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  • 復活はありましたか
    ものみの塔 1961 | 4月15日
    • ん。クリスチャンの聖徒は「かの日」,「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに,合図の声で,天から下ってこられる」と主によみがえされ,その報いを得るとパウロは示しているからです。パウロがこれを書いたのは,イエスの復活後,何年もたってからでした。そしてこれは遠い将来に成就することでした。―テモテ後 4:8。テサロニケ前 4:16。

      それではこれらの人は,天でなく地上の生命を受けることになっているクリスチャン以前の聖徒ではありませんでしたか。そうであれば,イエスの復活の時にこれらの人が復活を受けることはあり得ません。パウロはクリスチャン時代以前の聖徒について次のように書いているからです,「これらの人々はみな,信仰によってあかしされたが,約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために,さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので,わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない」。これらの人がその時よみがえされたとすれば,「わたしたち」すなわちクリスチャンの聖徒をほかにして全うされたことになります。―ヘブル 11:39,40。

      体の復活ではない

      いわゆる使徒信条は人間の体の復活を教えていますが,聖書のどこを見ても死人の体が復活するという事は書かれていません。復活するのは「死人」であって「死人の体」ではありません。死んだ人は神の予定の時に復活を受けます。そして適当な体を与えられるでしょう。復活を受けた人は同じ人となりを待っています。このことについては,クリスチャン聖徒の復活に関連して使徒パウロの述べた明白な論理に注目して下さい。「『どんなふうにして,死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか』。……あなたのまくものは,死ななければ,生かされないではないか。また,あなたのまくのはやがて成るべきからだをまくのではない。……ただの種粒にすぎない。……神はみこころのままに,これにからだを与え,……死人の復活も,また同様である。朽ちるものでまかれ,朽ちないものによみがえり……肉のからだでまかれ,霊のからだによみがえるのである。……肉と血とは神の国を継ぐことができないし,朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。」― コリント前 15:35-38,42-44,50。

      第一の復活の場合も,それにつづく復活の場合にも人間の体がよみがえることを,聖書は教えていません。従って体が起きあがったという事実は,それがいずれの復活のはじまりでもないことを証明するものです。せいぜいのところ,それは死んで間もない忠実なユダヤ人のあるものが一時的な復活を受けただけのことかも知れません。従ってその復活はイエスの友ラザロや他の人の経験した復活と少しも異ならないという事になります。

      しかし,次の疑問を考えると,これらの想定も除外しなければなりません。イエスの死んだ時に墓が口を開いたならば,聖徒の死体はなぜイエスの復活まで待ってのち,墓から出て多くの人に現われたのですか。イエスの復活の時にも地震がありました。彼らはなぜその時まで待てなかったのですか。これらの体は誰に現われましたか。彼らの復活は,三日目に弟子たちにあらわれたイエスの復活に対抗するものでしたか。彼らのあらわれた目的は何でしたか。彼らは何に注意をうながし,あるいは何を語りましたか。彼らの復活はイエスの復活に何かをつけ加えるもの,あるいはイエスの復活を確証するものでしたか。このように異常な出来事がクリスチャン・ギリシャ語聖書の他の箇所にしるされていないのはなぜですか。またコリント前書 15章において,死人の復活のあることを論じている使徒パウロが彼らの復活にふれていないのはなぜですか。多くの人がよみがえって大勢の人がそれを見たならば,この事は広く知れ渡っていたはずであり,パウロはその事実を述べたことでしょう。

      「クリスチャン・ギリシャ語聖書新世訳」は問題の節を次のように訳しており,この問題を無理なく解決しています。新世訳は字義に忠実な訳ですが,字義よりも意味の分かりやすさに重点をおいています。「そして記憶の墓が開かれ,眠りについていた聖徒の多くの体が投げ出された。(そして彼のよみがえされた後,記憶の墓の間から出てきた人々は聖なる都市に入った)そして彼らは多くの人に見えるようになった」。この訳から明らかな通り,これは「眠れる聖徒」の復活ではなくて,イエスの死にともなった地震によって死体が墓から投げ出されたに過ぎません。

      このように訳しているのは新世訳だけではありません。現代の一ドイツ語訳もこれに類似しています。「墓が口を開いて埋葬されていた死体が急に真直ぐに立った。この姿勢で死体は墓の外に投げ出され,この場所を通って町に帰る多くの人々がこれを見た」。―マタイ 27:52-53。

      これと似た事は1949年にエクアドルで起きました。そこではたいてい死体は大きな地下の埋葬所に入れられ,幾重にもなった埋葬所の中には何段もの棚があります。地震でこのような埋葬所がこわれて多くの死体が投げ出されましたが,伝染病を防ぐためにこれらの死体はすくに埋葬されました。

      このような訳の根拠は何ですか。まず「彼ら」(マタイ 27:53。ロザハム訳)という代名詞は「死体」を指していません。ギリシャ語の代名詞にはすべて性があって「彼ら」は男性ですが,「死体」は中性だからです。「彼ら」が「聖徒たち」を指すこともありません。聖徒がよみがえったとは書かれておらず,その死体がよみがえった,あるいは投げ出されたと書かれているからです。また最も古い写本を見ても,この節の言葉はそれぞれ異なっています。シナイ写本には「そして記憶の墓が開かれた」および「入った」という言葉が出ていません。

      これらの聖句から起こる色々な疑問,古代写本の中に見られる相違や変化を考えると,もう一つの可能性を全く除外してしまう訳にはいきません。その可能性とは何ですか。それはこれらの節がマタイ自身によって書かれたのではなく,初期の写本家の手で加えられたという事です。ここに使われている「復活」という特別なギリシャ語の言葉égersis(ロザハム訳)がこの節以外にはクリスチャン・ギリシャ語聖書のどこにも出ていないという事実から見ても,この見方には根拠があるように思われます。また「聖徒」という言葉は五旬節以後に出てくるのであって,福音書の中にこの言葉が使われているのはここだけです。これらの節が経外書であるナザレ人の福音書に出ているが正典中の他の福音書にないという事実も,疑いの念をおこさせます。ついでにこのナザレ人の福音書がマタイの手になるヘブル語の福音書でマタイが後にこれをギリシャ語に訳したという説もあります。家系の記録で始まっていないという点を除いて,これは正典のマタイ伝ときわめて類似しています。

      マタイ伝 27章52節,53節の意味がはっきりしないという事は争えません。クリスチャン・ギリシャ語聖書の中でも,これは訳すのに最も難しい節の一つです。意味が不明瞭であるゆえに,この節をどう訳すべきか断定できる人はありません。原文が不明瞭なこのような節の場合,本文批評によって翻訳を決めることはできません。不明確さのために原典の考証ができないからです。そこではじめの筆者が意図した意味を解釈することによって,翻訳がきまります。各翻訳者がこれらの節をどのように訳すかは,その人の持つ聖書の理解によって左右されます。以上に述べた聖書からの事実は,聖書の他の部分と一致してこれらの節をどう訳すべきかを示しています。

  • 御国宣教学校に出席
    ものみの塔 1961 | 4月15日
    • 御国宣教学校に出席

      ものみの塔聖書冊子協会が奉仕者を訓練するために,最近取極めたことの一つは御国宣教学校です。この学校で会衆の監督は1ヵ月間特別な訓練を無料で受けます。ところが問題は監督の中には家族を扶養しなくてはならない者が多く,4週間仕事を休んで出席することができるかということです。英国諸島のある監督も,学校にいくため自分の休暇に加えて更に余分の休暇をとることなど,できないのではないかと思っていました。しかも協会からの招待状を彼の主人のところに持っていき読んでもらうことにしました。その主人はただで訓練が受けられるということにすっかり感心して,2週間余分に休むことを許し,その間給料も平常どおり支給するといいました。―1961年エホバの証者の年鑑より。

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