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  • 聖書に書かれていることはほんとうに事実ですか
    目ざめよ! 1983 | 10月8日
    • 聖書に書かれていることはほんとうに事実ですか

      『聖書時代の人々は無知で迷信深く,読み書きができなかった。ただ口頭で歴史を伝えたにすぎない。それなのにどうして,聖書はほんとうに事実が書かれている本と言えるのだろうか』。

      聖書についてそのように考えたことがありますか。

      誠実な人で,そのように考えたことのある人は少なくありません。その一方,単に責任逃れの策としてこうした論議を用いる人もいます。それでは,聖書時代の人類社会が極めて原始的で,人々は無知であったというのは真実でしょうか。

      近年,シリアのエブラで行なわれてきた発掘によって,その地域における生活のさまざまな面を記した1万6,500点を超える楔形文字板(楔形文字粘土板文書)とその断片の一大書庫が現われました。これらの文書はどの時期のものでしょうか。考古学者たちの最近の推定によれば,西暦前3,000年期のものと思われます。

      それらは古代の人類社会についてどのようなことを明らかにしているでしょうか。原始的な生活を送る,字も読めない無知な人々の社会でしたか。文献学者ジョバンニ・ペティナトは次のように述べています。「資料の研究の初期の段階ですでに次の結論を引き出せる。つまり,エブラは高度に工業化の進んだ国家であり,その経済基盤は農業や羊の飼育ではなく,工業製品と国際交易にあったということである」。

      この膨大な公文書庫にはどのような情報が収められていたでしょうか。学者であるペティナトはこう説明しています。「保管されていた文書の70%は経済管理に関係した文書である……他の10%は歴史文書であり,重要な国際条約を記しているため,非常に用心深く保管されていた。20%強は文学に関係したものである」。

      エブラにおけるこの書庫が聖書に記されている出来事や場所の解明に光を投げかけるかどうかは今後に待たなければなりません。それでも,4,000年以上昔の生活は,一部の人々がわたしたちに信じ込ませようとするような原始的なものではなかったという点は明白です。

      聖書の記述の正確さを裏付ける証拠があるか

      さて問題は,聖書が歴史として記述している事柄に光を投げかける古代の楔形文書や碑文があるのだろうかということです。聖書の記述から幾つかの簡単な例を取り上げて調べてみましょう。最初に,西暦前14世紀のイスラエル人によるカナン征服について考えてみましょう。

      1. 「ヨシュアはその際に向きを転じてハツォルをも攻略した。……そして彼はハツォルを火で焼いた」― ヨシュア 11:10,11。

      1928年に,故ジョン・ガースタング教授は,ガリラヤ湖の北に位置するテル・エル・ケダーがカナン人の都市ハツォルの遺跡であることを確認しました。1955年から1958年にかけて,考古学者の一隊がこの遺跡を発掘しました。その場所がハツォルであることを確定する1枚の楔形文字板がそこで発見されました。「下市の南西のすみに,カナン人の家屋が幾つか発見された。……これらの家屋が一角を占める市の平坦部は……武力によって破壊され,放棄された痕跡をとどめていた。これは,この都市が出エジプト後ヨシュアの手に落ちたという伝承と驚くほど一致している」。(「図解・旧約聖書史」[英文],R・D・バーネット)これは聖書の記述の正確さを極めて明確に裏書きしています。

      2. 聖書のエズラ記には,バビロニアを征服したペルシャの王キュロスが,流刑の身にあるユダヤ人に故国への帰還と彼らの崇拝の形式を再確立することを許す,宗教上の自由を認める勅令を出したことが記されています。(エズラ 1:1-3)それまでのバビロンやアッシリアが取ってきた政策とは著しい対照をなす,こうした寛大な宗教政策の実施された証拠がありますか。

      大英博物館の委託でバビロンで発掘を行なっていたH・ラッサムは,1879年に,今日キュロスの円筒碑文として知られている物を発見しました。これには楔形文字の文が刻まれています。1970年に,一個の断片が,その円筒碑文の一部であることが判明しました。こうして,本文の一部が復元されました。碑文の結びの部分の翻訳は何を示しているでしょうか。

      「アシュルとスサ,アガデ,エシュヌンナ……そしてグティ人の地域に至るまで,わたしはチグリスの向こう側のこれら聖なる諸都市,その聖なる所は長い間廃虚となっていたが,(これら)を返した。その中にあった像を返し,それらのためにとこしなえの聖なる所を定めた。わたしは(また),そこの(元の)住民すべてを集め,(彼らを)その住居に戻した」。

      この楔形文書は,外国の宗教に対するキュロスの寛容な政策に関する聖書の記述の正確さを確証する驚くべき証拠です。

      3. 「ヒゼキヤ王の第十四年に,アッシリアの王セナケリブがユダの防備の施されたすべての都市に攻め上って,これを奪いはじめた」と聖書に記されています。この脅威に面して,ヒゼキヤはセナケリブに貢ぎを納めることにしました。こう記されています。「そこで,アッシリアの王は銀三百タラントと金三十タラントをユダの王ヒゼキヤに負わせた」― 列王第二 18:13-16。

      これらの出来事は他の資料によっても確証されているでしょうか。1847年から1851年の間に,英国の考古学者A・H・レイヤードはセナケリブの王宮の廃虚の中で,今日セナケリブ王のプリズムまたはテイラー・プリズムとして知られているものを発見しました。それには,セナケリブの業績に関し,セナケリブの立場から行なわれる説明が楔形文字で記されています。ヒゼキヤのことが言及されているでしょうか。貢ぎ物について何か語られているでしょうか。その訳文の一部は次の通りです。

      「わたしのくびきに服さなかったユダヤ人ヒゼキヤに関しては……城壁を巡らした彼の強固な都市46とその近隣の小都市を包囲し,これを攻め取った」。記録はさらにこう続きます。「わたしは[ヒゼキヤ]をさながらかごの中の鳥のように,その王都エルサレムに閉じ込めた」。セナケリブがここで,エルサレムを征服したと主張していない点に注目してください。その点は聖書の記述と一致しています。では,貢ぎ物についてはどうでしょうか。「わたしは以前の貢ぎ物の量を増やし,彼に,年ごとに収める税として……金30タラントおよび銀800タラント……[および]あらゆる宝物を課した」。聖書の記録はセナケリブのプリズムと明らかに一致しています。ただ,貢ぎ物の銀の量が異なっています。このことから聖書の記述の正確さに疑いを抱くべきでしょうか。聖書の控え目な調子の記述よりセナケリブの誇り高ぶった主張をなぜ信じなければならないのでしょうか。

      セナケリブのプリズムの中で,同王は,ユダで20万150人の捕虜を得たとも主張しています。一方,聖書の記述は,セナケリブ自身が一夜に18万5,000人の兵士を失うという恐るべき敗北を喫したことを示しています。(列王第二 18:13-19:36)この相違をどう説明できるでしょうか。

      ジャック・フィネガン教授は,自著「遠い過去からの光」(英文)の中で,「アッシリア諸王の碑文は全般に尊大な調子で書かれている」と述べています。「アッシリア修史」(英文)の中で,オルムステッド教授は次のような意見を述べています。「セナケリブは……ユダから20万150人もの捕虜を得たと述べている。しかしこの時エルサレムそのものは攻略されていなかったのであるから,我々はこのうち20万人をアッシリアの書記官のかったつな想像の産物として引き,残りの150人を,実際に捕らえられ,連行された者の概数と見てもよいであろう」。

      誇大な戦果報告は明らかにこの20世紀だけに特有のものではないのです。また,公式の年代記の中で壊滅的な敗北を認めようとしない態度も少しも新しいものではありません。しかしここで重要なのは,テイラー・プリズムに刻まれている碑文が聖書の記述の正確さを指し示しているという点です。

      4. 聖書に記されている歴史が確証された例をもう一つ取り上げてみましょう。今から3,400年以上昔,イスラエル人が約束の地に居住した際,ダンの部族はガリラヤの北の地域を攻め取りました。聖書の記録はこう述べています。

      「それでダンの子らは上って行って[カナン人の都市]レシェム[ライシュ]と戦い,これを攻略し(た)。こうして……父祖ダンの名にしたがってレシェムをダンと呼ぶようになった」― ヨシュア 19:47。裁き人 18:29。

      そのような都市が果たして実在していたのでしょうか。その場所はかつてダンと呼ばれていたことがありましたか。1976年に,考古学者アブラハム・ビランはテル・エル・カディで,ギリシャ語とアラム語の刻まれた石灰岩の板を発見しました。そのうちのギリシャ語の文献はゾイロスという名の人物に言及し,彼が「ダンにいる神」に誓いを立てたことを述べています。こうして,考古学者たちは,かつてライシュまたはレシェムとして知られていた古代イスラエル人の都市ダンの遺跡で自分たちが作業していることを知りました。ここでも聖書の記述の正確であることが示されています。誌面の余裕さえあれば,考古学上の発見と関連のあるさらに多くの事例を挙げてこの点を例証することができます。

      聖書は信頼のおける基礎か

      事実,聖書は,数多くの古代遺跡の地理上の位置を確定するのに考古学者たちにより繰り返し用いられてきました。この点における聖書の価値は考古学者ヨハナン・アハロニの次の文によく示されています。「聖書は今でも,イスラエル時代のパレスチナにおける歴史的地理の研究の主要な資料となっている。聖書中の話や描写は,実際に生じた歴史的出来事のみならず,その地理的環境をも明らかにしている。聖書には475ほどの地理上の名称が挙げられており,その多くについて,自然,位置,その場所の歴史に関する詳細が前後の文脈に示されている」。「聖書は地理学の教科書でも百科事典でもない」にもかかわらず,前述の考古学者の言葉の通りなのです。

      聖書に関係した事実と人工遺物を深く探れば探るほど,聖書の記述の正確さに対する認識は深まります。しかし,事実や人工遺物は解釈や理論,推測とは別のものです。考古学者は解釈の点でいつも一致しているでしょうか。いつでも完全に客観的な立場を保っていますか。聖書の歴史的記述よりも考古学者の理論のほうを取るべきでしょうか。

  • 考古学に影響されて聖書を疑うべきですか
    目ざめよ! 1983 | 10月8日
    • 考古学に影響されて聖書を疑うべきですか

      今日,考古学が関心を引いているのはなぜでしょうか。それは,考古学が人類の過去を探るのに重要な手段であるからです。例えば,考古学によって,聖書の土地の地理や歴史,その土地の人々のことが明らかにされます。考古学は精密科学に大きく依存しており,正確さの点でそうした科学の水準に達することを目標にしています。しかし,それを難しくする一つの大きな要素,すなわち人的要素があります。無神論者,不可知論者,クリスチャン,ユダヤ教徒,イスラム教徒のいずれであろうと,考古学者はいずれも自己の信念を持っています。こうした信念や先入主観がその解釈にどの程度影響を及ぼすでしょうか。それによって,正確な結論に到達するのを妨げられるというようなことはありませんか。

      考古学の調査は一種の推理作業です。人工遺物や残存物(陶器,破片,遺跡,過去の文明の遺物,骨など)で成る状況証拠を掘り起こします。それから,推理の過程が始まります。それは何の破片でしょうか。形状,色彩,組成からすると,どの時期に属しますか。どのような目的に使われていましたか。本来はどの場所にあったものでしょうか。発見された場所にあったのでしょうか,それとも他の場所にあったのでしょうか。それが発見された地層に最初からあったのでしょうか。それとも,その場所で生じた何かの事情により,時たつうちに下の地層にもぐり込んだのでしょうか。こうした事柄や他のさまざまな要素を考慮して解釈を下すことになります。こうして,結論は状況証拠,および客観的見解と主観的見解の入り混じった解釈を基に引き出されます。

      次のように書いたヘブライ人の考古学者ヨハナン・アハロニはまさしく事実を指摘しています。「歴史的または歴史地理的解釈の点になると,考古学者は精密科学の分野からはみ出す。総合的な歴史像を描くには,価値判断や仮説[仮定]に頼らざるを得ない」。

      発掘現場の出土物を評価する際,どんな落とし穴があるでしょうか。アハロニ教授はこの点についてこう答えています。「発掘者は自分の作業しているテル[古代都市の廃虚を覆っている土塁]の種々の地層を注意深く見分けなければならない。……この仕事は普通,容易ではない。そのテルの実際の層位は別の地層の上に均一に横たわっているわけではないからである。……文字の刻まれた出土物が長期間使用されていた可能性や元の所有者に捨てられた後再使用された可能性さえ常に存在するため,碑文は一般にterminus a quo [出発点]を提供するにすぎない。……他の国の資料と比較することにも危険の伴う場合がある。他の文化の物品の年代が,発見時の事情や関係する相対年代を十分考慮せずに,パレスチナ文化との関係に基づいて決定されているという悪循環に陥る危険がある。歴史的考察にはある種の前提要件や主観的態度が常に関係しているため,とりわけ危険が伴うことは言うまでもない。それゆえ,常に次のことを覚えておくべきである。すなわち,年代はいずれも絶対的なものではなく,程度の差こそあれある程度の疑念が伴うものである」― 下線は本誌。

      イスラエル人はどのように紅海を渡ったのか

      大勢の考古学者が相いれない発見や理論,年代を印刷物の中で公にしている今日,前述の警告は非常に時宜を得たものであると言えます。紅海を渡ってエジプトを逃れたイスラエルの出エジプトを例に取ってみましょう。エジプト人の兵車と騎兵がイスラエルを追撃し,イスラエルが紅海のほとりにたどり着いた時,エジプト人がイスラエルに追い迫って来たことを聖書の記録は明らかにしています。行く手に立ちはだかる海をイスラエル人はどのように切り抜けることができたのでしょうか。聖書の記録は次のように答えています。

      「さて,モーセは手を海の上に差し伸べた。するとエホバは[どのような方法で?]強い東風によって夜通し海を退かせ,その海を乾いた地面に変えてゆかれた。水は二つに分かれていった。ついにイスラエルの子らは乾いた陸地を通って海の中を行き,その間水は彼らの右と左に壁となっていた」― 出エジプト記 14:21,22。

      この記録の詳細な記述に注目なさってください。単に強い風と記されているのではなく,「強い東風」と記されています。水は二つに分かれ,海底は乾いた地に変わりました。このように詳細な点にまで注意が向けられていることは,それが目撃証人の記録であることを物語っています。出エジプト記 15章につづられているモーセの歌の中にもこの出来事が詩の形で記されていますが,この部分についても同じことが言えます。ファラオの兵車と軍勢がイスラエル人を追ってその水の切れ間に突進すると,「逆巻く水は彼らを覆い,彼らは石のように深みに下った」のです。―出エジプト記 15:5。

      水を分けるのに用いた手段についてはその歌の中でも確証されています。こう記されています。「そして,あなたの鼻孔の一息によって水は盛り上げられ,せき止められた洪水の水のように静止した。逆巻く水が海のただ中で固まった」― 出エジプト記 15:8。

      学者の言説

      何人かの専門家が,この奇跡的な出来事にもっともらしい説明を加えようとさまざまな説を発表してきました。彼らは必ずしも,イスラエルが紅海を渡らなかったと言おうとしているのではなく,何とか説明を付けて,神による介入はなかったと言おうとしているのです。例えば,紅海を表わすヘブライ語は「ヤム スーフ」で,これは「いぐさまたは葺の海」を意味します。そのため,イスラエル人は沼地を渡ったにすぎないと言う人がいます。しかし,沼地では,記録が述べるような水の壁が右と左にできることはなかったでしょう。明らかに沼の水がエジプトの軍勢の『戦車や騎兵たちを覆う』ことはなかったはずです。―出エジプト記 14:28。

      最近,別の説が,エジプト学者ハンス・ゲディケによって発表されました。ゲディケは出エジプト記の記録に次のような説明を加えています。イスラエル人が紅海を渡ったとされる地点の北西約800㌔の所にあるテラ島で,西暦前1477年に火山の大爆発がありました。それによって生じた津波が地中海の南東岸に押し寄せ,ナイル川のデルタ地帯を逆巻いて上り,砂漠を成す台地の際にまで達したのではないかというのです。理論の上では,これにより,低地にいたエジプト人はでき死し,高台にいたと思われるイスラエル人は無事でいられたことになります。

      この説が,聖書に記されているさまざまな事実にあまり注意を払っていないことは明らかです。では,他の学者たちはゲディケ博士の説をどのようにみなしているでしょうか。米国ミシガン大学のチャールズ・クラーマルコフはその説を退け,その理由の一つに,「聖書の出エジプト記の記述には巨大な波を少しでも暗示するものさえない」点を挙げました。次いで,それに代わる次のような主旨の説を提唱しました。つまり,イスラエル人は舟で海を渡り,後を追ったエジプト人は,強風にあおられてはしけが沈み,でき死したとされています。さらに,クラーマルコフはこう言葉を加えています。「言うまでもなく,当時を再現するこうした説は全くの憶測にすぎない。しかし,ゲディケ教授の説より,このほうがはるかに聖書の内容に基づいている」。それは全くのところ見解の問題と言えます。

      3人目の学者,ネゲブのベングリオン大学で教えるエリエゼル・D・オレンは津波説に強く異議を唱え,オレン自身がより現実的と考える別の説を提唱しました。その際彼は次のような重要な言葉を加えました。「[これ]は考古学的証拠によって立証し得るようなものでは決してないことを……忘れてはならない。わたし個人としては,文学作品の一大傑作である“海の奇跡”は歴史すなわち……“実際の経験”とはほとんど関係がないものと確信している」。

      正しいのはだれか

      オレン博士のこの見解は問題の核心に触れるものです。クリスチャンは,聖書の大部分を「実際の経験」とは関係のない単なる『文学の傑作』とみなすべきでしょうか。それとも,神の霊感を受けたみ言葉として聖書に信頼を置くことができるでしょうか。わたしたちは考古学者や他の学者たちの相反する説にほんろうされるべきでしょうか。それとも,聖書筆者やイエス・キリストご自身の証言を信頼できるものとして受け入れるべきでしょうか。

      使徒パウロは仲間のクリスチャンにあてて次のように書きました。「[あなたは],幼い時から聖なる書物に親しんできたことを知ってい(ま)す。その聖なる書物はあなたを賢くし,キリスト・イエスに関する信仰によって救いに至らせることができます。聖書全体は神の霊感を受けたもので……物事を正(す)のに有益です」。これより前,パウロはローマにいる信者たちにこう述べました。「では実情はどうなのですか。ある者が信仰を表わさなかったとすれば,その信仰の欠如が,神の忠実さを無力にでもするのでしょうか。断じてそのようなことはないように! むしろ,すべての人が偽り者であったとしても,神は真実であることが知られるように」。―テモテ第二 3:15,16。ローマ 3:3,4。

      では,エホバの証人が聖書を霊感によって書かれた本と信じているのはなぜでしょうか。エホバの証人の信仰は考古学上の発見に依存していますか。端的に言えば,霊感による証拠は考古学にではなく,聖書そのものの中に見いだせます。正確な歴史を書き記すことと,正確な歴史を事前に書き記すこととは別です。後者の場合は預言です。聖書には,その著者が神であることを証しする,既に成就した預言が幾百も記されています。例えば,イエス・キリストだけについても,ヘブライ語聖書中の332の異なった預言が成就したと考えられています。

      聖書の信ぴょう性を強力に裏付ける別の点は,その証言が出来事の実際の目撃証人の記録に基づいていることです。筆者自身が目撃証人であることも少なくありません。モーセによって書かれた出エジプト記の記述の場合がそうです。証人としてのモーセの正直な態度に疑いをさしはさむ理由があるでしょうか。そのような理由はありません。モーセが神の霊感を受けて書いたことを認めるなら,なおのことそう言えます。(テモテ第二 3:16)自分を率直に批判する態度も,モーセが信頼の置ける人物であることを示す優れた証しです。仲間のイスラエル人を守るためにエジプト人を自分が殺した事実を隠してはいません。岩から水を出させた時,自分が謙遜さを欠き,処罰を受けたことを覆い隠してはいません。(出エジプト記 2:11,12。民数記 20:9-13。サムエル第二 11章,詩編 51編に記されているダビデの例と比較してください。)さらに詳細な証拠については,ものみの塔協会発行の「聖書はほんとうに神のことばですか」という本をご覧ください。

      さまざまな説に影響されて信仰を揺るがすべきか

      忍耐強い,熟練した考古学者たちの発掘する建設的な証拠からクリスチャンたちは励みを受けます。その証拠は多くの場合,聖書の内容を裏付け,それを一層明確にしてくれます。事実や人工遺物は古代の人々の生活について多くを教えてくれます。碑文から貴重な情報の得られることもあります。もっとも,自伝に,自分にとって都合の悪いことを書く人はほとんどいないので,碑文を検討する際には言うまでもなく十分な注意が必要です。

      しかし,考古学上の発見の意義について,または人工遺物の年代決定に関して,専門家が自分流の解釈や憶測を加えたり説を発表したりするなら,クリスチャンは注意を払うのが賢明です。エホバは忠実な人々に霊感を与えてみ言葉を書き記させましたが,それは架空の物語によってわたしたちを誤導するためではありません。次のように述べたヨハナン・アハロニは正しいと言えます。「[聖書中の]さまざまな句が,何人もの学者によって,政治的,地理的,現実的基盤を一切持たない純然たる空想もしくは純文学作品とみなされている。我々はこうした見解の妥当性に重大な疑問をもつ。地理に関する聖句のほとんどは実際の状況に基づいているように思われる。ただ,その歴史的内容を確立できないのは我々の側の理解の誤りと情報の不足によるのである」― 下線は本誌。

      今日の聖書考古学は大きく分けて二つのグループをなしているようです。一方には,聖書の記録や自分たちの国家的また民族的主張を裏付けるものを探す,宗教的動機と愛国心を抱く研究者がおり,他方には,J・E・バレット教授の言葉を借りて言うなら,「そうした敬虔さや愛国心,同僚(一般には年長の同僚)たちの,一般に受け入れられている知識の虚偽を暴こう」とする研究者のグループがあります。考古学を専門とする同教授は次のようにも述べています。「宗教的動機を抱いていないと確言する人々の間に(サディスト的大はしゃぎは言うに及ばず)奇妙な独善的態度が見られる。……近代考古学の学生はこれら専門家の間で繰り広げられる,互いを出し抜こうとする内輪のゲームに気づくべきである」。

      考古学者も普通の人間にすぎず,不完全な人間が本質的に持つあらゆる欠点から自由にされてはいないことを覚えておくべきです。野心,名誉心,競争心,先入観などの要素が専門家の見解や解釈に影響を及ぼすことがあります。

      この点を例証するものとして,19世紀の著名な一考古学者が,トロイで自分の発見した古代の宝石とミケーネで見つかった黄金の面について非常に大げさな主張をしたことが挙げられます。この誇大な主張について,考古学の現代の一教授は次のような的をいた注解を行なっています。「これら二つの例は,古代世界に対するロマンティックな関心が考古学者の判断に及ぼしかねない影響を例証するものである。すなわち,自分の発見したものを,発見したいと望んでいるものと同一視する誘惑に駆られてしまうのである。聖書考古学者の場合,問題は一層大きなものとなろう。考古学者になる最初の動機づけを与えたロマンティックな関心が信仰心や愛国心によってはぐくまれ,新たにされることが少なくないのである」。(下線は本誌)そして当然のことながら,考古学者が不可知論者や無神論者である場合にも,その人がいかに誠実であろうと,この同じ問題の生じることがあります。

      それでは,多くの学者や考古学者の提出する説によって,クリスチャンは信仰を揺るがすべきでしょうか。次のことを忘れないでおきましょう。それは説また人間の見解にすぎず,変わることがあるのです。時と共に,また学問の進歩と共に変化するものです。誇りや野心その他の人間的要素も非常に顕著です。バレット教授が「聖書考古学レビュー」誌(1981年1-2月号)に書いた言葉は真実を突いています。「信仰心,愛国心,イデオロギー,教育,およびこれらとそれぞれ反対のものが考古学者の判断に影響を及ぼす。ちょうど,歴史家の判断がこれらによって影響されるのと同じである。率直のところ,専門的考古学者ならだれもがそれに気づいている。最も優れた学者たちは自分の身にそうしたことが起こり得ることを知っており,他の学者たちは同僚の身にそれが生じることだけしか気づいていない」― 下線は本誌。

      ですから,道理をわきまえるクリスチャンは,とりわけ不完全な現在の事物の体制においては,聖書に述べられているすべての事柄について考古学上の完全な証拠を期待するようなことはしません。もっとも,聖書に記されている人物や出来事のほとんどを完全な仕方で調べることのできる時が間もなく訪れることを知っています。一体どうしてですか。なぜなら,「記念の墓の中にいる者がみな,彼[イエス・キリスト]の声を聞いて出て来る時が来ようとしている」からです。(ヨハネ 5:28,29)そうです,復活が行なわれる際,聖書の歴史時代に実際に生活していた人々に尋ねることができます。今日わたしたちの興味をそそる数多くの記述の詳細な点をそれらの人々から聞くのは何とすばらしいことでしょう。もはや,それら詳細な点について人間の説や憶測に頼る必要はありません。出来事の目撃証人自らが事実を語るのです。あなたはその場にいて,それらの人々の語る話に耳を傾けるでしょうか。

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