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翻訳聖書 ― どれを選んでも構いませんかものみの塔 1979 | 11月15日
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ところはありません。一方,字義通りで,有意義な訳はこの聖句を,「さて,裁き人たちが裁きを行なっていた日のこと」と訳出しています。(新世界訳聖書)こうすると,歴史的な情勢がくっきり浮かび上がります。
第二次世界大戦後有名になった聖書翻訳の最初のものは,僧職者J・B・フィリップスの「使徒書簡」で,その初版は1947年に出版されました。これは,厳密で専門的な研究のための翻訳ではないとはっきり述べられてはいますが,その意訳の調子には受け入れられるものがあります。しかし,特に目につくのは,コリント第一 14章22節の訳で,そこでは,異言は「不信者である人々のためではなく,すでに信じている人々に対する」しるしであるとされています。同様に,「神の言葉を宣べ伝えること」は,「信者よりも,むしろ信じていない者たちに対する」しるしであると言われています。(下線は本誌)これはギリシャ語諸写本の述べるところとは正反対です。
J・B・フィリップスは,その「翻訳者の序」(第12版)の中で,一般に受け入れられている本文から故意に離れた理由を次のように説明しています。「私はここで,パウロの側の書き損ないか,本文の変造のいずれかがあると結論づけるよりほかなかった。そこで私は,意味が通るようにするため,勇気をふるってこの節を変更したのである」。真剣な聖書研究者は,当然,この正直な説明をうれしく思うはずです。確かに,霊感を受けた聖書を翻訳する人すべての肩には,事実を正確に伝える点で重い責任がのしかかってきます。―テモテ第二 3:15-17。
学識と字義訳
「新世界訳聖書」全巻は,今や数か国語で印刷され,世界各地で2,300万冊も頒布されています。1950年の「クリスチャン・ギリシャ語聖書」の初版(英文)の前書きには,次のように書かれています。「聖書を意訳することはしていません。現代英語の特質の許す限り,字義訳のぎこちなさのゆえに意味が不明瞭にならない限り,できるだけ字義通りの訳をするよう一貫した努力が払われました。そうすることにより,一語一語,できるだけ原文に近づけた,原文そのままの陳述を良心的に求める人々の要望に一番よく答えられると思います」。このような誠実さを考えると,聖書研究者は全き確信を抱いてこの翻訳に接し,霊感による原典の考えを推し計ることができます。そうした例を幾つか挙げてみましょう。
クリスチャン・ギリシャ語聖書は,愛という特質にほぼ200回近く言及しています。(「愛ある親切」などの関連語句を含めれば,250回以上)一般に見過ごされがちな点ですが,ギリシャ語には英語の「愛」に相当する語が四つあります。クリスチャン・ギリシャ語聖書の中ではそのうちの三つが用いられています。ストルゲーは,親子の間に見られる特別な愛を指しています。フィリアは,友人同士の愛着や優しい愛情のことです。そしてアガペーは大抵の場合,原則に支配される,あるいは原則に導かれる愛を表わしています。例えば,人類に対するエホバの愛がそれです。―ヨハネ 3:16。
これらの語を訳し分けるには,巧みな翻訳が求められます。これは,翻訳の仕事を行なう人が必ずしも目に留めるわけではない,細かい点です。ヨハネ 21章15-17節に記録されている,イエスとペテロの交わした会話はその点をはっきり示す例です。大抵の翻訳はここで,「愛」という単一の語を七回用いていますが,「新世界訳」の場合は異なっています。なぜなら,福音書記述者ヨハネは,イエスの言葉を引用した際,二度アガペーという語を用い,他の人々に仕える点でのペテロの利他的な愛を呼びさましているからです(「ヨハネの子シモンよ,あなたはわたしを愛しますか」。)。一方,ペテロの答えを記述するに当たって,ヨハネはフィリアという語を用い,イエスに対する極めて個人的な愛情を表わしています。キリストの三度目の質問(「ヨハネの子シモンよ,あなたはわたしに愛情を持っていますか」。)に言及したとき用いたフィリアという語は,イエスとペテロの間にあった愛情の温かさを強調するものです。
マタイ 6章に書かれているように,イエスは,偽善的にもこれ見よがしにあわれみの施しをする人々を,歯に衣を着せぬ仕方で非難された,ということを思い出す人がいるかもしれません。大抵の翻訳は,そのような者がすでに『自分の報いを受けている』とすることで満足しています。しかし,ギリシャ語の動詞アペコーは,「新世界訳」の伝えるとおり,はっきりした考えを表わす言葉です。つまり,それらの者たちは,「自分の報いを全部受けているのです」。(マタイ 6:5)それらの者たちは人間からの賞賛を求めており,彼らが受けるのはそれだけです。イエスの言葉は実に鋭いものではありませんか。
1611年のジェームズ王欽定訳は,三つの異なったギリシャ語,ハデス,ゲヘナ,タルタロスの訳語として「地獄」という語を常に用いています。現代の翻訳は大抵これらの語を訳し分けてはいますが,「新世界訳」ほどには一貫していません。ギリシャ語から音訳されたハデスという語の字義通りの意味は,「見えない所」です。使徒 2章27節に示されているとおり,ペテロによるこの語の用法は,それがヘブライ語のシェオル(人類共通の墓)と同義語であることを示しています。一方,エルサレムの南西に位置するヒノムの谷を表わすゲヘナは,永遠の滅びを象徴します。タルタロスという語は,ペテロ第二 2章4節に一度だけ現われる,堕落したみ使いである霊にだけ当てはめられています。
多くの誠実な人々にとって,「地獄」という語は,人々が受けた宗教教育のゆえに感情のからむ問題となっています。ギリシャ語の簡明で正確な訳は,偽りの教えを除き去ります。しかし,すべての翻訳者がそれを望んでいるわけではありません。マタイ 7章13節の次のような意訳にもそれがうかがわれます。「狭い門を通ってはいりなさい。地獄に至る門は広く,そこに至る道は易しく,そこを旅する者は多いからです」。(「福音聖書」)ここで,「滅び」を意味するギリシャ語アポレイアに対して,「地獄」という訳語を当てると,かなりの誤解を招きます。字義通りの「新世界訳」の厳密な訳はあいまいな点をすっかり払い去り,こう述べています。「狭い門を通ってはいりなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通ってはいって行く者は多いからです」。(啓示 9章11節で,ヘブライ語「アバドン」と共に音訳されているギリシャ語の「アポルオン」の用法と比較してください。各々,「滅び」,そして「滅ぼす者」を意味しています。)
パウロは,コロサイにあるクリスチャン会衆に手紙を書き送った際,「正確な知識」と「自分の理解に対する十分な保証という富」を持つことの必要性を説きました。(コロサイ 2:2)「新世界訳」は,読者を,神の霊感によって記された原典にできるだけ近づけようと試みました。それは真剣な研究に値するものです。エホバの証人は,自分たちの集会で,その公の伝道活動で,また欠くことのできない個人研究のためにこの翻訳聖書を活用できることに感謝しています。そうです,どの訳の聖書を用いるかは本当に重要なことなのです。
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聖書に記されている,神のお名前ものみの塔 1979 | 11月15日
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聖書に記されている,神のお名前
神の固有のお名前(“yhwh”に相当するヘブライ語の子音で書き表わされるが,日本語では普通“エホバ”と書かれている)が,新約聖書と呼ばれる書物にも本来含まれていたとの結論を指し示す証拠が増大しています。この点に関する,別の学術雑誌に掲載された記事を要約して,最近の一出版物は次のように述べています。
「クリスチャン時代以前にさかのぼる,旧約[聖書]のギリシャ語[写本]の中で,神の名(yhwh)は,これまでしばしば考えられてきたこととは異なり,“キリオス”[主]という語で置き換えられてはいなかった。普通には,テトラグラマトンがアラム語ないし古代ヘブライ語で書かれていた。……もっと後代になってから,“セオス”[神]や“キリオス”などの代用物がテトラグラマトンに取って代わった。……新約[聖書]の場合にも,同様の経過をたどったと考える根拠は十分にある。すなわち,神の名は旧約からの引用や旧約との関連で,新約の中にも本来書き表わされていたが,時たつうちに,それは代用物に取って代わられたということである」。―「新約摘要」1977年第3号,306ページ。
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