-
聖書は単なる人知の所産ですかものみの塔 1975 | 6月1日
-
-
で仕事をし,その消毒方法は政府によって認められました。とはいえ,全体としてヨーロッパ医学界は手を洗うことに反対でした。ウィーンの医学雑誌の編集者は,「漂白粉の溶液で手を洗うなどというこんなばかげたことはやめるべき」時が来たとまで酷評しました。1861年,ゼンメルワイス博士は自分が発見した事柄や消毒方法に関する記録を出版し,後にその書物を著名な産科医や医学協会に送りましたが,医学界は好意的な反応を示しませんでした。ドイツの医師や自然科学者の会議では大抵の講演者はゼンメルワイスの健全な医学上の意見を退けました。
19世紀のヨーロッパの医者や科学者たちは自らを学識ある者と考えていました。ところが,確かにそれとは気づかずに,何千年も前にモーセの律法の衛生に関する規定に明らかに示されている,優れた知恵を退けていたのです。その律法によれば,死人に触れた者はだれでも汚れた者となるので,その人は体や衣服を洗うことを含め,清めの処置を講じてもらわなければなりませんでした。汚れた状態の期間は七日間と定められており,その期間中汚れた人は他の人との身体的接触を避けなければなりませんでした。はからずもだれかに触ったなら,相手の人はその日の晩まで汚れた者とされました。こうした処置は,危険な病菌が死人から生きている人へ,またある人から別の人へと伝染するのを防ぐのに役立ちました。―民数 19:11-22。
もし前世紀の医学界がモーセの律法を神からのものと見なしていたなら,どれほど多くの人の命を救い得たかを考えてみてください。もしそのように見なしていたなら,生きている人や死んだ人を扱う際,医師ははるかに大きな注意を払っていたに違いありません。
ある分野では,聖書の述べる事柄の背後にある知恵が最近になってやっと認められるようになりました。その適例は,アブラハムに与えられ,後にモーセの律法の中で再び繰り返された割礼に関する命令です。それによると,生後八日目になるまでは男の赤子には割礼を施してはなりませんでした。(創世 17:12。レビ 12:2,3)しかし,八日目というのはどういうわけですか。
今では,八日目を最適とする医学上の確かな根拠のあることが知られています。生後五日ないし七日目になるまでは,赤子の体内では「ビタミンK」として知られる凝血素は正常な量に達しません。また,血液凝固に不可欠なもう一つの要素であるプロトロンビンの濃度が八日目には幼児期中のどの時期よりも高まるようです。こうした証拠に基づいて,ある大学の医師であるS・I・マクミランは,「割礼を施す理想的な日は八日目である」と結論しています。―「こんな病気はもうたくさん」,22,23ページ。
そのような理想的な日が選ばれたのは,単なる偶然ですか。他の民族も長いあいだ割礼を施してきましたが,聖書の影響を受けた人たちだけが男子の赤子に生後八日目に割礼を施したことで確かに知られているということは注目に価します。であってみれば,人間の創造者がその日を定められたとする聖書の説明を受け入れるのは理にかなったことではないでしょうか。それこそ,その律法を従順に守れば健康を維持するのに役立つと言われた方に期待してしかるべき事ではありませんか。
確かに聖書には目ざましい知恵の言葉が収められているということは否定できません。聖書が単なる人知の所産ではあり得ないことを示す明らかな証拠が確かにあります。聖書には,それが書かれた時代の世の賢人のあずかり知らない知恵を示す言葉が収められているのです。しかもなお,聖書が神からの書物であることを明らかにする,さらに強力な要素があります。それは何ですか。
-
-
人間には知ることのできるはずがない知識ものみの塔 1975 | 6月1日
-
-
人間には知ることのできるはずがない知識
「あなたがたは,あす自分の命がどうなるかも知らないのです。あなたがたは,少しのあいだ現われては消えてゆく霧のようなものだからです」。聖書にあるこのことばは否定することのできない事実を述べています。つまり,わたしたち人間には明日の事も確かにはわからないということです。―ヤコブ 4:14。
このことを考えれば,人間が将来の大きな出来事を誤ることなく正確に,しかも明白なことばで何世紀も前に予告するのははるかに難しい,いや不可能なことではないでしょうか。このような予告つまり預言が聖書にあるとすれば,聖書を神の霊感によるものとする聖書のことばは確かに裏づけられるのではありませんか。では,そのような預言が聖書にありますか。考えてみてください。
バビロンとニネベの滅び
ユーフラテス川の両岸に建てられたバビロンは,かつて大バビロニア帝国のみごとな首都でした。やしの木に囲まれたこの都は耐久的な水道を設備し,ペルシャ湾から地中海に至る通商路に位置していたので絶好の地の利を占めていました。それにもかかわらず,ヘブライ人の預言者イザヤは,バビロンがアッシリア帝国の単なる衛星国から,世界を征服したバビロニア帝国の首都へと発展を遂げる以前にさえ,すなわち西暦前8世紀に次のことを宣言しました。「国々の誉であり,カルデヤびとの誇である麗しいバビロンは,神に滅ぼされたソドム,ゴモラのようになる。ここにはながく住む者が絶え,世々にいたるまで住みつく者がなく,アラビヤびともそこに天幕を張らず,羊飼もそこに群れを伏させることがない」― イザヤ 13:19,20,口語。
今日このことばの成就はだれも否定できません。すでに何世紀もの間バビロンは廃虚となっています。春になっても羊ややぎの食む草はなく,したがって動物のそのような姿も見られません。バビロンの栄光は消えうせました。フランス国立博物館のアンドレ・パロ館長は次のように述べています。
「私がいつでもそれから受ける印象は,全くの荒廃というにつきる……[観光客は]たいていの場合すっかり失望し,ほとんど口をそろえて何も見るものがないと言う。彼らは宮殿や寺院そして『バベルの塔』が見られると期待しているのである。彼らが見せられるものは廃虚の山にすぎない。その大部分は焼いたれんが ― つまり天火で乾かした粘土のブロックである。灰色をしたそれらのれんがは朽ちて
-