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クリスチャンは断食をする義務がありますかものみの塔 1972 | 7月15日
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命令ではありませんでした。イエスは,後日イエスが殺されたときに追随者たちに実際に起きたことを予告されていたにすぎません。彼らが,食事をする気も起こらないほど心を乱されたことは疑えません。―マタイ 9:15。
使徒パウロは(欽定訳によると)コリント後書 6章5節と11章27節で,自分が断食をしたように述べています。しかしここでパウロが語っているのは,明らかに,彼の力ではどうにもならなかった状態のことでした。「食物のない時」,「飢え」,「空腹」,「食物がない」などのほうが,この表現の適切な訳です。―新世界訳聖書,エルサレム聖書,改訂標準訳。
禁欲主義
コロサイのクリスチャン会衆には,禁欲主義のわなにはまりこんでいた者がいく人かいました。それはおもに,クリスチャンたちを律法のもとに引きもどそうとして,律法の戒めを守ることをクリスチャンにしいた,ユダヤ人の影響によるものであったことは疑う余地がありません。パウロは誤導された者たちに次のように書き送りました。「汝等…なんぞなほ世に生ける者のごとく人の誡命と教とに循ひて『捫るな,味ふな,触るな』と云ふ規の下に在るか。(これらはみな用ふれば尽くる物なり)これらの誡命は,みづから定めたる礼拝と謙遜と身を惜まぬこととによりて知恵あるごとく見ゆれど,実は肉欲の放縦を防ぐ力なし」― コロサイ 2:20-23。
それで今日,クリスチャンは,実際的な理由である限られた時間断食することがあるかもしれません。しかしクリスチャンは,それを,クリスチャン会衆に課されたものと考えてすべきではありません。何をするにもクリスチャンは,エホバに,より十分に奉仕する目的で行なうべきです。使徒パウロは言いました。「食ふ者は〔エホバ〕のために食ふ,これ神に感謝すればなり。食はぬ者も〔エホバ〕のために食はず,かつ神に感謝するなり」― ロマ 14:6。
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子どもに聖書を教えるものみの塔 1972 | 7月15日
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子どもに聖書を教える
エホバの証人である一母親は,南アフリカから次のような経験を寄せています。
「わたしの夫はエホバの証人ではなく,霊的な事柄には参加しません。それで,むすこと娘の家庭聖書研究を司会し,ふたりの思いと心に神の律法を教え込むのに自分のできる限りのことをするのは,わたしの特権となっていました。わたしたちは休暇の時でも毎週定期的に聖書研究をするよう常に努めてきました。
「それは必ずしも容易なことではありませんでした。子どもたちは学校や宿題で疲れていたこともしばしばあります。また,外で遊ぶほうがいいという態度がはっきり表われていました。時には子どもの注意を集中させることが困難でした。子どもたちは,夢想したり,部屋の中をながめたり,学んでいるはずの事柄以外のことを考えたりしました。認識のない子どもと勉強するのはこれが最後だと思ったことがたびたびあります。しかし,わたしは,エホバの助けにより,聖書研究の時を小言の時間にすることなく,子どもの注意と興味を引く努力を続けました。
「わたしは,聖書研究を楽しくするのに非常に重要な事柄のひとつは,わたしの側の準備であることに気づきました。また,わたしたちは聖書に載っている地図を利用しました。わたしは聖書の記事を子どもの想像力に訴える仕方で説明し,学んだことを毎日の生活にあてはめるよう常に努めました。また,エホバの偉大な愛あるご親切,また生活上のすぐれた助言や原則を認識することもいっしょに学びました。
「わたしたちの家庭聖書研究は,従順さ,尊敬心,道徳について子どもたちと話し合う時となりました。また,それは,子どもたちが偉大な神を賛美し,そのお名前をたたえる方法を学ぶ時でもありました。決まった勉強がすんだ後15分ぐらいは,「エホバの証人の年鑑」の一部や,「ものみの塔」誌の比較的短い記事,聖書の話の筋書の主題を取り上げました。神のわざが今日どのように行なわれているかを,さまざまな角度から考えたのです。また,他の人々に伝道する際に利用できる短い証言を準備しました。
「わたしは,子どもたちの家庭聖書研究を司会するというこの大きな特権に対して,エホバにほんとうに感謝することができます。現在,娘は全時間伝道のわざに携わっており,むすこも過去二,三年間定期的に神の良いたよりを宣明しております。子どもが何歳であっても,彼らとの家庭聖書研究をたゆまず続けるなら,ほんとうに大きな祝福が得られます。
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