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真の奉仕者のための土台を据えるものみの塔 1969 | 6月15日
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10 プロテスタントの宗教改革の時,宗教上の権威者によって「近代口授神学の祖」とされるルーテルは,入信者を対象とするこの種の問答式教授は「単に本に書いてあることの復唱を聞くだけでなく,その内容を説明させ,学ぶ者の心に適用させるものであるべきだ」と教えました。しかし,時代がたつにつれ,ドイツ,イギリス,その他において「教義の問答式教授は,[洗礼ではなく,その後の段階である]堅信礼に先だってなされる形式的な問答になり下った」のです。プロテスタントの教義問答は,初学者の心にあるものを引き出すことではなく,所定の教義を伝達することだけを目的にしていました。学ぶ者は「教義問答書のことばを暗記」することになっていたのです。それで,これは言いまわしを覚え,それを機械的に復唱する一種の儀式と化しました。学ぶ者の心の中にあるほんとうの思いや感情を表現する余地は少しもありませんでした。しかもこれはほとんど子供だけを対象としていたのです。―マクリントクとストロングの「聖書・神学・教会関係文書の百科事典」,第2巻,148-154ページ。
11 こうした方法とエホバの証人が採用している方法とを比べてなんと言えますか。
11 これとエホバの証人が採用している方法とを比べてごらんなさい。証人たちの方法は,イエスとその使徒たちの宣教活動に関する聖書の記述や聖書の他の原則に基づいているのです。新たに関心を持つ人は,人々の家庭を尋ねる積極的な宣教奉仕によって見いだされます。それは主としておとなです。(使行 20:20)これら関心を持つ人々に対しては無料の家庭聖書研究が差し伸べられます。家族全員がこれに参加することも珍しくありません。この一週1時間の聖書研究は聖書の基本的な教えを扱い,聖書研究用の教科書にある質問を使って行なわれます。勉強する人は自分が理解し信じている事柄に従って答えることを勧められ,望むなら自分の疑問点を尋ねることもできます。(ロマ 10:10)勉強のあいだ,それを司会するエホバの証人は,学ぶ人の心を命の与え主であられるエホバ神に向け,キリストに関する真理を教えて,キリストを土台として据えることに心を配ります。(ヨハネ 17:3。コリント前 3:11)そして,学ぶ人を助けて,エホバとキリストに関する真理への信仰を生活の一部,否それを中心として生活させることに努めます。
12 どういう意味で教える者と学ぶ者の双方が建築の仕事をすると言えますか。
12 それで,ここには協同の建築作業が関係しています。研究を司会するエホバの証人は,学ぶ人を火に耐える強固な資質で築き上げたいと考えています。その強固な資質とは,神のみことばからの真の知恵,信仰,確信,聖書の原則に対する献身,神への愛と隣人への愛,また真実で正しい事柄,なかんずく神の国を擁護し弁護しようとする不動の態度などです。エホバの証人が,霊的な意味での自分の建築の仕事を,こうした耐久性の資材で行なうのは,ともに学ぶ人を真のクリスチャンとし,信仰をむしばむ疑念をも含めて火のような試練にしっかり耐える力を与えるためです。(コリント前 3:10-15。ユダ 22,23)一方,学ぶ人自身も建築作業をします。知識だけでは,前途の希望や期待を築くための確かな土台とならないからです。キリストへの従順という強固な土台の上に自らを建てるのは,得た知識を活用し,それに従って行動することによってなされるのです。それ以外の方法はありません。―ピリピ 1:27-30; 2:12,13。
13 人が新しい人格をつけるのをどのように助けることができますか。
13 したがってエホバの証人は,聖書の基礎教義に関する知識を伝えるだけでなく,学ぶ人が『その心に働く力によって新たにされ,神の御心に従いつつ真の正義と忠節とをもって造られた新しい人格をつける』ことの大切さを認めています。(エペソ 4:23,24,新)それで研究が進むにつれ,エホバの証人は,自らが日常の生活で行なうとおり,学ぶ人が聖書の原則に従って物事を考えるように助けます。それは,学ぶ人が教科書にしるされている事柄を単に言いかえるかどうかという問題ではありません。学ぶ人が答えている事柄の聖書的な理由を知り,神のみことばに示される諸原則を,生活上の唯一の確かな導きとして受け入れるようになるかどうかの問題です。こうして初めて,学ぶ人は,神のみことばは「わたしの足のともしび,わたしの道の光です」と真実に言い得るのです。―詩 119:105,新。箴言 3:5,6。
14 エホバ神に対する正しい認識を学ぶ人の心の中に育てることはなぜ大切ですか。これをどのようにして行なえますか。
14 だれかを愛するとすれば,その人についてよく知り,その人の資質,物事の仕方,過去に行なったこと,これから行なおうとしている事柄などについて知らなければなりません。それで研究のあいだ,それを司会する奉仕者は,学ぶ人の心の中に,神の恵みと偉大さに対する認識を育てることに努めます。奉仕者の願いは,学ぶ人が,昔の忠実なイスラエル人のごとく,次のような歓喜のことばを語ることです。「これはわれらの神なり,われらまち望めり,彼われらを救ひたまはん これエホバなり,われらまちのぞめり,我らそのすくひを歓びたのしむべし」。(イザヤ 25:9)これは学ぶ人の理知だけでなくその心つまり動機の中心にも注意を払うことです。(箴言 4:23)これはどのようにして行なえますか。適当な所で時おり休止し,神がなされた事柄の意義を考え,学んでいる事柄や取り上げた聖句の中に神の愛,知恵,正義,力などがどう表わされているかに注意を向けることによってです。正しい心をいだいているなら,学ぶ人はやがてエホバへの深い忠誠心を育て,もろもろの民の中にあって神の御名をたたえる人々の中に自らも加わろうとするでしょう。―イザヤ 12:3,4。
15,16 今日,真の奉仕者のための土台を効果的に据えることが特に大切なのはなぜですか。
15 今日,このことはどの程度までなされていますか。この仕事にはどんな問題が含まれていますか。世界の状態が悪化を続け,霊的な事柄に対する世の関心が弱まるにつれ,ここで述べたような教育のわざはいよいよ大切になります。西暦70年,エルサレムに臨んだ悲惨な破滅はユダヤ人の人口に大鎌を入れ,数百万のユダヤ人が生活のささえとしていた希望と期待を完全にうち砕きました。これはなぜでしたか。キリストの教えに対する従順という岩塊の上に自らを建てなかったからです。しかし,この国民のうちの少数の残れる者は,イエスからあらかじめ受けた指示に従って適切な時機にエルサレムを離れ,破滅を免れました。(ルカ 21:20-22)わたしたちの時代においても同じです。はるかに大きな規模で到来するハルマゲドンの破壊力は,自らの欲望や自己本位な考え,あるいは他の不完全な人間の考えに従い,砂のような土台に自らを建てた者すべてを災いに陥れるでしょう。その人々は自分のいだいてきた希望と期待が眼前に崩壊するのを見るでしょう。「我らの主イエスの福音にしたがは(なかった)」からです。(テサロニケ後 1:7-10)しかし,このあらしをほとんど無傷で通過する人々の「大なる群衆」もあります。その人々は神の忠実な奉仕者として神の設けられる新秩序にはいります。そこにおいて自分の希望と期待がとこしえにわたって実現するのを見る彼らは,まさに歓喜することでしょう。―箴言 1:24-33。黙示 7:9,10,14。
16 神のみことばの真理を人々の耳と頭と心の中に『鳴り響かせ』るわざに加わっているわたしたちはいま自分の教え方を慎重に検討してみるのがよいでしょう。
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学ぶ人の頭と心の中に真理を『鳴り響かせ』なさいものみの塔 1969 | 6月15日
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学ぶ人の頭と心の中に真理を『鳴り響かせ』なさい
1 クリスチャン奉仕者はときにどんな悲しい経験をしますか。
生まれた子供が数か月あるいは1年ほどして急に病気になって死んだとすれば,それはなんと悲しいことではありませんか。子供はかろうじて生命を始めたばかりの時なのです。しかし,こうした悲劇を経験する親の気持ちは,聖書を理解させ,神のみことばの「乳」と真理で育て養うために自分が数か月もしくは数年をかけて助けてきた人が,義の側に立って自らもみことばの宣教にさえ参加したのち,急に霊的に弱くなって死のような無活動状態に陥った場合のクリスチャン奉仕者の気持ちに似ています。(ガラテヤ 4:19。コリント前 3:2。テサロニケ前 2:7,8)不幸にして,このことは実際に起きています。しかも,宣教奉仕を始めた人ふたりにつき一人がやがてそれをやめるという場合もあるのです。これはなぜですか。こうした状態をなんとかすることができますか。
2 命への道を離れる人の多くにどんな弱点を見いだせますか。これにちなんでどんな質問を考慮するべきですか。
2 命に至る道を歩み始めながら,やがてそれからそれる人々を個別的に見ると,神のみことばに対する真の理解の欠けていた場合が少なくないことに気づきます。1968年中,全世界のエホバの証人は,平均して97万7503の無料の家庭聖書研究を司会しました。その結果として,合計8万2842名の人が水のバプテスマを受けました。つまり,御子の模範にならい,神の御心を行なうために献身したことを公に表わして,従順という岩のような土台の上に立っていることを示したのです。この人々はその道を歩み続けるでしょうか。あるいは過去のある人のように脱け落ちてゆく人もいるでしょうか。ほかに数十万の人々が今すでに学んでいますから,真理を探求する人々にそうした聖書教育を施すわざに携わっている人は,次の点を真剣に考えることができるでしょう。将来の御国宣明者ともいえるそれらの人々は,聖書の音信と聖書の諸原則が自分の日常生活で持つ意味とをほんとうに理解していますか。この問に対する答えは,これからあげる別の質問にどう答えるかによって大きく左右されるでしょう。つまり,わたしたちがその人々と研究しているのはなぜですか。わたしたちはその人々の益をどれほど深く考えていますか。(コリント後 12:15。ピリピ 2:17。テサロニケ前 2:8)そして,その人々の頭脳と心の中に真理をどれほど効果的に『鳴り響かせ』ていますか。
3 関心を持つ人と聖書研究をするわたしたちはどんなことを目ざすべきですか。
3 わたしたちは新たに関心をいだくそうした人々に対して,使徒パウロが真理を受け入れたエペソの人々に対して言い表わしたと同じような願いを持つべきです。そして実際持っているでしょう。パウロはその人々のためにこう祈りました。「信仰によりキリストを汝らの心に住はせ,汝らをして愛に根ざし,愛を基とし,すべての聖徒とともにキリストの愛の広さ,長さ,高さ,深さのいかばかりなるかを悟り,その測り知るべからざる愛を知るに至らんことを」。(エペソ 3:17-19)もとよりパウロは,単に『目標数の家庭聖書研究を報告する』ことだけに関心を持っていたわけではありません。また,自分の助ける人々が神の御心について表面的な理解を得ただけで満足したわけでもありません。パウロは学ぶ人々が真理のあらゆる広がり,つまり広さ,長さ,高さ,深さのすべてを理解するようにと願っていました。そして学ぶ人々を信仰の人にならせ,その人々の頭の中だけでなく,その心の中に,愛をもってキリストを住まわせることを願っていたのです。わたしたちも,今日の羊のような人々に対して全く同様の願いをいだいていませんか。わたしたちも,今の時代の羊ような人々が神のお目的に対する見方を広げ,理解を深め,遠い将来を展望し,神が備えられたものに対する認識をつちかうにつれて,自分の考えと歩みを神の標準に合わせることを願い,それを助けようとしているのです。もとより,学ぶ人々はこれを一朝にして行なうのではありません。その人々は『根をすえ,基の上にしっかり立』ちはじめるために,わたしたちの助けをまず必要としているのです。わたしたちはその人々を効果的に助けるためにどうしたらよいですか。
4 聖書研究の司会のために機械的な手順を特に強調すべきでないのはなぜですか。
4 わたしたちは各人が個々別々の人間であることを忘れてはなりません。それで,各人の特定の必要,また個人的な情況を考慮して,個別的な援助と配慮を差し伸べることが必要です。(ロマ 14:1-8。コリント前 9:20-23を参照してください)エホバの証人が,関心を持つ人々と家庭聖書研究を行なう際に,必ず従うべき機械的な手順を定めていないのはこのためです。証人たちの「教義問答」は形式的なものではありません。証人たちの最近の出版物である「あなたのみことばはわたしの足のともしび」(94ページ)はこう述べています。「研究を司会する方法については別にきまった規定はありませんが,学んでいる人が,討議された事柄を確かに理解するようにしてください」。確かに,正しい動機があるならば,他の人が神のみことばを理解するのを助けるにあたって,数多くの規則は必要ではないでしょう。
5 (イ)神の組織を通して与えられる提案の実際性はどのように示されてきましたか。(ロ)この面で最善の導きとなるのはなんですか。
5 同時に,エホバの証人は,その大会と月刊の刊行物である「御国奉仕」とを通じて,聖書教育および聖書の教え方について,数々のすぐれた,そして実際的な提案を与えられています。そうした提案は証人たちにとって大きな助けとなってきました。証人たちは過去10年間に65万人以上の人を助け,神への献身のしるしとして水の浸礼を受けるまでに至らせたのです。しかし,そうした有用かつ実際的な提案に加えて,そしてそれにまさるものとして,わたしたちには聖書中の実例と助言があります。わたしたちはそれらにどれほど注意を払ってきましたか。人の命をも左右する事柄として,それらを最大限に活用するためにどんな配慮をしてきましたか。―テモテ前 4:16。
最もすぐれた教師
6 どんな点でイエスの教え方は注目すべきものでしたか。
6 神の御子であり,羊のような人々に対して完全な教師であられたキリスト・イエスにまさる手本をどこに見いだすことができますか。イエスの教え方は聖書にしるされています。もとよりそれは良い目的のためです。イエスの宣教に関する記録を読んで,最も印象的なのはなんですか。それはおそらく,イエスの教え方の平易さでしょう。イエスの教え方はこみ入ったものではありませんでした。同時にイエスは,人々に対していつも深い心づかいを持ち,御父の目的に関する真理を教えようとする愛の願いをいだいていました。(マタイ 9:35,36。マルコ 6:34)これこそ第一に必要な事柄です。これがなければ,他のどんな事柄も全く無益です。(コリント前 13:1,8)この愛の心づかいがあったからこそ,人々は教える仕事に携わるイエスを信頼したのです。ある時イエスは,ザアカイにむかって,『急いで木からおりてきなさい。わたしは今日あなたの家に行く』と言われました。これを聞いたザアカイ
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