのかも知れません。―歴代下 34:8-11。
9 宮を修理する工事の最中に,どんな重要なものが発見されましたか。それがかくされていた理由として,どんな事が考えられますか。
9 修理の工事の最中に大祭司ヒルキヤは,モーセの書いた律法の書を発見しました。明らかにこれは宮の至聖所の契約の箱のかたわらに置かれた原本でした。それはヒゼキヤの子マナセが偶像で宮を汚し,エホバの僕を迫害していた時に,かくされたのでしょう。ヨセハスによれば,マナセは預言者を含めて多くの義人を殺しました。その殺害の行いは甚しかったため,マナセはエルサレムを無実の人の血で満たしたと言われています。「マナセは……罪なき者の血を多く流して,エルサレムのこの果から,かの果にまで満たした」。(列王下 21:16,新口)この狂信的な迫害のため,忠実な大祭司が神の律法の書を契約の箱のかたわらから取り去り,安全な場所にかくしたと考えられます。
10,11 (イ)それを読み聞かされたヨシアは,どんな反応を示しましたか。(ロ)それは何の本であったと思われますか。なぜそうですか。
10 その巻物が神の律法であることを認め,発見の重要性を悟ったヒルキヤは,エホバの家の書記官シャパンに命じてその巻物を王の許に持参させました。シャパンから聖書を読み聞かされたヨシアは驚き,ショックを受けました。「王はその律法の書の言葉を聞くと,その衣を裂いた」― 列王下 22:8-11,新口。
11 その巻物は申命記であったようです。申命記は,神の契約の民が神の律法に背くとき,どうなるかを警告しているからです。その警告は何が起きるかをきわめて詳細に述べているため,国民の偶像崇拝の行いを知る善い王ヨシアに,ショックを与えたものと思われます。国の前途は災をはらむ暗いものでした。
12-14 王は神のことばを書き写させてそれを読むことになっていたのに,ヨシアはそれをはじめて読み聞かされたかのような反応を示しました。この事をどのように説明できますか。
12 神の律法は,神のことばを読むことを王に命じていたのに,この聖なる本の警告を読み聞かされたヨシアが,はじめてそれを聞いたかのように驚いたのはなぜですか。おそらくヨシアはそれをはじめて聞いたのです。読むために書き写した神のことばを,おそらく持っていなかったのでしょう。ユダの歴代の王が偶像を崇拝し,アハズ,アタリヤ,マナセのような狂信的偶像崇拝者もいたことを考えれば,神の律法を書き写させて常日頃読む王のならわしがすたれたとしても,不思議ではありません。ヨシアはおそらくレビ人の口から神の律法のことを聞き,また教えられていたのです。レビ人は疑いなく神の律法の書を持っていました。15歳にして「父ダビデの神を求めることを始め」たヨシアは,ダビデの神について忠実なレビ人から教えを受けたに違いありません。偶像を崇拝した父アモンの宮廷にはべった者たちが,ヨシアを教えたとは思えません。―歴代下 34:3,新口。
13 神のことばを書き写したいくつかの巻物がレビ人の間にかつて存在したことは,ヨシヤパテの時代にレビ人が律法の書を携え,国中を行きめぐって民を教えた事実からも明らかです。悪しき王たちが律法の書をことごとくまっ殺できたとは考えられません。ヒルキヤはその発見した書物が神の律法の書であることを,すぐに知りました。おそらく当時のレビ人は律法の書の保管者であったために,ヒルキヤも神のことばをよく知っていたのでしょう。ヒルキヤの発見が特筆すべきものであった理由は,おそらくそれがモーセの手になる原本であったためです。
14 おそらくヨシアは神の律法を自ら学ばず,レビ人から教えられて神のことばを知りました。従って神のことばを読み聞かされたのは,シャパンから聞いたのがはじめてだったとしても,不思議ではありません。申命記 28章にしるされた恐ろしい災は,それが原本から読まれたことと相俟って,ヨシアの身に迫って感ぜられたのでしょう。心を深く動かされたヨシアは,衣を裂いてこのことを示しました。
15 ヨシアは,神のことばから読み聞かされた事をどのように確かめましたか。
15 ヨシアはその国に対するエホバの怒りが大きいことを悟りました。人々は神のことばを無視し,神の命令にことごとく背いてきたからです。その事を憂えたヨシアはさっそく5人の代表を派遣し,女預者ホルダによってエホバに伺いを立てました。「汝等ゆきてこの見当し書の言につきて我のため民のためユダ全国のためにエホバに問へ其は我等の先祖等はこの書の言に聴したがひてその凡て我等のために記されたるところを行ふことをせざりしによりてエホバの我等にむかひて怒を発したまふこと甚だしかるべければなり」。(列王下 22:13)この書にしるされた災がことごとく臨むことを,エホバは女預言者の口を通して確認されました。「エホバかく言ふ我ユダの王が読たるかの書の一切の言にしがひて災害をこの処とここにすめる民に降さんとす」― 列王下 22:16。
16 (イ)その本にしるされた呪はどのように成就されましたか。(ロ)それはなぜ神の契約の民の上に降されましたか。
16 ヨシアはエホバの前に正しい心を持ち,最善をつくしてエホバのことばに従ったので,この災はヨシアの時代には臨みませんでした。心のかたくなな国民にとってそれが現実になったのは,ヨシア王の死後20年以上を経た時です。バビロン軍がユダの地を略奪し,ソロモンの建てた豪華な宮とエルサレムの町は破壊されて,互れきの山となりました。生き残った人々の大部分は,申命記の預言にたがわず遠いバビロンに捕われてゆきました。「エホバ汝と汝が立てたる王とを携へて汝も汝の先祖等も知らざりし国々に移し給はん」。(申命 28:36)このすべてが臨んだのは,神のことばを学ぶのを怠り,その教えを守らなかったからです。
使徒時代
17 使徒は聖書に対してどんな態度をとりましたか。
17 クリスチャン使徒は,神のことばを学ぶことが人間の幸福のためにどれほど必要かを十分に認識していました。それで20世記の一部の宗教家のように神のことばの権威を疑問視して,聖書に対する人々の信仰をくつがえすことをせず,神のことばを尊重し,それに対する信仰と認識を深めようと心を砕きました。マケドニヤの町ベレヤのユダヤ人がパウロの教えを聖書に照らして検討したとき,パウロはその人々を責めず,また異端扱いしませんでした。ローマカトリック教会は,教会の教えの是非を聖書によって判断しようとした人々を異端審問所に送りました。それとは反対にパウロは,ベレヤの人々が善良であったと述べ,聖書をしらべて信仰と真理のよりどころを聖書に求めたその行いを是認しています。―使行 17:11。
18 聖書を学ぶことを怠ったイスラエル人の例は,なぜ警告となっていますか。
18 イスラエルの国民がベレヤ人と同じく神のことばを学んで,その教えを守ったならば,申命記に預言されたのろいを受けなかったことでしょう。イスラエル人に臨んだ事柄は,後の世代の人々に対する警告となっています。それは今日,聖書を学ぶことを怠っている人々に対する警告です。荒野で不従順となったイスラエル人に関して使徒パウロの述べた事柄は,王の支配を受けるようになった後の時代の不従順なイスラエル人についても言えます。「これらの事が彼らに起ったのは,他に対する警告としてであって,世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」。(コリント前 10:11,新口)この人々の間違い,また怠った事に注目すれば,その上に臨んだ神の怒りと災を今日避けることができます。
19 パウロは,聖書を学ぶことの価値をどのように強調しましたか。その言葉を考えるとき,どんな結論が出ますか。
19 使徒パウロはテモテに書き送った手紙の中で,聖書を学ぶことの価値を次のように強調しています。「聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであって,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。それによって,神の人が,あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて,完全にととのえられた者になるのである」。(テモテ後 3:16,17,新口)聖書の教えを無視していながら,聖書から教えを受けることはできません。聖書を学ぼうとしない人が聖書の戒めに従って生きることは不可能です。聖書を導きにしなければ,真の信仰に関して正しく知ることはできません。聖書を学ばなければ,聖書は義の導きとはなりません。聖書を学ぶことを怠り,その教えを守らなかったため不幸になったイスラエル人の例にならってはいけません。「めぐまれているのは,むしろ,神の言を聞いてそれを守る人たちである」― ルカ 11:28,新口。
聖書を学ぶことを生活の一部にしなさい
20 なぜ聖書は今日,必要ですか。
20 神のことばは,イスラエル人の福祉のためになくてならぬものでした。私たちの福祉のためにも,それは同じく肝要です。諸国家が核戦争にむかって狂気のように進んでいる現在,聖書に心の安らぎを求めることが必要であり,正しい考え方をするために聖書の知恵を求めることが必要です。また聖書の預言を学んで希望を知るとき,安心感を得ます。聖書を学ぶことを,生活の一部にしなければなりません。
21,22 (イ)神のことばについて,ヨシュアがイスラエル人に告げた言葉の意味を説明しなさい。(ロ)どのようにして神のことばを口に持つことができますか。
21 イスラエル人がヨルダン河を隔てて約束の地を目の前にしたとき,ヨシュアに告げられたエホバの言葉は,今日においても従うべき有益なさとしです。「この律法の本をあなたの口から離してはならない。また昼も夜もそれを小声で読まなければならない。それは,そこに書かれていることをことごとく守り行なうためである。そうすれば,あなたの道は成功し,あなたは賢明に行なうであろう」。(ヨシュア 1:8,新世)昼も夜も学ぶというのは,四六時中読みつづけることではありません。ここで強調されているのは,一生を通じてたゆまずに神のことばを学ぶことです。いったん始めたものの,後になって怠るということがあってはなりません。
22 聖書を学ぶことによってその真理と原則をたえず心に留めるならば,それから離れることはありません。それは語る言葉に表われ,他の人を益する言葉を口から出すのに役立ちます。そして言葉は聖書の知恵を,行いは聖書のすぐれた原則を反映するようになります。神のことばにしるされた事柄を語るならば,口に神のことばを持つことになります。それは清く,健全で徳を高める言葉です。「あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです」。(詩 119:103,新口)聖書を定期的に学ぶことを怠ると,神のことばはその人の口から離れ,その人は神のことばの真理を語らなくなります。
23 小声で聖書を読むという表現から何が考えられますか。
23 聖書を小声で読むというのは,深く考えながら読むことです。声を出して読めばゆっくり読むことになり,考えが頭の中にはいるので,それを思いめぐらすことができます。言葉が多くて内容の乏しい本とは異なり,聖書の中に無駄な言葉はありません。史実を述べた部分は別として,言葉の意味を十分に理解するには,ゆっくり読んで考えることが必要です。
24 聖書はどのように今日,私たちを導く光ですか。
24 聖書の教えを守るならば,聖書は永遠の生命に至る道に人を導く光となります。世界中の人々が恐れ,とるべき道を知らずに迷っている最中にあって,神のことばの示す道を真直ぐに歩む人は,自分の行先を知り,そこに到達する確信を抱いています。聖書を学んで実行する人は賢明に振舞い,その道は栄えます。―詩 119:105。マタイ 7:13,14。
25 聖書の内容を学ぶために,どれほど努力すべきですか。
25 金銀などの宝をさがす人が多くの時間と精力を費やすのと同じで,神のことばから知識と知恵を得るには勤勉に学ばねばなりません。それを得ることは永遠の幸福な生命につながるゆえに,どんな物質の宝を得るのにもまさっています。「知恵を求めて得る人,悟りを得る人はさいわいである。知恵によって得るものは,銀によって得るものにまさり,その利益は精金よりも良いからである。知恵は,これを捕える者には命の木である,これを捕える人はさいわいである」。―箴 3:13,14,18,新口。
26 神のことばの価値を認める人は,何をしますか。
26 神が聖書に書きしるさせた事柄の価値を知る人は,それを無視したイスラエル人の間違いをしないでしょう。聖書の価値を認識し,聖書を学んで下さい。ヨシアの如く神の律法を心に深く思い,聖書に書かれた事をことごとく守って行ないたいと願うべきです。使徒と同じく聖書の教えを受け入れ,その導きに従って生命に通ずる道を歩んで下さい。聖書に親しみ,聖書を定期的に学んでその真理を心に留めましょう。「これまでに書かれた事がらは,すべてわたしたちの教のために書かれたのであって,それは聖書の与える忍耐と慰めとによって,望みをいだかせるためである」ことを忘れてはなりません。―ロマ 15:4,新口。
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自分の勉強を改善するものみの塔 1963 | 12月1日
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自分の勉強を改善する
「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう」― マタイ 7:7,新口。
1,2 (イ)マタイ伝 7章7節を説明しなさい。(ロ)信仰と認識の質は何によって決まりますか。
神のことばから得られる非常に貴重な知識と知恵は,求める者に与えられます。聖書を学ぶための努力をいとう人は,この宝を得ることができません。また文字に書かれた神のことばが,すぐれた律法であり,有益なさとしであり,光を与える真理であるとの信念を持っていないことになります。マタイ伝 7章7節にあるイエスの言葉は,イエスの御父のことばを尊重する人々に語られたものです。それは聖書の価値を認めず,聖書を読もうとしない人々に対する言葉ではありません。聖書の価値を認める人は,イエスの言われた通りにすることでしょう。そして教え,知識か知恵を授けられるように,一回ならず何回も御父に祈るに違いありません。イエスの言われたように求めつづけることは,誠実と熱意の表われです。
2 聖書をひもといて学ぶとき,教え,知識,知恵を求める願いはかなえられます。戸をたゝくだけの努力をする人が戸を開けてもらえるのと同じく,神のことばの宝を求めるために努力するならばそれは与えられ,楽しみと益がもたらされます。他の人に代って求めてもらうことはできません。信仰の強さと聖書の真理に対する認識の深さは,聖書をどれほど学ぶかという事に関連しています。エホバによみされる道を歩むには,エホバのみわざとお約束に対する認識を持ちつゞけなければなりません。それはクリスチャンの熱意を燃え立たせる火です。しかし聖書の勉強を怠るとき,その火は弱くなります。
3 (イ)なぜ聖書を定期的に学ぶべきですか。(ロ)どうすれば聖書の真理に普通以上の注意を払うことができますか。
3 聖書の勉強をたゆまずにつゞけないと,学んだ真理もやがてぼんやりとしか記憶に残らなくなり,たしかにつかんでいるかどうかも怪しくなってきます。それは信仰から離れる第一歩です。使徒パウロはこの事を警告して次のように述べました,「こういうわけだから,わたしたちは聞かされていることを,いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと,おし流されていまう」。(ヘブル 2:1,新口)聖書の真理をくり返し思いおこすならば,それに普通以上の注意を払うことになります。そうすれば真理を心に刻むことになり,たまにしか考えない事柄のようにすぐ忘れる心配はありません。何度も思い返すことによって,はっきり思い出せるようになります。
4,5 真理を深く知ることはなぜ必要ですか。どうすればそのような知識を得られますか。
4 献身したクリスチャンならば,水の浸礼を受けたとき,イエス・キリストにならって真理をあかししたいとの願いを表わしたのです。イエスはポンテオ・ピラトの前で言われました,「わたしは真理についてあかしをするために生れ,また,そのためにこの世にきたのである」。(ヨハネ 18:37,新口)真理をあかしするためには,まず真理を知らなければなりません。真理をよく知れば知るほど,御霊の剣を巧みに用いて「要塞をも破壊」し「さまざまな議論を破り,神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわ」すことができます。(コリント後 10:4,5,新口)人の心に深く根をおろした間違った宗教や考えは,容易に取り除けるものではありません。首尾よくそれを成し遂げるには,剣を巧みにふるうことを学んだ昔の兵士のように,聖書を巧みに使うことを学ばねばなりません。
5 クリスチャンの剣は聖書です。聖書を思うまゝに使いこなせますか。間違った教えを巧みに論破できますか。真理にさからう議論を論破できますか。もしできないとすれば,聖書の勉強を改善し,宣教において聖書をますます使って,聖書という剣の使い方をますますみがかねばなりません。
聖書を読む
6 聖書の通読にはどんな価値がありますか。
6 聖書を学ぶのにいちばん良い方法は,題目別に学ぶことです。しかし聖書を通読することに価値がないという意味ではありません。聖書の通読には大きな価値があります。そのことからは背景となる貴重な知識が得られ,神のことばが全体的に把握されます。それは大きな出来事が何時起きたか,神と交渉のあった人々がそれぞれどの時代の人であったかを時の流れの中で位置づけるのに役立ち,これらの人々またそのした事を知るのに役立ちます。このすべての知識は,エホバの真理を効果的に証言するのに必要です。
7,8 (イ)聖書を全部読みましたかと聞かれたとき,エホバの証者はなぜハイと答えられるべきですか。(ロ)ものみの塔聖書冊子協会は,聖書を読むことを,どう考えていますか
7 個人的な聖書の勉強のプログラムの中に,聖書を読むことをいれていますか。聖書を何時も読むことを人にすゝめながら,自分自身は読まないでいますか。真理について証言する目的で人を訪問したとき,聖書全体を読みましたかと聞かれて何と答えますか。読みましたと,はっきり答えられますか。それとも少しもじもじしてほとんど全部読みました,と答えますか。はっきり答えられなければ,聖書の真理を宣明する者としての信用は落ちてしまうでしょう。
8 ものみの塔聖書冊子協会は,聖書の教えを説明した手引のほか,聖書を読むことを長年の間すめてきました。ニューヨーク,ブルックリンにある協会の印刷工場の壁には,「神のことば聖書を毎日読みなさい」と大きな字で書かれ,毎日,通勤の途中そこを通る何千人の人々に,人はすべて聖書を定期的に読むべきである,という事を語りかけています。これは聖書を読むことに対する協会の立場を示すものです。エホバの証者は世界中でいちばん良く聖書を読む者でなければなりません。ものみの塔ギレアデ聖書学校においてもこの事は認められ,学生は学校を終えるまでに聖書全巻を読むことを要求されています。聖書を読むことをこのように重んずるのは正しい事です。私たちの生活は神のことばを中心にしています。その真理を伝道し,その約束を信じ,その原則に従って生活する私たちは,だれよりも率先して聖書を毎日読むべきです。
何時勉強するか
9 証者はなぜ自分を教えるべきですか。
9 献身したエホバの証者ならば,非常にいそがしい毎日を送っています。その時間の大部分は世俗の仕事と宣教活動でなくなってしまいます。することが多いため,自分の勉強の時間を見つけるのが問題です。しかし霊的な福祉と円熟のために,個人的な勉強は欠くことができません。それを怠ることはできません。たえず自分自身を教えていなければ,どうして他の人を能率的また効果的に教えることができますか。忙しいスケジュールをやりくりして,自分の勉強の時間をくみいれて下さい。
10 自分の勉強また聖書を読む時間を,どのように作りますか。
10 できれば週毎の勉強時間をきめ,その時間にはテレビ,ラジオその他の娯楽に気が散らないようにしましょう。一晩を勉強にあてることができなければ,午前中あるいは午後の時間を利用できるかも知れません。たとえ1時間でも,きまった時間を勉強にあてるならば,全然ないよりもましです。毎週テレビの人気番組をいくつか見る時間がありますか。そのうち一つか二つ見るのをやめて,その時間を勉強にあてることはいかがですか。毎日15分か30分の時間でも,聖書を読むのに利用できます。聖書を何時も持ち歩き,病院や歯医者の待合室,バスや電車を待つ時間,美容院や床屋で番を待つ時間を無駄にせず,有効に用いて下さい。朝,昼休み,あるいは寝る前の時間を使って,聖書をいくらかでも読めるならば,それを毎日の習慣とすることによって,長い間には一回だけでなく何回も聖書を通読できます。
11 勉強の時間と他の活動との釣合をとるため,何が提案されていますか。
11 献身したクリスチャンは,毎月少なくとも10時間を宣教に費やすように努めています。同じ分量の時間を自分の勉強にあてることを目標にしてはどうですか。霊的に活発であるためには,霊的に養われていることが必要です。そのことを認識して下さい。それで野外の宣教についやした時間を記録するのと同様に,個人的な勉強についやした時間を記録できます。そうすれば,毎月の末になって勉強の時間と他の活動とのつりあいを検討できます。
子供と勉強しなさい
12,13 親はどのように子供を教えますか。どのように質問しますか。
12 子供のために勉強の時間をきちんと決めて下さい。大人と同じく子供も生命をもたらす神のことばの真理を学ばねばなりません。そして子供を教えるのは両親の責任です。勉強の時間のたびに宿題を与えなさい。ギレアデ聖書学校で行なわれているように,協会の出版物を一定の頁数だけ読むことを割りあて,次の勉強の時間に報告させます。こうして一冊の本を仕あげるまで,同じことをくり返すのです。聖書を何章か読んで内容を報告する割当と交互に,これを行なうのも良いでしょう。聖書の本の順序を覚えさせるのも良いことです。幾人かの子供がいるならば,次のようなゲームができます。各自が聖書を持ち,本の名前のあげられる度に,だれがいちばん早くそれを見つけるかを見ます。それは楽しく,ためになるゲームです。
13 子供が宿題を報告するとき,クイズをして子供の理解をたしかめることができます。乗物の中でも,食卓でも,ほとんど何時でも子供に聖書の質問をできます。聖書の教え,地理,人物,来事その他,子供が勉強の時間に学んだことを尋ねてごらんなさい。子供の頃から勉強の習慣をつけさせれば,大きくなってもそれが役立ちます。
勉強の方法
14 勉強にとりかかる前に何が必要ですか。
14 自分の勉強を改善するには,勉強の方法を学ばねばなりません。正しい方法を知っていれば,勉強から大きな益が得られます。まず何を勉強するかを決めてから,勉強にとりかゝるべきです。集会の準備,協会の新しい出版物の研究,あるいは調べものなどいろいろあるにしても,目標を決めれば,あてもなくいろいろなものに手をつけることはありません。はっきりした目標を決めて勉強すれば,漫然とするよりもはるかに益があります。エホバの証者の御国会館で行なわれる神権宣教学校において時おり与えられる割当は,このような目標となります。
15,16 (イ)神のことばのいわば冒険旅行をどのようにするかを説明しなさい。(ロ)この節にあげられている例にかぎらず,どんな問題をしらべることができますか。
15 神のことばを学ぶ,いわば冒険旅行を時おり試みてごらんなさい。だれかに尋ねられた質問あるいは自分の心に浮んだ疑問の答をさがすとか,聖書歴史の一定の時期また出来事の背景をしらべるとか,特定の預言の理解を深めるといったことです。「ものみの塔」(英文)を用いて,協会の出版物をしらべることができます。
16 協会の出版物以外の参考書,たとえば地図,聖書辞典などを使って,参考となる知識を得て下さい。また索引もあります。関連した事柄を知るのに索引は有用です。聖書に出てくる土地について読んでいるならば,地図を見てその土地を心に思い浮べてごらんなさい。使徒パウロの宣教旅行を例にとっていえば,地図の上でそのあとをたどることにより,読んだ事柄を心に描いてみることができます。ソロモンの宮の建築について読むとき,その資材に関していろいろしらべることができるでしょう。資材をどこから入手しましたか。だれが,どんな方法で工事をしましたか。巨大な香柏の木は,どのようにレバノンの山からエルサレムに運ばれましたか。ユダヤ人がバビロンに捕われたことについて学ぶとき,地図を出してバビロンとエルサレム相互の位置の関係をしらべ,捕われの人々が旅行した距離を計ってごらんなさい。更にしらべるならば,ユダヤ人がどんな待遇を受けたか,どんな国を通過したかも明らかになるでしょう。このような背景にある事柄を知るのは,学んでいることの理解を助けます。どれほどよく覚えるかは,どれほどよく理解しているかに依存しています。
17 学ぼうとする欲求はなぜ必要ですか。
17 これらの提案も,学びたいという気持のない人には役立ちません。この気持がない人は,神のことばの知恵を求めないでしょう。また知識と知恵を求める動機にかけていることになります。献身したクリスチャンならばこの気持,創造主のことを知り,創造主が書きしるさせた事柄を学ぼうとする意志を持っています。創造主に対する愛のゆえに,知識と理解を求めなければなりません。「さとき者の心は知識をたずねる」。―箴言 15:14,新口。
18 勉強に望ましいのはどんな環境ですか。そのような環境を得るため,どんな努力をすべきですか。
18 勉強する時には,勉強しやすい環境を選びなさい。音を小さくしてもラジオを聞きながら,勉強しようとするのは無理です。有益な勉強をするには,静けさが必要です。静かなところでないと,精神を集中できません。しかし狭い家の中で子供たちがはね回っている時はどうしますか。子供たちが家にいない時あるいは寝てしまってから勉強できるかも知れません。それもできなければ,図書館あるいは天気がよければ公園に行く方法もあります。あるいは友人の家に行って一緒に勉強し,そのあいだ先方の子供をこちらの家で遊ばせることもできるでしょう。もちろんその反対のこともできます。精神を集中できる静かな場所と時間は,どこかにあるはずです。
19 勉強を実りのあるものにするため,興味と注意の集中はどのように大切ですか。
19 勉強しようと努力しても,精神を集中しなければ本当の益は得られません。何かほかの事を考えているなら,注意力が散漫になり,学んでいることに注意を集中できません。しばらくの間わずらいを忘れて,読んでいる事柄に深い関心を払うように努めなさい。関心のない事柄をぼんやりと読んだのでは,機械的に読むだけに終り,頭に何も残らないでしょう。勉強してもさっぱり成果があがらないのは,たいてい精神を十分に集中していないためです。読みながら他の事を考えているので,読んだことはほとんど印象に残りません。勉強しながら眠ってしまうこともあるでしょう。これはたいてい勉強している事に関心がないからです。学んでいる資料を何かのために使うというはっきりした目標があると,資料に興味を持つ助けとなります。その場合には勉強に目的があり,使おうとする資料に関心が向いています。資料に興味を持つことと,注意を集中することによって,勉強の能力を改善できます。
勉強の技巧
20 (イ)本を勉強するとき,まず何をしらべますか。(ロ)どんな目的でこの事をしますか。
20 さて協会の出版した新しい本を勉強するとしましょう。それを勉強するいちばん良い方法は何ですか。まず本の表紙を読み,それについて自分の知っている事を考えてごらんなさい。これは本の内容を全体的に知るための第一歩です。これは自動車を見るときの要領と同じです。自動車の各部分を見ただけで,どれだけのことがわかりますか。まず全体を眺めるほうが,よほどいろいろな事に気づきます。そのまわりを一まわりして色々な角度から眺めてごらんなさい。次にもう少し近づいて,各部の関連を見ます。こうしておいて今度は細かい部分を見ると,いっそうよく理解できるでしょう。本を学ぶのもこれと同じです。表題,目次を一読して本の内容をおしはかり。まず全体的に知るようにします。次に章の中の副見出しを見て,章の題との関連を考えます。このようにして最初一通り見るときに,長い時間をかける必要はありません。しかしこれには大きな益があります。
21 章をどのように読むかを説明しなさい。
21 本の内容についておよその見当をつけたならば,第一章を読み始めます。読みながら節全体の内容を述べた文章に注目して下さい。このような文章は,たいてい各節のはじめに出ていますが,時には節の中頃にあったり,あるいはひとつの節のまとめとして最後に出ていることもあります。それは節の内容を簡単に言い表わしている文章です。これらの文章は傍線をつけることもできます。このように心を配って一章を読むならば,章のあらすじをつかめます。雑誌の記事を読むときにも,同じようにすると効果的です。
22 いくつかの言葉をひとまとめにして読むことにはどんな価値がありますか。どんな場合にゆっくり読むことが必要ですか。
22 読むとき,一時に一つの言葉ではなく,いくつかの言葉をひとまとめにして読むようにしなさい。おはじきの玉をつかむとき,一度に幾つもつかめるのと同じで,目の動きを止める毎に,いくつかの言葉を一度に読みとることができます。こうすると早く読めるだけでなく,内容もよくつかめます。しかし時には内容が難しくて,早く読めない性質の文章もあります。たとえば意味の深い箴言の文章などは,言葉をひとつずつ読むことが必要です。しかし大抵の場合,いくつかの言葉をひとまとめにして読んだほうが意味を容易につかむことができます。
23 読んだ事柄を頭にいれるため,どんな読み方が提案されていますか。
23 副見出しのところに来たならば,今まで読んできたことを思い直してみます。要点を覚えていますか。内容をつかんでいなければ,各節の全体を要約している文章をもういちど読んで,記憶をあらたにして下さい。聖句が説明されていたならば,それを覚えていますか。覚えていなければ,もういちど読んでごらんなさい。こうしておいて,次の副見出しのところまで読み進みます。主題と内容の進展を頭において読みなさい。
24 (イ)勉強するとき,どのように鉛筆を使うべきですか。(ロ)何ひとつの章を終えたところで何をすべきですか。
24 自分の本また雑誌ならば,かぎとなる言葉や注目すべき文章に鉛筆で傍線をつけられます。傍線はひかえ目につけましょう。これは後で読み返すときや,本をグループで勉強するとき,要点を思いおこすのに役立ちます。他の人の本にしるしをつけてはなりません。本を読むとき,他の人のつけたしるしは邪魔になるからです。一章を読みおえたならば,頭の中で最終的な復習をしてみます。要点を心に留めなさい。いま読んだ事について,他の人に何を話せるかを考えてごらんなさい。
25 活発に考えながら読むため,何をしますか。
25 活発に頭を働かせながら読めば,1,2頁読んだあとで何を読んだのかわからないという事はありません。考えながら読むことは,実のある読書をするために肝要です。出来事の描写ならばそれを心に描いてごらんなさい。聖書の根本的な真理,預言の成就に注目して下さい。書かれていることと自分の行動をくらべてごらんなさい。そうすれば益を得ます。新しい考えに注目し,また述べられている事の理由を考えてごらんなさい。内容を吟味し,また神のことばの伝道者として宣教に役立つ事柄に注目して下さい。このようにして勉強は実のあるものとなります。
26 自分の勉強を改善することからどんな益が得られますか。
26 自分の勉強を改善することから,多くの益が得られます。学べば学ぶほど,自分の希望を他の人によく説明できるようになり,問題にぶつかるときも,より良い判断を下すことができます。また自分が正しいことをしているという確信も強まり,この世の懐疑主義や無神論の悪い影響から身を守る信仰の盾を強く,また大きくできます。更に会衆の神権宣教学校でする研究生の話に上達し,グループの聖書研究の時にいっそう有益な答ができるようになります。家から家の宣教において語る言葉にも確信がこもり,善意者を再訪問することに上達し,またいっそう内容の充実した家庭聖書研究を司会できるようになります。こうして霊的な幼児にとゞまることなく,円熟に成長できるでしょう。自分の勉強の習慣を改善することによって,生命への道をしっかり歩めるのです。
27 神のことばという宝をどのように考えるべきですか。
27 神のことばは霊的な富の宝の倉です。その宝を得ようと勤勉に努力すれば,それを得られるのです。この宝は金銀で買えないものをもたらします。神のことばに思いをめぐらし,神のことばを口に出して,生ける限りこの富を大切にして下さい。神のことばを何よりの関心事にしなさい。自分の勉強を改善して神のことばに対する認識を示し,クリスチャンのなすべき宣教に実を結ぶよう神のことばを使いたいとの願いを示して下さい。
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日毎に知識を加えて平和に住むものみの塔 1963 | 12月1日
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日毎に知識を加えて平和に住む
平和,それは楽しく,また望ましいありさまです。これはとくに神との関係,クリスチャンの仲間との間柄についてあてはまります。弟子とのわかれの話の中で,イエスは,「われ平安を汝らにのこす。わが平安を汝らに与ふ。わが与ふるは世の与ふるごとくならず汝ら心を騒がすな,またおそるな」と言って,キリストにならう者すべてがそれぞれ平和を持たねばならぬ事を教えました。―ヨハネ 14:27。
クリスチャンはこの平和を得るためになにをしたら良いでしょう。神のことばである聖書,神の地上の組織,および神の聖霊を通して神から与えられる知識を定期的に,日毎に取り入れるべきです。イザヤはこの事を前以って告げて,「またなんぢの子らは皆エホバに教をうけ,なんぢの子らのやすきは大いならん」と述べました。―イザヤ 54:13。a
この面でイエスは,若い時から実に良い模範を見せたではありませんか。「イエス智慧も身のたけもいやまさり,神と人とにますます愛せられ給ふ」。その宣教の記録を調べると,イエスが聖書に精通していた事を認めぬわけにはゆきません。試むる者の誘惑をしりぞけ,逆らう者の言説を論破し,群衆を前に力強い話をした時,すばやく,しかも実に巧みに神のことばを引用したではありませんか。―ルカ 2:52。マタイ 4:3-10; 5:27-42; 22:29-40。
こうしてイエスが聖書に通ずるためには,それだけ多くの時間をかけねばなりませんでした。私たちとて同じことです。追いまくられるように忙しい今の古い世にあっては,私たちの時間を要求することがらが実に多くあります。それゆえ,個人の勉強,家族の勉強,会衆での勉強の時間を生み出すために,それほど重要でない事を整理しなければなりません。そうです,まさに聖書もすすめる通り,「賢くない者のようにではなく,賢い者のように歩き,今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである」。―エペソ 5:15,16,新口。
知識を増し加え,平和に住むためには,聖書の勉強をする際に,霊的な食欲を強く,すなわち,自分は霊的な物が必要だとはっきり自覚していたいと思われるでしょう。しかし,きつくなるほどたくさん食べてものうくなっている時,また何時間もテレビを見て眠気をもよおしている時などに,どうしてそんな気がまえになれるでしょう。「銀のごとくこれを探り,かくれたる宝のごとくこれをたずねば,…神を知ることを得べし」と箴言のことばが述べている通りに,落ち着いた勉強をし,十分に調べ,十分に知識を掘り出すためには,単に勉強したいと願うだけでなく,勉強にふさわしい精神状態を整えねばなりません。―箴言 2:4,5。
良い成果を望むなら,定期的に勉強しなければなりません。からだの健康を守り,体力を維持するために,週に一度か二度の食事でまにあいますか。霊的な健康を保ち,霊的な力を培うためにも,規則的に,しかも日毎に,霊的な食物で自らを養わねばなりません。それで聖書を読み,その意味をゆっくり考えることのために,毎日いくらかの時間を取りなさい。
エホバ神がみこころに従ってそなえられた聖書研究用の手引を学ぶなら,次々と新しい知識に接するでしょう。そんな場合にどうしますか。ただ批判的な態度で読みますか。いえむしろ,昔のベレヤの町の人々の模範にならうべきです。「こゝの人々は…心よりみことばを受け,この事正しくしかるか然らぬか日々聖書をしらぶ」。新しい真理を学び,それを確かめるなら,それを自分の一部とし,私たちのひな型であるイエス・キリストに似る者となるべく,それをして私たちの人格を変えるものとならせなさい。―使行 17:11。コロサイ 3:10。
もう一つ注意しなければならぬ点をあげましょう。会衆の集会にそなえて予習をする場合でも,あるいは,講演を準備し,プログラムの一部を研究し,新しい本の内容を読み取る場合でも,自分が今している勉強の主題から離れてはなりません。肉や野菜など晩の買物のためにスーパーマーケットに行ったはずなのに,特売があったからといって,石けんや化粧品でかごを一杯にして帰るどこかの婦人の真似をしてはなりません。手元にある仕事に心をそそぎなさい。
知識を加えるのに役立つ多くの方法がありますが,中でも効果的なのは,復習,熟考,討議です。一人でしばらく勉強したなら,なにを学んだのか簡単に振りかえってごらんなさい。一人で歩いている時,だれかを待っている時など次の機会をとらえ,学んだ事を思い出し,その意味を深く考えてごらんなさい。さらにまた,もし機会が許すなら ― たとえば社交的な集まりのおりなどに ― 努めて共なるクリスチャンの仲間と学んだ事柄を話し合ってごらんなさい。事実,どんな知識にも伴うものがあるのです。それは,自分が得た知識を他の人と共に分かちあうという責任です。こうして進んでゆくなら,日毎に加えられた知識によって平和に住む者となるでしょう。
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