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世界最小の共和国における聖書教育ものみの塔 1981 | 2月1日
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エホバの証人はその区域で自由に宣べ伝える業に携われました。最初警察はその活動を中止させましたが,彼らがサンマリノの市民であることを知ると,公に,また家から家へと宣べ伝えるその努力をそれ以上妨害しませんでした。
1971年にはサンマリノのエホバの証人の数は17名に増加していました。その年,ものみの塔協会のイタリア支部は,この群れを会衆に組織するよう推薦しました。1972年には王国会館をサンマリノに移すことが可能になりました。その時,当局者は,エホバの証人がサンマリノで初めて開く巡回大会にクルザールという政府の建物を使うことを許可しました。その大会に1,749人の群衆が集まり,35名がバプテスマを受けたのを見て,地元のエホバの証人たちは大いに喜びました。
現在ではサンマリノの会衆の成員は70人に増加しています。1980年のキリストの死の記念式を祝った際,134人がそれに出席しました。これは共和国の住民151人に一人の割合になります。現在,サンマリノの住民257人に一人のエホバの証人がいます。
この共和国のカトリックの僧職者は時々説教壇でエホバの証人の聖書教育の業に反対する運動を起こしますが,サンマリノの人々は概してこの教育活動に好意的な反応を示しています。神のみ言葉の音信を真剣に受け止める人々は,それが自分たちの生活にすばらしい影響を及ぼしているのに気づいています。
少し前のことですが,家から家へ宣べ伝える業に携わっている際,エホバの証人は誠実な関心を示す一人の婦人を探し出しました。その婦人と定期的な聖書の討議が行なわれ,やがてその人はバプテスマを受けました。その婦人の義理の母親もエホバの証人になりました。世俗の活動に深く関係していたため,この婦人の家族の他の成員は当初関心を示しませんでした。しかし,地元の会衆の二人の長老たちが幾度か友好的な訪問を行ない,やがて家族の人たちと定期的に聖書の討議が行なわれるようになりました。その結果その家族のうち8人の人が聖書の原則に自分たちの生活を合わせたいとの願いを言い表わすまでになりました。
この家族の成員の一人は,霊感を受けた神の言葉を理解しようとして反対に遭いました。事実,カトリックの一司祭はその婦人に圧力をかけ,以後エホバの証人と聖書研究をしないという趣旨の文書に署名させました。その後この婦人は結婚して,外国へ行きました。しかし,サンマリノに帰って来るやいなや,婦人は再び聖書を調べるようになりました。そして,「真理を忘れることはできません」と語りました。当初この婦人のご主人は反対していました。しかし,後に神の言葉を自分で調べてみることにし,それが真理であることを確信するようになりました。人々の生活を良い方向へと変化させる聖書の力のおかげで,この家族は今や真の神エホバの崇拝にしっかりと結び合わされています。
真のクリスチャンの行なう主要な活動に関して,イエスはこう語られました。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」。(マタイ 24:14)喜ばしいことに,この言葉は世界で最も小さな共和国でも成し遂げられています。
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高価な本ものみの塔 1981 | 2月1日
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高価な本
マルティン・ルターが個人訳を作る前から,ドイツ語で印刷された聖書は既に存在していました。西暦1350年ごろの手書きのドイツ語版聖書は,1466年に初めて印刷されました。その値段はどれぐらいでしたか。「町の家屋,あるいは太らせた雄牛14頭分」ほどでした。―「ケンブリッジ版聖書の歴史」第三巻,94,95,423ページ。
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