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その7 第一次世界大戦中の新しい管理ものみの塔 1955 | 10月1日
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これら反対者側の除名された者たちは,手紙とかその他のものを直ちに作成しアメリカの国内,国外で,ものみの塔協会と交わつていた会衆にそれらを配布しました。これらの会衆のうち幾つかにも,反対派の群が,徐々に頭をもたげてきました。彼らは,霊的に云えば,うとうととしたまどろみの状態にあつたので,容易に,捕われてしまいました。牧師からの増し加わる敵意と迫害のうちにあつて,御国の伝道の業のたて直しに努め,目覚めていた忠実な者たちに,これらの反逆者たちは協力しなかつたのです。このようにして,沢山の会衆内で二つの群ができてきました。一つの群は,熱心な働き人からなる協会側のものと,他の群は『病めるもの』で協会に反対する人々でした。彼らは利己的な目的を以つて地方の集会を牛耳ろうと努めるものたちでした。このときは,真に,試練にみちた時であつたのです。
それ以後,野心に燃えていた敵対者は,ものみの塔協会の法人団体の法的統治力を獲得しようと謀りました。その機会とは,1918年の1月に行われた法人団体の例会で,ペンシルベイニヤ・ピッツスバークの地で開かれました。協会の法的統治について問題が生じたために,各会衆による議決投票が求められ,その提案は1917年11月1日の『ものみの塔』(330頁)によつて通知されました。12月までに,1万5813の会衆は彼らの票を送つてきましたが,投ぜられた1万1421票のうち1万869票はルサフォードを挙つて支持しました。1917年の7月に,理事の再編成があつたときにも,忠実な理事たちは,これら5名の反逆者たちよりも優位を保つていました。この議決のときの結果は後になつて,更にはつきりとしました。1918年1月5日のピッツスバーグに於ける法人団体の会合で,ルサフォード及び他の理事たちは,法的に,再選挙され,敵対者の一人として,票をかち得たものはありませんでした。この内部の危機は,聖書に予言されていた顕著な事実の起きる時が近づくにつれて,たけなわになりました。その出来事とは,ヱホバの『使』キリスト・イエスがヱホバの宮に来て,1918年の春から審判を始め『忠実な慧い奴隷』と『悪い奴隷』とを分けたことです。(マラキ 3:1-3。マタイ 24:43-51)1918年の法人例会で,反対者たちが彼らの目的をとげることが出来なかつたとき,二つの群のあいだの分離は更に目立つてきました。1月の例会の後に,反対側の指導者たちは,ピッツスバーグにとどまつて,別の制度を形成したのです。『7名の委員』と彼らが呼んでいたものが,その制度の首となつていました。主の記念の祝のころ,即ち1918年3月26日ごろまでに,協会から分離した彼らと和解するのは至難の状態となりました。何故なら,彼らは協会の忠実な会衆とは別個に,主の死を祝うよう決定したからです。
アメリカ国内から,また国外から協会へ送られる各会衆の記念式出席者数について,その報告の一部を発表するのは,協会のならわしとなつていました。然し1918年には,内外に紛乱があつたため,出席数の数字は集計することができませんでした。然しながら,1917年の記念式(4月5日)についての部分的な報告は,2万1274名が協会と共に交わつて居たことを示しています。1919年の記念の日(4月13日)については,1万7961名の出席者が報告されていますが,これによつても,4000名足らずの少数者だけが忠実な群と歩むのを中止したことが判ります。分離してからも,この『悪い奴隷』の群自身のうちに,内部の不一致と分裂が生じていました。遂には,彼ら異論者のうちに,更に幾多の分裂が生じ,めいめいの群を形成し出しましたが,それらも,僅かの寿命のうちに,消え去つて行きました。
1917年の後半には『慧い奴隷』の熱心な伝道者たちは,『完結せる奥義』の配布に,活発に働いていたのです。7ヵ月の中に,85万版を印刷するために,協会の外注の印刷工場は忙しく活動していました。『第7巻の配布は非常に良く,聖書を別にして,他の如何なる本も,これだけの期間にかくまでの配布を見たことはない。』この本によつて,前述のような『悪い奴隷』の反対が表面化されたばかりでなく,キリスト教団の各部に於ける牧師からの劇烈な反応が呼び起されました。1917年の12月30日(日曜日)は歴史的な日附です。この日から『バビロンの崩壊 ― 何故キリスト教国は苦しむか? ―最後の行方』と題された痛烈なパンフレット『月刊,聖書研究者』を配布し始めました。1000万冊に及ぶ大量の冊子が日曜日の自発奉仕者によつて配布されたのです。要領よくまとめられた4頁のパンフレットは,『完結せる奥義』の大要が記されていたもので,牧師たちを痛烈に曝露しました。この配布と共に,公開講演も,同日,同題のもとに,ひろく行われました。
1918年2月に,カナダ・オタワからの次の記事が新聞にのせられていました。
『国務大臣は,新聞検閲法により,カナダ国内での或る種の出版物の所有を禁止する告知を発表する。その一つは,万国聖書研究協会によつて刊行されている「聖書の研究 ― 完結せる奥義」であつて一般に,宣教師ラッセルの遺著として知られているものである。またその協会の,ニューヨーク・ブルックリンの事務所から刊行されている「月刊・聖書研究者」も,カナダでの配布は禁止されている。この禁止出版物の所有者には,5000ドル以下,禁錮5ヶ年の罰に処せられる。』
后になつて,カナダのウインニペイグの新聞『トリビューン』は,前述の発禁処置について述べてから,次のように書いていました。
『禁止された出版物は,反動的で反戦的な記事を記載していると申立てられている。「月刊・聖書研究者」の最新号の抜萃は,教会の牧師,聖ステパノ教会のチャーレス・ヂー・パアターソン師からの非難を浴びている。后に,司法長官・ジョンソンはパアターソンからその出版物の1冊を求めた。検閲官の命令は当然の処置と思われる。』
この事件から,牧師の陰謀は動き出して,アメリカ合衆国及びカナダの政府に働きかけ,ものみの塔協会とその共働者を滅ぼそうとしました。(つづく)
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発表ものみの塔 1955 | 10月1日
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発表
いま入手できます。2冊のすばらしい聖書の冊子・『御国のこの良いたより』と『キリスト教国それともキリスト教 ― 世の光はどちらですか?』 20円の御寄附を下記の発行所に送り註文して下さい。
『ものみの塔』研究
10月30日 あなたの誠実を試す 1-21節 368頁
11月6日 同 22-29節と試される信仰 373頁
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