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    ものみの塔 1962 | 11月15日
    • こうのとり と だちょうとの対照

      つぎに神はヨブに,こうのとりとだちょうとの違いが説明できるかどうか質問されます。どちらも鳥ですが,非常に違った習性をもっています。「だちょうは威勢よくその翼をふるう。しかしこれにはきれいな羽と羽毛があるか。これはその卵を土の中に捨て置き,これを砂のなかで暖め,足でつぶされることも,野の獣に踏まれることも忘れている。これはその子に無情であって,あたかも自分の子でないようにし,その苦労のむなしくなるをも恐れない。これは神がこれに知恵を与えず,悟りを与えなかったゆえである。これがその身を起して走る時は,馬をも,その乗り手をもあざける」。―ヨブ 39:13-18,新口。

      だちょうの翼は,こうのとりのそれのように,喜ばしげにはばたくでしょうか。そうではありません。こうのとりは,強い翼をもっていて,空高く舞い上がります。聖書は「空のこうのとり」と言っているくらいです。(エレミヤ 8:7,新口)だちょうはその翼をばたばたさせても同じように飛ぶことはできません。こうのとりの翼の先端部は幅が広く,次列風切羽と三列風切羽はともに,初列風切羽と同じほどの長さをもっています。そのため翼の表面が非常に広く,高いところを長時間飛ぶことができます。しかし,だちょうがそのように喜ばしげに羽をふるわすことができますか。

      また,巣を作ったり卵を生む場所についても,だちょうとこうのとりは非常に対照的です。雌のだちょうは「卵を土の中に捨て置き」ます。野のだちょうは,仕方がないから卵を捨てるとは言われていません。そうではなく,こうのとりがするように高い木の上に作った巣に卵を置かないで,土の上に捨て置くのです。「こうのとりはもみの木をそのすまいとする」。(詩 104:17,新口)こうのとりの大きくてしっかりと目のつまった巣は,たいてい高い所に作られています。だちょうは違います。土が彼女の巣です。熱帯地方外の国々では,雌鳥が昼の間卵をだき,夜になると雄鳥が交替して注意ぶかく卵を守ります。熱帯地方では,夜間2羽の親鳥が交替に卵をだいて,昼間は大陽の熱にさらします。卵は部分的にあるいは全部砂かちりでおおわれています。「実際に卵をふ化させるのは太陽の熱である」。(ザ・ニュー・ファンク・アンド・ワグナルス・エンサイクロピディア)卵を土に置きざりにしたり,ちりで暖めるので,ばかなことをしているように見えます。「足でつぶされることも,野の獣に踏まれることも忘れている」。敵が近づけば,卵を捨て置く必要もあるでしょう。

      だちょうとこうのとりは,巣をつくる場所で違っているだけではなく,子どもの扱い方でも異なっています。ジョン・キイットウは,「絵の聖書」でこうのとりのことを次のように言っています,「こうのとりほど,子どもをかわいがるので有名な鳥はいない。また同族の年老いたものや病弱なものにこれほど親切な鳥も鳥類の間では珍らしい」。しかしだちょうはどうでしょう。「これはその子に無情であって,あたかも自分の子どもでないように」します。神の予言者エレミヤは,「わが民の娘は,荒野のだちょうのように無慈悲になった」と書いています。(エレミヤ哀歌 4:3,新口)この不親切な扱いについて,英国人の旅行家トーマス・シャウは,「バーバリ諸国の旅」につぎのように書いています。

      「ほかの大部分の生物に見られるあの強い本能的な愛情を,だちようはごくわずかしか与えられていない。というのは,遠くの方のかすかな物音やちょっとしたできごとで,卵あるいは子どもを見捨てて逃げてしまい,十中八,九戻ってこないからである。かりに戻ったとしてもその時はもうおそい。…アラビヤ人は時々,卵のはいった巣が何もされずそのままになっているのを見つけることがある。ある卵は甘くて良いが,あるものはにごって腐敗している。…また,成長しためん鳥ほどの大きさの子どものだちょうがいく羽か母を求めて泣く多くの孤児のように,半分飢え,あちこちに散らばって鳴いているのによく会うことがある」。

      全くのところ,「神はこれに知恵を授けず」です。にもかかわらずだちょうの子どもは,やさしい母親の象徴であるこうのとりのひなと同様に,神のみこころによって守られています。だちょうに知恵がないのは,ヨブにとって不合理に思われた彼の苦しみにおけると同じく,神の設計に知恵が欠けていたからではありません。そこには賢明な目的があったのです。

      だちょうは危険をかぎつけるとどうしますか。砂の中に頭をかくしたりしません。むしろ,威勢よく翼をふるって「馬をも,その乗り手をもあざける」のです。その2本の長い足とばたばたする翼とでこの鳥は4つ足の早い動物よりも早く走ります。歴史家クセノフォンは,「だちょうを捕えた者はひとりもいない。なぜならだちょうは逃げる時に,足で歩いて追跡者をおびきよせては,また帆を張るように羽を広げてからだを浮かすことを絶えずくりかえすからだ」と書いています。シャウの「バーバリ諸国の旅」も同じようなことを述べています。

      「最も優秀な馬に乗ったアラビヤ人でさえ彼らに追いついたためしがない。彼らが身を起こして逃走する時は,馬とその乗り手をあざける。ただ,その並はずれた機敏さと威厳と挙動に遠くから感嘆の声を放つ機会を許すだけである。…その光景は実に美しく愉快である。疲れることを知らない,羽の絶え間ないふるえは,帆とオールの働きをし,足もまた羽におとらず疲れを感じない」。

      だちょうは,馬をあざける時,どのくらいの速度で走りますか。「ザ・エンサイクロピディア・アメリカナ」はこう言っています,「だちょうは非常に早く走るので,純血種の馬に乗ったアラビア人も,単独ではだちょうに追いつくことはまずできない。またリレー式に狩っても,鳥は自分の気に入りの地域をぐるぐる走り回るのであるから,1頭かそれ以上の数の馬が追跡の犠牲になることは珍らしくない」。また,「ザ・アニマル・キングダム」は,「だちょうは,アフリカの原野にいる大部分の敵より早く走る。時速64キロくらいが,えこひいきなしの推測といえよう」と述べています。ある博物学者たちは,だちょうの最高速度を時速45キロに限っていますが,野生動物の映画のカメラマン,マーチン・ジョンソンは,時速80キロがこの鳥の最大限の速度だと言いました。

      だちょう,野ろば,野牛に関するエホバの御言葉は,本能の偉大なる与え主が,みこころのままに事を行なわれることを示しています。人間はそれに対して何をすることができますか。神のみこころは,生命に関する他の事柄におけると同様に,この事の中にも表われています。そしてそれに調和して働く時私たちは賢明です。「私たちの神なるエホバよ,あなたこそは栄光とほまれと力とをうけるにふさわしいかたです。あなたは万物を造られました。あなたの御旨によって万物は存在し,また造られたのです」。―黙示 4:11,新世。

  • その行いによって知られる
    ものみの塔 1962 | 11月15日
    • その行いによって知られる

      ブラジル,マセイオ市の一女高生は,エホバの証者が家々を訪問しているのを聞いて,証者たちはどんな事を話して回っているのだろうかと思った。たまたまエホバの証者が近所まで来ているのを知り,彼女は出ていってその証者に,どうか自分の家に来て両親たちにも話して欲しいと頼んだ。神の御国の良いたよりはこの学生の心をとらえた。まもなく彼女は御国会館の集会に出席し始め,その後エホバの証者の地域大会に出席するよう招待を受けた。大会の初日に彼女は自分の財布をなくしてしまった。その中には彼女の小遣銭の全部がはいっていた。しかし証者の一人がそれを見付け,紛失物係に届けた。後にもとのままの財布が手元にかえされて,彼女は安心した。これらエホバのクリスチャン証者が示す一致,愛,正直さなどにすっかり感銘を受けて,この女子高校生は神の真理の側に固い立場をとるようになった。3ヵ月後に,彼女は水の洗礼によって神への献身を象徴した。

      ブラジルの別の町で,一人のエホバの証者はある目的で使う証明書を得るため警察署に行った。そこで彼は,一人の男が自分のにわとりを盗んだと言って数人の人々を訴えているのにでくわした。訴えられた人たちは,にわとり泥棒などした覚えはないと言って,懸命に弁護していた。そのため場面は,非難の言葉や,逆にののしり返す言葉などで大変な混乱におちいった。その中で一人の男は訴えている男にむかって,なぜ近所に住む別の男が丁度同じようなにわとりを持っているのに,その男の事を訴えないのかと言った。すると訴えていた男は,彼がそれまでまくしたてていたのと同じ熱をおびた調子でその男については警察に調べてもらうつもりはない,「なぜかと言えば,あの人は真のクリスチャンで,エホバの証者の一人だから,そんな恥ずべきことは決してしない」,と言った。

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